マギの罪
これは「恋するクラウン」の続編その3です。
食堂で食事をしながら、お互いの離れた後の話をした。……一緒に居た時間よりも、離れていた時間の方が長かった。
ミルカが居なくなってから、フランはすぐに店を閉めたそうだ。
ティアラの残した天啓を読み、考えた挙句、法術でしっぽだけを隠し、男として行商をしながら移動を始めたのが大体一年前。
約半年は、屋敷で考えていただけでなく、法術の改良を行っていたそうだ。しっぽを隠す法術も、改良したものだとか。
ミルカのイヤリングの法術を追っていたが、ミルカの移動が速すぎて、たまに見失っていたらしい。
フランは苦笑する。
「馬鹿王族が目立つお陰で助かった。あれを追いかけるのは楽だった」
半魔と戦えないフランにとって、さぞや大変な旅だっただろうに、フランはそれを感じさせない。けれど、大変だった筈だ。半魔からは、フランの中の天使の魂が丸見えなのだから。
「追ってきてくれるとは思わなかった」
ミルカは正直に言った。
フランはずっとあの町で女の姿のまま雑貨屋をしていると思っていたのだ。
「自分が隠れたままで女を放って置くなんて、会わす顔が無い。……俺は、ちゃんとした男としてお前の前に立ちたかったんだ」
すっかり様変わりした今のフランには、フランシーヌだった頃の面影は全く無い。
「実は、フランシーヌの姿は、俺の母親の姿を模したものだったんだ」
「お母さん?」
妖艶な年齢不詳のあの姿には、モデルが居たのだ。
「ずっと母親に守られていたんだ。お前にも守られた……情けなかったよ。だから、もう女の恰好はしない」
「別にいいよ。もう済んだ事だし。これからは助けてくれるんでしょ?」
「ああ、浄化だけじゃなくて、法術も使えるし、俺も半魔を斬れる筈だ」
ありがたい。もう浄化も苦しくない上に、一緒に半魔を狩ってくれるのだ。
「じゃあ、どんどん半魔を狩らないと」
「その前にする事がある」
「する事?」
「お前の親とアルカに報告しないとな。結婚した事。……神殿でちゃんと式もしないと」
そうだった。すっかり浮かれて、忘れていた。顔にその事が現れていたのだろう。フランは笑った。
「式はいらない」
「プロポーズはして欲しいのに?」
「だって、理由はあんたも知ってるでしょ!」
ドレスを着て出た初めての結婚式の悪夢。……最近もレイノスに追い掛け回されていたし、自分が主役だなんて考えたくも無い。
「お前、チョロいだけじゃなくて、安いよな」
「何ですって!」
怒ってもフランは優しい顔で笑ったままだった。
「もっと色々望めよ。欲張っていいんだ。怖くない。俺が居る」
こんな甘い事を言う人だっただろうか?疑わしいと思っているのが表情に出たのか、フランは言った。
「会った時から、可愛くて仕方なかったんだ……色々誤魔化すのが辛いくらいには、惚れてたって言ったら、信じるか?」
ぶんぶんと首を横に振ると、フランはミルカの左の耳たぶにそっと触れた。すると、ピン!と音がして、触れたイヤリングが落ちた。もう片方もすぐに落ちる。
「あ……」
何となく、残念な気分になって、落ちたそれを拾う。酷い品だったが、フランが初めてくれた物だ。
耳が妙に軽くなって、何だか寂しい。
「後になってみると、神の命令に従うのも嫌だったが、お前が誰かの物になるのも嫌で、こんなひねくれた事したんだと思う」
フランは本当の事を言っている。だったら……ミルカも勇気を出す。
「本当は……気に入ってたよ。それ。アクセサリーなんて絶対嫌だ、怖いって思っていたのに平気だった」
「でもこれはやめよう。俺が嫌なんだ。……ちゃんと、二人で選んで記念になる物を贈りたい」
男の姿のフランと買い物。しかも自分にプレゼントだなんて……。ミルカはそれだけでもう胸が一杯だった。
「これからも、これも着けていいなら……もう一個くらいあってもいいかな」
顔を真っ赤にして言うと、やっぱり笑われる。
「本当に、安い奴」
「また言った!」
「可愛いって事だよ」
言葉に詰まってしまう。自分でもチョロいと思う。
フランはミルカの手を握った。
「決めてた。今度会えたら、一杯甘やかして、優しくするって」
ミルカは俯いた。恥ずかしくて、フランの顔がまともに見られない。恋人っぽい。こんな夢みたいな事、今朝まで想像もしていなかった。ミルカの持つ乙女回路の上を行っている。ミルカは夢を見ている様な気分だった。
「夢じゃないよね」
「勝手に、夢にするな」
ミルカはドキドキしてフランを見る。フランは身を乗り出してきた。
あ、キスされる……。
そう思った瞬間、背後で女の声がした。
「ミルカ様、アルカ様からお手紙です」
「あ、ありがとう……」
恋と言うのは怖い。ここが食堂だとすっかり忘れてイチャイチャしていた。宿の者達もこれ以上は見ていられないと、あえて勇気を出してくれたのだろう。
「こういう事は、こっそりやらないと」
「そうだな。部屋へ引き上げよう」
二人で席を立つと、お勘定をテーブルに置いて部屋に戻る。
その日、ミルカは自分の泊まっていた部屋を解約し、フランと同じ部屋に移動した。
順番に風呂に入った後、続きで何か話すかと思ったけれど、結局話はしなかった。……ただキスをしていた。
「覚えてろって言っただろう。よくも不意打ちしてくれたな。……その分、お返しさせてもらうからな」
フランはそう言うと、ミルカを離さなかった。寂しかったと言う気持ちが流れ込んで来る。ミルカも同じだった。だから夢中でお互いの唇を求め合った。
飽きずにこんなに長い間、人とくっついて居られるなんて事、あるんだなぁと、ミルカは、ぼんやりした頭で思った。
「本当はこの先もしたい。したくて頭割れそう。……でも、追々って事で我慢する。お前さ、思ってる以上に体が壊れてる。無理させられない。寝よう」
フランはそう言うと、ただ寄り添って一緒に眠ってくれた。一年半ぶりに会ったのに、ずっと一緒に居たみたいに安心して、ミルカはぐっすりと眠った。
ミルカが眠った後、フランがこっそり起きだして、法術でミルカの体内をじっくりと観察した後、眉間に皺を寄せて何かを書いていた事は、ミルカも知らない事だ。
フランと話し合い、翌日から、両親の居るエスライン王国への旅になった。
正直エスライン王国への旅は、乗り気ではなかった。一生入らなくて済むならそうしたい国。
けれど、もう結婚したミルカは狙われない。報告もあるが、妹のリルカが気になっていたので、行く事にした。
「アルカとは向こうで合流する予定だ」
「お兄ちゃん?どうして?」
フランは、定期的にアルカと手紙のやり取りをしていて、ミルカには契約結婚の決着が付くまでリルカの事には関わらせないと決めたそうだ。ミルカが捕まれば、幼いリルカよりも格段に危険だったからだ。
けれど、それも片付いたら、ミルカも戦力にして、リルカを救出しようと話していたのだそうだ。既にアルカはエスライン王国に入って両親と一緒にいるらしい。
確かにアルカは普通が大好きだが、同じ位、曲がった事も大嫌いだ。いくら神の意向であっても、七歳の妹が監禁されているのに、放置なんて出来る性格ではない。
兄はやはりミルカの思っていた通りの人のままだった事に安心する。
「お兄ちゃんは、リルカを見捨てたのかと思って、ちょっと信じられない気持ちだったの」
「お前の事を考えての事だ」
そうだったのか。確かに、レイノスはミルカの方が年齢の問題もあって、必死に追って来ていた。とても、リルカの事まで考える余裕は無かった。聖勇者としての寿命も尽きかけていたし。
リルカは幼い。手荒な真似はされていない筈だ。だから、ミルカを優先して逃がす算段をアルカと両親はしていたらしい。
「じゃあ、うちの親は、あんたの事も知ってるの?」
「ああ、直接は話していないけど、アルカが話してくれている筈だ。お前の聖婚相手だってな」
「そうだったんだ」
「この際だ。お前の妹も救い出して、家族全員に祝福してもらおう。……俺としては、そっちの方が大事な目的なんだ。何より、お前がドレスを着られない理由も許せない。お陰で俺は未だにお前のドレス姿を見ていない」
「あ……」
神殿で挙式をするなら、ドレスは割けて通れない。
「着たくない」
「着てもらうからな」
「似合わない……」
「似合うに決まってるだろうが!俺がどれだけお前で妄想していたと思ってるんだ。お陰でデザインしたドレスも即売れだったよ。着せたくても手元に残ってない」
「妄想すら、お金にしていたのね……」
商売人なのは相変わらずらしい。行商で小物を売るだけでなく、服も作って売っていたらしい。
「お前を考えて裁縫していると気分的に楽だっただけだ。……お陰で客も付いたが、俺の気合が入り過ぎていたせいで、勘違いされて大変だった」
男性本来の姿になっても、フランは恰好良い。細身で綺麗で恰好良いのだ。筋肉にこだわりが無い女性には当然好まれる。
宿でも何度もナンパされている。
「女装時代と同じ感覚で、親切にしちゃだめだよ」
「不愛想な商人は儲からない」
「過剰サービスはトラブルの原因だって、あんた、前に言っていたわよね?」
「お似合いですねって、リップサービス程度、何が悪いんだよ!」
フランシーヌの頃から思っていたが、人タラシでちょっとイライラする。あの頃から、やきもちを無意識に焼いていたのだと、今は分かっているが。
「モテモテだね」
「モテモテな旦那は嫌いか?」
旦那の部分に反応して赤くなる。
「モテモテは、いらない」
「これでも、行商に出た最初の頃は、長髪で髭も無くて、もっとモテモテだったんだぞ」
想像できる。線の細い美青年。キャーキャー言われたのだろう。目に浮かぶ。
「このスタイルに辿り着くまでの俺の苦労を理解してくれ」
筋肉をつけ、頭髪を短くして、髭を生やす。
彼はおじさん感を出したかったのだろうが、結果、野性的な格好良い大人の男性になっている。
「いっそ、恰好悪くなればいいのに」
「誉め言葉として受け取っておく」
フランは美意識が高い。だから、昔のミルカの様に、不格好な服で容姿を隠す様な事は出来ないのだ。人タラシな部分とは諦めて付き合っていくしかない。
ミルカは小さくため息を吐いた。
二人は国境を越えて、更に山を越え、港から船に乗った。
フランは暇があれば、ミルカに法術の講義をする様になった。今日も潮風の中、甲板で二人、並んで話をしている。
法術の基礎が頭の中にあると言うだけで、フランの話がすんなり脳に浸透してくる。ミルカは、もっとつまらないと思っていただけに驚いた。
「法術は神も使う。神の言葉ともまた違うんだが、それだけ便利だって事だな」
短い言葉の組み合わせで、短時間早く走れる様になったり、力持ちになったり……体力の落ちたミルカにとっては助かる補助の法術から学ぶ事になったからも知れないが、非常に便利な代物だ。
フランと結婚した事で、ミルカも法術を使えるマギになった。基礎と言う部分が無いと、法術言語を理解出来ないだけでなく、法術言語の内容を具現化出来ないのだそうだ。
こんなに便利なのに、皆が使えないなんて、残念な事だと思う。
元々は、かなり複雑な上に効率の悪い術が多かったそうだ。フランはそれを特に気にせずに使っていたのだとか。元々、先祖の記憶でこういうものだと思い込んでいたからだ。
しかし、ミルカやまだ見ぬ子供達の事も考えて、旧聖者の時代の法術に比べると、大きく改良を加える事にした。すると、想像以上に術を改良出来たそうだ。お陰で、ミルカも難しいと思う事無く使えている。
とは言え、改良に時間がかかり、ミルカを追うのに時間がかかった事をフランは後悔している。
「そんなの後回しにすれば良かったんだが……以前の法術では、効率良くしっぽを隠せなくてな。後、面白かったんだよ。調子に乗った」
「間に合ったじゃない」
「辛うじて生きていただけだ。本当に間一髪だったんだよ。そのせいで、お前は結構酷い状態だ。……一緒に居るのに、手が出せない!頭がおかしくなりそうだよ。俺は」
そうなのだ。聖勇者として枯れ果てて死ぬ寸前に、契約で持ち直したミルカの体は、相変わらずボロボロだった。
魂が安定しても、すぐに肉体のダメージが抜ける訳では無い。フランが調べた所、かなりのダメージで、相変わらず小食が続いている。内臓も筋肉も、回復していくには年単位の時間がかかるとフランは予想している。
だから、相変わらずキス止まりの関係が続いているのだ。
ちゃんと歩いているのに、気づくと休まされている。食事も小食だけど、色々食べさせられている。夜も添い寝だけ。
触るくらい、いいのにと言えば、歯止めが利かなくなるからと言って固辞する。
フランはすっかり恋人と言うよりも保護者だ。今も、法術で体温とか痛い部分が無いかとか、勝手に見られている。
正直、いちいち聞かれるのも嫌だが、これも嫌だったりする。
「ねえ、法術で私の具合、見るの止めたら?」
「それは出来ない。当たり前だろう?お前、死にたいのか?俺を残して死ぬのか?」
「大丈夫だよ。じゃあ、私の体が戻ったら、それしないって約束して」
「何だよ、その約束」
不服そうにフランが言う。
一生変な法術で見られ続けるのは勘弁して欲しい。
「妊娠中はやるぞ」
「え!」
「後、病気の時もな」
どこまでも過保護な夫に、ミルカは苦笑する。
こんな人だったんだ。と改めて思う。
あの嘘つきで、意地悪で、ひねくれたフランは、何処かに行ってしまったらしい。
好きになった人が、別人の様になってしまうのは不思議だ。それでもどんどん好きになっていく。
「やっぱ、顔だったのかなぁ」
母は言っていた。父の顔を最初に好きになったと。顔は、基本変わらないものだ。
事実髪形を変えて髭を生やしていても、フランはフランだ。綺麗な顔をしている。
「顔?」
「あんたの顔、好きだなって思ってたの」
フランは目を丸くする。
「珍しいな。お前がそういう事言うの」
「そう?」
「俺がいくら好きだと言っても、お前は口にしないから、もう言ってくれないと思っていた」
そう言えば契約の際も、フランはちゃんと好きだと言ってくれたのに、好きだと言った事が無い気がする。
言った方がいいのだろうか?
意識すると、途端に言えなくなる。フランはもう意地っ張りではないが、ミルカは意地っ張りのままだ。
「無理するな。そういう所も好きだから」
フランはそう言ってミルカの肩を抱き寄せる。
「お前はさ、見てないみたいで、ちゃんと見ていてくれる。だから、意地を張っていてもいい」
「そんな事無いよ」
実際、自分の事も管理できずにこうなっている。
「俺の為に、時間をくれた。命がけになるのは分かっていたのに、そんな事一言も言わずに、俺の前から居なくなった」
「別に分かっていた訳じゃないよ」
「アルカに結婚を急かされていた。あの時点で何か思う事はあった筈だ」
兄の指は半魔の斬り過ぎで朽ちた。結婚しない状態の聖勇者の不安定さは分かっていた。けれど、死ぬほどのものではないと思っていたのだ。……レイノスから逃げている内に、そうではないと気づいたけれど、そのときには、もう遅かった。それだけだ。
「レイノスがしつこくて、途中で気づいても会いに行けなかっただけだよ」
「手紙でもくれれば、落ち合えただろうに、お前はそれすらしなかった」
それを言われると黙るしかない。アルカには手紙を書いたのに、フランには一切手紙を出さなかったのだから。
「アルカから聞いていた。お前からは、俺の事を一切手紙でも書かなかったらしいな。いくらアルカが話を振ってもダメだったって」
フランには、一人で考える時間が必要だった。だから、何も言わなかった。それだけの事だ。フランはミルカを抱き寄せた。
「俺が色々言ったから、お前は未だに俺を好きって事を認めるのが怖いんだよな?酷い事も言った、嘘も吐いた……すまん」
魂を分割すると、相手の微妙な心理が伝わって来る。フランは心底反省していた。ただ、首を横に振る事しか出来ない。
フランは感情からミルカの考えを推測するのが上手い。まだ再会して半月程だけれど、それをよく感じる。
そうなのだ。フランの事は好きだ。けれど、同時に凄く怖いのだ。また、神様憎しで、自分の幸せそっちのけで動き出したら、どうなってしまうのか、ミルカはその部分でだけ、フランを信じ切れていないのだ。
これから行くエスライン王国では、神の端々に触れる事になるだろう。
王家の半天との再会よりも、それが怖い。
「お前無しじゃ、生きられない」
昔の彼はとても嘘つきで、こういう事を言われても信じられなかった。そもそも、こんな歯の浮く様なセリフ、決して言わなかった。
「よく、そんな恥ずかしい事言えるよね」
半眼でフランを見ると、フランは耳まで真っ赤にして言った。
「本当は言いたかないし、お前にしか言わない!」
「どうだか?」
体を離し、海を眺めると、フランはフンと鼻を鳴らした。
「信じても、砂吐くまで言ってやるからな。俺は有言実行の男だ。素直に受け入れなかった事を後悔するがいい」
「はいはい……」
魂が繋がっているから、嘘か本当かなんて分かり切った上での会話だ。単なる言葉遊び。
頭の悪い会話をしている自覚はある。でも楽しくて仕方ない。バカップルって、こういうのを言うんだっけ?ミルカはぼんやりと思った。
エスライン王国に入った。
八年振りに入った王国は、相変わらず活気があって、道路も地方まで綺麗に整備されていた。
両親はエスライン王国出身者だったそうで、旅は最初大変だったと言っていた。この綺麗な状態に慣れていれば、国外の環境はかなり辛かっただろう。
リルカを助ける手段すら、まだ定かでは無い。長く留まっている二人は、今どんな気持ちなのだろう……。
「寄る場所がある」
そう言われて寄ったのは、国境の砦の近くにある小さな建物だった。
看板には、ロッソ診療所と書かれていた。
「診療所?」
「そうだ。そして、お前の親戚が医者をしている」
初耳だ。全く聞いた事が無い。ロッソと言う苗字である以上親戚なのは間違いないが……理解できずに頭をひねっている内に、ミルカは手を引かれて中に入った。
「いや~、お久しぶりです」
「嫌、絶対に嫌!この人が親戚とか無理」
グルグル眼鏡の男を見て、ミルカは叫んでいた。居たのは、ロルフだったのだ。
「違う。この人はただの見物人」
「もっと悪い!」
何度観察されたか分からない。もう二度と会いたくなかったのに。
「今回は別の目的もあります。返して欲しいんですよ。僕の書き付けです」
どうやらアルカから送られてきた本を回収に来たらしい。荷物から出して即返す。
「さすがに年でね。書いた事を思い出して正確に書き直すのは難しくなってきて、それが必要なんですよ」
年齢不詳だが、ミルカの両親が結婚する前から大神官をしている。いい年なのだろう。
そうこうしている内に、可愛い女性に案内されて奥の扉の中に通された。
そこは診察室の様な場所で、狭い中に椅子が運び込まれていて、女性は座る場所が無いので立っていた。
申し訳なく思いつつ、女性を見ると、こちらをにこにこして見ているので、何か分からず首をひねる。
「あの、何処かで会った事ありますか?」
「いいえ。初めまして。カリーナ・ロッソって言います。あなたの従姉です」
「へ?いとこ?」
「そうよ。アルカには会った事あるのよ。ティアラの双子の出産もここでしたから」
そう言う事なら、父方の従姉で間違いないのだろう。ミルカは慌てて自己紹介して挨拶する。
「私、医者の卵なの。お父さんの手伝いをしているんだけど、困ったときは相談してね」
「お父さんって……お医者さんなの?」
「私の父、ザルグは、バルトー叔父さんの兄に当たるの。エスライン王国でもかなり腕の良い医者だと思うわよ。王都や大きな町から呼ばれているけれど……本人はここから動く気、全く無いわね」
ザルグ叔父さんに、従妹のカリーナ。思いがけない父方の親戚に出会い、ただただ驚く。
「暫くしたら父が帰って来るので、それまで狭いけれど、ごゆっくり」
カリーナはそう言って、茶を出すと出て行ってしまった。
ミルカは、半眼でフランを見た。
「まさか、感動の対面でも企画したかったの?」
「俺もそこまで馬鹿じゃない。しかも大神官付きって、おかしいだろう」
憮然としてフランが応じて、ロルフがヘラヘラと笑う。
「まぁ、確かに」
じゃあ、何でここに寄ったのだろう?
「お前の体の事について、相談する為だよ」
「私の体?」
「本当に凄い壊れっぷりなんだよ。自然治癒で何年かかけて治るならいいが、一生治らないかも知れないと思うと心配だったんだよ。生憎、俺にも知識は多少ある。だが専門家って訳じゃない。……アルカに相談したら、ここを紹介された」
信用できる医者を探していたら、叔父さんに当たったと言う事らしい。
「アルカは、指が取れた時に、ここで診察を受けたんですよ。いやぁ、凄い剣幕で怒られていましたねぇ」
ロルフが言う。
「バルトーが、家族でエスライン王国に入るのを嫌がって、僕をわざわざ付き添わせたんですよ。僕まで怒られて、大変でした。バルトーは、自分が怒られない為に僕を差し出したのかと思いましたよ」
「……そんなに怖い人なの?」
「いいえ。自分の体を大事に出来ない人を許せないってだけです」
「脅すなよ。大神官。……ミルカ、大丈夫か?」
フランの声が遠い。イメージが湧かないがとりあえず、白衣を着た父を想像する。何か、怖い。バルトーは怒ると怖い。ミルカはあまり叱られなかったが、兄は叱られていた。最後はほぼ戦闘だった。思い出してミルカが青くなっている所に、ノックの音がした。
返事を待たずに扉が開いて、血の飛び散った白衣を腕まくりした、長身で細身の男性が部屋にツカツカと入って来た。
ミルカは思わずフランの手をぎゅっと握る。
三人が椅子から立とうとすると、それを手で制する。
「着替えるので、少々お待ちを」
そう言って、奥のクローゼットを開けると、ずらりと白衣が並んでいた。中から一枚とると、古い白衣を椅子に脱ぎ棄て、新しい白衣を着る。
そして、血まみれ白衣のかかった椅子にそのまま座った。
「遅くなりました。私がザルグ・ロッソです。砦で騎士のけが人が出て、処置していました」
ぺこっと礼儀正しく頭を下げて、上げた顔は、父とよく似ていた。似ているが、雰囲気が全く違った。
白髪交じりの髪を長く伸ばして一つに括っていて、どちらかと言えば、温厚な雰囲気は、精悍な父とは違い過ぎる。笑った顔も、ほのぼのしていて、父と似ているだけに違和感があった。
「ユーリアさんに似ているね。でも目の色はバルトー譲りか。……君がミルルだね?」
古い名前を出され、ミルカは慌てて返事をした。
「今は、ミルカ・ロッソです」
「ああ、そうだったね。肩の傷は平気?」
「もうすっかり治りました」
アルカの結婚式の騒動とその後の事も知っている様子でとりあえずほっとする。
「ロルフさんは知っています。こちらの彼がお相手のフラン君かな?」
そこで皆が自己紹介をして、話はミルカの話になった。
「なるほど……限界まで酷使した聖勇者の肉体が回復するかどうかって事だね」
「はい」
フランが心配そうに現状を説明している。
「生憎、僕は内臓を覗けないから、問診と触診になるんだけど調べてみよう。ちょっと、外に出ていてくれる?」
フランは不安そうにした後頷き、文句を言いそうなロルフの背を押して部屋を出て行った。
「ミルカ、そこに仰向けで横になって」
大人しく診察台に横になると、ザルグが触診を始める。脈を図ったり、色々な場所を押して反応を見て行く。押されると痛い所があるので素直に言うと、それに頷く。
そして座ると問診になった。
「ミルカは、体がだるくなるとどうしていたの?」
「座って休んだりしていました」
「ご飯は主に何を食べていたの?」
「最近は、スープが多かったです」
「パンや肉は?」
「食べる気になりませんでした」
眉根を寄せると、ザルグは言った。
「言い辛いだろうけれど、月のものは、どれくらい来ていない?」
生理が無い事が、触診だけで分かるのだろうか?ミルカは驚きながら答えた。
「一年近く、無いです」
ザルグはじっとミルカを見据えた。
「女の子にとって、それは凄く問題があるんだよ?どうして誰にも言わなかったの?」
「レイノス王太子に追われて……逃げなくてはならなくて、必死だったので、無い方が楽だって思う程度でした」
「それは、体からの警告だよ?それまで規則正しく来ていたなら、明らかに体調がおかしかった事になる。君は、フラン君の子供を産めない体になってしまっているかも知れない」
「え……?」
「一年も月のものが無いのに、赤ん坊が産めると思うかい?」
そう言うものなのか?全然分からないのでぽかんとしていると、ザルグの顔が険しくなる。
「医者の息子の癖に、バルトーの奴、何も教えていないのか……全く」
そこから性教育講座が始まり、体の仕組みを知ったミルカは顔面蒼白になったのだった。
「そんな訳で、妊娠を望むなら、君は、食事の管理をきちんとし、規則正しい生活リズムと睡眠、適度な運動を続けて穏やかに過ごす必要がある」
「旅をしながらそんな事、無理です」
「じゃあ、君はフラン君の子供を抱けない」
バッサリと切り捨てられて、ミルカは唖然とする。
「そんな……お薬で何とかなりませんか?」
「そんな便利な薬、あるなら私も欲しいよ」
温厚な表情が一変して、冷ややかに言われてミルカは首を竦める。
「聖勇者と言うのは、壊れる為に生れる訳じゃないだろうに。何故そうも壊れたがる。半魔を斬るのは大事だけれど、君達は将来を担う種なんでしょ?芽吹く前に壊れてどうするの?バルトーやユーリアさんも泣くよ?」
思っていたのとは違うけれど、確かに怖い。ぐうの音も出ない。全く持ってその通りだ。そう言えば、父も正論で押してくる。食い気味で言って来る父とは違うが……似ている。
落ち込んでいると、フランとロルフが呼ばれ、触診と問診による結果が無常にも言い渡された。
ロルフは熱心に何かを書き付けている。
「つまり、もう旅はしたらいけないんですね?」
フランの言葉にザルグが頷く。
「君が子供を抱きたいなら、エスライン王国に定住すべきだ」
ミルカが驚いて顔を上げる。
「他国だと、治安も医療環境も良いとは言い難い。エスライン国内なら、私もカリーナも面倒が見られる。大神官であるロルフさんの助言も得られる。子育てをするにも、アルカの子供達よりも、どうも君達の子供達の方が……先が大変そうだ」
「大変、とは?」
フランの疑問にザルグは即答した。
「法術だよ」
ロルフも顔を上げる。
「体の中を見られると言っていたね。他にも色々出来るって聞いている。私からすれば、恐るべき能力だ。実際、触診や問診で確認した内容と、一致している。……もし生まれたら、しっかりと教育する機関が私は必要だと思うよ」
「確かに、他所の国で兵器にでも教育されたら大変です」
ロルフの言葉に、ミルカとフランは顔を見合わせる。考えてもいなかったのだ。
「君達は善良だ。しかし、全ての人間が善良とは限らない。ミルカの体が治ったとしても……旅の中で、法術を使える子供を教育しながら育てるのは、難しい気がする。法術を使う聖勇者は、きっちりとした倫理観を持っていなくてはならないと思う。それが無いなら、使うべきじゃない。シーカーの子供達の様に、勝手に感じてしまう物とは違うだろう?」
法術の倫理観……。思いもよらない言葉に、ミルカは複雑な気分になった。自分の体が治っても、子供を産んだらハッピーエンドと言う事にはならないのだ。
「フラン君は旧聖者の末裔だと聞いている。君は生まれつき記憶があるから法術の禁忌的な使い方をしない。けれど、子供達はそうはいかないだろう。どうするつもり?」
ミルカは不安になってフランを見た。
フランは暫く考えているのかじっと自分の膝の上の手を見ていた。そして、言った。
「お話、分かりました。すぐには答えが出ません。ただこれは、一人で決められる問題とは思えません。……今後も、助言をいただけますか?俺には、法術を使えない人の感覚が分からない。だからこそ、使えない人の意見が貴重なんです。お願いします。俺達にはあなたの助けが必要です」
フランが素直にザルグに頭を下げている。
「可愛い姪の為だし、面白そうだからね。いいよ。私で良ければ相談に乗ろう。将来医療に取り込めれば、どんな病気も治せそうだ。……まぁ、そこも怖い所なんだけどね。いつでも、手紙でも訪問でも待ってるよ。そこの大神官にもついでに協力してもらおう」
「喜んで、書記しますよ!」
「神託使って調べてよ!」
ミルカが言うと、ロルフは笑った。
「嫌ですよ。供物差し出して祈っても、腰が痛くなるだけで、神は答えてくれないんですから。眠いらしくて返事が遅いんですよ。あ、僕は神の下僕ですから、人間の倫理観とか求めないでくださいね」
酷い……。ミルカはロルフよりもザルグを頼る事を心に誓ったのだった。
一晩ザルグの家に泊まって、翌日二人は再び馬車に揺られていた。ロルフは、ザルグと相談があると言って、そのまま残った。
カリーナが、お昼にと言ってお弁当を用意してくれた。
三人に別れを告げ、次の町に向かう。
「バルトーさん達と合流しよう」
落ち合う予定の町までまだかかる。乗合馬車には二人以外客は居なかった。
「どうしてこの国の半天は、壊れているみたいな事するのかな」
ぽつっとミルカが言うと、フランは顎に手を当てて呟く。
「……いくら馬鹿でも、ちょっと度が過ぎると言うか、お前の言う通り、壊れている気がする」
「魂の多くを占める天使の魂が悪いってロルフさんは言っているみたいだけど」
「そもそも、魂のかなりの部分、天使の魂が占めていると言うのがおかしい」
「変なの?」
「変だ。地上で生きて行くには、次元の違う魂だから、おかしくて当たり前だ。人の器に収まり切れているのかも疑問だ。獣の天使は、多産で、最初に十人以上の子供を産んで魂を割った。その子供も同じだ。……そうして急速に増えて、天使の魂の比率を減らさなければならなかったんだ」
旧聖者は細かく砕いても悪魔に別次元から見つけられる程、天使の部分が目立っていた。だとすれば、半天の王族は、それは凄い輝きで地上に残存している事になる。
半天の王族の人数は男児ばかりで、多い時期でも王子が三人程度だった筈だ。王女は早世し、臣下に下った王子も、子供が残らず、断絶している家ばかりだ。何故か、分家が続かないのだ。まるで力の弱くなる事を拒む様に、本家のみが生き残るのだ。
現在は、国王と王太子しか半天は居ない。
どういう仕組みなのか分からないが、非常に大きな天使の力を維持している事は、ミルカ自身、身を持って知っている。あれは人とは言えない。
「半天は強い天使の力を残す代償に、何処か壊れているのかも知れない」
「壊れた半天に妹はあげられない。そんなの嫌だ」
ミルカはリルカを思う。
年が十二も離れているせいで、もう妹と言うよりは娘の気分である。リルカは、かなり父親似だった。きりっとした少女で、年齢よりも年上にみられる事が多かった。
実際は末っ子で甘えん坊なだけに、家族にとってはそのギャップが愛しい存在だった。
「帰りたいって、泣いているかも知れない」
まだ七歳だ。親元から離して良い年齢ではない。住む場所は転々としていても、家族はいつも一緒に居たのだ。
独り立ちする時も、お姉ちゃん行かないでって抱き着いて泣かれた事を思い出す。
フランがそっと頭を撫でてくれたので、素直に肩にもたれる。二人で残りの時間は、黙って馬車に揺られていた。
やがて馬車が目的の町に到着し、二人はそろって目的の宿に向かった。
その途中、出迎えが来ていた。
「ミルカ!」
「フラン!」
ミルカの双子の姪は大きくなっていた。背後にはアルカの姿も見える。何も言っていないのに出迎えられて少し驚くが、シーカーの能力で感じ取っていたのだと思うと納得だった。
「待ってたぞ。……痩せたな」
アルカはそう言うとミルカを抱きしめた。そして横に居るフランを見る。
「父さんと母さんに紹介する。来てくれ」
フランは頷く。
宿に着くと、一番広い部屋だと言う二階の部屋に通された。そこにはミルカにとって懐かしい顔が揃っていた。
「ミルカ」
母であるユーリアは相変わらず小柄で愛らしい容姿をしていた。ティアラと並んでソファーに座っている。
その横に立っていた父親のバルトーは、鋭い視線を和らげて、娘に歩み寄った。
「ミルカ、綺麗になったな。少し痩せたか?」
「うん」
そして、ミルカはフランを紹介した。
「こちらが、私の結婚相手」
「フラン・ラグニスです」
バルトーは苦笑する。
「フランシーヌさんが実は男なのは分かっていたが……まさか、娘と結婚するとは思わなかったよ」
「騙していてすいませんでした」
「いいさ。君の事情は聞いている。話は座ってしよう。奥へ」
それぞれ、椅子やソファー、ベッドに腰かけ、話が始まる。……家族会議だ。
バルトーが話し始めた。
「ここで、ミルカとフランの結婚を祝いたいのは山々なのだが、うちの末っ子が居ない」
ミルカが口を開く。
「王宮側は何て言ってるの?」
「俺とユーリアが、リルカを王太子、レイノスの妃にするのを了承し、婚約したら返すって言って来ている」
ミルカがむっとして言った。
「七歳相手に何考えてるのよ!」
アルカがミルカをたしなめる。
「まぁ、正論が通じる相手じゃない」
確かにそうなのでミルカは黙る。
「このままでは、リルカは王太子妃にされてしまうだろう」
バルトーの言葉は正しい。
ところが、そこでフランが聞いた。
「神は、本当に今のまま結婚して大丈夫だと言っているのですか?」
「天啓も神託も無い。……どういう意味だ?」
「半天と呼ばれている者の魂は、人として大きく欠け過ぎています。さっき移動中にもミルカとも話していたのですが、人としては壊れていると言ってもいい状態です」
「それを聖勇者の魂で補てんしたいのだろう?」
「多分、今の半天と魂を融合分割すれば、天使の魂の欠けた分が大き過ぎて、魂は二人分に満たないと思います」
「その場合、どうなるんだ?」
「契約は失敗して、契約者は死ぬ事になると思います」
皆一様に息を呑む。
「実は、ティアラも同じ事を言っていた」
アルカが腕組をしてため息を吐く。
「元々分散し、天界と地上を循環する様に定められた旧聖者の魂と、その魂が絶えず地上に残るように縛られた半天の魂では、同じ事は出来ません」
フランの言葉に、アルカは考え込んで呟く。
「何故、同じ事をしようとしているんだろうな。おかしいよな。明らかに旧聖者の真似だよな」
すると、唐突にバルトーが弾かれた様に顔を上げた。
「それだ!半天は、使命を覚えていないんだ。だから、使命を果たし終わっているかどうか分からないんだよ。それで真似をしているんだ」
「へ?」
間抜けなアルカの声にバルトーは続けた。
「半天は、創生禄と言う神の与えた本で、脳に始祖の天使の記憶を焼き付けている。しかし、肝心の神から何故地上に残る様に言われたのかが、全然理解できないんだ」
周囲の者は、ユーリアと意味の分からない双子を除いて、皆唖然としている。
「それって馬鹿過ぎて、最初の天使が神様の言っている事を理解できないまま地上に降りたって事?」
ミルカの言葉に、バルトーは苦笑して頷く。
アルカも大きく肩を落とした。
「本当なの?父さん」
「以前、現国王本人から聞いた話だ。大神官も一緒に聞いた話だ」
そんな大事な事を知っていたのに、以前取りに来た本には書いてなかった!ミルカはロルフの顔を思い浮かべ、心底呪う。
「それって、お使いに言った子供が、何を買うのか忘れたって話と変らないんだけど」
ミルカが顔を引きつらせて言うと、アルカがすかさず否定する。
「やってる事は同じだが、被害の規模が違い過ぎる!」
「そうだね……」
ミルカはフランの方を見た。フランは呆れると言うよりも、何かを考え込んでいた。
「それ……修正できるかも知れない」
フランの呟きに、皆の視線が一斉にフランに向いた。
「どういう事だ?」
バルトーが聞くと、フランははっとして顔をあげた。独り言だったらしい。
「多分、その記憶の焼き付けには、法術が使われていると思います」
「法術?」
アルカはティアラの持つ能力を上手く説明できなかったのか、話していないらしい。フランが説明した。
「神の創った特殊な言語で、神の言葉を模倣して作られた物で、頭の中に、使いこなす為の基礎が無いと使えません。旧聖者は皆仕えて、身を護る唯一の術でした。ティアラが声帯を失っているのは、法術を使わせない為です」
「どういう物か分かり辛いな」
「俺が女に見える様に声や姿を変化させていたのも、今、尾を見えなくしているのも、全て法術です」
フランはそう言って、法術を解いてみせる。
すると、フランのしっぽがじんわりとにじむ様に現れて、明確な形になった。
「しっぽ!」
「ふわふわ!」
双子が大喜びしてフランのしっぽに駆け寄ろうとするのを、アルカが抱き止める。
「ダメ。今は話の途中」
バルトーはフランのしっぽを見て、ただ目を丸くしている。
「聞いてはいたけれど、綺麗ね」
ユーリアが呑気に笑うと、バルトーがぎょっとして妻を見た。
「え?感想それだけか?」
夫の狼狽えようがおかしいと言う様にユーリアは続けた。
「獣耳も尾も、生きていくのが大変よね。目に見えない能力でも結構大変なのにね」
ユーリアはそう言って笑う。
翼のある半天の家系に産まれ、息子が獣耳のある嫁を得て、孫にも獣耳がある。もう動じないのだろう。
「バルトー、ミルカが心配なのは分かるけれど、狼狽え過ぎ」
「すまん。娘と言うのは、何かと心配なものなんだ」
想像以上にバルトーが心配してくれていた事に、ミルカは驚いた。ミルカの視線に気まずくなったのか、バルトーは咳払いして言った。
「法術の事は分かった。それで修正できると言うのはどういう事だ」
「どうやっても、始祖の天使が理解できなかった神の命令は分からないままです。神の言葉は俺にも分かりませんから。けれど、命令が分からなくても、命令が終わった場合、どうなるのかは、本に使われている法術を見れば分かります」
知識も揃っているフランなら、神の作った複雑な法術の意味でも、すぐ読み解けるだろう。
フランはきっぱりと言った。
「本の法術を書き換えて、半天の魂を天界に返還します。……分からなくなった使命が果たせないで、暴走している以上、そうするしかありません」
全員が固まってフランを凝視した。
「いきなり魂が大きく欠けちゃうんだよね?半天は大丈夫なの?」
ミルカが恐る恐る聞くと、フランは言った。
「そうしなければ、お前の妹はどうなると思う?」
「どうなるの?」
「魂の共有分割は、本来法術で行うものだ。確か、バルトーさんとユーリアさんは、それを強引に行ったんですよね?ミルカに聞きました」
「そうだ。二人分の魂を俺が砕いて分けた」
「神があなた達にだけ、そういう方法を認めただけで、普通は死にます。魂を砕くんだから、元に戻るなんてあり得ないんです。神がそれを特例であなた達にだけ認めたんです。法術使いが近くに居なかったから」
アルカは青くなってティアラを見ている。ティアラはアルカにこくこく頷いている。
「エスラインの半天は法術が使えないから、魂を分けられない。魂を砕けば死ぬ。法術の使える俺やミルカが手助けして共有分割しても、魂の量が二人分に対して、魂の量が圧倒的に不足しているから、運が良くて廃人。まず死ぬと考えるべきだ」
「私やお兄ちゃんみたいには行かないって事?」
「そうだ。それでも結婚するつもりなら、半天は、従来通り、魂を一方が預かると言う方法の結婚しか出来ない。それでは、多分また半天が生まれる。欠けた聖勇者の血統は途絶え……半天は永遠に地上を離れられなくなる。神はそれを許さない」
「天罰か……」
バルトーが青ざめて呟くと、フランが頷いた。エスライン王国では、勘違いで天啓を取り間違える程度の事は許されても、あえて神の意思を無視する事は禁忌とされている。それは神に対する人類の反乱と見なされるからだ。それに対抗して、神は天罰を下すと代々言われている。しかし、それを信じていても、実際にどうなるのかは誰も知らない。
その前に悪い事が色々発生して、皆修正を行うからだ。実際、フランも天啓に逆らって法術が使えなくなりそうになったと言っていた。いきなりではなく、兆候はあるのだ。
「エスライン王宮では、色々不幸が起こっているみたいだが……天罰の予兆だったのだな」
バルトーの話だと、王宮騎士団の団長が謎の病で引退したらしい。しかも、同じ病が大臣や城で働く者達にも流行しつつあるとか。
皆不吉なので、レイノスが長く国を空けた事が原因だと言っているらしい。嫁を連れて帰って来たから落ち着くと思っている様子らしいが、実際に天罰の兆候だとすれば、悪化する。そして、天罰が下る事になる。
しかし、天罰とは?
知っているとすれば、旧聖者の知識を持つフランとティアラだけだ。
「天罰って、どうなるの?」
ミルカの問いに、フランは言い辛そうに言った。
「……今生きている人間は全部消されて、天使は天界に帰る事になるだろう」
「それって、世界が崩壊するって事じゃ……」
「世界は壊さない。ただ人間だけを全部刈り取ってしまうんだ。出来の悪い作物は、抜いて、新たに種を植えるのが一番だから」
出来の悪い作物……。この世界は神の農場だった事を主出す。感情論で育てられた世界では無いから、気まぐれに捨てられないと思っていたけれど……期待には応えなくてはならないのだ。
不出来な作物を、根気よく育てた所で良い品にはならない。だったら植え替える。当然の考えだ。
「どうやっても、リルカとレイノスの結婚は未来が無いって事?」
「そうだ。だから、法術を書き換えて、結婚を止めさせるしかない。法術の書き換え方によっては、半天も、天界に魂を返した後、生き残れる筈だ」
バルトーは強張った表情でフランを見た。
「王太子が既に創生禄を読んでいたらどうするんだ?あれより若い王族は居ない」
「多分、レイノス王太子は創生禄を読んでいません」
「その根拠は?」
「国外に出ていた事です。創生禄が神からの記憶……命令の焼き付けだとすれば、読んだら国外には決して出られない筈です。神の命令が浸透していない証拠です」
エスライン王国の半天は本来国外に出てはいけない事になっているのだ。過去、国外に出た王族はレイノスしか居ない。
「……確かに」
「今なら、まだ書き換えが間に合うと思います」
フランの強い言葉が、ミルカには不安だった。神からの命令違反を意図的に起こそうとしている部分が怖いのだ。
信じている。信じてはいるけれど、ミルカは、苦悩していたフランを忘れられないのだ。
「私も行く」
ミルカは言った。
「フランと結婚したから、私、法術が見えるの。だから私も分かるの、法術」
フランがミルカをじっと見ている。心配そうな表情をあえて無視する。
「もし、どうにもならなかったら、フランが法術使ってくれるだろうから、それでリルカを強奪してくるよ」
「二人で行くのか!」
アルカが驚く。
「大勢で行っても、警戒されるだけでしょ?法術って凄いんだよ。こっそり忍び込めると思う」
「しかし、肝心の書庫の鍵が無い。あそこは鍵が無いと大扉の向こうに行けないんだ。俺も鍵の在処を掴んでいない」
バルトーが渋い表情になった。
「あら、あるわよ」
言ったのはユーリアだった。
「図書館で王司書をしていた後、鍵を返せって言われなかったから、そのまま持ってきちゃったの」
てへって言いそうなユーリア。四十路でもそんな表情が似合う。お母さん、素敵。可愛過ぎです。
ミルカがそんな事を思っている中、バルトーもアルカも、呆れてユーリアを見ている。言葉も無い。ここに鍵がある以上、レイノスは創生禄を見ていない可能性がかなり高い。
「お母さん、ありがとう!」
ミルカはそう言って母に抱きつく。
すると、ユーリアはいつも持っていたらしく、すぐに鍵を差し出した。
「リルカをお願い」
ユーリアの言葉に、フランが黙って頷く。
その後、皆で話が詰められて、一週間後にミルカとフランが王宮へと忍び込んで創生禄を調べる事になった。一週間と言う時間が必要になったのは、万一捕まった場合、どう交渉するかなどを検討する必要があったからだ。
他にも、書き換える法術を準備する期間が欲しいとフランが言ったからだ。
フランは、バルトーにザルグとロルフから預かった手紙を渡した。そして、翌日からアルカも交えて、毎日何時間も話し合いを繰り返していた。アルカは、ティアラから念話で助言を受けて話しているらしく、実質四人で話している状態の様だ。
今回の王宮へ忍び込む話だけでなく、ミルカの体の事、今後生まれるマギの事を考えて、エスライン王国に定住する話もしているのだろう。気にはなったが、三人はミルカに負担を掛けない為に、話し合いには加えてくれなかった。
仕方ないので、双子やユーリアと雑談をして過ごしていた。ティアラは一緒に居るが、うわの空だ。多分、別室の話をアルカ経由で聞いているのだ。……母は、ミルカが胸の話を出来なかった事、ちゃんとした性教育を出来なかった事に関して、心底謝罪した。
「子育てに必死だったせいで、女の子らしい事を教えてあげられなくて……ごめんなさい」
「いいんだよ。お母さん大変だったの分かってるから。それに、私もエスラインの王族の件ですごくおかしくなって迷惑一杯かけたもん。……こっちこそごめんなさい」
お互いを追い詰めたくなくて言わなかったのだ。どっちも辛かったのだとお互い理解すると、妙にくすぐったい気分になった。
お互いに恐縮して謝っている二人を見て、双子は不思議そうに言った。
「ごめんなさい、いつおわるの?」
「ごめんなさい、どこまでつづくの?」
ミルカとユーリアは、互いを見て噴き出し、それにつられて、双子もティアラも笑い出した。
「そうね、もう終わりにしましょう。……今度からは、遠慮せずに私にも相談してね。一人で抱え込んではダメよ。頼りないけれど、話くらいはしないとね」
「うん」
母と娘は、こうしてお互いのわだかまりを無事解消したのだった。ミルカの中にずっと居座っていた小さな寂しさが、消えた瞬間だった。
親子でも違う人間で、分かり合う努力は必要だったのだと、改めて思う。自分は将来、子供達にそれを出来るだろうか……ミルカは未来にふと思いを馳せた。
その為には、まずリルカを救出しなくてはならない。体を壊し、法術も理解できるだけで使いこなせないが……見守る事は出来る。だから、それだけはしようと決めた。
王宮の内部はよく分かっていないので、分かっているバルトーやアルカから内部の構造を見取り図で教えてもらう。王城になると、元王女であるユーリアの出番となった。
王宮や王城の見取り図を持っている時点で驚いたが、元々、アルカが生まれる前からバルトーが元王宮騎士の仲間達に頼んで取り寄せていた物だと聞かされて更に驚く。
万一の場合があると考えていたのだろう。
とにかく、移動の時間も必要なので、明日から王都へ移動する事になった夜。
既に夫婦と認められているので、フランとミルカは同じ部屋だ。相変わらずキス止まりの関係だ。体が悪いからって事もあるが、フランは食事や話し合いの時間以外は、殆ど部屋で法術式を紙に描いている。内容は見せてもらえない。いつもミルカを法術で眠らせてしまい、その後で作業をするのだ。
分かっていても、体が弱っているから抵抗できない。起きると法術式の描かれた紙は何処かに隠されている。
そんな事もあって、最近、部屋に戻ると気分が沈む。ユーリアやティアラと過ごしている時は忘れているが、フランと二人きりになると嫌でも思い出してしまうのだ。……神を毛嫌いしていた当時の事を。今、人類の命運は、フランが握っていると言っても過言ではない。
自分の気持ちを裏切られた挙句、みんな消えてしまうかも知れないと思うと、怖いのだ。そんな事にならないと信じている。フランは必死なだけで、悪意を持っていないのは感情的に分かるから。……信じているけれど、悪い考えが頭を離れないのだ。
何も言ってくれないから。
部屋で寝る支度をしていると、フランはミルカをじっと見ていた。ミルカはすぐにその視線に気づいた。
「どうしたの?」
「……信じられないか?」
何が、と言う主語は無かったけれど、言いたい事は分かる。
ミルカは視線を落とした。
話し合いにも参加できない。神様が半天の為に作った法術を見て、彼が何を思うのか分からない。今作っている法術の内容も分からない。だから、何も分からない。
でも、内容は教えてくれない。今、教えると、ミルカの体調を悪化させると思っているのが分かる。フランは絶対に教えてくれない。
教えない事も体調に悪いと言っても教えないだろう。それよりも、うんと悪いと思っているのだ。
何を言っても無駄だと分かっている。だから言った。
「信じたいから、ついて行く」
ミルカはフランを見た。
「黙って待ってるのは、性に合わないの」
フランはため息を吐いた。
「……俺は、もう別に神をどうこうしようとは思っていない。お前の考える様な悪い事は起こらない」
「じゃあ、何でこんなに急いでいるのよ!」
フランが黙る。
これからやる事に対して、準備期間があまりにも短すぎるのだ。書き換え法術の内容などは一切教えてくれないが、複雑な作業が必要な筈なのに一週間だなんて。それで世界の命運が決まるとか、おかしな気がするのだ。
フランは、殆ど寝ていない。そんなに頑張らなくても、鍵はこちらにあるし、リルカはまだ幼いのだ。確かにリルカは心配だし、天罰は怖いけれど、もう少しゆっくりでも平気な筈だ。
「……したいんだよ」
「え?」
「ちゃんと結婚したいんだよ。早く、お前の体に無理のない場所で、体を治してやりたいんだよ!早く治れよ!そうでないと、俺、もう狂って死ぬ!」
フランの言葉がしみ込んでくる。ミルカは真っ赤になってフランを見た。
え?そんな理由なの?
「とにかく、俺は定住したいんだ。今すぐに!」
多分全身が赤いと思う。ミルカはフランを見たまま固まっている。
「これで王族にも貸を作って、速攻で定住できればいいなと思ってる。お前の妹も戻って来て一石二鳥だろ。万事憂いなく、祝福されて結婚式も出来る。急いで当たり前だ」
フランはミルカの座っているソファーの隣に座った。
「俺がどれだけ我慢しているか、分かってないだろう」
「う……うん」
「あのなぁ、男は普通こんなに我慢は出来ない。お前と出会って惚れてからほぼ二年。キスより先がお預けって、どんな拷問だよ!もう、神とか恨まずに手出しておけば良かったって、本気で昔の自分を呪ってる所だ。地獄だ、地獄。お前は体が悪い状態だから、性欲とか無いのかも知れないが、俺は健康なの!健全な成人男性!死ぬ。十分死ねる」
どうやら、あり得ない事らしい。……ぴんと来ていないが。……酷い事をしている気分になってきた。
「ごめんね?」
「やだね。健康になったらヒーヒー言わせてやる。泣いても許さない」
フランはふんと鼻を鳴らして続けた。
「本当なら、そんな体だからな。王宮に忍び込むなんて神経使う事、させたくない」
「来るなって事?」
「そうだ」
「やだ。行く」
「ミルカぁ、頼むよ~」
フランが抱きついてくるけれど、決して頷く気は無い。
「私は、見届けたいの。今回の事は、多分歴史の大きな分岐点だと思うから。あんた、それを一人でどうにかする気?」
「その覚悟はあったからな」
そこではっとしてフランを見据えた。
「天啓があるのね?」
「ああ……内容は教えられないが」
ここで内容を言えないと言う辺り、何だか嫌な予感がする。
「行く。絶対に行く」
「ミルカ」
「連れて行かないなら、書庫の鍵だって絶対に渡さないんだから!」
ミルカが怒鳴ると、フランは少し考えてから、ため息を吐いた。
「何でこんな女が俺の妻なんだと思ってるでしょ」
「違う。何でこんな女が好きで好きでたまらないんだ、だ」
フランは真顔になった。
「連れて行くけれど、法術に一切触れるなよ?約束しろ。天啓も関わっている。俺の仕事だ。人類存続に必要だから、間違えればそれこそ天罰が下る」
「……分かった」
そもそも法術の内容は理解できても、具体的にどうすれば良いのかはまだまだ分かっていない。きっと何も出来ない。
フランは神様の方針を忠実に守ろうとしている。それも、楽しい事では無いらしい。昔の彼なら、絶対に嫌がっただろうに、それを受け入れている。全て、ミルカの為だ。
だったら、見届けて一緒に秘密を背負わなくてはならないと思うのだ。
「早く……お前と二人でゆっくりしたいな」
フランがぽつりと言う。
「フランのゆっくりは、ゆっくりしない。いやらしいもん」
「男なんてみんなそうだ」
「お兄ちゃんもお父さんも、あんな事しないよ?」
「妹や娘にしたら、変態だ!嫁にだよ、いやらしくするのは!」
「嫁」
「そう。お前は俺の嫁。だからいいの!」
「私は奥さんって言われる方がいいなぁ」
「どっちも変わらん」
何となくどうでもいい話をして笑いたい気分だったから、その夜はどうでもいい話をして過ごした。もう準備も終わっているとかで、その日はフランも一緒に眠った。
秘密を背負わせる事をためらいながらも認めてくれたフランとなら一緒に居られる。ミルカはそう思いながら意識を夢に紛れ込ませた。
ミルカとフランは、エスライン王宮に忍び込んだ。
ミルカの父、バルトーはかつてここで王宮騎士をしていたから、王宮騎士に知人が多い。
以前、ミルカの護衛をしていたクロウもそうだが、気のいい優しい人達ばかりだ。今回、警備の穴をわざと教えてくれたのも、王宮騎士団の騎士だった。
今の王宮で流行っている病に、不安を覚えていたとかで、バルトーの話をすぐに受け入れてくれたそうだ。
王家のやる突飛な事は、信仰者には受け入れられていたけれど、どうも最近おかしいと言う話は、レイノスが戻っても消えないらしい。禁を冒して王太子が国外までバルトーの娘を追い回していた事は未だに尾を引いているのだ。しかも戻ってきたら、幼い娘で、軟禁した挙句、結婚すると言う。
そこに原因不明の病が、王宮から発生して拡散している。
どれだけ結婚が慶事でも、経緯が経緯なだけに、納得できない者は案外居るのだ。
そんな訳で警備の情報も手に入ると、法術を使わずとも、容易に王宮図書館までたどり着けた。
静まり返っている図書館の扉を開けると、木のきしむ音がした。
入った途端、ミルカは目を見張った。
法術が洪水の様に溢れかえっていたのだ。
法術の量が多すぎて、濃度に息が詰まる。
しかも、金色の意味不明な言葉が法術をまとめ上げて王宮図書館内部から洩れない様にしているのが分かる。その金色のが一番チカチカして目に厳しい。と言うか、気分が悪くなる。
「ミルカ、大丈夫か?」
フランの言葉に頷きつつも、目の前で明滅する法術と金色の洪水に思わず目を閉じる。
「気持ち悪い」
「俺もだ。早く進もう」
正面にもう一つ扉が見える。そこに二人で進んでいくと、ミルカは何とか鍵を開けた。
扉を開ける。
今度は法術に加えて歌が聞こえ始めた。光る歌と言うべきだろうか……。さっきの金色の言葉に音が付いた感じだ。気持ち悪いのに、妙に楽しくなって、無意味に笑い出したいような狂気を孕んでいる。……長くこれを聞くのも見るのも、怖い。
「何これ」
「神の言葉だ。……頭が変になりそうだ。今止める」
フランも同感だったらしい。ミルカは必死で、凄く明るい音調で、心に染み入って来る歌声から意識を逸らした。
フランが創生禄と思しき書物の前に立つと、法術の流出は急速に止まった。歌声も消える。
用意してきた法術式を描いた紙を本の上に載せたのだ。
法術式と複雑な文様の描かれた紙の上でフランが一つの文様を押した。すると、空中に綺麗に並んだ法術式が図形と共に浮かび上がった。想像以上に巨大で複雑だ。法術なら何となく分かるかと思ったけれど、全然分からない。
「この本は、歴史を筆記してその都度法術式を自動で編みだす力を持っている。その部分をまず止める」
どうやら、その部分の法術だったらしい。
フランの言葉と同時に、空中の法術式が力を失って砕けた。これで、もう新しい歴史も記せず、法術を生み出す事も出来なくなった。
「次に、王族に関する法術式を……多すぎるな」
大量の法術が並んでいて、並びきらずに古い法術式が消えて新しいものが次々に浮かび上がる。これも全然分からない。
フランは凄い勢いで浮かんでは消える法術を読んで解読しているらしく、目が様々な場所を行き来している。やがて、眉間に皺が寄る。
「何だこれ……。ふざけんな。全部消す」
「え!」
驚いている間に、フランはそれらの項目を全て消してしまった。
「読まなきゃよかった……元々消せって命令だったんだが。気分が悪いだけだった」
フランはイライラとして吐き捨てた。
残っているのはわずかな法術だけだった。
「聖女と勇者の為の法術だ。二人が神の言葉に汚染されずにここに居られる様にする法術。後、融合した二人の魂が砕かれたら、再び集まって等分に集結して収まる法術。図書館じゃなくても、エスライン国内ならどこでも可能な広範囲法術式……こんな物、人間には扱えないな。神の歌を力の源にしていたから、もう動かない」
両親はここで出会ったけれど、神はエスライン王国の国内なら、何処ででも出会える様にしていたのだ。
自分の原点を見ている。……ミルカはその法術をじっと見つめた。
フランはそんなミルカの様子を暫く見守ってから言った。
「消すぞ?」
ミルカが頷くと、フランが手を一振りし、法術式は崩れて消えた。
空っぽの創生禄に、今度はフランが書き込み操作を始めた。
「これを読むのは、レイノスだけだ。……もう、半天は終わりだから」
「死ぬの?」
「いいや……王太子だけ残す」
半分も魂が足りない人などまともに生きていける気がしない。けれど、フランは魂の昇天術式を本に書き込んでしまう。
今、フランはレイノスだけと言った。
「国王様とか王妃様はどうなるの?」
「死ぬ……多分、苦しまない」
フランは更に術式を書く。
ミルカは真っ青になってフランの肩を掴んだ。
「何で?助けられないの?」
「無理だ。創生禄をもう読んでいるから、法術の上書きが出来ない。魂の半分が昇天したら国王は壊れる。王妃の魂も道連れだ」
「もう一度読んでもだめなの?」
「この本の中身を半天が一度でも見るって事は、瞬時に、膨大な情報を焼き付けられるって事だ。俺達は、法術の基礎があるし、それを遮断する法術を俺が展開しているから無事だが……人なら情報量に耐えられずに壊れる。半天なら焼き付けに耐えられるが、それ以上の情報はもう入らない。情報に従って生きるだけになる。焼き付けられた法術を解除する方法は無い」
「……他に方法は無いの?ねぇ」
国王と王妃の事もあるが、フランが神の命令とは言え、半天殺しの大罪を犯す事になる。
ミルカは、フランの肩を揺さぶる。フランは眉間に皺を寄せ、頭を横に振る。
「ない」
フランは顔を上げると、準備していた法術式を次々に本に書き込んでいく。
ミルカは、その内容を見つめる。
『異性に愛される特性』
『性別の固定』
『感情の抑制』
『肉体的特性の固定』
『世代交代による魂の補充』
「異性から愛されるのは、未来へと生存していく為だ。性別を固定して感情を抑制するのは、欠けた魂が壊れない為だ。性別による魂の在り方の差や、少しの感情の揺れでも、今の状態だと魂が壊れる。男で、感情はほぼ無いに等しくなるな。……翼と鋼鉄の肉体は残さないとダメらしい。神の思し召しだ。まだ第三の聖勇者としての可能性を残したいそうだ。魂の補充は一世代当たり、ほんの少しだ。それでも世代を重ねれば、だんだん魂の欠けている部分を人の魂で補われて、安定していく」
フランは解説しながらどんどんと法術式を展開していく。
どれだけの世代を重ねれば、レイノスの子孫の魂は安定するのだろうか?魂の補充は、法術式を見る限りでは、小さな水滴を、大鍋一杯に集める様なものだ。気の遠くなる世代を重ねなくてはならないのが見て取れる。
そして終わりの方になって、ミルカは慌てた。法術がおかしくなってきたからだ。
完全に魂が満たされないまま、魂の補充が終わってしまう様に調整されていたからだ。
「魂が完全に補充されないのはどうして?レイノスの子孫はこのままじゃ……」
「リルカの子孫と出会って、第三の聖勇者を生み出す事を考えれば、この空きは必要なんだ」
リルカの子孫。そこで、欠けた聖勇者の子孫も続いて行く可能性を初めて思い出す。
リルカ……。
短い二十歳前後の寿命で苦しみながら浄化をし、伴侶を得なくては生きて行けない聖勇者の子孫を紡いでいくしかないリルカとその子孫。レイノスとリルカは余りに過酷な未来を与えられている。
「そんな、無茶だよ。何百年先の話?リルカの子孫もレイノスの子孫も途絶えているかも知れない」
「残す。残させるんだよ!」
フランが強い目でミルカを見た。
「まさか」
「俺達とその子孫は、どっちの子孫も監視して、途絶えない様にする役目を負っている」
つまりミルカは、リルカが嫌がっても、結婚相手を宛がい、子孫を残し、感情の無いレイノスにも子孫を残す事を強要すると言う事だ。
「嫌よ。……そんなの」
「神の意思だ」
言外に天罰がちらつく。神の下僕だと吐き捨てたフランの気持ちや、全てに無頓着になってしまったロルフの心理をようやく理解する。自分は何も分かっていなかった。
人の倫理は通じない上に、絶対的な存在と関係を持ち、理不尽な命令を受けると言うのは……こう言う事なのだ。
「リルカも、レイノスも、死なせず、未来に可能性を残す方法はこれしかない」
辛そうなフランの声に、ミルカは視界が歪むのを感じた。辛かっただろうに、全部今まで黙っていてくれたのだ。
「ごめん……ごめんね。フラン」
フランは選んでくれたのだ。ミルカと共に生きて、神の下僕となる道を。ミルカが一番悲しい思いをしない、ミルカの妹と従兄を、そして今を、守る選択をしたのだ。
神の為では無い。ミルカの為にだ。
ミルカはフランの肩に顔を埋めた。フランはミルカの頭を撫でた。
「俺は……歴史に残る極悪人だ。エスライン王国の半天殺しだ。お前の妹と王太子の子孫にとんでもない事をする。いつ終わるか分からないまま、酷い状態の二人の子孫を監視し続けるんだ。それだけじゃない。エスラインの王族を信仰している人達から信仰対象を奪ってしまう。……でも、俺やティアラみたいに救われる可能性があるなら、俺はそれにかけたい」
法術式は完成し、本に吸い込まれて行く。
全ては終わった。本に載せられていた法術式の紙が砂の様に崩れて零れ落ちた。もう、書き直す事は出来ない。
フランは未来を諦めてしまう選択も出来た。そうすれば、人は消えて、誰もフランを恨まなかった。その方が楽だっただろうに、フランはあえて生きる道を選んだ。
旧聖者の生き残りは、欠けた聖勇者の存在に救われたと言うのだ。長くて辛い先祖の記憶すら、たった一代、気持ちを通わせて、旧聖者と違う子孫を残せるだけで、救われたと言ってくれたのだ。
歴史的に見れば、ほんの少しの幸福だ。新たな子孫も、再び辛い役目を得て、生きて行くと言うのに。
ミルカはフランを抱きしめた。
「フランだけに背負わせたりしない……。私も一緒に居る。ずっと居る。全ての人が敵になっても、私はずっとフランと居る」
「ミルカ……」
フランに、息が苦しい程抱きしめられて、ミルカは目を閉じた。
いつか、この選択を後悔するのかも知れないけれど、選択は行われた。だったらそれを背負い、見守る事しか出来ない。
創生禄は失われた。レイノスが読み終わったら、本はもう誰も読まない。読んでも分からないし、何も起きない。ただの紙きれになる。創生禄だった本は、金色の眩しい程の輝きを失い、鉛色の本になっていた。もう神の言葉も聞こえない。
後は、レイノスが読むだけである。
「もう立派なエスライン王国の大罪人だね」
「そうだな。犯罪ついでに、やれる事は全部やっておくか」
フランはミルカを離すと、笑って言った。ミルカもそれに同意する。
フランとミルカはすぐに王城に向かった。法術を書き換えた事、レイノスが読めばどうなるのかを、国王やレイノス達に伝える為だ。今更、リルカを黙って連れ出す意味が無いのは十二分に理解できている。
神の意思を伝えて、正しい方向に王族を軌道修正しなくてはならない。
深夜だと言うのに、国王達は謁見の間で待ち受けていた。……レイノスに天啓があったのだそうだ。フランの話を聞けと。
フランは包み隠さず、創生禄の法術を書き換えた事を話した。レイノスが読んだ後、どうなるのかも。……国王と王妃はそれで即死する事をフランは静かに伝えた。ミルカはフランの手をぎゅっと握った。どちらの手も震えていた。
国王と王妃は想像よりも静かに受け入れた。
「天使の魂を天に返す事こそが、我らの望み。王妃には悪いが、ついて来てもらおうか」
「お供致します」
「俺は、地上に残るんだね。でも、その時には、もう今の俺じゃない。そう言う事?」
レイノスの言葉に、フランは頷く。レイノスは苦笑した。
「キツいな……。時間をくれないか?父上と母上が居なくなっても、何も感じないって事なら、今の内に色々感じておきたいから」
「レイノス……ごめんなさい」
ミルカの声にレイノスは笑った。
「俺こそ、ごめん。色々迷惑かけたんだよね。……だから神は怒って俺や子孫から感情を奪うって事にしたんだろう?どうしてそんなに悪い事なのか、俺にはよく分からない。そんなに間違っているのかな?理解出来ないのが……罪なんだろうな」
レイノスは悲しそうに言った。
フランもミルカも、何も言えなかった。何を言おうとも、彼の心には伝わらない。彼の中に天使の魂がある限り。
それ程に天使の魂は人としての思考を阻害しているのだ。人の考えが出来ない程に。
そして天使の魂が消えて、人としての考えが理解できる様になった時から、彼とその子孫には長い無感情の時間が待っている。ただ、壊れない様に、欠けた魂を満たす時間が始まるのだ。
国王が言う。
「リルカを連れて帰りなさい」
「いいんですか?」
「もう、必要ない。魂が天に帰ると分かったからな。我々の半分は天界の住人。天に帰るのは死ではない。……ユーリアには言うなよ」
ミルカは改めて、国王が母の兄であった事を思い出す。
「はい」
「妹だけではない。この話は、他言無用。いいな?」
フランもミルカも、素直に頭を下げた。
多分、これ以上苦しみを拡げる必要は無い。マギの子孫だけが知っていれば良い事なのだ。
その後、案内された部屋では、リルカがぐっすりと眠っていた。血色は良い。ミルカはほっとして、妹の髪に触れた。
今すぐ帰るのは、リルカが可哀そうなので、夜が明けるのを待つ事にする。
別室に通されて、そこで椅子に座ると、フランも椅子に座った。間には小さなテーブルがあって、お茶が準備されていた。
確かに、眠る気にはなれない。
「国王が亡くなって、レイノスが半天じゃなくなったら、この国はどうなるの?」
「……王太子は感情を失って別人の様になってしまうし、王国として信仰を集めるのは無理だろうな」
半天を信仰する、宗教国家の様な一面も持っているエスライン王国。このままでは崩壊してしまいそうだ。
「法治国家だな……」
「法治国家って何?」
「法律で国を治める国の事だ。王族も貴族も居ない。平民だけの実力で役職に就く国になる。偉い奴は実力のある奴になる。王族を除けば、法治国家にほぼ近い社会と政治体制の国だから、移行は、そう難しくない筈だ」
「本当にそうかなぁ……」
この王国は、半天信仰の強い者が大勢集っている。他の国よりも、王族に対する忠誠心が高いから、王族が居ないと言うだけで、優秀な人材が他国に流出して行く気がした。
「やるしかない。ここに俺達は住むんだからな。住み辛いのは困る」
「レイノスに頼めば?そう言えば、レイノスは自分の事をどうするつもりなんだろう?」
「そこも何とかしないとな」
それから、ミルカとフランは色々話した。
今後のマギの在り方、レイノスとリルカの子孫について、どうやって見守って行くのか……。
とつとつと話す内、夜が明けていく。
「俺達には、やるべき事が沢山ある。全てを終えるには、きっと何世代もかかるだろう」
「正直、重すぎて辛い」
ミルカの言葉にフランが苦笑する。
「俺もだ。それでも俺はお前と居たい。だから、この道を選んだ」
「うん」
いつか、愚かな始祖と笑われるかも知れない。それでもいいのだ。ちゃんと選んだのだから。自分達にとって最善の一手を。
本当は、正しい事だけ行って生きていけるならそうしたい。間違った時の責任を取らなくて済むから。しかし、世の中はそんなに単純ではないから、義務も権利もごちゃまぜの中から、自分にとって最善を選び取るしか無いのだ。
翌朝、フランとミルカは、リルカを連れてバルトー達の元に戻った。
そして、半天の魂が帰る事になったと言う事だけを伝え、ミルカの体調も考慮して、このままエスライン王国に留まる事を話した。法術の書き換え内容や、半天の行く末やリルカの子孫については、語らなかった。国王達との約束もあったし、語りたくなかったからだ。
バルトー達は、天啓で隠し事には慣れている。だから、必要以上に聞いては来なかった。そもそも、定住の話はしてあったので、残る事も既に了承済みだった。
半天が居なくなり国が変わる事も、既にバルトーとアルカは悟っていたらしく、国政の変動で危険がある様なら、助力を惜しまないとフランとミルカに告げた。
アルカの一家は半魔を狩る為、再び国外を目指し、バルトー達はリルカを連れて、同じく国外に出る事になった。ただ、行く方角が違う。出国後は別の国に向かう。
大神殿で挙式をする事になったが、国王達が関わる事は無く、ごく普通の式になった。
ミルカにとってあれだけトラウマだったドレスは、案外あっさりと着られた。
フランは凄く喜んで、自分で作ると言いだし、法術まで駆使して、二晩程度で大量のドレスを縫い上げて、ロッソ家の女性陣に配った。双子にも可愛いドレスが用意され、双子は一気にフランに懐いた。
男性陣の礼服も一気に縫い上げてしまい、全員正装する事になった。ザルグとカリーナの分まで服を仕上げ、招待する当たり、ぬかりが無い。商人と言うか裁縫職人だな、と言うのが、バルトーの感想だ。
実はティアラも裁縫が得意だ。どうやら、旧聖者の血筋は、裁縫の様な作業が好きな上に、手先が器用な様だ。
「僕の新しい神官服は……」
ロルフのおねだりは却下された。式の後、神託用の供物にされるとフランは見破ったからだ。
「ああ、やっぱりわかっちゃいました?」
悪びれずに言うから、ロルフはいつも通りの恰好で結婚式を取り仕切る事になった。
サプライズだったのは、ユーリアとティアラまで花嫁用のドレスだった事だ。
「ミルカに聞いた話だと、ロッソ家の結婚式は、代々慌ただしくて大変だったみたいなので、この辺でその呪いを解いておこうかと思いまして」
逃げる様に国を出る途中に挙式をしたバルトーとユーリア、盛大な結婚式だったものの、心休まらない式だったアルカとティアラ……。
フランはその辺りを見越して、今回皆でやり直しを提案したのだ。
「お嬢様方には、ドレスや装飾品の美しさを是非とも記憶に残し、こういう衣装を他国でも広めてください。ご注文は、エルハント商会経由で、ラグニス洋品店まで」
「私の絶対作ってね!お姉ちゃんみたいなの!約束だよ」
リルカが頬を真っ赤に染めて言う。
「私、ママと同じの!」
「私は、ばぁばと同じの!」
双子達も興奮して叫ぶ。
「かしこまりました。ご注文承りました」
フランがわざと丁寧に言うと、我慢できずにカリーナが噴き出し、それをきっかけに皆笑い出した。
照れて緊張していたバルトーとアルカも笑顔になり、和やかな雰囲気の中、合同で式はつつがなく行われた。
聖勇者の一族として、過酷な日常に慣れていたロッソ家にとって、かけがえの無い思い出になったのは言うまでも無い。
「フラン……ありがとう」
並んで立つフランに感謝すると、フランは鼻を鳴らした。
「俺が、こうしたかったんだ。……お前には、笑って欲しかったから」
歴史に残る極悪人だろうが何だろうが関係ない。ミルカは、フランの望み通り、満面の笑みで、ミルカ・ラグニスになったのだった。
歴史にマギの始祖、ラグニス家が誕生した瞬間だった。
国王はフランを大臣達に会わせ、面識を持たせると数年後の退位を表明し、新国王であるレイノスも王族の特権を無くす方向で方針を打ち出した。
レイノスは、天使の魂が地上から去る日が近づいているから用意する様にと国中に通達した。
衝撃的な通達は世界中を巡り、地上に新たな聖勇者が誕生した事で、半天が役目を終えたと言う認識で落ち着いていった。
隠されていた聖勇者の存在が、エスライン王国の半天の消失予告に伴い、世界規模で明るみに出た。
しかし、意外にも、聖勇者を信奉しようと言う国も団体も現れなかった。聖勇者は数が少なく、エルハント商会によって保護され、その広い情報網で危機を察知すると移動している。捕まえる事が出来なかったのだ。
一方、定住しているミルカとフランは、半天信仰の篤いエスライン王国内に滞在し、王族と大神殿の保護を受けていたので、こちらも捕まえる事が出来なかったのだ。
エスライン王国では、王国ではない新たな国への移行が行われた。
反対者は多く、作業は難航した。これが終わるまでは死ねないと、国王が残っていた事もあって、ごねる事で王国存続を画策する者も出る有様で、半天信仰の根強さをミルカは目の当たりにする事となった。
王が居なくなると予告されてからの城下町は、まるで火が消えた様に活気を失い、元に戻らないのではないかと思う程だった。
中でも多かった考えが、半天に守られて暮らしていた分、他国に恨まれていて、攻められるのではないかと言う考えだった。
他の国はまだ、そこまでの国力を持っていない。聖勇者が世界を平和にする前に、脱半天をしなくてはならないと、ロルフが働きかけ、既に引退していたムシュラム・エルハントもエスライン王国に出向き、自分と国王の母親の関係、自分が半魔であった事を重臣に語って聞かせ、バルトーとユーリアに救われた経緯を話すなどして、説得したのだ。
フランは聖勇者である自分とミルカは、政治的な役目は一切担わず、何処の国の政治にも関与しないと約束した。
そして、それと引き換えに、自分達と子供達を保護してくれる様に取引を持ち掛けた。
商人らしき、フランは旧聖者の知識も駆使して重臣達と渡り合い、とうとう取引に成功したのだった。
フランが、巧みな話術で、出来るだけ敵を作らず、発言権を強めていくのは、想像を超えた努力と歳月が必要だった。
エスライン国の城下町にあるラグニス家の屋敷は、長い歳月の間に、政治には関与しないが、各国の政治家や有識者の集まる不思議な家になっていた。
世界規模の頭脳集団が、情報交換をし、新たな思想を論じ合い、学ぶ場所になりつつある。わざわざ住み込む者も居るので、結構な大きさの屋敷になってしまった。
ミルカは、そんな者達の生活を支え、屋敷を取り仕切っている。すっかり屋敷の奥方様だ。昔、剣士だったなどと思う者は居ない。
論争が白熱してくると、物を言わず、殺気を放出して止めに来る、凄い奥様だとは思われているが……。
フランは表向き洋品店を続けているが、実質、その扱いは賢者だ。歴史的に半天殺しの極悪人となる予定だったのに、何の手違いか、偉人として歴史に名を残しそうだ。
頭の中のご先祖様のお陰で犯罪者にならずに済んだね。なんて言ったら、フランが怒りそうなのでミルカは言わないでいる。
レイノスの身柄をラグニス家で預かる事を条件に……要は元王族の世話役としてエスライン国に保護され、定住している。
親族の居ないレイノスは、従妹であるミルカが世話をするのがふさわしいと言う事になったのだ。……フランがそう言う風に流れを持って行ったのだ。
エスライン王国がエスライン国に変わり、創生禄をレイノスが読んだのは、フランとミルカが結婚して十年も経ってからの事だ。
レイノスは、半天だった頃よりも、ずっと落ち着いていて、知性的になり、よく本を読んでいる。かつて、脳筋と言っていた頃の強引さも消え失せてしまった。
レイノスは、半天では無くなった時点で平民になっている。名誉職に就けて、王宮に留まらせると言う話もあったが、レイノスがそれを断った。
そして今、フランは、レイノスを客では無く助手として扱い、書類整理などを任せている。レイノスもその方が良いらしく、不服も無くのびのびと過ごしている。……不平を感じる程の感情も無いのだと考えると心が痛いが、それについてはさんざん話し合い、もう結論が出てしまった。これからは、ただ背負うだけだ。
リルカの子孫も、レイノスの子孫も、苦労する事は目に見えている。
結婚しなければ寿命に限界のある聖勇者、翼のある特殊な姿に、感情を失い男児しか生まれない元王族。フランとミルカの子孫は、彼らを見守り続けて行く必要があるのだ。
で、その子孫第一号達はと言うと、
「燃えろ!」
廊下で子供の声がする。……ミルカは慌てて外に飛び出す。
「消えろ!」
焦げた廊下の壁に氷がこびり付いている。
「あんた達!」
ミルカの低い声に、男の子が二人、ビク!っと肩を震わせる。
二人共、しっぽがズボンから出ている。
フランとの間に生まれた、六歳と五歳の息子だ。……法術で遊んでいるのだ。
「屋敷が壊れるからやめなさいって、何度言ったら分かるの!」
意味不明な雄たけびをあげて逃げていく息子達を追おうとすると、フランが飛び出て来て、ミルカの腕を掴んだ。
「待て、走るな!転んだらお腹の子供が潰れる」
ミルカは、四人目を妊娠している。
三人目の二歳の女の子は昼寝中で、今メイドが面倒を見てくれている。当然、この子にもしっぽがある。
マギの家系は皆しっぽがある。そして、教える前から遊びで法術を使いだす。
とりあえず、頭の中にパズルがあって、組み合わせて遊ぶと、結果が色々と出て面白いらしい。
フランもミルカも必死だが、法術によるイタズラが止まらない。
メイド達も周囲の住人も、聖勇者の一族と言う事で温かい目で見守ってくれているが、正直、けが人の出る様な惨事にならない様に神経を張り詰めている状態だ。
カリーナに跡を継がせたベルグが、屋敷でミルカの体調管理や息子達の教師をしてくれているが……何せ、やんちゃで言う事を聞かない。
フランが追いかけて子供達を連れてくる。
「法術で怪我をしたら、もっと痛いんだぞ!やめないか!」
本当は、ミルカが怒り狂って殺気を放出するのが息子達には一番効果的だが、胎教に悪いからと、フランに止められている。
フランは顎に手を当てて、わざとらしく二人を見下ろした。
「双子は……乱暴な子嫌いだぞ?」
二人共、ぎゃーと声を上げて悲壮な表情をしている。
アルカの娘達は、凄い美少女に成長し、凄腕の半魔ハンターとして、エルハント商会の支援を受け、今は二人だけで旅をしている。美少女双子は、息子達のあこがれのお姉様達なのだ。
二人の事を出されると急に大人しくなるので、フランは最近この手をよく使っている。
いつまで通じる事やら……ミルカはため息を吐いて声を張り上げた。
「直しなさい!」
ミルカの命令で、二人は法術式を瞬時に唱える。すると焦げて凍り付いた廊下が綺麗に元通りになった。……実はミルカにはこれがすぐ出来ない。子供達は生まれもった感覚であっさりやってしまう。その速度に自分だけが追い付けない。必死に学んでみても、後付けの能力だからか、上手く出来ない。……兄はシーカーの能力を使いこなしているだけに、正直辛い。この話には裏がある。
何故、過去の記憶をマギが受け継げないのに、シーカーが受け継げるのよ!
ミルカは、内心悪態をつく。
ティアラはまだ現役でアルカとの間に子供を産んでいる。旧聖者が多産なのはフランから聞いていたが、アルカの子供は既に九人になった。旅をしながら、これだけの数を育てるのは普通なら大変過ぎて無理だ。しかし、出来てしまう。……全ては、念話が解決してしまうのだ。
シーカーの子供達に、念話でティアラとアルカが勉強を記憶として丸々渡してしまうので、読み書きも知識も勝手に見に付く様になっている。兄も子供達から、シーカーの感覚を、念話で学んで使いこなせるようになってしまったのだ。
感覚が本能的に使いこなせて、記憶学習で勉強が必要無いとなれば、後は体を丈夫に鍛えるだけだ。……これに関しては、バルトーも得意で、双子のすぐ下に当たる二人は、バルトーとユーリアに預けてしまっている。念話があるから、どれだけ距離があっても平気なのだ。逆に高齢の親を心配してアルカが子供達に報告をさせているくらいだ。
そんな訳で、シーカーは記憶を受け継ぐ事が出きるので、殆ど勉強の必要が無い。この衝撃的な事実を後で知って、フランと二人してショックを受けたのは言うまでも無い。マギが同じ事を出来れば、法術倫理の制定なんて面倒な事をしなくて済んだ。
今の所、どんなに頑張っても、念話の様に、距離に関係無く、無制限に頭の中の情報を送受信する方法は、法術では作れない。とりあえず、自分の内部にある旧聖者の記憶を法術で残そうと、フランは研究しているが、頭の中で記憶の保存されている場所とその形状がどうなっているのか分からないので、取り出す事が出来ない状態だ。
同じ聖勇者なのに、何故?不服にミルカは思ったりもするが、神の考えなのでどうにもならない。旧聖者の情報は、マギでは無くシーカーに受け継がれる事になった。
リルカも既に結婚して、今、子供を身ごもっている。リルカの相手はごく普通の人間で、優しい青年だ。
普通の人なので、リルカにも、半魔を狩る事は危険なので、止めさせている。事実リルカは半魔を狩るのも、エルハント商会と関係を持つのもやめてしまった。……数年前、リルカにロルフの書き付けを読ませたからだ。
私はどうなるの?半天も聖者ももう居ないのに、どうすればいいの?
リルカは泣いたけれど、どうする事も出来ず、ただ結婚して子孫を残して行く事が必要だと伝えた。リルカには、痛い思いをして、半魔を狩る事を神は望んでいないと。
半天の子孫と遠い未来に結ばれる事が唯一の希望である事は……話せなかった。信じられない程の歳月が必要で、今のリルカが救われる方法では無い以上、言わない方が良いとフランが決めたのだ。
欠けた聖勇者の家系は、もう半魔を狩らなくていい。これからは、完成した聖勇者が増えて行く。だから、普通に人として暮らすのがいい。
フランはそうリルカに言った。人と何ら変わる姿でも無く、一般人として暮らせる事はある意味いい事だと、バルトーも口添えしてくれたので、リルカはそれを受け入れて、半魔を狩る苦しみを知らないまま、一般人として家族を持つ事になった。
普通に暮らす分には、何ら不便はない。子供も、ただ二十歳位までに結婚すればいいだけだ。結婚に不安があるなら、ラグニス家が相談にのる様にするから、何も心配するな。
リルカはフランのその言葉を丸々信じ、今、母親になる幸せを感じている。
……そんな訳で、今、フラン達は、リルカ夫婦を近所に招き寄せて、住まわせている。ロッソ家の末娘である事を隠す為、ラグニス洋品店の使用人として夫婦は名前を変え、新しい戸籍で暮らしている。実際には囲い込んで監視しているのだが、口が裂けてもそれは言えない。将来的には、ラグニス洋品店の仕入れか支店を任せ、この国の外に出し、子供達の誰かを、リルカの子供に監視役として付ける事になるだろう。そうやって、代々監視して行くのだ。
何も知らないリルカに感謝される都度、ミルカは、ただ黙って笑うしかない。フランの嘘(今では口の巧さと思う)には、本当に助けられている。でも、本気で慕って感謝して来るリルカと、感情を無くしたレイノスの相手をし続けるのは、さすがにフランでも辛いらしい。
「商人、極悪人、賢者、詐欺師……俺は何だと思う?」
ふとある日、そんな事を言って自嘲気味に笑うフランに、ミルカは笑って答えた。
「私の旦那で、子供達の父親に決まっているでしょ!」
フランは一瞬、きょとんとした後、少し泣きそうな顔で笑った。
「……ありがとう。奥さん」
フランは『始祖フラン』と言う敬称付きで、名前を残す特別な聖勇者になる。マギの始祖でありながら、全ての聖勇者の父と呼ばれる。
半天を天に帰し、聖勇者と言う畜種能力者の倫理教育に力を入れ、神の予言や神官の神託を書物として保存し、当時の新たな思想発信地の管理人として、多くの偉業を残す事になった。正に、伝説の存在になる。
最後の聖勇者は時の彼方……。これは天使を天に帰す物語。三つの内、二つの種が芽吹いた話。