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恋するクラウン2  作者: 川崎 春
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聖勇者と旧聖者

これは「恋するクラウン」の続編その2です。

 彼も本当はとても寂しいのだと気付く。……気づいてしまった。

 久々に気持ちをぶつけ合う会話が出来て、ミルカは嬉しい様な、困った様な気分になった。

 そして、フランと微妙な距離に居る事を実感した。

 フランは神を憎んでいる。けれど、ミルカを道具扱いしたかった訳ではなかったのだ。単なる八つ当たりだったのだと今なら分かる。たった一人で、ずっと正体を隠して生きて来た。性別すら隠してきたフランにとって、それを晒すのは怖い事だったのだろう。

 憎い神から天啓で命令されてとなれば、尚更だ。だから、法術装身具を作り、騙すようにミルカに身に付けさせ、酷い言葉で傷付けた。

 けれど、彼は一度も家から出て行けとは言わなかったし、護衛を辞めろとも言わなかった。険悪な空気だったのに、食事を別々に取る事も無かったのだ。しかも、刺々しい対応しかしないミルカの側に居て、世話を焼き続けた。神が憎いなら、法術装身具で命令でもなんでもすればいいのに、それもしなかった。

 彼はミルカに言った言葉を後悔していたのだ。あの傷つけられた日以来、彼の頭の上に、黒いクラウンを見る事は無かった。ミルカを道具だなどと、口では言っていても、そうは思っていない。でも、そう思って接していくと決めているのだ。

 ミルカは、フランが複雑な感情を抱え込んでいる事にようやく気付く。

 フランは寂しいから、秘密を共有できる仲間は欲しいが、神の作った聖勇者と恋愛はしたくないと言っているのだ。そして、同じく天界から使命を与えられた仲間として、幸せになって欲しいと思ってくれているのだ。フランは伴侶を持たず、独身で生涯を終える事を決めている。だから、若い女であるミルカとの同居には慎重になっているのだ。

 どうして神は、アルカが護衛に付いている時に、フランに天啓を与えなかったのだろう。

 ミルカ自身、今回フランの言葉に振り回されて実感している事がある。ミルカにとって、フランは放っておけない存在なのだ。だから、言われた言葉に傷ついたし、腹も立った。

 フランが距離を置きたがったのは、彼の言う所のチョロい部分が嫌だったのだろう。……簡単にフランを好きになりそうだったのを見破られたのだ。

 確かにその通りかも知れない。事実、服をもらっただけで危うく惚れそうだったのだ。そりゃ、警戒すると言うものだ。

 では、フランを兄扱いすればいいのだろうか?それとも、もっと別の何か?ミルカの経験値では、ちょっと難易度の高い問題だった。

 けれど、彼の思いは痛い程理解出来る。だから、恋だけはしない様に、それでいて、楽しく過ごそうと決める。……そんな事出来るのか知らないがやるしかない。

 何はともあれ、次の日からフランもミルカも普通に会話する様になった。半分喧嘩の様な掛け合いだが、前よりも楽しいのは事実だ。これなら、上手くやっていけそうだ。ミルカはそう思った。

 しかし、ほっとした途端、次の問題と言うのが起こるらしい。マーサが暇を出して欲しいと言いだしたのだ。足が痛くて、ここまで通うのが苦痛になってきたと言うのだ。

「ミルカちゃんが居るし、女二人で楽しくやるから大丈夫よ。心配しないで、マーサ」

 フランはフランシーヌの姿でそう告げる。

 この嘘つき!天使の末裔が聞いて呆れるわ!とか思っていても、口に出せない。

 そして、マーサは来なくなった。フランは新しい家政婦を雇わなかった。マーサはフランの母の代から居た家政婦で、何となく秘密を知っていながら黙っていてくれたらしい。そんな家政婦はもう探せない。ミルカを見て安心もしたから、暇を申し出たんだろう。その通りだと思う。……そして、完全に二人きりの暮らしが始まった。

 食事は当番制になった。フランが朝を作った日はミルカが夕食の当番、そして次の日は逆と言う風になったのだ。

 ところが、フランはだんだん食事を作らなくなった。店が忙しいだの、洋服を作るだのと理由を付けて、毎日ミルカが作るようになっていったのだ。

「何でご飯作らないのよ!」

「俺は茶を煎れる事や、裁縫は好きだが、料理は嫌いなんだ」

「偉そうに言わないでよ」

 フランの料理も、味はちゃんとしていたので下手ではない。本当に好みの問題なのだろう。……武術を除けば、勝てる所が見当たらない。何でも器用にこなす、嫌味な奴だとちょっと思う。

「お前の料理は、うまい」

 チョロい部分が出てはいけないので、ミルカは緩みそうな顔を必死で引き締める。

「全部宿屋仕込みの、多国籍料理だよ?」

「俺の記憶に無い料理を作れるのは凄い事だぞ」

「料理の記憶まであるの?」

「まぁな。知の天使の末裔って言うのは伊達じゃないって事だ」

「凄いね……エスライン王国の王族は、もの凄く馬鹿なんだよ」

 エスライン王国では、王女は見捨てられて死ぬものだったのだとか。それで、女子の王族を大事にすると言う教育を、長い歳月、大神官が王族に刷り込んだ末、ミルカの母であるユーリアは無事に育ったそうだ。結果、その教育は、一応王族の女子であるミルカに一生ものの恐怖を植え付けた。……兄のアルカも、ユーリアの息子であると言う理由でトラウマになるような結婚式をしなくてはならなかった。

 大事にすると言う方向性が明らかに間違っている。

 ミルカは、既に自分のトラウマについて、フランに話をしていた。ティアラの容姿については話せないので単にアルカの嫁以外の情報は隠しているが、それ以外は大まかな事を言ってある。……トラウマを隠していると、派手な服やアクセサリー、最悪ドレスを用意されてしまうかも知れないからだ。

 フランは特に感想を言わず、黙って聞いていただけだったが、ミルカの身に着ける物には注意を払ってくれている様で、似合うからと、ミルカの嫌がるアクセサリーや服を勧めなくなった。

 ただ、今度は美容に力を入れ始めた。肌が綺麗になる、髪がツヤツヤになるなどなど、色々寝る前に塗る物が増えた。胸はマッサージもするといいとか言われたけれど、それはきっぱり断った。

 実際にフランが触れて教えると言われれば、拒絶するのは当たり前で。……下着を売るときに、客に乞われてたまに教えていると言われた時には、反射的に近くのコップを投げつけていた。見事顔面に直撃し、フランはミルカの激怒と顔の怪我が原因で、店を臨時休業にした。

 商売とは言え、性別詐欺をしている上に、成人男性の癖に女性客の胸を揉むとか、最悪である。ミルカは激怒して、フランを徹底的に罵倒した挙句、殴る蹴るの暴挙に出た。さすがにこれにはフランも勝てず、素直に謝罪した。これ以上、フランがわいせつな罪を重ねない為、雑貨屋二階での下着販売を全面中止する事で話は決着を見たが、ミルカとしては未だに釈然としない気分がくすぶっている。

 幼い頃から、半分女として生きて来たから、そんなに悪い事だと思わなかったと、フランはしれっと言ったからだ。お陰で大暴れした訳だが……。本当に身に染みて分かったのか、未だに不明だ。

 嫌な事を思い出したと思っていると、フランがのんびりと言った。

「鳥だからな。物事を深く考えない。すぐ忘れるし」

 何の話だったっけ?ああ、エスライン王族の話だ。

「ねえ、その鳥とか獣とか何なの?」

「天使の元の姿だ。天使と言うのは、神の一部を削り取って作った存在だ」

「神様の一部?」

「神は自分を切り刻んで部下にしたんだ。何せ、一人きりの存在だからな。地上の出来事全てを処理できなくて、困ってそうした訳だ」

 何というか、シュールな話だ。

「ねえ、獣の天使は、フランが地上に居る限り、欠けたままなんじゃないの?」

「だから病んでる」

「……知ってるんだ」

「神がわざわざ天啓で教えてくれた」

 酷い話を神様がさらっとすると言う天啓。本当に嫌な感じだ。

「どうすればいいの?」

「簡単な事だ。俺が子供を残さずに天寿を全うすればいい」

 自殺は出来ない。天界に入れなくなるから。

「好きな人と一緒になれないって事だよ?」

「別にそれでいい」

 以前と答えは変わっていない。けれど、本当にそうなのだろうか?

 フランはミルカに平気で嘘をつく。本心を言いたくないと、全く違う事を言うのだ。だから何度も騙された。……でも分かる。これは嘘だ。

「第一、子供を残さない方法だって色々あるんだぞ?お前は知らないだろうが」

 ミルカが突っ込み辛い方向に話を持っていくのも、彼の口封じの方法だ。嘘だから、こんな風に言うのだ。これ以上この話題を続けないと言う意思を乗せて、わざとこういう事を言うのだ。

 相手は頭の中に何代もの聖者が詰まっている。だから当然言い合いでは勝てない。嘘も見破れない事が多い。

 でも分かる事だってある。感情は年相応だ。兄と変らないと感じる。普通と違う秘密が多いせいで負担が大きいからひねくれてしまっただけで、ごく普通の感性を持っている。変な部分で生真面目で、苦労しているせいでミルカの苦悩にも敏感で……。

 ミルカはやるせない気分になる。それだけ、ミルカがフランを見ていると言う事なのだから。

 気づくと惹き付けられていて、慌てて距離を置く事の繰り返しだ。

 家族とは違う他人と、こんなに秘密を共有し、こんなにも長く一緒に居たのは初めての事だった。それも普通の町にある小さな屋敷で。……嫌じゃない自分が不思議で仕方ない。

 ミルカは定住した事が無い。生まれた時から、色々な宿を転々としていた。

 友達も居たけれど、長くは続かなかった。ミルカが移動し続けているので、手紙のやり取りも上手く行かない。しかも、自分の事も詳しく教えられないのだ。だから諦めて、兄にべったりくっついていた。ずっと一緒だと思っていた。

 しかし、兄は定住に強く憧れていた。だから反抗期に父と喧嘩を繰り返し、さっさと独り立ちして旅立ってしまった。ミルカにとっては、友達よりもそっちの方が衝撃だった。

 エルハント商会から派遣される私兵達は、皆半魔を斬る姿を見て、ロッソ一家から距離を取る。……少なくとも、ミルカは彼らの人の枠からは外れていた。畏怖と尊敬の対象だから、秘密を共有と言うよりも、人とは違う生物扱いなのだ。

 友達も兄弟も遠くて、両親は子供達をとても愛しているけれど、一番はやっぱりお互い同士で……。

 誰の一番にもなれない事に気付いたミルカは、ずっと寂しかった。でも言えないから寂しさを持て余して生きていた。そんなミルカにとってフランは、同じ寂しさを共有できる大切な存在なのだ。

 彼も誰の一番にもならない。なれないミルカと違って、自ら選んでならないので事情は違うけれど、今までで一番近い感情で、孤独が癒されていくのを感じた。

 フランはずっと側に置いてやると言っていた。一生ご飯係でいいから一緒に居たいと思っていたけれど……多分、もう側には居られない。

 この辺りの半魔に変化があったのだ。

 どうやら、たまたま近くに来ていた兄が一人、斬ってくれたらしい。

 獣耳の子供達に手がかかり過ぎて町には居られない。会いに来てはくれなかったが、宿に伝言だけが残されていた。

『帽子嫌いで困る。後は任せた』

 愛らしい姪達の姿を想像してちょっと笑ってしまった。それでは仕方ない。

 まだ数人残っているらしいので、その駆除が終わったら、もうこの一帯の半魔掃除も終わりになるだろう。

 兄は、他にも伝言を残していた。

『お前が本拠地で全てを切り終えれば、この国の半魔は居なくなる。任務完了次第、フランシーヌの護衛は終了とする。次任務は、追って連絡するので、エルハント商会提携の宿にて待機せよ』

 兄が父と相談した上で、告げた言葉として、伝えられた。どうやら、ここでのんびりしている間にこの周辺の治安は驚く程良くなったらしい。……潮時なのだと思った。

「フラン」

「何だ?」

「明日から暫く、帰って来られない。ご飯は自分で作って」

 フランが何か言うかと思ったけれど、何も言わなかった。ただ表情が固まっている。

「フランシーヌさんを守ってあげる。ここでずっと暮らせるように。おやすみ」

 ミルカは、そう言うとそのまま部屋に戻った。もう終わりにするのだ。

 ミルカは、半魔を倒したら、もうここには戻らずに、別の町の宿に移動する事を決めていた。


 近くに居たならば、半魔の気配を追うのは、そう難しい事では無い。殺気をまき散らしているからだ。強い殺気は残るのだ。

 宿にアルカが残してくれた手がかりを頼りに、ミルカは隣の町の外れに来ていた。

 昼間に移動していたので、既に夕暮れが近づいている。半魔は昼間の日光を嫌うから、こういう時刻からの方が追い易い。

 気配は確かにある。そして、一つの大きな館に集まっていた。

 全部で三人。アリの群れが歩いているかの様に、殺気が視覚的に見える。

 情報を聞いて驚いた。ここはナシアス伯爵の館なのだそうだ。兄が斬ったのは、伯爵の奥方に仕える者だったそうだ。

 半魔の一人は間違い無く奥方だろう。

 半魔は短時間では生まれない。だから、きっとフランシーヌにうつつを抜かす前から、ナシアス伯爵の奥方は半魔だったのだ。

 いつ結婚したのかも知らないが、結婚前からそうだった可能性もある。

 若い女性が半魔になる原因の殆どは恋愛絡みだ。そこで思い至る。

 もし、半魔に成った奥方が身籠っていたのなら、赤ん坊も半魔の可能性がある。

 幼い子供の半魔なんて見た事も聞いた事も無い。もし前例が無いにしても、半魔なら斬らなくてはならない。

 赤ん坊と奥方も入れて、五人か。

 ミルカが一度に斬った半魔の最高記録は八人だから、それには及ばないが、多い。

 ミルカはため息を吐くと、館に忍び込んだ。

 館の見取り図は、頭に入っているし、黒い霧が行くべき道を示してくれている。

 厚いカーペットの敷かれた廊下は、足音の心配も無かった。

 どんどんと気配が濃くなってくる。

 館に人は居ない。皆、逃げてしまったのかも知れない。これだけ半魔が居る場所では、さすがに普通の人間も息苦しいだろう。

 しばらく行くと、誰かが倒れていた。ナシアスだ。

 近づいて首に触れる。……手遅れだった。

 何によって死んだのか分からないが、冷たく脈が無かった。

 ああ、もっと早く来れば良かった。

 ミルカは心が揺れだす前に、迷わず胸に手を当てて、小さく息を吐く。それと同時に、ミルカの顔から表情が失われる。

 アルカもミルカも、心から感情を一時だけだが、追い出して隔離する方法を生まれながらに知っている。半魔を相手にするときにだけ使える、隙を与えずに半魔を斬る為のものの様だ。両親には出来ない。

 無表情で進んだ先で、一つの扉の前に黒い霧が集まっていた。

 ミルカはその扉を開けた。

 部屋が濃密な霧に満たされていた。霧の中から飛び出した一人を斬って一歩進むと、横から一人。

 それを迷わず薙ぎ払うと、霧が少し薄くなった。先には大きな寝台があって、その上に絡み合う二つの黒い影。半間が二人、こちらを見た。

 人とは思えない動きで、飛びかかって来た蛇の様な腕の男を斬り倒し、払った剣で寝台の上の半裸の女性を突き刺した。

 女性の凄まじい悲鳴を聞きながら、寝台の奥の真っ黒なものに目をやる。……揺り籠だ。

 ミルカはそれも迷わず斬った。斬らなくてはならなかったから。

 その瞬間、館の黒い霧は晴れた。

 ミルカの斬った者達は呆けた様に、その場に座り込んでいる。皆生きていて、傷一つ負っていない。

 聖勇者は肉体を斬るにも関わらず、実際に斬るのは殺意だけなのだ。だから人を傷つける事は無い。……出来ないのだ。

 ミルカは念の為、それを確認して回る。……そして、揺り籠を見て絶句した。赤ん坊は跡形も無く消えていたのだ。

 酷い物を斬った自覚はあった。まさか実態の無い殺意の塊だったなんて……。

 閉じ込めていた感情がふっと戻って来た。それと同時に、凄まじい痛みが指先から広がり始める。

 ミルカはその場を後にして、近くの別の空き部屋に入る。そして扉を閉めて内側から鍵をかけると、その場に倒れ込んだ。

 手が真っ黒に染まって行く。

 ミルカは凄まじい痛みに、その場をのたうち回った。

 痛い……痛い……痛い……痛い。

 真っ暗な部屋で、ミルカはどんどん広がり、強くなる痛みに耐え続ける。

 聖勇者は、殺意や半魔を斬った後、浄化の作業も自分で行わなくてはならない。

 伴侶が居れば、伴侶が浄化してくれるのだが、それが出来ないから、自らの肉体に穢れを展開し、それを浄化しなくてはならない。

 浄化は強い痛みを伴う。

 体が勝手にやってくれる事だが、何時まで続くか分からない。

 家族が居れば、少しだが浄化に手を貸してくれる。自分も何度か兄の浄化を手伝った。

 揺り籠の赤ん坊は生まれてから消えたのか、既に実体が無かったのか分からない。どちらにしても、揺り籠には、何も居なかった。あったのは殺意の塊だった。今までに斬った半魔以上に穢れが大きい。浄化は大変そうだ。

 ああ、痛い、凄く痛い。叫んでしまおうか。

 歯を食いしばって耐えているけれど、本当は叫びたい。けれど、叫んでもあまり痛みが治まらないのは分かっている。経験済みだ。

 みっともないだけなので叫ぶのは止めている。体から痛みを逃す為に、転がったりする。叫ぶよりも効果的なのだ。のたうち回っているのは恥ずかしいが、本当に痛いのだから仕方ない。

 痛い事だけを考えない様に、必死に他の事を考える。そして、半魔を斬る直前の事を思い出す。

 ナシアスが死んでしまった。人を死なせてしまった。……半魔絡みで人を死なせてしまう事は過去、何度もあった。

 そこまで責任を感じていたら、自分が潰れてしまうから考えるなと、父はミルカ達に何度も言い聞かせた。必要以上に気に病む事は自滅にしかならないのは分かっている。

 しかし、今回ばかりはもっと早くここに来ていればと思ってしまう。あの赤ん坊も、もしかしたら救えたかも知れない。

 自分の動きが遅かったのは否定出来ない。アルカが、たまたま近くを通らなかったら、今も呑気に隣町に居ただろう。そして被害が広がったに違いない。

 兄が来てくれて本当に良かったと思う。

 そう言えば、旧世代の聖者は死人を生き返らせる事が出来たみたいだ。フランならナシアスを救えるのだろうか?……フランはここに来ないから、関係ないけれど。

 痛くても出ない涙が、じんわりと目元に浮かんだ。慌てて腕で目をこする。

 痛い、会いたい、痛い、会いたい……。

 頭の中を言葉がぐるぐると回る。

 自分でも、最低だと思う。何て身勝手なのだろう。人を死なせた事よりも、あの男にもう会えない事の方が悲しいなんて。

 聖勇者なんて言うけれど、とんでもない俗物だ。本当に最低だと思う。

 それなのに、痛みに負けて名前を呼びたくなってしまう。ミルカは、色々考えようとしたけれど、痛みは激しくて、頭の中では一つの名前を馬鹿みたいに繰り返していた。

「やだ」

 否定の言葉を口にして打ち消す。

 来ない人の名前を必死に呼ぶ自分は余りに惨めで滑稽だ。こんなに弱い自分は嫌いだった。

 どれくらい痛みに耐えていただろう。

 もうぐちゃぐちゃで疲れ切っていて、転がる体力も無くなってきた頃、外から音がした。

 外は、すっかり明るくなっていた。

 音は扉を叩く音の様だ。使用人が戻って来たのかも知れない。

 ここは開けられない。不法侵入の女が倒れている訳だし。そもそも、開ける為に立ち上がる気力すら無い。

 叩くと言うよりも、蹴っている様な音がする。しかもこの部屋の扉だ。

 エルハント商会の私兵が来てくれたのかも知れない。ミルカはほっとする。

 だとしたら、こんな扉さっさと壊して外に出してくれるだろう。後始末も任せられるし、安心だ。

 しかし待っていても、扉はなかなか壊れない。非武装なのだろうか?斧か木槌を持っていればすぐなのに……。それに、気配が複数ではなく、一人の様な気がする。

 痛みと疲労のせいで色々な感覚が遠い。そのせいでちゃんとした状況把握が出来ない。

 音に混じって声も聞こえる。くぐもっていて良く聞こえない。叫び声だ。何かを必死に叫んでいる。

 誰の声か頭がようやく理解する。そして言葉が聞こえた。

 どうして……ここに!

「ミルカ、ミルカぁ!」

 まだ浄化は終わっていない。日の光の中に、真っ黒に染まった腕が見える。

 穢れに触れさせてはいけない。気力を奮い立たせて、起き上がり、扉まで這って行く。

「フラン」

 震える小さな声で呼びかけると、扉を蹴る音が途絶えた。

「ミルカ、無事か?」

「来たら、ダメ」

「何故だ」

「近づいたら、ダメ」

 もう言葉を話すのが億劫で、その場でうずくまる。

「ミルカ!」

 呼ばないで。何処かに行って。もう会いたいなんて思わないから、ここから離れて。

 痛みに体を震わせながら、ミルカはただ念じる。

 しかし思いは届かず、再び扉を壊す音が響き始める。

 もう、疲れて動けない。声も出ない。でもフランが近くに居る。それだけで、涙が溢れて止まらなくなった。

 落ちていく涙が、絨毯に染み込んでいく。

 そして、とうとう扉の鍵が変な音を立てたのが聞こえた。……扉が開く。

 フランが駆け込もうとして足を止めた。だから言ったのに。来たらダメだって。

「お前……」

 フランには、腕どころか、ミルカ全部が真っ黒に見えるだろう。

 何も言えない。疲れてしまって声が出ない。

 ただ見られたくなくて、更に小さくうずくまる。

「半魔を斬る代償なのか?」

 ミルカは動かない。ただ涙だけが、点々と零れて落ちる。

「ミルカ」

 優しい声で呼ばれ、はっとする。フランの動く気配がする。微かに首を振るけれど、フランの動きは止まらない。

 そして、抱きしめられる感覚に目を見開く。

 どうして?どうして平気なの?殺気に染まった腕が彼に触れない様に必死で腕を隠す。

 フランの腕に力が入る。

「許してくれ。半魔を斬ったらどうなるか知らなかった」

 知らなくて良かったのに。

「痛いのか?」

 答えない。答えられない。気絶も出来ない程の激痛は、今も続いているから。

 フランはミルカから手を離すと、何かを長々と呟いて、ミルカの額に触れた。

 すると、痛みが唐突に消えた。

「え……」

 すると、今度はフランがその場に倒れ込んだ。

「フラン」

 掠れた小さな声で呼ぶと、フランはにやっと笑った。

「これは……凄いな。いてててて」

「何をしたの?」

「痛覚の交換」

 痛みを感じる感覚を入れ替えたらしい。

「ダメ、やめて」

「嫌だ」

「お願い。私は、慣れているから」

 フランは何も言わない。拒否するつもりなのだ。

「ここにしっぽのあるあんたが倒れていたら、困るでしょ?」

「運んでくれ」

 疲れてへとへとだが、そうするしかなさそうだ。確かに痛みさえなければ、鍛えているミルカの方が、力はあるかも知れない。

 彼は男の姿で、ロングコートを着ているけれど、しっぽは完全に隠れていない。

 幸い、もうこの館には使用人が居ないのか静まり返っている。斬った事で元に戻った奥方達も居ない。今の内に別の場所に移ろう。

 そもそも朝には、エルハント商会の私兵が来てくれる手筈になっていたのに、彼らはどうしたのだろう?

 フランに肩を貸しながら元来た道を戻りながら、はっとする。

 ナシアスの遺体が消えていたのだ。

「ここに、伯爵の遺体が無かった?」

 フランは苦痛に顔を歪めながら、首を横に振る。

 どういう事?

 得体の知れない、嫌な感じが抜けない。殺意は感じない。けれど、嫌な臭いがずっとしている。……血の匂いだ。

「ここを、出よう」

 フランも同じなのだろう。痛そうにしながら、そう促してくる。しかし、この匂いは昨日の夜にはしなかったものだ。

 来ていない私兵達の事を考えると、ミルカは放置できなかった。

 窓から外を見ると、無人の馬車が停まっているのが見えた。……多分エルハント商会のものだ。

 ミルカは、とりあえずフランをそこに移動させる事にした。

 馬車の荷台にフランを座らせると、ミルカは館に戻る為に立ち上がった。

「行くな」

 フランが言う。体が一瞬止まったけれど、すぐに動いた。法術装身具に抵抗力が付いてきているのかも知れない。

「この馬車に乗って来た筈の人達が居ないの。放ってはおけないわ」

 ミルカはフランに命令される前に、荷台から飛び降りて、館に戻った。

 本当なら、フランと一緒に逃げて、エルハント商会に応援を要請するべきなのだろう。

 浄化も終わらずへとへとで、何処までも対応できるのかも分からない。

 けれど、本能が警告しているのだ。ここにはまだ敵が居て、それは人間では相手に出来ないと。

 殺気は感じない。けれど血の匂いが酷い場所に辿り着く。扉が開いていて、中にそっと入ると、人が何人も倒れていた。……エルハント商会の私兵だ。見知った顔もある。

「やあ、聖勇者」

 何の気配もしないのに、声がして驚いて振り向くと、少し離れた場所にナシアスが立っていた。

「伯爵……確かに死んでいたのに」

 伯爵は普通に動いて喋っていた。黒い霧も出ていないし、普通の人間の様に見えた。

「これは宣戦布告だ」

「宣戦布告?」

「神が、聖勇者と言う新しい存在を地上に送り込むなら、魔界側も新しい半魔以上の存在を送り込むべきだと思ってね」

 その言葉に目の前のナシアスが何なのか分からなくなる。

「お前は一体……」

「種明かしをした所で、神がすぐに対応できるとは思わない。お前達を生み出すのにあれだけかかったのだからな。だから教えてやろう。……人の遺体に悪魔の精神を吹き込むんだ。半魔ではない。魔人だよ」

「魔人」

 では、目の前に居るのは遺体に入った悪魔と言う事になる。

「遺体には魂も感情も無い。人の殺意を元に探しても見つからない。現に君は私を放置した」

 言われた通りだ。ナシアスの遺体を放置した。まさか、そんな事になっていたとは。

 知らずに迎えに来た私兵達は、ナシアスに、いや、魔人に殺されてしまったのだ。

「最初の実験は成功した。次は聖勇者とどれだけ渡り合えるか、勝負をしようか」

 黒く染まった手で、剣を抜く。

「聖勇者には肉体を斬れないと言う性質があったね。私の精神体を斬れるかな?」

 こいつ、喋り過ぎ。

 ミルカはすぐにナシアスの体を斬った。すると、それをひらりと避けられた。

 ミルカの動きが鈍いのだ。

 ナシアスに、持っているステッキで背中を強打された。

 しかし痛みが無いので、そのまま振り向いて剣を振ると、ナシアスの腹を横断する恰好で剣が抜けていく。

 やはり、ナシアスの肉体は斬れなかった。遺体でも人間の肉体は基本、傷つけられないのだ。

 しかし、ナシアスの肉体はぴたりと動きを止めた。悪魔の精神体を斬ったらしい。酷く重い感触はあったが、斬ったと言うよりも、叩き出した感じだった。

 手ごたえで分かる。あんな物、斬れない。斬ったら、真っ黒になって浄化できずにミルカは朽ちてしまうだろう。

「おおおお。これが聖勇者……覚えておくぞ。覚えておくぞ」

 そして倒れたナシアスの体から、真っ黒な霧が吹きあがる。

 そして天井がぐにゃりと歪んだ。赤黒い空間が渦を巻いている。黒い霧は笑いの様な悲鳴の様な叫びをあげながら、その中に吸い込まれていった。

 魔界に追い返す。あれが精いっぱいだった。そして正しかったと思う。

 剣をしまう。危機は去った。けれど、恐怖は抜けない。

 とんでも無い事になった。

 周囲に倒れていた私兵は皆絶命していた。それだけではない。昨日救った筈の半魔達も死んでいた。

 他の部屋も探すと、使用人らしき者の遺体が沢山出て来た。

 半魔には、人間の理性や概念が備わっていて、自らが目立たない為に、必要な者だけを殺す性質がある。

 しかし、魔人。あれは違う。目に付いた者は片っ端に皆殺しだ。この館で生きているのはミルカだけだ。とにかく、エルハント商会に繋ぎを付けて、遺体を回収し、両親や兄に話をしなくては。これは手紙ではだめだ。

 馬車に戻ると、そこには真っ青な顔をした男が横たわっていた。

「フラン!」

 そう言えば、フランは痛覚を交換すると言っていた。さっきナシアスに加えられた打撃の痛みも肩代わりしてくれていたのだ。

「死ぬ……痛くて、死ぬ」

「ごめん。本当にごめん。でもお陰で助かった。ありがとう」

 ミルカは汗ばんだフランの額の髪をそっと脇に流す。

「もう大丈夫だから、痛覚を元に戻して」

「嫌だ」

「私は慣れているから」

「ダメだ」

 フランは苦痛に顔を歪めながら、強い口調で言う。

「馬車で家まで運んでくれ。お前には、やる事があるだろう」

 確かにそうだ。

「ごめんね……」

「良いから!」

 ミルカは馬車を動かして、そのままフランの屋敷に戻り、フランを置いて来ると、浄化の終わっていない黒い手を隠す為に手袋をして、宿に直行した。ナシアスの館の後始末について話をしなくてはならない。

 この町にミルカの為に集まった私兵の殆どが亡くなった事になる。手が足りないので、遺体の回収には時間がかかると女将に言われた。

 それにナシアスは伯爵だ。この国の貴族である以上、館を勝手に荒らす事も出来ない。

 申し訳無いし、厄介な事になったと思っていると、女将は気丈に言った。

「大丈夫。こういう時の私達ですよ。上手くやりますから、ミルカさんは休んでください。酷い顔色ですよ」

 そう言えば、もう丸一日眠っていない。確かにそうだろう。

「お父さん達は何処に居るの?」

「クルネスの方だとアルカさんに言われました」

 世界地図を頭の中で広げる。大陸のほぼ反対側だ。今急いで繋ぎを付けても、会えるのは数か月後になる。

「お兄ちゃんは?」

「アルカさんは、ここからそう遠くない場所にいらっしゃいますよ」

「じゃあ、お兄ちゃんに戻って来る様に連絡をして!大急ぎで。フランシーヌさんの屋敷まで」

「宿じゃなくて、それでいいんですか?」

 女将が心配そうに言う。

「大丈夫。フランシーヌさんにもちょっと事情があってね……今は言えないんだけど、双子ちゃんも宿よりもあそこの方が目立たないから。お兄ちゃんの家族、全員あそこで面倒見る」

「ミルカさんがそうおっしゃるなら」

 皆、聖勇者を救世主の様に思っているので、大抵の事は反対されない。生まれつき聖勇者であるミルカやアルカの、と言うよりも、両親の二十年以上に渡る活動の成果だ。

 両親は本当に多くの半魔を救ったのだ。エルハント商会の人間の多くは元半魔で、ロッソ家に恩義を感じているのだ。

 こうして事件が起こって死者を出しても、誰も聖勇者を責めない。彼らは皆死ぬ覚悟をしているし、悪魔に操られて死ぬよりも良いと思っているのだ。こういう献身は受け取るのが辛い。けれど、ひたすら耐えるしかない。

 声をかけるなら、ごめんなさいではなくて、ありがとうなのだ。……今日は上手く言えそうにないので、言わないが。

「また連絡する」

 ミルカはそう言うと、フランの屋敷に急いだ。

 フランの部屋に行くと、フランは寝台の上で苦しんでいた。

 コートも脱いでいるので、太いしっぽが逆立っているのが良く分かる。辛いのだろう。

「フラン、もうやる事終わったから。ありがとう、痛覚を戻して」

 寝台に近づいて声をかけると、フランが閉じていた目を開けた。

「お前、いつもこんな痛みに耐えているのか?」

 そうだがあえて言わない。言ったら、フランは痛覚を返してくれないだろう。

「今回はたまたまだよ」

 上手く嘘を吐けただろうか?とにかく、こんなフランは見ていたくない。

「女の方が、痛いのには強いんだって」

 フランは辛そうな表情のまま、ミルカに手を伸ばした。

 痛覚を返してくれるのかと思い、手を伸ばすと、寝台に引っ張られた。

「わっ!」

 ミルカは寝台に突っ伏す。その体をフランが抱き込んだ。

「フラン!」

 汗と埃の匂いに混じって、フランの匂いがする。いつも近づくとする匂いで、この匂いがしたら、離れる様にしていた。チョロいミルカにとって、危険な匂いだから。大好きで、ちょっと怖い匂い。

「痛いから叫ぶな」

「だから、痛覚を返して」

「嫌だ」

「半魔を斬るのは聖勇者の務めだから、いいの」

「良くない」

 フランの腕に力が籠る。

「ミルカ、添い寝して」

 突然の言葉に、ミルカの頭が真っ白になる。

「こんな体じゃ何も出来ない。安心しろ」

「そうじゃなくて!」

 まだこの痛みは続く。自分が眠っても、フランは眠れない筈だ。

「何処にも、行かないでくれ」

 フランが絞り出す様に言う。

「何処かに行ったら、痛覚は絶対に返さない。お前の痛みは永遠に俺が受ける事になる」

「フラン……」

 フランは、ミルカを抱きしめて黙って痛みに耐えている。何度も受けた痛みだから、震える腕の感触で痛みが分かってしまう。

 それなのに、フランはミルカを気遣うのだ。あんな痛みの中で、人を気遣うなんて、無茶苦茶だと思う。

 気づいたら、涙が零れ落ちていた。

「眠れ、ミルカ・ロッソ」

 疲れ切った体に言葉がしみ込んで、意識がことりと途切れた。


 目が覚めると、ミルカの目の前にとても綺麗な顔があった。フランの顔だ。

 青ざめた顔で、ぴくりとも動かない。

 それで、眠る直前までの出来事を思い出す。

「フラン!」

 ミルカは飛び起きて肩を揺らす。

 触れた肩からぬくもりが伝わって来てほっとする。フランは起きない。

 手袋をしたまま眠っていた。手袋を外すと、浄化は終わっていた。

 痛みから解放されて眠っているだけなのだと分かり、ほっとする。当分起きないだろう。

 もう体は楽になって、気分もすっきりしていた。

 ただ、汚いので風呂に入る事にした。風呂に湯を張って、ゆっくりと手足を伸ばす。

 色々な事があった。頭の中を整理しなくてはならないと思い、思考を巡らせる。

 アルカがここに来るまでに、上手く話せる様にまとめておく必要がある。

 フランに無断でこちらに招いたが、それについて、フランにも説明しなくてはならない。

 きっと、家主の許可も無くこちらに呼んだ事を彼は怒るに違いない。でも、ティアラと会わせるには一番良い方法だ。

 間違いなく、ティアラも旧聖者の生き残りだ。ティアラは話が出来ないし、アルカに二人の出会いの経緯などを話してもらう必要もある。だから、ここに呼ぶのが一番なのだ。

「はぁ……」

 ため息が出る。

 聖者や聖勇者絡みの話は、フランにとっては嫌な話になるだろう。

 それなのに聞かせるのは、理由がある。

 ミルカ自身、もうフランに対する気持ちを自覚している。このままでは居られない。この気持ちに落としどころを付けなくてはならない。

 だったら全てを知った上で、フランがどうするのか見届けたいと思ったのだ。

 ティアラは兄を選んだ。それを見れば、フランも自分を選んでくれるかも知れない。

 甘い事を考えている自覚はある。

 けれど、フランはミルカを見つけ出し、穢れを恐れずに抱きしめて、痛みを肩代わりしてくれたのだ。

 その挙句、何処へも行くなと言われ、抱きしめられて眠った。期待しない方がおかしい。

 ドキドキする。もしかしたら、アルカ達が来る前に何か起こってしまうかも知れない。

 何かって?本で読んだ、あーんな事やこーんな事ですか!

「どうしよう」

 赤くなった顔を半分湯に沈める。

 と、いきなり足音がして浴室の扉が開いた。

 フランが立っていた。

「……」

 フランは、服を着ているので、風呂に入りに来た訳では無さそうだ。

 見られた!ミルカは思わず身を縮める。

 するとフランはその様子を見て、鼻で笑った。

「筋肉付き過ぎ」

 次の瞬間、ミルカは風呂の手桶を投げつけていた。それを、慌てて扉を閉める事で回避して、フランは笑いながら去って行った。ミルカのコントローツは正確無比で威力も高い。避けるのはまず無理なのだ。フランは一度コップを投げつけられて、それを学習したのだ。

 腹立つ!さっきまでの乙女モードはすっかり消えてしまった。ムカムカしながら着替えると、入れ替わりでフランが風呂に入って行った。

 さっきのフランはどうやら風呂に湯を入れに来たらしい。人の気にしている事をズケズケと。父の訓練は厳しかった。お陰で強くなったけれど、筋肉がついてしまったのだ。

 フランはいつもと変わらない。まぁ、知らない女の胸を揉むのも平気なんだし……ちょっと浮かれ過ぎていた自分をミルカは反省する。

 簡単に食事を作り、風呂からあがったフランと食事をした。どのくらい時間が経ったのか分からないが、外は暗い。

「昨日の夕方から寝ていたよね?」

「一昨日だ」

「え!そんなに……」

「もうすぐ夜明けだ」

 フランは浄化の間起きていたのだ。正確に時間を知っていて当たり前だ。

 その間、眠り呆けていたと思うと恥ずかしい。

「ごめん。痛かったよね」

「構わない。俺が自分でやった事だ」

「それでもありがとう。痛覚、返してね」

 フランは返事をしない。

「フラン?」

「もう、半魔を斬るな」

 通常モードじゃない!フランは、眠る前と同じだった。

 ミルカは胸が一杯になった。けれど、その頼みは聞けない。

「無理。私は聖勇者だもの」

「そんな役目、放棄してしまえ」

 フランは決して譲ろうとしない様子だったので、ミルカは別の話をして一旦気持ちを切り替える事にした。

「フラン、話を聞いて」

 ミルカは、魔人の話、そしてその件でアルカの家族をこの屋敷に呼んだ事を話した。

 勝手な事をするなと怒られると思っていたけれど、フランはすんなりと受け入れた。

「アルカが来るから、男の姿で会えばいいんだな?分かった」

 あまりに素直なので驚くが、そのまま続ける。

「あのね、お兄ちゃんの奥さんに、どうしても会わせたかったの」

「は?何で?」

「会えば、分かるよ」

「分かった」

 やっぱり、やけに聞き分けがいい。ちょっと怖い。

「痛覚は?」

「それはダメだ」

 心の中で舌打ちしつつ、話を続ける。

「後ね、双子の女の子を連れてくるの。二歳」

「ガキか」

 ちょっと嫌そうに顔をしかめる。

「子供、嫌い?」

「嫌いだな。言う事を聞かないし、この姿だと、絶対に尾にベタベタ触って来る」

 確かにあれは触りたくなる。実はミルカもちょっと触りたい。

 そう言えば、ティアラも双子も、耳は獣だったけれど、尾は無かった。

「ねえ、聖者のしっぽって、どういう法則で付いて来るの?」

「男は尾、女は耳が獣の象徴として付いて来る」

 やっぱり……。じゃあティアラは間違いなく聖者だ。

「フランのお母さんは、耳が獣だったの?」

「そうだ。いつも帽子で隠していた」

「お父さんは?」

 今まで一度も聞いた事は無い。でもフランが生まれたと言う事は勇者として居た筈だ。

「居ない」

 フランは暗い表情で告げた。

「俺の母は、一人で俺を産んだ」

 それはどう言う事なのだろう?

「聖者が生きていくには勇者が必要だと思い込んでいるだろう?……いらないんだよ」

「でも、聖者は勇者に魂を委ねるんだよね?」

 そうやって守ってもらってきた筈だ。

「下品な話になるが……相手に魂を委ねなくても、やる事やれば、子供は生まれるって事だよ」

「どうして、守ってもらわないの?」

「勇者が壊れるからだ」

「壊れる?」

 初耳だ。そんな話は初めて聞いた。きっとどの書物にも載っていない。

「簡単だ。半魔は子供を人質に取るんだよ」

 伴侶を選べば、子供が出来る。それは自然な事だ。そこを半魔は狙うのだ。

「伴侶を守る事に重点を置いている勇者の守りは、子供に対して手薄になる。しかも旧聖者の場合、未婚の聖者は伴侶となる勇者を得る為に成熟してくると、親元を離れて、より多くの人に接しようとする性質がある。聖者を拡散させる為の本能だ。現に俺も引きこもれない。人と接して生きて行く事を求めてしまうんだ。俺の家系は代々商売をしている。理由はそう言う事だ」

 そんな性質があったとは。それでは勇者の元を離れてあっさり捕まってしまう。

「伴侶を取って子供を捨てれば、人間である勇者の魂は病んで壊れる。……もう、勇者としては機能しない。死を待つだけだ」

 普通の人間としての感性を持っていて、子供を見殺しにすればそうなるだろう。

「子供を取れば、伴侶は死んで勇者も死ぬ。もちろん子供も」

 未来の無い二択。旧聖者が滅びた真実は、話に聞いていたよりも酷い。

「しかし、使命を果たせなくなっても聖者は、自殺が出来ない。半魔に殺される訳にもいかない。逃げて天寿を全うして天に帰るしかない」

 フランが自嘲したように笑う。

「聖者の心は弱い。……一人で生涯を終える事が出来ない。母も俺を産んでしまった。勇者を得ずにな」

「そんな事言わないで」

「魂を委ねる事も出来ず、一人で生きることも出来ず……次の子は勇者を選ぶかも知れないから、綺麗な姿をって、馬鹿だろう?そして、どんどん綺麗になって行く顔立ちが災いして苦労して、子供を産んだ後も子供を守るのに苦労して、自殺しない様に必死に生きて、最後は疲れて病んで死んでいく」

 破たんした聖者のシステムに振り回されてここまで生き延びた聖者の末裔であるフランは、神だけでなく、自分も呪っている。

「私は、フランに会えて良かったと思ってる。だから、そんな風に自分を貶めないで」

「俺はお前に会ったのを後悔している」

 フランが眉間に皺を寄せて呟く。

「どうして?」

 フランは、立ち上がって近くまで来ると、椅子に座っているミルカを抱きしめた。ミルカも抵抗せずに受け入れる。

「聖勇者なんて、嫌いだった。お前なんか、下僕として使ってやるつもりだった。俺達の苦労も知らずに、楽に半魔を斬っていると思っていたんだ。……それなのに、どうしてくれるんだ」

「どうも出来ないよ。神様がそういう風にしたんだから。あんたもそうでしょ?」

「あんな痛みは……反則だ」

「痛かった?だったら痛覚を返して。私はそういうのに耐性があるんだと思う。すぐ忘れちゃうもん」

 痛いのは嫌だ。だから、浄化の時間は辛い。けれど、斬らなければ人が死ぬ。死ねば心が痛くなる。

 結局どちらかを選ばなくてはならないのだ。そうなれば、迷わず浄化の痛みを取る。

「それにね、痛みは自分で浄化出来ない程の殺意を斬らない為の制御装置なんだと思う。……魔人を斬ったときに気付いた。あれを本気で斬っていたら、痛いでは済まなかった」

 ミルカは、無意識に、刃を斜めにして魔人を斬るのをためらった。あれは、肉体から叩き出しただけだ。

 痛みの記憶が、ためらわせた結果だ。痛みを知らなければ、迷わず斬っていただろう。

「フラン、痛覚を返して。あれは、聖勇者として必要な感覚だから」

 フランはうんと言わない。ただ腕に力を入れる。

「どうしたら、お前は苦しまずに済む?」

 伴侶が居ればいい。アルカの話だと、伴侶が一緒に浄化を請け負ってくれるから、浄化は短い上に、痛くないらしい。けれど、それをこの状況で言うのは……ミルカには無理だった。自分からプロポーズする様なものだ。しかも、まるで痛みから救われる為に。そんな誤解は絶対にされたくなかった。

「お兄ちゃんが来れば、分かるよ」

「強情だな。じゃあ、それまで痛覚はこのままだ」

「フランも、強情じゃない」

 離れたくなくて、お互い抱きしめ合っているのに、言葉は素直にならない。

 最後の決定的な言葉をお互いに言えない。

 薄い膜でもあるみたいに、その言葉だけは言えないのだ。どうして言えないのか、ミルカは、ぼんやりと分かり始めている。フランは最初から分かっていたのだろう。

 もう、とっくに気持ちは透けて見えているのに。まるで、本当の恋人になったみたいに抱きしめあっているのに。

 変な関係……。ミルカの冷静な部分が、頭の中で率直な感想を述べる。

 ミルカは自分の頭の中の声に従って、フランの腕から抜け出した。フランも引き留めない。

 適正な距離を置くとほっとする。……今はダメなのだ。踏み込みたくて仕方ないけれど、踏み込めない。

 できれば、あーんな事やこーんな事を知ってみたい。と言うか、するならフランがいい。

 もちろん、フランがそう思ってくれたらだけれど。

「まだ疲れてるよね。寝て。私も寝るから」

「……そうだな」

 早く兄が来てくれればいいのに。

 ミルカはそれだけが、この関係を変えると信じていた。


 アルカ達は、翌日の夕方にやって来た。

 近くに居たと言うのは本当らしく、幼い子供を両腕に抱えたアルカとその後ろにティアラと言う姿が、扉を開けると目に入った。

「ミルカ、綺麗になったじゃないか!」

 開口一番、アルカはそう言って妹を喜ばせた。

 素早く一家を中に招き入れる。

「で、家主のフランシーヌは?」

「あのね、見て驚かないでね」

 フランは、仕入れの為に暫く店を休むと言う張り紙を出しに一度女装して外に出ただけで、家の中で男の恰好をしていた。

 フランは、出迎えをミルカに任せ、少し不貞腐れた様子で、後から出て来た。

「驚くも何も……久しぶりだな。フランシーヌ」

「フランだ」

「フランか。やっぱ気持ち悪いよな。その形でフランシーヌは」

「お兄ちゃん、知ってたの?」

「男だって言うのは分かってた。まさか、聖者とはね。お前がここに呼んだ理由は分かったよ」

 しっぽも見たらしい。でも、特に驚く様子も無い。この余裕は何だろう。……結婚するとこうも変わるのだろうか?

 アルカの家族を居間に移動させて、皆で座る。子供達は眠いのか、両親の膝の上でうとうとしている。

 自然とフランと並んで座り、アルカとティアラの対面になった。

 ティアラも双子も、レースで縁取られた可愛い布を被っている。魂が見える筈のフランが何も感じていない。ティアラは、もう聖者じゃないのだろうか?そして双子も。

 単に聖性の高い人間の魂としか見えていないのだろうか。

 ミルカの疑問を察知した様子で、アルカは妹の顔を見て苦笑した。

「うちの奥さん紹介していいか?」

 ミルカは待ってましたとばかりに、こくこく頷く。

「フラン、俺の奥さんのティアラだ」

「聞いた」

 ティアラはフランのしっぽに気付いた時から、ずっとフランを凝視している。話せないだけに、その視線の強さにフランも戸惑っているのが分かる。

「ミルカにも話した事は無かったんだが、ティアラは、ずっと半魔に飼われていたんだ。天界で獣の天使を病んだ状態で置いておく為に、あえて地上で血を残す事を強要されていた。それをたまたま俺が助けた」

 フランがティアラを驚いた顔で見る。

 ティアラは、頭の布を取った。

 獣の耳が現れると、フランの息を呑む音が聞こえた。

「本当は、同族の対話をして欲しい所だが……声帯をえぐり取られている。法術を使えない様にする為だ。だから喋れない」

 ミルカも顔色が悪くなる。

 耳が聞こえるのに話せないティアラ。どれだけ酷い扱いをされていたのか……幼かったミルカが教えてもらえなかった理由がようやく分かる。

 安易にフランに話さなくて良かったと心底思う。アルカがティアラと共に居て言うべき事だ。

 フランは絶句して、ただティアラを見ている。ティアラもその視線を静かに受け止める。

「知識も先祖から引き継いで来たものだけだったから、筆談も古代語で、俺は読めなかった」

「そんなに昔から、半魔に囚われていたのか?」

 フランの質問にアルカは頷く。

「エスライン王国が建国されるだいぶ前からだそうだ。神が何らかの方法で魔界の魂を奪還する事は予測されていたんだろう。その時の保険として彼女の先祖は捕らえられた様だ」

 ちょっと困った様子でにっこりするティアラ。平気なのよ、と言う言葉が聞こえてきそうだ。

「神は、ティアラに天啓を下していたらしい。もうすぐ助けが来るから、その人間を信じろと。それが俺で、今こうして一緒に居る」

「天啓、天啓、天啓……言うだけかよ!もう、うんざりだ」

 フランは我慢できなかったらしく、吐き捨てる様に言った。

「俺も同感だ」

 アルカも同意する。

「でも、それすらも無くなる」

「お兄ちゃん?」

 アルカは膝の上の娘を軽く抱きなおしてから言った。

「神は天使を地上から引き揚げて、管理を全て任せ、眠る期間に入るそうだ。……エスライン神殿の神官からの情報だ」

「眠る?」

「そうだ。神官を誕生させる天啓も質問に対する神託も、ここ数年減り続けている。それで、調べた彼らはそういう結論に至ったそうだ」

「地上が出来てからそんな事は一度も無かった筈だ」

 フランの言葉に、ティアラも頷く。

「きっと初めての神の睡眠なのだろうな。だからとても長い時間、神は地上を放置する事になるだろう。天使はそもそも、その時の為に生まれた存在らしい」

 鳥と獣の天使。フランの話していた事だ。

 フランが忌々しそうに呟く。

「俺に天啓があった時に、そんな話は全くしていなかったのに……」

「俺達も、神官達の話を聞くまで知らなかったよ」

 不安になってミルカは口を開いた。

「ねえ、地上はどうなるの?」

「何も変わらないさ。俺達を意図的に生み出した時点で、神は打てる手を打ったんだ。後は天使の天界への復帰だけを望んでいる。自分の代わりとしてね」

「そんな……私達は万能じゃないのよ!」

 ミルカは、魔人の話をした。アルカもティアラも、黙ってミルカの話を聞いていた。

「死体に悪魔の精神を取りつかせる魔人……俺達でも斬れないと言う事か」

「そんな者が現れたのに、神が地上を放置するなんて酷いわ」

 アルカは少し考える様子になった。そして、ティアラと目配せする。

「実は、俺達と子供達にはちょっと別の能力が付いている」

 双子達はまだ二歳だ。能力なんて言われても、分かると思えない。

「子供達に代々耳が付くのを、神は印だと言った。もう記憶は引き継がないが、念話で遠く離れても対話が出来て、聖勇者の数十倍の感覚で、半魔を察知する。そういう能力の証だと。多分、魔人も感知できる。俺も子供達程では無いけれど、感覚的にやばいのが居るのが分かっていたから、この近辺を離れられなかった。ただ、子供達を連れて宿に連泊できなくてな……耳を隠せないから」

「本当にそんな力あるの?」

 アルカは頷いた。

「神は天啓でそんな事を言っていたが、よく分かっていなかった。……後で分かったよ。実はティアラと結婚した途端、念話と言う頭の中の対話でティアラと会話が出来る様になった。子供達の言葉も聞こえる」

 兄も聖勇者から大きく変化しているらしい。不思議な気分で兄を見る。

「魔人も察知していたって事?」

「まぁ、お前の話を聞けばそうだと思える。感覚的な物で、後付けの能力だから、念話以外は上手く使いこなせていないんだ。子供達の方が上手いくらいだ」

 情けなさそうにアルカは苦笑する。

「とにかく、俺達聖勇者は……始まりであって、完成形じゃない。これから生まれる新しい人種の種みたいなものだ」

「種……」

 確かに、ミルカは聖勇者として余りに不完全過ぎる。この状態で子孫が続いても、半魔を狩る都度苦しむ事が続く。しかし、それが変わるとしたら?それは、凄い事だと思う。

 ふいにアルカがティアラの方を向いた。読んでいないのにいきなりだった。……念話と言うやつだろうか。

 するとティアラはすぐに子供を渡し、袋の中から取り出した紙とペンで何かを書き始めた。滑らかに書かれているのは、知らない文字だった。

「私、読めないんだけど」

「フランが読めるだろう」

 フランは、書かれて行く文字を見て言った。

「古代語だ」

「ティアラには先祖代々、天啓が貯め込まれている。誰に対する天啓なのか、ティアラしか分からない」

「……それって」

「眠る準備で、天啓を貯めて置ける者が必要だったんだよ。神は長時間、地上と言葉を交わせないから、ティアラ達にコツコツ貯めていたらしい」

 フランが眉間に皺を寄せて低く呟く。

「声帯をえぐられて、喋れないから伝言を託すのに好都合だったと言う事か?」

「そうだ。……俺だって怒っている」

 アルカが酷く厳しい表情で言った。父の怒っている時の顔を思い出す。

 兄は、顔立ちも背格好も父にとても似ている。色合いは母と同じだから違いはあったけれど、一時期は親子では無く、兄弟の様に見られる程だった。

 ティアラは無心で何かを書き続けている。対面で文字が逆さになってしまうので、フランも読み辛いのか、完成するまで、見るのを諦めたらしい。

 フランは視線をアルカに移し、自分の生い立ちや、ミルカにもした、過去の聖者の話などをした。

「フランが何者なのか、父さんも俺もよく分からなかった。まさか、あの当時は聖者に生き残りが居るなんて思わなかったからな」

 アルカの言葉に、フランはため息を吐いて俯いた。

「俺の先祖のしてきた事って何だったんだろうな」

 ティアラが顔を上げる。

「魔界に堕ちるまいと必死になっていたけれど、結局神の手の内だったと思うと……」

 フランの先祖は、子孫を残す事に罪悪感を覚えていた。せめて一言でいいから、神の言葉があったなら救われたのに、欲しい言葉は与えられなかった。何代もの間苦悩していたのだろう。しかもその記憶がフランには残っている。

「ティアラの先祖とフランの先祖の記憶って、共有されないのか?ほら、旧聖者って、危機管理の為にある程度の情報を共有していたんだろう?」

 アルカが聞くと、二人は同時に首を横に振った。

「出会った聖者同士が、情報を受け渡す法術を使って記憶を受け渡すのが基本だ。これにはお互いに法術を唱える必要がある。法術式を描いて使う術もあるが……記憶の受け渡しは、声が出ないなら無理だ」

 ティアラは本当に閉じた存在だったのだ。そして、出会うべき別の聖者が居ないフランも閉じられていたに等しい。長い時間、情報は親から子に受け継がれるのみだったのだ。

 閉じこめられてはいたが、神に言葉を与えられたティアラ達と、何の助言も無く地上を逃げていたフラン達。どっちも不幸だったのは言うまでも無い。

 ティアラは立ち上がると、フランの頭を抱きしめた。フランは抵抗しなかった。

 地上に残った旧聖者の末裔同士にしか分からない繋がりが見えた気がした。折角出会えたのに、痛みを分け合う事になるなんて……。

 やるせなくなって、目を逸らした。

 そんな妹を見て、アルカは言った。

「ミルカ、お前も急ぐ必要がある」

「……何を急ぐの?」

「伴侶だ」

 ミルカは目を丸くした。

「俺は十七で結婚した。お前はそれを超えている。……父さんも母さんも心配している。このままでは、先が無い」

 両親の側に居ると、どうしても男性との距離が開いてしまう。それを危惧しての独り立ちだったのはミルカ自身、分かっている。

「大丈夫。お兄ちゃん程斬ってない」

「何の話だ」

 フランがティアラの腕をどけて顔をあげている。ミルカが止める前にアルカが話し出していた。

「聖勇者の浄化能力は変化するんだ。大体、十五歳くらいがピークで後は浄化能力が衰えていく。どうしても浄化に助けが必要になる」

「助けって、どうするんだ?」

 今、言っちゃうの?ミルカは耳を塞ぎたくなった。確かに明かす予定ではあったけれど、こんなつもりでは無かったのだ。

「伴侶を得るだけだ」

 ミルカは椅子に座ったまま頭を抱える。アルカはミルカを無視して話を続けた。

「相手の魂に浄化を任せられるから、痛みも無いし、早く終わる。俺は調子に乗って一人で半魔を斬り続けていたら、指が一本朽ちて落ちたんだよ」

 アルカは子供達を片手で抱き寄せてから、左手を出して見せた。……小指が無い。

 何でもない事の様に言うが、当時両親は大パニック状態だったのだ。大事な息子が旅から戻って来たら、指を無くしていたのだから当たり前だ。ミルカもびっくりしてショック状態だった。

 原因を探る為に、父が前の大神官だったロルフと言う人を無理矢理、大神殿から連れて来て色々調べていたのを思い出す。

 ミルカはいつも数を計算してから半魔を斬っている。父とロルフが、最高記録の数以上斬らない様にと、指導してきたからだ。

 だから、アルカの様に、体の一部を失う様な事にはなっていない。

「前は酷い恰好してたからさ、どうなるかと思ってたけど、今なら男の一人位、簡単に引っかかるんじゃないか?とにかく、早くしろ。浄化が追い付かなくなったら、多分体の何処かに異変が起こる」

 好きな男は横に居ます。この恰好にしてくれた人です。お願いだから、それ以上言わないで。

 ミルカは恐る恐る頭をあげる。ちらりと見ると、険しい表情のフランと視線が合った。

 慌てて視線を逸らして、アルカに言う。

「そ、そろそろご飯作るよ。双子ちゃん達は好き嫌いある?」

 ミルカは極力フランと接しないように夕食を作り、双子の世話を焼いて夜まで過ごした。

 アルカ一家が割り当てられた部屋で眠ってしまってから、ミルカは自分の部屋でぼんやりしていた。

 兄が来れば、フランとの関係は変わると思った。けれど、それは想像していたものとは大きく違っていた。

 聖者であるティアラとフランが出会えて、アルカが聖者と幸せな家庭を作っているのを見てもらえれば良かったのだ。

 私達も一緒になって大丈夫だと、無言のアピールが出来ると思っていただけだったのだ。

 想像を絶するティアラの過去、言いたくなかった聖勇者の弱点……。そんな情報は、フランの耳に入れて欲しくなかった。

 自分の楽観的な考えを、今更後悔しても遅いが、状況は悪化の一途を辿っている。

 これでは、単純な恋愛に持ち込めない。変な関係は、より一層こじれてしまった。

 フランは、天啓によるミルカとの出会いそのものが気に食わない。そこへ、あれだけの仕打ちをされた同族を見れば、余計に赦せないだろう。

 そして、言いたくなかった聖勇者の事情。

 フランは、もう痛覚を返してくれないだろう。きっと、半魔を一人でも斬ったら、体が朽ちるくらいの勢いで止めに来る筈だ。そして、早く何処かの男を伴侶に選べとか言われてしまう。

 好きな男に、別の男を勧められるのだ。しかも、相手も憎からず自分を想ってくれている。耐えられる気がしない。

 ミルカはため息を吐いた。

 ミルカは、神様がどうとか、聖勇者だとか、聖者だとか……そんな物は無関係に、フランとただ仲良くなりたかっただけなのだ。ただの男女として相手を想いたいのだ。

 フランも自分も生きていて、これからも生きていく。将来幸せになるのに、それが一番必要だと思ったからだ。

 けれどフランは小難しい事を考えるのだ。今、彼がどんな気持ちで居るのか考えると怖くなる。

 見えない膜の様な物は、神や先祖の事を納得して受け入れない限り消えない。例え、互いに想い合っていても、それだけでは越えられない深く大きな溝だ。これをフランが解決しない限り、ミルカは永遠にフランに寄り添う事は出来ないのだ。

 フランは、神様に対してより一層怒っているから、どうやって反発しようとか、そういう事を考えていそうだ。商人で利己的に見えるのに、実際には自分の幸せに無頓着で、それでいて、先祖や周囲の不幸に心を痛めるのがフランと言う青年だ。

 フランの復讐を諦めさせる方法は一つだけある。……聖勇者の弱みを全面に晒して、恥も外聞も無く、同情を買えばいいのだ。

 私の体が大事なら、結婚して!

 考えたセリフの余りの陳腐さに、ミルカは自分を嗤うしかなかった。

 いっそ、そのくらい言えたら良かったのかも知れない。最初から自分の事情を話して、号泣して、自分を愛して助けて欲しいと縋れば……。彼は決して拒めない。優しいから。

 けれど無理。絶対出来ない。そんな女にはなれない。そんな事を言うくらいなら、朽ちて死んだ方がマシだ。変な所で、プライドが捨てられない。ミルカはまたため息を吐いた。

 すると、扉から軽いノックの音がした。

「どうぞ」

 声をかけると、扉が開いてアルカが入って来た。

「寝たと思ってた」

「俺も寝たかったけど、気になって起きて来た」

 アルカは扉を閉めると、ソファーが狭いので、ベッドに座った。マッチョの兄とは並んで座ると窮屈だ。

「レイノスがお前を探している」

 レイノスは、エスライン王国の王太子。いい笑顔でミルカを攫おうとした怖い人。従兄だった筈だ。顔から血の気が引いた。

「嫁に欲しいんだってさ」

 絶対に無理、あり得ない。顔に出ていたのか、アルカは苦笑する。

「ミルカはあれ以来、エスライン王国には入ってないんだよな」

 あれとは、勿論アルカの結婚式だ。

「……行く気無いよ。今後も」

「それで、レイノスはかなり無理して国外に出ているらしい。天界の掟に背いている行為なんだと」

 震えているのが自分でも分かる。あれが、自分を追って外に出て来ている……。

「何で、そんな事しているの?」

「天使の魂が天界に帰るには、聖勇者との結婚が一番手っ取り早いんだ。レイノスは、それを実行したいんだ」

「それ、本当なの?」

「本当だ。……大神官が、レイノスにはうっかり話してしまったんだ。俺がティアラと結婚した事で、ティアラの中の天使の部分が天に帰ったって事を」

「ロルフさん?」

「そう」

 あいつか!まだ現役で大神官だったのか!

 年齢不詳のビン底メガネの男を思い出す。

『この数以上は一気に斬らない方がいいですよ。指か耳か鼻か分からないけど、もげちゃいますよ。痛いですか?どのくらいでしょう?触っていいですか?うわ~黒いですね。本当に治りますかね』

 痛くてのたうち回っているミルカに向かって、呑気に言っていたロルフを思い出すと、胃がムカムカする。

「思い出させて、ごめん」

 ミルカの表情から察したのか、アルカは申し訳なさそうに言った。

「でもな、聖勇者の聖性の高い魂を安定させるにも、半天とか旧聖者みたいに天使の魂を内包していても平気な強い魂の者と結婚するのがいいって言うのは事実だそうだ」

 何か、余計な物が付いている人はやめておけって父が言っていたのに、実際は逆って……。話が違う。

「ただの人間じゃダメなの?」

「そうすると、次の世代も一人で半魔を斬ると朽ちる聖勇者になるそうだ。そうなると、延々と伴侶の助けが必要になるらしい」

 まるで、聖者や半天と結婚すれば、伴侶が不必要な聖勇者が生まれる様な口調。……え?そうなの?

「双子ちゃんは、伴侶いらないの?」

「いらないな。一人で浄化も楽に出来る、完全に一個体で安定した状態みたいだ。耳はいらなかったと思うが、あれが聖勇者として完全体である印だそうだ。神はシーカーと名付けた」

「シーカー……」

「探す者だそうだ。さっきも話したが、遠方の半魔をあっさり見つけ出すし、シーカー同士は念話で遠くても意思疎通が出来る。神の目指す、聖勇者の完全体の一種だそうだ」

 完全体……。兄の子孫は幸せになれるのだ。それはとにかく嬉しい。そこではっとする。

「一種って……聖勇者の完全体って、他にも居るの?」

「だからレイノスに捕まったら、お前は翼が目印の筋肉馬鹿を産む事になるから、逃げろって言っているんだよ。聖勇者が更に完成し、半天の天使の部分は天界に帰れる。エスライン王家はやる気満々だぞ。本気だ」

 最悪だ。何故トラウマの元凶の子供を産まなくてはならないのだ。ロルフは何て物を焚き付けてくれたのだ。一生恨んでやる!

「もう、私の事、分からないんじゃないかなぁ」

「ミルカ……お前、母さんと顔そっくりだぞ。背の高さとスタイルは違うけど。母さん知ってる人なら、まず間違えない」

「……やっぱり?」

「父さん達が真っ青になって大陸の果ての国に行ったのも、リルカを守る為だ」

 リルカは妹で、まだ六歳だ。それまで狙うのか。レイノスは、兄と同い年の二十三歳だった筈。もしリルカと結婚となったら……凄く鬼畜で怖いんですが。

「……リルカだけずるい。私も一緒に連れて行って欲しかった」

「一点集中したら、すぐに狙われるだろうが」

「私は囮?囮なの?」

 酷い。人相も割れてるトラウマ持ちの娘を放置して、末娘だけ連れて逃げるなんて、差別だ。

「そうは言ってない。ただ、お前なら上手く逃げるだろうからって、信用しているだけさ」

「そんな信用はいらない。お兄ちゃん、助けてよ!」

「言う相手が違うだろう?ちゃんと言える相手が居るじゃないか。ん?」

 兄はとっくに見抜いていたのだ。フランへの気持ちを。思わず顔をしかめると、アルカは笑った。

「言えないよ……」

「どうして?」

「気持ちだけで突っ走れる関係じゃない。お兄ちゃんはどうだったの?」

 ティアラは話せない。結婚前は念話も無かった筈だ。一方的に押したのだろうか?

「ティアラはさ、最初から俺を好きになる気満々だったんだよ。神様が選んでくれた人が自分を救いに来るって楽しみにしていたらしい」

「す、凄く前向きだね」

 酷い過去に似合わないポジティブさだ。フランと違い過ぎる。旧聖者の、人と関わりたいと言う本能が関わっているのかも知れない。閉じ込められていたのだ。さぞや人恋しかったに違いない。

「でも現代語の読み書きを知らないから、筆談も出来なくて、すごくがっかりしたらしい。ああ見えておしゃべりなんだよ。必死で公用語の読み書き覚えてた。それでさ、覚えたての字で、気持ちを伝えてくるんだよ」

 ゴミ箱に、あるかすき、と何度も練習した紙が捨てられていたらしい。……健気すぎる。

「そりゃ、ほだされるね」

「俺はさ、お前も知っての通り、普通大好き、目指せ定住、目指せ一般人だったから、あの耳を見た時点で、無いわ~って思ってたんだけど……負けた」

 兄は、人と違う聖勇者の部分が本当に大嫌いだった。

 定住して友達に囲まれて暮らすのが兄の夢で、そんな場所を探すのだ、と言っていたから、てっきりそうすると思っていた。

 それがまさかのケモミミ嫁。絶対に定住不可能。普通じゃない人を選んだのには驚いた。兄は、自分の夢を捨てたのだ。

「人生って思った通りにならないんだよ」

 しみじみ言う兄に、ミルカは笑った。

「実感、出てる」

「だから、お前も楽しめよ」

「楽しむ?」

「ティアラはさ、いつも楽しそうなんだよ。つわりも酷かったし、双子の初産で難産でさ、もう本当に死にそうな思いしているのに、これも経験の内って、笑うんだよ。生きて色々経験出来るのが、楽しくて仕方ないって言うんだよ」

 普通じゃないと人生を楽しめないと思っていた兄を、ティアラはその明るい性格で、思考の外へと連れ出したのだ。

「お兄ちゃんは幸せだね」

「よせ。照れる」

 照れた様子も無く、平然とアルカは言った。本当に幸せなのだろう。

 ミルカは、フランをそういう風に出来る気がしない。だって、そんなに前向きじゃないから。

 そもそも、十二歳の時の事が原因でドレスが着られないし、胸の大きさで悩んだ挙句、誰にも相談できずに皮鎧に詰め込んだ。

 ドレスに身を包んで、性別もしっぽも隠すフランはある意味、よく似ている。

 似た者同士、どっちも折れないのだから、どうしようも無い。

「とにかく、結論出すなら早めにな」

 アルカはそう言うと、部屋を出て行った。

 家族は信用してくれているが、レイノスから逃げ切る自信は無い。翼と鋼鉄の肉体を持つ天使の末裔。しかも頭が悪く、強引と来ている。話し合いの通じる相手ではない。こうと決めたら押し切って来るだろう。

 思わず身震いする。絶対に嫌だ。

 フランはどう思うだろう?好都合だからくっついてしまえと言うだろうか……。辛そうな、それでいて諦めたみたいな顔で。ミルカを好きなのに言うのだ。切り捨てるのだ。

 せめて、逃げろって言ってくれたらいいが、言ってくれる気がしない。

 結局、兄とその家族に会わせた事で、彼の憎しみが大きくなった事だけは分かった。

 ミルカへの愛情よりも、そっちが勝っている状態になったら、二人の関係は破たんする。

 フランの頭の中には、何十人ものご先祖様が住んでいて、ずっと後ろ向きな感情を囁いている。ミルカは、それを和らげる方法を知らない。

 こんな筈じゃなかったのに……。

 本当に人生は思っていない事ばかり起こるのだとしみじみ思った。


 翌朝、食事を終えると、ミルカは双子と遊んでいた。

 フランとアルカは、二人で話をするとかで、フランの部屋にこもっている。

 ティアラは刺繍をしながら、にこにことミルカ達の様子を見ている。

 双子だけれど、髪の色も顔立ちも違う。アルカ似とティアラ似。双子だからそっくりと言うのは、思い込みなのだと、この二人を見てから認識した。

「もう、いないよ」

「ミルカ、えらい」

 アルカ似のライラと、ティアラ似のレイラはそう言った。……多分、魔人の事だ。

 遠くても半魔の存在を感知できるシーカーと言う存在だと聞いたからか、端的な言葉でも理解出来た。

「二人とも、可愛くて凄いんだね」

 屋敷では、耳を出していても平気なせいか、二人ともご機嫌で、生き生きしている。耳がピクピクして可愛い。

「それほどでも」

「それほどだよ」

 照れているライラと、威張っているレイラ。

 もうすぐ三歳の筈だから、かなり上手に話すし賢い。叔母の欲目かも知れないが、どちらもとても可愛い。

 毛糸で編んだ手袋を使って人形を作ってやると、とても喜んだ。

「うさぎさん、かわいい」

「タコがすき!」

 大人しくてお嬢さんタイプのライラと、明るく元気なレイラ。個性が既にはっきりしている。様子を見ていると、あまりに違い過ぎて、逆に喧嘩にならない様だ。

 可愛い双子の相手をしつつ、ふと彼女達の能力を試してみたくなった。

「ねえ、変な魂、近くに居ない?……黒くないやつで」

 二人は顔を見合わせる。

 ……レイノスがどこに居るか分かったら素敵だなとか思っただけなのだが、

「もしかして、とりさんのこと?」

 ライラが言う。……想像以上に的確だった。

「そう。よく分かったね」

「パパに言われたの。居たら教えてって」

 レイラがそう続ける。アルカは既に娘達を頼っていたらしい。

「ミルカも知りたい?」

「うん。ぜひ」

「いるよ!」

 レイラの言葉に、思わず青ざめる。ティアラも刺繍の手を止めた。

「どこに?」

「う~んとね、あっち!」

 二人は同時に同じ方向を指さす。

「そんなにとおくない」

「うん、とおくない」

 ティアラがミルカに目配せして立ち上がる。

 早く逃げろ、と言っているのが分かる。今はどうこう考えるよりも逃げなくては。

 フランの事を考える。痛覚も戻っていないし、関係も微妙だ。本当は離れたくない。……けれど、もしかしたら、良い転機なのかも知れない。

 ティアラは、念話をしているのか、耳が動いている。双子も黙ってそれを聞いているらしく、耳が動いている。アルカにこの事を伝えてくれるのだろう。

「うごいてる」

「こっちにくる」

 耳をぴくぴくさせながら双子が言う。目を閉じて、二人共じっと座って感覚を研ぎ澄ましているのが分かる。

「ママがにげてって」

 ライラが言う。

「パパがあしどめするって」

 レイラが続けて告げる。

 ミルカが立ち上がると、ティアラが頷く。

「またね!」

 双子が、手を振って見送ってくれたので、そのまま部屋を飛び出た。

 ミルカは部屋を出ると、自分の部屋に戻り、クローゼットから荷物を出す。

 ミルカは、いつでも旅に出られるように、ある程度の荷物をまとめる癖がついている。中の保存食は、取り換えていないから少し古いかも知れないが仕方ない。

 ここに居た時間は長かったなぁ。……楽しかったな。何処にも行くなって言われて、嬉しかったな。

 ちょっと感傷に浸ってから、すぐに頭を切り替える。

 兄が足止めしてくれるらしいから、とにかく、より遠くへ。……宿で馬を貸してもらおう。

 背負い袋を持って部屋を出ると、アルカが駆け寄って来た。

「行け!」

「お兄ちゃんの娘さん達はとても優秀です。お陰で助かります。足止めよろしく!」

「任せておけ。気を付けて」

「お兄ちゃんもね」

 兄妹の視線が一瞬絡み合った瞬間、

「ミルカ!」

 唐突に声がして兄の背後を見ると、フランが立っていた。

 ミルカは寂しくなったけれど、それを押し殺して笑った。……湿っぽいのは嫌だ。慌ただしくて良かった。

「元気でね」

 フランは仏頂面で言う。

「痛覚は?」

「返してくれるの?」

 返事は無い。ミルカは言った。

「落ち着いたら、その時はまた返してもらいにここに来るよ。それまでは、痛くても我慢してね。じゃ!」

 ミルカは走り出す。フランの声がしたが、振り返らない。

 フランの生活を脅かす半魔はこの近辺にはもう居ない。兄の一家は優秀だし、ここにはエルハント商会の窓口となる宿もある。何かあれば、すぐに対処してもらえる筈だ。

 ここに一緒に居ても、フランが神や先祖に対して気持ちを整理できない限り、ミルカの存在は、彼を苦しめるだけだ。

 だったら、とりあえずレイノスから逃げておく。無理矢理結婚させられたら、それこそ困るから。

 ミルカは走る。多分、これが彼にしてあげられる精一杯だから。

 大好きだから、離れてあげる。

 ミルカはそう心の中で呟いて、長く居た屋敷から飛び出した。そして一路、宿屋に向かったのだった。


 そして、フランどころか、家族にも全く会わないまま、季節が変わって行った。一人で過ごす逃亡の日々は慌ただしく過ぎて行き、今はすっかり夏だ。

 体がだるい。ミルカは夏の陽気の中、ぼんやりと思う。

 フランの屋敷を出た後一週間程で、フランに申し訳なく思いながら、恐る恐る半魔を斬ったら、浄化の時にもの凄く痛かった。

 痛覚は元に戻っていた。法術は恒久的でも万能でも無いらしい。フランにまんまと騙されていた訳だ。あの酷い痛みの中でよく嘘をついたと感心している。

 今では、それだけ心配してくれていたのだと思って、ただそれだけが嬉しい。

 レイノスからは、一年半、逃げ回った。

 無理矢理エスライン国外に出たせいで、空を飛べなくなっていたのは幸いだった。

 しかし追いつかれ、思わず剣で切り付けたら刃がこぼれてしまった。以前見た時程では無いけれど、相変わらず無茶苦茶だった。……必死に逃げた。

 半魔を斬りながらの旅だったから、追いつかれて危ない時もあったけれど、エルハント商会の宿で、何度も足の速い馬を用意してもらって、逃げ続けた。

 レイノスは翼があるので非常に目立つ。情報網を駆使して目撃情報をもらえれば逃げるのは容易かった。

 結局、偶然に一人で居る所で出会ってしまった妹のリルカが拉致されて、ミルカの逃亡は終わった。

 ミルカに目を向けているとばかり思っていたレイノスは、親子三人で動きの遅いリルカにいつの間にか目標を変えていたのだ。

 可哀そうな妹は、今エスライン王宮の奥深くに軟禁状態になっている。

 さすがにすぐに結婚するには無理がある。まだ時間がある筈だ。どうなっているのか、手紙でアルカに何度も尋ねたが、お前は気にするなとしか書いて来なかった。両親には連絡を一切取ってはいけないと約束もさせられている。だから、手紙はアルカにしか書けない。

 ミルカの居場所がレイノスにばれるのを防ぐ為らしい。と言う事は、両親はリルカを奪還すべく、エスライン王国内に潜伏しているのだろう。

 リルカの事を考えると、気分が滅入る。

 両親の居ない時にレイノスにリルカが発見されたのは、ある意味運命だとアルカは手紙に書いていた。お前が捕まらなくて良かったと続けて書かれていたけれど、嬉しくない。

 兄はリルカに冷たいと思う。確かに自分よりも接する機会は少なかった妹だが、同じ兄妹なのに……妹が可哀そう過ぎる。

 納得行かないが、文句は全て無視された返信しか返ってこない。……書かれているのは近況に加えてティアラの天啓やフランの事ばかりだった。

 フランは古代語で全ての天啓をティアラから受け取ったそうだ。

 同じ聖者の末裔として、ティアラはそうしたかったのだそうだ。……フランが嫌なら読まなくても良いと言う事にして、全てを渡したのだとか。

 アルカと翌日話をしていた時点では、読んでいなかったそうだ。

 そうだろうなぁと、ミルカは思う。天啓なんて一方的な宣告、フランは大嫌いだろう。

 逃げたあの日、二人が話していたのは、アルカの娘達の事だった。法術を使えるか試したくて、フランに相談を持ち掛けていたらしい。

 記憶を引き継いでいない双子は、声帯の無いティアラからは法術を習えない。だから、フランに教えて欲しいと頼んでいたのだ。

 結果、双子は法術を一切使えなかったそうだ。シーカーには十分に高い能力があるから、いらないのだろう。

 ミルカは兄に手紙で聞いた。神は何がしたいのか?と。

 するとロルフの書いたとされる本が一冊送られてきた。……これを読めと一言書かれて。

 ロルフはバカ王家の教育係も兼ねているだけあって、文章は読み易かったが、聖勇者に対して、非常に容赦の無い内容が書き連ねられていた。

 三つの聖勇者の血脈がこれから誕生する。シーカー(これはもう生まれた)、マギ、ソルジャー。その三種が協力して地上を魔界の悪魔から守る事こそが、聖勇者誕生の発端だったそうだ。

 聖性は高くとも人の魂を持ち、それぞれの弱点を補いながら協力して戦っていく。神は、神の手を離れても地上が機能するシステムが欲しいのだ。

 母はその為に生れた。天使と違う聖性を持たされた人間の聖女だそうだ。人の魂と親和するが、強い聖性を神から直接与えられていて、普通の人間から生み出す事が出来なかった。それで、半天である王家を通して地上に出現した。

 誤算だったのは、半天の鳥王家が弱者を認めない事だった。力を信奉する半天の王家は、聖女は弱いだけの存在と認識し、放置した。結果、聖女は育たずに、次々に死んでいった。そのせいで神の聖女を地上に出現させる計画は停滞し続けた。神は、神官と呼ばれる神殿の下僕の中から、大神官と言う最高の下僕を選び出し、鳥王家を何とかする様に教育する事にした。何代もの大神官の教育の結果、鳥王家は聖女を保護する様になり、母はようやく成長した最初の一人だった。

 父は地上でそれを受け止めて最初の聖勇者を作り出す始祖と成る素質を持った、善良な魂を持つ人間だった。

 母の強すぎる聖性は父によって上手く中和されて人の世界に溶け込んだ。そして、アルカとミルカとリルカが生まれた。地上にある天使の魂を天界に返し、新たな聖勇者に分化する、種として。

 だから、脆い。伴侶を得なければ、壊れてしまう程に弱い。新しい人類を産む為の種でしかないから。ミルカ達を、『欠けた聖勇者』と神は呼んだとか。伴侶が欠けていると死ぬからだそうだ。

 天使の末裔の魂を回収し、聖勇者が完成するまで、子孫は欠けたまま生きて行く。それが欠けた聖勇者の宿命らしい。

 そこまでして必死に地上を守る理由は、創造した世界を愛しているからとか、そんな理由では無かった。

 神にとって、地上は神の為の食料……魂を供給する農場で、無くなっては困る世界なのだそうだ。死活問題らしい。

 ミルカは妙にほっとしていた。……愛すべき世界を守る為、とか言われるよりも、説得力があったからだ。そういう理由なら、今後も神に裏切られる事無く、世界は存続する。

 いきなりこんな世界いらない!なんて言われてしまったら、旧聖者も自分達も、あまりに浮かばれない。それが無い事に安堵したのだ。

 でも、神様……人間の魂食べちゃうのかぁ。話しの通じる知性ある生物を食べるのって結構シュールかも。私なら無理。神様って凄い。

 食べ物がどんなに恨み言を言った所で通じないよね。次元が違うんだもん。……フランは、これを知っているのかなぁ。

 ミルカは大きく枝を拡げた木の下に座っている。熱風が吹くので、心地よいとは言えないが、日向よりマシだから。

 宿に戻りたかったが、今は動きたくなかったから、とりあえず休憩している。

 最近、酷く疲れやすい。

 半魔を狩る数も抑えているのだけれど、激痛の収まった後のだるさが半端ない。

 兄の様に目に見えて朽ちる訳では無いけれど、体がどんどん枯れてきているのが分かる。

 まるで植物の様に、花の時期を過ぎて、枯れていっているのだ。

 食欲が落ちて、体重も減った。筋肉も落ちた。……今なら女らしいとフランは言ってくれるだろうか?

 会いに行きたいなぁ……。

 もうレイノスから逃げなくても良いから、会いに行こうかとも思った。けれど、痛覚を返してもらうと言う口実は使えない。何て言って会おう?まだ神様に反発しているのだろうか?

 もうすぐ二十歳になる。独身の聖勇者の寿命と言うのは、どうあがいても、その辺りらしい。想像していたよりも短い。リルカもそうなのだろう。可哀そうだが、知っておくべきだ。両親や兄にも知らせなくては……。

 手紙を書いて出す所までは出来るだろう。けれど、この状態では、生きてフランの屋敷まで行くのは無理だ。

 野垂れ死にかぁ……。

 座ったまま、景色を眺めていると、誰かが近づいて来るのが見えた。真夏の町は人が少ない。他の人影は見当たらない。

 黒い点の様だったのに、人の姿になって、とうとう目の前に立っていた。

 ぼんやりしていた頭が、はっきりしてくる。

 髪の毛が短い、顎に髭が生えている。しかも、この暑いのに黒いロングコート。しっぽは……法術で隠しているのか見えない。

 あんた誰?ってくらい変わっているのに、すぐ分かってしまった。

「フランシーヌさん、男前になったね」

 ミルカはおどけて言った。

 目の前に立つ人物、フランは眉間に皺を寄せてミルカを凝視している。まるで、信じられないとでも言う様に。わざわざここまで来たのに、何に驚いているのやら……。

「どうやってここまで来たの?」

「イヤリング」

 この外れない呪いのアクセサリーにはそういう機能もあったのか。そう言えば、前も助けに来てくれたっけ。

 ミルカは力なく笑う。するとフランは怒ったみたいに言った。

「笑い事じゃない。どうしてそんなになるまで……」

 フランはしゃがむと、ミルカを抱きしめた。

 懐かしい匂いを胸いっぱいに吸い込んで、ミルカは言った。

「暑い」

 以前より、フランには筋肉が付いている。自分が痩せた分、ミルカは余計にそう思った。

「俺を……頼れ」

「やだ。フランは、神様に仕返しするんでしょ?だったら、私は居ない方がいい」

 両親は神様が取り持って夫婦になった。そして生まれたミルカも、使命を与えられていた。

 兄もそうだった様に、ロッソ家の兄妹は、旧聖者の血脈や半天の、天使の魂の部分を婚姻によって天界に返す為のシステムだったのだ。事実、その使命が果たせないなら生きている意味など無いと言わんばかりの短い寿命だ。

 ミルカは別にその運命を嫌だと思っていない。けれど、大好きなフランは神様の思惑通りになるのを拒否している。だったら、一緒に居ない方がいいのだ。神よりもフランの方が大切だと示す方法は、ミルカにはこれしか思いつかなかった。

 共に、神に逆らい恋をして愛し合う事を拒む。これしか無かったのだ。

 凄く馬鹿な事をしているのかも知れない。けれど、これがミルカのフランに対する誠意だったのだ。

「死ぬ気か?」

「死なない人間は居ないよ」

 フランの腕に力が籠った。

「俺が殺すようなものだろう。俺はお前の聖婚相手なんだから」

 ああ、やっぱりそうだったのか。何となく分かっていた。

 聖婚と言うのは、神様が選んで与える結婚相手で、一目見て恋に落ち、決して浮気をしない相手なのだ。その相手と結婚すれば幸せになれると言われている。ただ、肉体的に他の誰とも関係を持っていない事が条件になる。

 きっと出会う前の天啓で、聖婚の事もフランは知っていたのだろう。それも気に食わなかったのだ。分かっていながら、恋愛感情で接するのは嫌だとか言ったのだ。

 つくづくいい性格をしている。この嘘つきめ。ミルカは内心悪態をつく。でも、ミルカの推測は当たり、やった事は無駄では無かったことが証明された。

「いいじゃない。神様に仕返ししてやれば」

 嫌味じゃなく、本気で思っている。それが伝わったのか、フランは体を離して、ミルカを覗き込んだ。

「特別に協力してあげる」

 フランは、聖婚相手であるミルカに出会ってしまった。もう浮気は出来ない。

 だから、ミルカが居なくなれば、一人で天寿を全うできる。当初に掲げていた彼の願いは叶うのだ。

 フランの顔が泣きそうに一瞬歪んだ。

「ごめん」

 フランはぽつりと言った。

「フラン?」

「俺が、悪かった」

 フランは泣きそうな表情のまま、まっすぐにミルカを見た。

「もう、いいんだ。神の事は」

 また嘘だったら嫌だなぁ。この人の嘘を何度信じたか分からない。……今は嘘を言っているとは全く思っていないが、あえて言う。

「嘘つき」

「悪かった。本当に悪いと思っている」

 こんなに素直に謝る人だっただろうか?ミルカはフランの頬に手を当てた。

「辛いの?」

「当たり前だ。母さんが死んだ時より辛い」

 フランの目からぽとりと涙が一粒落ちた。

 泣いてこんな事言うのは、フランじゃない。姿形も変わった上に、こんなの反則だ。

 フランはミルカを抱きしめた。

「好きだ」

 ミルカの思考が一瞬停止する。

 信じちゃっていいのだろうか?これを信じて嘘だったら、絶対に終わりだ。死ぬ。あ、どっちみち死ぬのか……。

「お前が居なくなって、色々考えた。お前がどんな気持ちで居なくなったのか分かっていたから、ちゃんと考えた」

「……考えて、こうなったの?」

 フランが頷く。

「神がどうとかより、ミルカが大事だって分かった。だから、ここまで来た」

「それで、後悔しない?」

「しない」

「信じて、いいの?」

「信じてくれ……頼む。お願いだ」

 チョロいから、そう言われたら信じてしまう。ミルカはため息を吐いた。

「うん。いいよ」

 フランはミルカを抱き上げた。まさかフランに抱き上げられる日が来るとは思っていなかった。ミルカは、首に手をかけて抱きついた。

「痩せたな」

「筋肉減ったよ。見る?」

 冗談で言ったのに、素で返された。

「それは後で。早く契約をしないと」

「契約?」

「魂を分割する契約だ。早くしないと手遅れになる」

「手遅れって、私が死ぬって事?」

「そうだ。それなのに、凄い勢いで移動しやがって。追いつけないかと思った」

「レイノスが怖かったんだもん」

「鳥は聖婚の概念が破壊されているらしいからな。神の作った歴史の本を読むとそうなるらしい。聖婚相手の見分けがつかなくなるそうだ」

 昔、親に聞いた。エスライン王宮には図書館があって、そこには自動で歴史を記す不思議な本があるのだとか。王族だけが読めるそうで、それを読むと中身を全部暗記できるらしい。馬鹿な王族でも一瞬で歴史家になれてしまう凄い本にも、そんな弱点があったとは。

 フランはミルカを抱いて平然と歩きながら話し続ける。本当にたくましくなってしまった。会わない期間の長さを思う。

「ティアラさんの天啓、読んだの?」

「読んだ。知れて良かったと今は思う」

「そっか」

 フランは凄く変わった。離れていた間の話を色々したい。

「もう、女の恰好はしないの?」

「しない」

「法術が弱くなったの?」

「違う。したくなくなっただけだ」

 フランが歩いて連れて来たのは、宿の一室だった。フランが泊まっているらしい。実はミルカも同じ宿で別の部屋に泊まっている。

 ミルカが抱き上げられた状態で戻って来たので、宿の受付が慌てて駆け寄ってきたが、ミルカがフランに治療してもらうから平気だと言うと、何も聞かずにすんなり引き下がった。

 フランが歩きながら言う。

「聖勇者に俺みたいな、いかがわしい奴を近づけて、宿の奴らは平気なのか?」

「いかがわしいって自分で言うの?」

「俺はこの宿に泊まってから、かなりやらかしていたからな。胡散臭かったと思うぞ」

「何してたの?」

「昨日の夜から、徹夜でカーペットをはがして、床の掃除をしていた。家具を動かしたり、もしていたから、うるさかっただろうな……」

「そんなに床が汚かったの?」

「違うし」

 フランが半眼でミルカを見返して、部屋の扉の前で降ろした。鍵を開ける際、廊下の奥の方で、宿の人間が数人、こっそり見ているのに気付く。

 フランは本当にそういう事をしていたらしい。ミルカはその頃、浄化の最中で、半魔を斬った後、明け方まで、人目に付かない木陰でのたうち回っていたので知らなかった。

「ようやく準備が終わったのに、いつまでも宿に戻って来ないから、捜した」

「準備?」

 部屋に入ると、家具が端に寄せられて、床には何かの文字が一杯書かれている。何語か全然分からない。図形も書かれていて、やけに綺麗な円や線が描かれていた。どうやって描いたのか分からないが、手で描いたと思えない程綺麗だ。これらを書くのに、夜中に床を掃除していたらしい。

「文字と図形は踏むなよ」

「これ、何?」

「俺の内部にある天使の魂を天界に返して、俺とお前の魂を共有分割する為の法術式だ。お前の助けが必要だ」

「いいよ。何をすればいいの?」

「ここに立ってくれ」

 円の書かれた場所に手招きされて、字や線を避けながら円の中に入る。

 フランも同じ円の中に立ち、ポケットからナイフを出すと、自分の指を切って血を垂らした。ミルカも必要かと思って手を出したが、首を横に振られた。フランの血だけで、ミルカの血はいらないらしい。

「呪文とかいらないの?」

「これに関してはいらない。ティアラとその先祖が代々考えて編み出した、呪文のいらない法術だ。時間はかかるし、場所が広くないと無理だが、既にアルカが試して成功している。安全で確実だから使わせてもらった」

「お兄ちゃんとティアラさんもやったんだ……ふぅん」

「俺はお前に危ない目に遭って欲しくないから、徹夜で重たい家具を移動させた後、カーペットめくって床掃除をして、こんな物をずっと描いていたんだが、そこには無反応か!」

「あ、いや、何が起こるかよく分かってないし。天使の魂を返すって言うのは分かった。めでたいよね。脱天使おめでとう。……それで、魂の共有分割って何?それで私の寿命が延びるって言うのは分かるけど、それでどうなるの?」

 フランが何とも言えない複雑な表情をした。こんなに表情のある人では無かった気がするのだが……。ああ、嘘を吐く必要が無いから丸々素のままなんだと、ようやく理解する。

「俺とお前は結婚するの!」

「へ?」

 ガシっと肩に手を置かれ、ぎゅっと力を入れられる。

「今更、嫌とは言わせないけどな」

「に、逃げないよ……そもそも、フランは結婚って言わなかった。契約って言った」

 伴侶になってくれるらしい。全くプロポーズされていない気がするが。フランの目が怖い。だったら結婚しようって言ってくれれば良かったのに。

 ミルカは呑気に、お付き合いしてから結婚するのかと思っていたのだ。契約と言うのは、言うなれば、つまり婚約の様な物だと思っていたのだ。それで寿命は延びるんだぁ、とか考えていたのだ。

「親にもアルカにも聞かなかったのか?俺達の結婚は普通じゃない。契約結婚だ。絶対に解消できない。お前が思っている以上に重い」

「……聞いてない。ただ伴侶が居れば、体も朽ちないし、浄化が楽になるって事しか」

「確かに、普通の人間と結婚するなら、契約はいらない。多分、肉体的な関係を持てば、それで自然に魂が共有される筈だ。聖勇者も魂は聖性の高いだけの人間だからな。寿命は問題なくなる筈だ。ただ半魔を斬るなら、浄化の手伝いに伴侶の魂の力も必要だから、あまり遠くに居ると、また一人で苦しむ事になるな……ティアラとアルカもあまり遠くに離れないだろう?離れると、アルカが苦しむからだ」

「じゃあ、私もあんたが居ないと苦しむって事?」

「そうだ」

「じゃあ、夜中にこんな手の込んだ事してないで……」

 そこまで言って、ミルカは真っ赤になる。

「押し倒せば早いってか?」

 フランは全く動じない。真顔で諭してくる。

「忘れてないか?俺は旧聖者の生き残りだ。ティアラも」

「それって問題あるの?」

 フランが我慢できないと言う様に目を吊り上げて怒鳴る。

「大ありだ!この死にかけ女!脳みそまで死にかけか!アルカに聞かされたのを忘れたか?俺達は新しい聖勇者の始祖だぞ!普通に寝て終わりに出来るか!」

 明け透けな言い分に耳まで真っ赤にしつつ、ミルカはぼそぼそと抵抗する。

「契約しないと生まれないなんて、お兄ちゃんは言わなかった」

「ティアラがその辺はさらっとやってしまったんだろう。だから言い忘れたんだ。お前の両親もやったんだろう?新しい人類を生み出すには、まず魂の根本を変える必要があるんだよ。そうでなきゃ、人間は人間のままなんだよ。人の法則は魂に書き込まれているからな」

 当たり前の知識の様に、フランは凄く難しい事を言っている。生憎、ミルカにはよく分からない。

「ああ、クラウン渡して割るんだっけ」

 フランの顔が思い切り嫌そうな表情になる。

「アルカから聞いている。あいつには言っていないが……お前の両親の方法は、無茶苦茶な方法だ。あり得ない。普通死ぬ」

「そうなの?昔の聖者って、ああやってたんじゃないの?」

「やらんわ!エスラインの馬鹿王族でもしない。あくまで、相手の魂を預かる、預ける。それだけだ。共有分割とは全く違うんだよ!何でそんな事知らないままなんだよ!」

 エスラインの王族より酷い方法と言われたので少しむっとするが、フランは本気でそう思っているらしい。本気で怒っている顔が怖いし、体が本当にだるいので、これ以上難しい説明は聞きたくない。だから黙っておく事にした。

 とにかく、兄は無事だし、両親の方法は、確かに本人達も危うく死にかけたと言っていたから、そんな方法じゃないだけいいと思う事にする。

 キラキラとフランの体が光っている。文字列も虹色に輝いている。

「綺麗……」

「天使の魂が昇天しているんだ」

 フランの体の光が消えると、今度はミルカの体が光りだした。

「私も昇天しそうなんだけど」

「心配するな。俺と魂を共有しようとしているだけだ。その後ちゃんと分割される」

 フランの言葉通り、体を包んでいた光は、消えないで、フランの方へと移動していく。

 そして、何か別のものがミルカにやって来る。体が楽になると同時に、頭の中に意味不明なものが大量に流れ込んできていた。

「な、何これ」

「法術の基礎だ。俺とお前は、法術を使う聖勇者、マギの始祖になる」

 新人類の始祖……聖勇者は種。その意味がじわじわと染み込んでくる。

 ミルカはオロオロして言った。

「こんな文字の羅列、いらない。訳わかんないし。あんたに任す」

「そうはいかない。もう聖者の記憶を受け継がないから、子供達には俺達が一から教えないといけない。俺一人じゃ無理だ」

 子供達、俺達!

 その言葉に、ミルカは絶句する。そうしている内に、床の文字が虹色に点滅しながら消えていく。

「契約完了だ」

「ええ?」

 ミルカは自分を見下ろし、そしてフランを見た。……見た目に変化は無いが、フランと、契約結婚してしまったらしい。

 フランが笑う。曇りの無い笑顔が嬉しい。

 しかも、本当に嬉しいと言う感情が何となく分かってしまう。……何で?

「お前、混乱してるな?」

 反射的に、ミルカは頭の上を庇う。

「クラウンは見てない。それに……もう見えない」

「へ?どうして?」

「俺に天使の魂は、もう無い。お前に聖勇者の魂を分けてもらったから、見えるのは害意だけだ。半魔にも狙われない。聖性の高いだけの人間だ」

「じゃあ、どうして分かるの?」

「お前も俺の気持ちが分かるだろう?魂の共有分割って言うのは、そう言うものだ」

 確か、両親は何となくお互いの言いたい事を理解していた。それは、こういう風にお互いを感じていたからなのだ。

「もう、お前に嘘は吐けない」

 確かにこんな風にはっきりとで無くても、感じられるのなら、嘘はすぐ分かる。

 実感はまだ湧かないが、二人を区切る見えない膜は無くなった事は理解出来た。フランは、本当にミルカを一番にしてくれたのだ。ご先祖様の恨みよりも、神様よりも、ミルカが一番なのだ。

 顔が自然に緩んでくる。

「どうだ?体は楽になったか?」

「うん」

 久々に体が軽い。何とか死なずに済んだらしい。

「これで、お前は神のものじゃなくて、俺のものだ。俺が助けた」

 満足そうにフランが言う。

 ミルカは、少しためらってから、フランのコートの袖を引っ張った。

「何だ?」

 フランはミルカを抱き寄せる。全く遠慮の無い動きに、本気で自分の所有物だと思っているのが感じられる。それはそれで嬉しい。嬉しいが……。察してくれない。残念な事に、感情だけでは、言いたい事の全ては伝わらないらしい。

「プロポーズ……」

 恥ずかしくてそれ以上言えず、ミルカは、フランの肩に顔を押し付けた。フランとミルカの身長はあまり変わらないから、胸に顔を埋めるとか出来ないのだ。

 一生に一度なのに、契約なんて無粋な言葉で終わりにしたくないと言う、ミルカの乙女回路が作動していたのだ。

「ん?何?」

 あ、こいつわざととぼけてる!

「もういい!」

 ミルカは怒って腕を振りほどこうとしたが、依然と違い、死にかけたせいで力関係が逆転している。フランは全く離してくれない。

 真っ赤になって顔を背けているミルカに、フランは言った。

「奥さん、俺の子を一杯産んでください」

 ……エロいお願いであって、絶対にプロポーズじゃない!とミルカの理性は思ったけれど、感情はすっかり満足してしまった。

 それをフランに見抜かれているのも我慢ならない。……そう、奥さんって言葉の響きが悪いんだ!ミルカは心底そう思う。

 フランにゲラゲラ笑われて、ミルカは余計真っ赤になった。悔しい。しかし、嬉しい。隠しきれない。

「返事は?お・く・さ・ん?」

 調子に乗っているフランに腹が立つので、ミルカは、フランの口にぶつかる様なキスをした。ここで負ける訳にはいかない。一生主導権を握られてしまう。

「こ、このへたくそ!覚えてろよ!」

 フランが、耳まで真っ赤にして手を離し、顔を逸らした。

 女装男子め、本気の女は、怖いんだぞ。ざまぁみろ!ミルカは心の中で舌を出した。

 凄く幸せな気分だった。フランもそうだと感じたから余計に嬉しかった。

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