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森の木々は青々とした葉を広げ、天へと昇り始めた太陽の光を遮るかのように辺りに影を落としている。地は緩やかに勾配になっており、近くで水のせせらぎが聞こえてくる。
テヌフは老人の後を追い、土や小石の感触を足の裏に感じながら森のなかを歩いた。老人の名はガカロといった。
「なんじゃえ、さっきから黙りこくって」
ガカロが振り向いていった。
「……いや、さっきは疑ってすまなかった」
「えっえっえ、気にせんでええ。しかし、お前さんの荷はどこにいったかのう」
とガカロは頭をかきながら、つぶやいた。杖の先に結びつけた二本の牡牛の角がぶつかりあい、からからとときおり音をたてている。
テヌフは無くなった荷のことをガカロに問い詰めた。しかし、まったく知らない様子であり、もし盗もうとしたのならば、荷や馬だけをつれてその場を去ってしまうものだろう。
あれこれ考えても仕方なく、無いものは無いのである。それが答えであった。
「ひとまず、お前さんはその汚れた身体をきれいにするとええ」
と案内されて出た場所は川原で、ガカロはよっこらせ、と岩に腰をおろした。
川は昨晩の嵐のせいか、水に勢いがある。テヌフは川に足をつけた。
赤黒いにごりが流れていく。全身に水をあび、血と土を落とし、唯一手元に残った斧も川でたんねんに洗った。
「ほうほう、すっかり人間らしくなったのう」
とガカロがはやしたててきたので
「あんたも川に入ったらどうだ。今よりはもう少し人間らしく見えるようになるかもしれないぞ」
とテヌフはいった。
「えっえっえ、わしをなんだと思っておるんじゃ」
「変わった格好をしたじいさんだよ」
「ふむ、そのとおりじゃ」
そういってガカロはあくびをした。
テヌフが川からでると、きれいになったからといって荷を押し付けられた。「年寄りはいたわるもんじゃ」などと調子の良いことをいうガカロは岩から岩へ飛び移るなど、身軽である。再び森に入り、奥へと進んだ。
奥に進むにつれ樹の背が高くなり、陽の光が減ってくるようで、鮮やかな緑色をした苔にすべて覆われそうな大岩や、傘が極端に狭く頭のとがった赤いきのこ、聞いたこともない不思議な鳴き声も聞こえれば、そこらにくぼみがあり、水が湧いているなど奇妙な光景になってきた。
「どこまでいくんだ」
テヌフは訊いた。
「もうすぐえ」
と答えが返ってきた。
それからしばらく進むと広い空間に出て、火を焚く人間の後ろ姿があった。
「戻ったえ」
ガカロがいうと、その者はこちらを振り向いた。
「……そいつは?」
「薬草を摘みにいってのう、そのついでに見つけたんじゃ」
「見つけたって……」
と覗き込まれ、テヌフは視線を外した。
「ウペルや、着せるものはないかえ。この姿のままじゃ可哀そうじゃ」
「そんなもの、あるわけがないでしょう」
「そうかえ。ふむ、しょうがないのう、――ふむ、ではこれでも巻いておけ」
とそこらに転がっていた布きれを渡してきた。どうやら寝具のようである。
ウペルと呼ばれたものはため息をつき、
「頼むから、面倒を持ち込まないでもらいたい」
といった。
「……しかしのう、目の前に人が倒れておったら、それも裸でじゃよ、ふむ、助けるのが道理というものじゃろうて。しかしなにか、お主はそれを見て見ぬふりをするのが正しいとでも言いたいのか。ふーむ、そうかのう、わしは間違ったことをしたのかのう」
「わかりました、わかりました、勝手にしてください」
ウペルはうんざりした顔で、再びため息をついた。
「まあまあ、そんな顔しなさんな、腹も減ったじゃろうて、土産じゃ。テヌフよ、その背負っているものを」
といった。ウペルの視線がこちらに移るのを感じながら、テヌフは結ばれた縄をほどき、牡牛の肉を包んでいた葉を開いた。生々しい肉と血の香りがほんのりと漂った。
「……この肉は?」
「それは内緒じゃよ」
えっえっえ、とガカロはまた妙な笑い声をあげた。
枝に肉をさし、焚火の炎で炙ると、脂を垂らし、辺りには良い香りが漂った。
「――ほぉ、もう焼けたかのう」
ガカロは笑みを浮かべ、肉にかぶりついた。
「どうしたえ、食べないけ?」
ガカロがこちらを覗き込んできた。一重の目を線のように細めて、笑みを浮かべている。
湯気のたつ肉を目の前に差し出され、テヌフは喉をならした。
肉のささった枝をとり、一口。口いっぱいに肉汁が広がり、噛めば噛むほど旨味が溢れ、喉を通して腹へと落とすと、暖かなものが身体のなかに存在しているのがわかる。身体が喜んでいるのか、自然と涙が溢れてしまいそうだ。垂れた鼻をすすった。
昨晩のような生肉で食らった、まるで肉食の獣のようにではなく、ちゃんと熱を通した人間の食事だ。
「うまいじゃろ、もっと食うかえ?」
テヌフは頷いた。
腹を満たすうちに、身体の芯から熱がこもるようで冷えた足元から体温が蘇ってくる。
ふと妙な組み合わせだ、とテヌフは思った。仮面をつけた老人ガカロと、端整な顔だちのウペル。おそらく女だろう。二人とも髪は長く、腰辺りまで伸びており、後ろで縛っている。ここらの国の風習なのかもしれない。
三人とも夢中で肉を食らい、運んできたものは全て無くなった。
ガカロは大きくあくびをし、少し寝るといって横になったため、テヌフは焚火を挟み、ウペルとにらみ合う形となった。
お互いに言葉を交わすことなく、焚火の炎がゆらゆらと揺れている。
「――テヌフといったか。ここらで何をしてた」
ウペルが口を開いた。テヌフは視線をあげたが、こちらを見ておらず、炎を眺めている。
「……別に」
「別にというわけがないだろう。なぜそんな恰好をしている」
「わからない……目が覚めたら、馬も荷も無くなっていた。……だから、わからない」
すると、ウペルは鼻で笑った。
「なにがおかしい」
「いや、あまりにも間抜けでな」
「そんなに笑わなくてもいいだろう、こっちは全て失ったんだ」
残ったのは父の形見である両刃の斧と、腰に巻いた布きれのみである。
「気を悪くするな。それは災難だったな。賊でも近くにいるのか……、いや、賊でなくともか……。生まれは?」
「……テルシャ」
「聞いたことのない国だな」
「もうない国だ……」
語るつもりなど無かったが、久しく忘れていた人との交わりに心を緩めてしまったのか、自然とテヌフは故郷のことを言葉にしていた。