10 大地が恵みし豊穣の血
派手さはないが品のある内装に、控えめに灯された明かりがしっとりとした雰囲気を醸し出す。
酒とつまみになる軽食だけを出す小さな店は、美味い酒を飲む、あるいは飲ませることだけに特化しているはずだ。にも関わらず、見え隠れするのは、その場の空気が味覚を左右すると言わんばかりの店の主の拘りである。
そんな王都でも知る人ぞ知る小洒落た店に、見た目はともかく冴えない田舎者のクロードが案内できることを、彼を良く知る者なら不思議に思うことだろう。
さもありなん。クロードが連れてきたのは、彼の知り合いの店だった。
「あれ、坊っちゃん。珍しく女性連れでどうしたんですか?」
「坊っちゃんはやめろ。坊っちゃんは」
クロードが鼻白む。
本人たちの性格もあるだろうが、遠慮のないやりとりはそれが許されるだけの親しみの表れだ。
店から感じる落ち着きとは相反し、店主はクロードよりもひとまわり歳上なだけの口髭を生やした男だった。
これ以上余計なことを言われたら敵わないとばかりに、クロードはさっさと注文を入れる。
「いいから、彼女にアレを出してくれないか」
「おや、アレを出すんですか?」
クロードの言葉に、店主は意外そうな声を出し、面白げに目を瞬かせる。
「ああ。まだ切らしてはないだろう?」
「そうですが、オレの飲める分が減っちまう」
「自分が飲みたいからって、店主が出し惜しむなよ」
一人を置いて取り交わされる古馴染み同士のやりとりを、やや冷めた目で見るシズルに気付いたクロードは、彼女に席を勧めながら焦った顔で釈明する。
「すみません。ここは同郷の昔馴染みがやっている店でして、ある程度融通が利くんです」
「オレは坊ちゃんとこの領地の出でしてね。料理の修行の為に国外に出たいと言った時は、御領主方には手厚く援助を頂いたもんですよ」
もっとも料理人にはならずこんな店を構えちまった不幸者ですがね、と店主はけらけらと笑う。
それでも手早く突き出しを用意する手付きは鮮やかで、小鉢に乗ったそれも酒を主とする店にしては本格的だ。
店主がシズルの前に出したのは、葡萄酒だった。
僅かに琥珀色がかったそれは透き通り、口を付ける前から芳醇な香りを感じ取ることができる。
しかしシズルは僅かに眉根を寄せた。
「私は赤の方が好きなんだが」
「そう言わずに、一杯目はそれを飲んでみて下さい。もちろん俺の奢りですし、二杯目からはお好きなものを頼んで頂いて構いませんから」
口調は柔らかだが、クロードにしては珍しく断固として譲らぬ物言いに、シズルはしぶしぶ杯を手に取った。一息で飲み干そうと思ったのだろう。勢い良く杯を煽ったシズルは、しかしそこで大きく目を見開いた。
「驚いたでしょう?」
悪戯を成功させた子供のような顔で、クロードはシズルに問い掛ける。
その酒は美味かった。
口に含んだ瞬間、上等な果実やナッツを思わせる爽やかな香りが鼻に抜け、カッと灼けるような強烈な酒精とまろやかに熟成された旨味が、絡まり合って喉を落ちていく。最後に上がってくる馥郁たる薫りが、陶酔を感じさせるほどの余韻となって後を引く。
酒を”神の水”と呼ぶこともあるが、まさしくそう呼ぶに相応しい甘露だった。
「それは俺の地元で作っている酒なのですが、採算度外視で作ったら、どれだけ美味い酒が作れるか、みたいな実験をしてまして」
最初は冗談混じりに始めたことだったが、そのうちどんどん熱が入るようになり、最終的には腕に選りをかけて、その年最高に美味いものを追求していくという職人たちの挑戦となった。
当然量も作れるものではないので、身内や知人に配ればそれでおしまいである。ここは、王都では数少ない関係者筋の店だった。
「普段は売り物としては出していないんですがね、同郷の知っている奴がくれば出すこともあります」
オレの取り分が減っちまうので、ひとり一杯だけですがと店主はとぼけた顔で嘯く。
「どうです、シズルさん。お気に召しましたか?」
「……ああ。これは確かに美味いな」
今度は控えめに、味わうように口に含んだシズルを見て、クロードは相好を崩した。
「良かった。安心しました」
「そこまで心配せずとも、ちゃんと気に入ったよ」
「それもありますけど、シズルさんはきっと大丈夫だなって」
訝しげに視線を送るシズルに、クロードは照れたように頬を掻く。
「『楽しい』という気持ちって、美味しいものを食べたり、予想外のことに驚いたり、知らなかったことを知ったり、できなかったことができるようになったり、そんなことの積み重ねだと俺は思うんです。シズルさんはここのお酒を飲んでびっくりしてくれたでしょう?」
予想外の美味しいものに出逢って驚くことができるなら、きっとその積み重ねの先に楽しみを見出すこともできるはずだと、クロードは笑って言った。
しかし。クロードのその言葉に、シズルは無言で真顔になる。
よもや自分の言動の何かが彼女の怒りに触れてしまったのかと、クロードはひくりと頬を引きつらせた。
しかも思い返せば、心当たりしかないこともよくなかった。
「……お前は、そんなものの果てに、私が人斬り以外の楽しさを知るようになると本当に思っているのか?」
「いえ、あの、はい。俺の個人的な見解ですが……!」
あたふたしながら答える彼とは相反するように、シズルの声はどんどんと硬く冷たく尖っていくようにクロードには感じられた。
「この国でなら、それが見つかると……?」
「そ、そうとまでは言っておりませんが……っ!」
「そこは嘘でもそうだって言っておけよ」
事情も分からぬまま、横槍を入れる店主。
シズルは重苦しいような圧力を感じさせたまま、杯の残りを一息に煽る。そして視線を深く落とした。
「……く、くくく。っあははは………ッッ!!」
先程までの痛いほどの緊張感はなんだったのか。
突然せきを切ったかのように笑い出したシズルを、クロードは目を白黒させて注視した。
「いいさ、認める。私の負けだ。まったく、意地を張っているのが馬鹿らしくなってくる」
苦しげに、笑いの合間に息を吐き出しながら、シズルはクロードを見上げる。
もっともその目は妙に冷たく醒めて見えたが、クロードがそれを気にする余裕はなかった。
「お前らの思惑に乗ってやる。喜べ、クロード。任務を果たしたぞ」
「そ、それって……!?」
「私を雇わせてやると言っているんだ。ただし期限は、私が見切りを付けるまでだがな」
いまだ事態に追いつけずにいる騎士に、シズルははっきりと明言する。
はじめはぼう然とした顔のクロードであったが、徐々に状況が掴めてくるにつれてその目は精彩を放ち始めた。
「あ、ありがとうございます……!」
いったい何を理由にして、あそこまで頑なだった彼女が気を変えたのかはわからない。
しかし彼女が、クロードたちの元へ、ここヴィルピニア王国に身を寄せてくれると言ったのは確かなのだ。
感極まったあまり立ち上がり、あまつさえシズルに抱きつこうとしたクロードは彼女に軽くいなされ床に転がされる。しかし転がりながらも、クロードは嬉しくて堪らないとばかりに、だらしない笑みを漏らしていた。
「なんだかよく分かりませんが、俺たちの申し出を受けてくださったことに、本当に感謝します」
「言っておくが、永続的な雇用関係を結ぶつもりはないし、契約内容もこちらの有利になるようしっかり交渉させてもらうぞ」
呆れたような眼差しを向けられるも、溢れる喜びの気持ちをクロードは抑えられなかった。
端っから諦めて腹を括ってはいたものの、与えられた任務をこなせないことが自身の将来に影を落とすのではないか、という不安は当然あった。
それから解放された今、クロードの胸は肩の荷が下りたような安堵感と、達成感からの喜びばかりだった。
クロードは床に座り込んだまま、さっと手を差し出す。
「これからどうぞ、よろしくお願いします」
「ああ……」
しぶしぶではあったがその手を取ってもらい、床に座り込んでいたクロードは嬉しそうに笑みを零して立ち上がった。