11 彼女が酔うもの
「おかしな人でしょう、この人は」
祝い酒と称して、特別にもう一杯出してもらった件の葡萄酒を飲んでいたシズルは、視線を上げて店主を見た。
隣ではすっかり酔い潰れたクロードが、横木に突っ伏して気持ち良さそうに寝息を立てている。
「馬鹿みたいにお人好しのお節介野郎だと言うなら、同意するな」
ちらりとクロードを見て答えると、店主は笑いながらその通りだと頷いた。
「オレが地元を出るときもそうだったんですよ」
若かりし頃の店主は、あまり素行の良い若者ではなかった。
いい加減でだらしなく、不真面目。
そんな彼が外国に行って料理の修行をすると言っても、誰もそれを真剣に取り合わなかったという。
「そもそもオレだって料理の修行なんて口実で、遠くに行ければ何でも良かった。国に帰るつもりだって、その時はなかったんですよ」
でも、この人だけは違ったと、店主は懐かしそうに目を細める。
「オレには才覚があるからって、ご領主説得して留学資格の枠の中に入れるようにして。そんなことされたら、帰ってこない訳にはいかないでしょう?」
残念ながら厨師として身を立てる程にはなれなかったが、酒好きが講じて店を構えるようになった。酒造を事業の一つとする地元の領地の職人たちとは、外国の醸造技術や流行を教え合う形で交流を持つようになった。その間を取り持つのに一役買ったのも、クロードである。
「お節介なお人好しで、人のことばかり。でもだからこそ他人に好かれる。なんで上司が彼を遣わせたのか、何となく分かるんじゃないですか」
「……さてな」
洒落のめすように言う店主を、シズルは言葉少なにはぐらかす。そして静かに席を立った。
「帰られるんですか?」
「ああ。野暮用もあってな。こいつのことは任せていいんだろう?」
顎でしゃくってみせると、店主は承知したとばかりに頷いた。
「ぜひまたお越しください。良ければまた同じ酒を、特別お出ししますから」
シズルは答えるように、ひらりと手を振って店を出た。
夜に沈んだ路地を駆ける足音が、夜霧に混ざって街に響く。
荒い呼吸の合間に、憎々しげに毒づく声と舌打ちが聞こえた。
「ったく、冗談じゃねえぞ……っ!」
身にまとう服や顔立ちを見るに、恐らくはこの国に昔より居を構える住人ではないのだろう。
何処ぞの狭苦しい場所を縫うように逃げていたに違いない。汗と土埃に塗れたその顔は、ひどい疲労と憎悪がこびり付いていた。
巡邏の騎士に捕まるには、脛に傷があり過ぎた。
つるんでいた仲間の一人は愚鈍にも捕まった。もう一人は臆病風に吹かれ、この国を逃げ出すと道を違えた。
そして今、彼がここにいる理由は一つだ。
「よくも、よくもよくも人のことを馬鹿にしくさりやがって……っ。平和ボケした苦労知らずの甘ちゃん共の分際で……!」
怒りと憎しみに染まった彼の目に、暗い愉悦が過る。
「運良く戦争に巻き込まれなかっただけのこいつらだ。どこかの失火でも飛び火して、都中炎に巻かれでもした日には、なんて声で泣き喚くんだろうなあ」
その手には、どこかから手に入れたらしい油の詰まった瓶と燐寸が握られている。
道ばたに転がる燃えやすそうなゴミの山に視線を移した彼が、歪な笑みを浮かべた時、その背に掛かる声があった。
「そりゃあ、随分愉快な想像だな。それがどんな声なのか、お前の口から聞かせてくれよ」
はっとして振り返った先には、薄暗い闇の中、赤黒く輝く二つの眼。彼はぎくりと身を震わせる。
「て、てめえは……」
「確かに似た者同士とは感じたが、さすがは同類。まごうことなき屑だな」
長衣と外套に身を包んだ、細い体躯。
薄暗い路地では顔付も判然としないが、その声には聞き覚えがあった。
もっとも彼の記憶は、耳障りな音で巡邏の騎士を呼んだ優男への怒りに上書きされ、その直前のやり取りについてはすっかり失念していたが。
ただその声の持ち主である女が、あの騎士の知り合いらしかったことだけは、しっかりと記憶に残っていた。
「てめえ、また巡邏でも呼ぶつもりか」
巡邏を呼んだのは騎士であり彼女ではなかったが、そんなことはもはや彼にはどうでも良かった。彼は苛立ちに任せ、小剣を引き抜く。
「ほう」
だが、彼の良く知る普通の女のように、彼女は暴力の気配に怯える素振りを一切見せはしなかった。むしろ、ことさらに目を輝かせる。
「どうやって挑発するか考えていたが、そいつは話が早いな」
半身となった彼女は、外套の下で無造作に構えを取る。
「どうやら私も宮仕えが決まってな。しばらくは好きに楽しめそうもない。さほど歯応えも感じなさそうな獲物だが、せいぜい長く楽しませてくれよ」
がむしゃらに襲いかかってくる男に、彼女はにぃっと歪んだ笑みを向けた。
翌日、夢オチの可能性を拭えきれないまま、二日酔いの頭を抱えて仕事に出たクロードの元にシズルが現れ、騎士団本部は大騒ぎになる。
そんな中、前日捕らえた流れ者のゴロツキのうち二人が、仲間割れの末共に死亡しているのが発見されたが、それは特に事件になることなく巡邏の報告書に記載されるに留まった。