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翌朝、テヌフは目を覚ました。いつの間にか眠ってしまったようである。眠気によりまたまどろみに落ちてしまいそうになるものの、ぼんやりと目に入ったものが脳を覚醒させ、テヌフを現実に戻した。
「……」
その先に見えるものは青い空ではなく、こちらを見下ろしている仮面であった。おうとつもなく、のっぺりとした白い面に紅い塗料で化粧がしてあり、二つの穴からはこちらを見下ろしている瞳がある。
テヌフはとっさに起き上がり、両刃の斧を手に取ると、構えた。
その仮面の者は小柄で杖をついている。
「――お前さん、わしの言葉は通じるかえ?」
くぐもった声である。老人のようだ。テヌフは頷いた。
「そうかい、だったら良かったえ。驚かせてしまったようで、すまんのう。だから、少し力を抜いてはもらえないかえ」
「……面をとれ」
そういうと、「えっえっえ」と妙な笑い声をあげ、その者は仮面を上げてみせた。
「ほれ、人間じゃ。安心せい」
白い髭を蓄えた老人である。テヌフは構えた斧を下した。斧には牡牛の血がこびりついており、赤黒く染まっている。
向こうの空が明るくなっていた。吐いた息がかすかに白く広がり、すぐに消えていく。ゆっくりと朝日が顔を見せ始めた。暖かな光だ。まぶしく、左手で影をつくり、目を細めた。
「ひとつ尋ねるが、これをやったのはお前さんかえ?」
老人が杖を持ちかえ、つつくものがある。横たわった牡牛の亡骸だ。黒毛であったのか、とテヌフは知った。
「……腹が、減っていたんだ」
「ふむ、そうかえ」
そういうと老人はぶつぶつと独り言をつぶやきながら、亡骸に手を当てた。
じっくり観察すると、牡牛はみごとな体躯であったことがわかる。角も長く、太い。
老人が立ち上がり、杖の先を宙で廻し円を描いた。変な仮面をつけて、妙な老人だが、この土地ではそれが普通なのかもしれない。
「何を」
「少し別れの挨拶をな。すまんが、お前さん、その手に持つもので、角を切り取ってはもらえんかえ」
「……あんたの物だったのか? だったら、悪いことをした」
老人は首を振る。
「こやつはわしの物でもなんでもない。こやつはこやつ自身の物だ。しいていえば、顔見知り程度じゃ。じゃが、貰えるものはもらっとかんとな」
老人は白い歯を見せ、笑みを浮かべた。
「そうじゃ、そうじゃ、ついでに柔らかそうなところも切ってもらえんか。朝から肉が食えるとは、なんとも豪華な日じゃ」
テヌフはどうするものかと思案したものの、特に断る理由も見つからず、牡牛の角先を左手で持ち、根元にめがけて斧の刃を落とした。
「それでお前さんはなぜ裸なんじゃ?」
「色々と事情があったんだ」
とテヌフは肉を切りながら、昨晩の出来事を伝えた。
「……ふむ、なるほどそれは災難じゃったのう。えっえっえ、それにしてもなんとも、お前さんを見つけたときは驚いたわい。獣人かと一瞬思ったえ」
「獣人……?」
「なんじゃ、知らんのか、……ふむ、獣人とはな、うわさでは人の数倍の力をもち、岩など軽々と飛び越え、風のように走り去るらしい。
まあ、実際に見た者など一人もおらんがのう。もちろん、わしも無い。そもそも、そんなものがおるのかも疑わしいもんじゃて。
……ただのう、一瞬じゃ、一瞬じゃぞ、お前さんの姿を見て、もしや、とほんのちいっとばっかり期待をしてしまったわけじゃがな、えっえっえ」
と親指とひとさし指のすきまを開けた。
老人がその獣人たるものと期待したのは、テヌフの姿のせいであろう。腰にまかれた布のみで衣は着ておらず、手にも腕にも身体にも血と泥で染まっているからだ。血の香りに牡牛のあの最後の眼がよみがえり、吐き気を覚えた。
「どうしたかえ?」
テヌフは首を振り、切り分けた肉を差し出した。牡牛の亡骸から目をそむけた。
「これでいいか爺さん」
「おお、すまんのう」
老人は肉を葉で包み、腰縄で結ぶと、肩にかけた。
「――さて、行くかのう。それでのう、お前さんこれからどうするんじゃ? これも何かの縁じゃし、よかったら、これから一緒に飯でもどうじゃ。わしの連れが少し離れた場所におる」
老人の申し出にテヌフは少し考え、頷いた。
「ここらの土地のことを知りたい」
「ああ、ええじゃろ」
「少し待っていてくれ、荷をとってくるから」
テヌフはおもむろに立ち上がると、足のすねを遠慮なく触っていく草たちを煩わしく感じながら、歩を進めた。
あの嵐よりへ導かれたこの場所は岸壁で周りを囲まれており、中央にはあの牡牛が横たわっている。岸壁の下には木々が数本あり、果実が実っているようだ。上空より眺めれば、ぽっかりと穴が開いたように見えるのだろう。
荷はどうにかなるが馬はどうしたものかと思案しつつ、おぼろげな記憶を辿って昨晩抜け出た穴を探した。
しかし、不思議なことにその穴はどこにも見当たらない。片膝をつき目を凝らして辺りを見渡したが、やはりそれらしきものは見当たらなかった。
「――なにしとるんじゃ。早くせんと置いていくえ」
振り返ると老人がえっえっえとまた妙な笑い声をあげている。
この狭き空間に開いている穴がどこにも見当たらない、とテヌフが納得するまで、さほどときは必要とせず、わずかに見上げるほどの岩壁はぐるりと周りを囲い、ここから出てくださいと丁寧に教えるよう一つの亀裂がある。奥からすぐに光が覗けていた。
記憶違いでこの亀裂より入ってきたのだろう、と自らに言い聞かせ、岩壁の亀裂を抜け外に出てみたが想像していた光景とは全く違った。木々が天高く伸びるそこは森のなかであった。
「荷はあったかえ」
後から出てきた老人はいった。テヌフはその問いに答えず、辺りを探したが、やはり荷どころか馬の姿すら見えない。
「いったいどうしたんじゃ」
「俺の荷がここらにあるはずだ」
「ここらにのう……」
老人は不思議そうな顔で、テヌフを眺めていた。