第2話
次のお客様は若い女性のお客様。肩甲骨まである伸ばしっぱなしの黒髪。前髪は目を隠すほどで、髪と髪の間から見える潤んだ瞳からははらりはらりと涙がこぼれていました。
「いらっしゃいませ」
おばあさんがにこにこ笑ってそう言うと女性は涙をぬぐうこともせずぽつりと言いました。
「姉さんが今日、私の夢に出てきて、ここに来てと言われたのですが」
おばあさんはこくりと頷くと立ち上がり、中段に並んだ小瓶を手に取りました。
「はい、こちらを預かっております」
「美波様へ」と書かれたその小瓶をおばあさんはしわしわの手でていねいに両手に握らせました。
女性は首を傾げます。
「これは?」
おばあさんは言います。
「お姉様からお客様への白い息の贈りものです。どうぞ、開けてみてください」
女性は不思議そうに小瓶のコルクを抜きました。
ふわりと白い息が広がります。
女性の目に景色が映りました。
最初に映ったのは2人が小学生の時の景色です。
家の庭で袖なしの白いワンピースを着たショートカットの女の子、お姉さんが楽しそうに用意しています。
虹色のレジャーシートを敷いて、その上に木の丸椅子。底に穴を開けた透明なゴミ袋を片手に後ろを振り返りにっこり。
「いらっしゃいませ」
そこには同じように袖なしの白いワンピースを着た肩まで伸びた黒髪の女の子、妹さんが不安そうに立っていました。
お姉さんはその腕をひき、丸椅子に座らせました。頭の上から透明なゴミ袋をかぶらせてハサミを右手に。
「お姉ちゃんがかわいくしてあげるからね」
そう言って髪の毛にハサミを入れて――
「うわーん!」
庭に大きな泣き声が響きました。
家の奥からお母さんが走ってきます。
「あんた、また変なことして!」
その視線の向こうには丸椅子に座って泣く妹さんの姿。その姿は中々無残なもので、ななめに切られた前髪に左右ばらばらの長さの肩まであった髪。虹色のレジャーシートの上には切られた髪が散っていました。
怒るお母さんにお姉さんは言い返します。
「変なことなんてしてないもん! 髪を切ってあげてたんだもん!」
「髪なんて切れるわけないでしょ! かわいそうにこんな髪型になっちゃって!」
「……かわいくしてあげようと思ったんだもん」
お母さんはひとつ溜め息を吐くとお財布を取り出します。
「ほら、美波、お金あげるからあそこの散髪屋さんで切ってもらいなさい。またお姉ちゃんにやられましたって」
「うん、お姉ちゃんなんてだいっきらい」
にらみつける妹さんにお姉さんはひとつへらりとごまかすように笑いました。
「次は失敗しないから、ね」
景色を見ていた妹さんは懐かしそうに目を細めます。
そうです。3つ上のお姉ちゃんはこうやってよく私の髪を切っては失敗をして大変なことになりました。本人に悪気はなく本当に妹を可愛くしてあげたいと思っているのですが、いつも失敗して私の髪は大変なことになったのです。
そうして景色は流れていきます。
妹さんが中学生の時、お姉さんが散髪屋のおばちゃんから空色のケープをもらってきました。そこからゴミ袋は卒業となりました。
空色のケープと虹色のレジャーシートと木の丸椅子と。
2人はここで髪を切ります。
お姉さんはどんどんと上達して行き、専門学校に行き、資格を取って本当の美容師になりました。
お店に就職をしてプロとなってからもお姉さんは庭で髪を切ることをやめませんでした。
「こんなところじゃなくて、お店で切ってくれればいいのに」
「ここが私の原点だもの。それを忘れないためにここで切りたいの。大丈夫よ、もう失敗しないから」
「実験台のおかげで上達しましたもんね」
「……技術も原点に戻ってあげようか?」
「……やめてください」
そうして、お姉さんは頑張って頑張って自分のお店を持つことになりました。
景色は変わります。
お姉さんがお客さんがいなくなったお店で閉店作業をしています。その景色に妹さんは小さく声をあげました。
お姉さんの携帯電話が鳴りました。電話を取り、話をして、驚くお姉さんの顔。それから嬉しそうに明日の予約表に名前を書き込みます。妹さんの名前。
妹さんは思ったのです。今回はあの庭ではなく、お姉さんのお店で切って欲しいと。お姉さんは予約表をしまい、お店の電気を消します。そうして出て行こうとして――
「待って! 行っちゃだめ!」
妹さんが景色に話し掛けます。お姉さんが立ち止まります。背中を向けたまま返します。
「お客様、本日は閉店いたしました」
「もう二度と開店しないじゃない……。この後、姉さんは事故で……」
「明日のお越しをお待ちしております」
「明日なんて永遠に来ないじゃない。ねえ、髪を切ってよ、姉さん」
「ふふ、昔はあれだけ嫌がっていたくせに」
「話をそらさないでよ」
お姉さんは振り返ります。困ったように笑います。
「こんなになるまで放っておいて。もう私はいないのよ。他の人に切ってもらいなさい」
妹さんは涙をこらえながらふるふると横に首を振ります。
「姉さんじゃなきゃ嫌よ」
お姉さんはひとつため息を吐くとまたお店の電気をつけました。
「我がままなお客様ね。仕方ないわね、こちらにどうぞ」
そう言うと妹さんを席へと案内しました。空色のケープがかけられます。
ハサミを持ち、慣れた手付きで妹さんの髪を触ります。
「お姉ちゃんが可愛くしてあげるからね」
前髪に触れられて妹さんは目をつむります。パラリパラリと髪の毛が地面に落ちていきます。静かな時間。ハサミの音と髪の毛が落ちる音が店内に響きます。
「目を開けて?」
妹さんは目を開けます。鏡に映る自分を見ます。それは世界で一番可愛らしい自分の姿でした。
「お気に召しましたか? お客様」
妹さんは両手で顔を覆い頷きました。
お姉さんはそっとその頭を撫でました。
「ありがとうね。私、あんたのお姉ちゃんでよかった」
妹さんは言いました。
「こっちこそ、お姉ちゃんなんて大好きよ」と。
景色が消えました。地面に小瓶が落ちます。
妹さんは夢から覚めた様にきょろきょろと周りを見回しました。自分の髪に触り、何も変わっていないことを確認します。
「姉さんは?」
おばあさんは静かに横に首を振りました。
「贈りものはこれでおしまいです」
「そう、終わりなのね……」
おばあさんはからっぽになった小瓶を妹さんの手にまたていねいに握らせました。
「残念ながらもう終わってしまったものを続けることは出来ません。でも、生まれてからお別れするまでお姉さんと一緒に歩んだ日々はずっとお客様の中にありますよ。どうか、それは立ち止るためのものではなく、進むためのものでありますように」
妹さんはからっぽになった小瓶をじっと見つめると「こくん」と頷きました。そうして、小瓶を胸にぎゅっと抱いて「髪を切りに行きます」とお店から出て行きました。
「ありがとうございました」ときちんとお礼を言って。