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無限に広がる夜空には、何億もの星たちと満月が輝いている。テヌフはひとり草原に寝そべり、夜空を眺めていた。
昼間の暑さはどこか別の国へ出かけてしまったのか、少し肌寒くある。起き上がり、木の枝をたき火に投げ入れると、ぱちぱちと音をたて、炎はまた勢いを取り戻していく。
辺りはとても静かであった。
のどの渇きを感じ、皮袋を手にとったが、思いのほか軽い。水も残りわずかのようだ。一口飲み、栓を閉めた。
空腹を感じたが食糧はすでに底をついており、二日前にわずかな干し肉を食べたのが最後。あとは水のみで、しのいでいる。
馬は美味そうに黙々と草を食べており、テヌフも真似て雑草を口に運んでみたが、食えたものではなく思わず吐き出してしまった。
この永遠と続く草原に入って何日が経ってしまったのだろうか、テヌフは再び体を倒し、襲ってくる渇きと飢えから逃れるため、目を閉じることにした。
だが、眠りにつけるわけもなく、空腹を知らせ続ける腹を殴った。起き上がり、雑草を抜くと、次々と口にして腹を満たした。苦味と青臭さに吐き気を覚えたが、出かかったものを我慢して呑みこんだ。
頬を伝って落ちていくものがあったため、手に取って舐めてみると塩の味がする。目をこすり、うっすらと湿った手の甲を舐め、出たものを身体に戻した。
星が輝いている。
馬はいつの間にか立ったまま眠りについたようだ。テヌフは夜空を眺めながら、後悔していた。叫びたくあった。発狂したかった。だが、叫ばなかった。無駄な体力を使うわけにはいかなかったからだ。
わずかに風が吹き、頬を撫でていく。生暖かく、汗をかいた肌にまとわりつく嫌な風であった。
開かぬ左のまぶたにうずきを感じ、目を凝らしてみると、遠くの空で光が落ち、けたたましい音が後からついてくる。
そして、風が、強くなり始めたーー。
しだいに草たちが踊りだし、虫たちも慌ただしくなってくる。辺りが騒がしくなってきた。
テヌフは立ち上がり、両刃の斧を腰のベルトにさすと、たいまつに火をつけてから叫んだ。
「いくぞ!」
嫌がる馬に無理やりまたがり、腹を蹴ると、鳴き声をあげながら、地を叩き始めた。
永遠と広がる草原を一つの炎が駆けていく。
近づくにつれて風は荒れ、雷鳴が激しくなってくる。
上空では黒い雲が星たちの姿を隠していく。手綱を握るテヌフの力は自然と強くなった。
馬も考えを理解したのか、おびえながらも速度を上げ始めたので、身にまとったマントがばさばさと舞った。
一粒。二粒。テヌフは顔に落ちてきた水の感触を確かめ、喉を鳴らした。
空が光った。
すると、閃光が一つ、目前に走った。一瞬にして炎が昇り、辺りに飛び散った。
テヌフは突然の出来事に手綱を引き、馬の進行を無理やり左に曲げて炎を避けた。だが、勢いがあまり、そのまま投げ飛ばされてしまい、地へと叩きつけられた。背に激痛を感じたものの、どうやら生きてはいるようだ。
稲妻が落ちたのは樹のようであった。真っ二つに割れており、音を立て燃え続ける赤い炎は、強まる風によって次々と闇の奥へと消えていく。
やがて、雨が降り出した。
テヌフは目を閉じ、空に向かって口を開けた。雨水が勝手に身体のなかへと流れ込み、身体の渇きが癒されていく。
笑った。喉に痛みを感じるほど笑い続けた。しかし、その歓喜の声は強まる雨の音によってかき消されてしまうのであった。
雷鳴が響き、稲妻が雲を泳いでいる。
テヌフは腰に違和感を抱き、さしていた斧を抜いた。長さ一・五キュビット(一キュビット=約〇・四六メートル)の木製の柄の先には、刃渡り〇・三キュビットの両刃がつく。小物の斧ではあるが、所有する物のなかではもっとも高価であり、父であった男の形見でもあった。
ふと頬に暖かさを感じる。闇のなかで時折光る空にて姿を現したのは、こうべを垂れて顔を近づけている馬であった。
テヌフは馬の顔をなで、立ち上がった。
(どこか、安全な場所へーー)
雨は激しくなるばかりで、万が一ではあるが、その身に落雷がないとはいいきれない。テヌフはその場の状況がとても危ういものであった、と今更ながら気がついた。
馬がときおり光る空に脅え、暴れようとするため、マントを外して頭にかけてやると、少し落ち着いたようである。
しかし、どちらへと向かえば安全な場所へとたどり着くものか、たいまつの炎も消えてしまい、途方に暮れるものの、進まぬわけにもいかない。強風に押されるがまま、歩を進めた。
すると、わずかばかり先に微かな明かりが見える。
なぜこんな豪雨のなかに明かりがあるのか、そんな疑問など考えられぬほど雨風は強く、テヌフは歩を早めた。
炎がちらちらと燃えている。
たどり着いた場所は大きな岩場のようで、ぽっかりと横穴が開いている。馬一頭入っても十分すぎる広さはある。これで雨をしのげると安堵した。
どうやら、炎の正体は先ほど落雷によって裂かれた樹の破片のようである。火を消さずにここまで飛ばされてきたようだ。
幸いにもそこらに燃やすための枝や枯草が転がっているが、強風により炎はゆらゆらと揺れ、いまにも消されてしまいそうだ。テヌフは火の種のまわりに石をつみ、風よけをつくると、慎重に炎を育てた。
他の木々にもつくのを確認してから、テヌフは衣を脱いで乾かした。手のひらをたき火にかざすと、冷えていた手に熱が伝わってくる。
自ら嵐に突っ込んでいったにもかかわらず、やはり危険だとその場を去ろうとする、なんと身勝手であろうか、とテヌフは鼻で笑い、馬の顔を撫でたが、眠たいらしく、軽くあしらわれた。
やがて、雨は止み、風が静かになりだすと、夜空には再び星たちが姿を見せ始めた。
疲れが溜まっているのだろう、目を閉じれば、すぐにまどろみ、夢のなかへと落ちていきそうである。また、明日。明日になればきっと――、まだ湿り気のあるマントをかけ、テヌフは目を閉じた。
――だが、すぐさま目を開いた。
獣の鳴き声が聞こえた気がしたからだ。
テヌフは耳を澄ました。
やはり、聞こえる。気のせいではないようだ。
どうやら、この岩穴の奥からのようである。テヌフはマントをとると、たき火のかけらを拾って奥を照らした。人間が一人通れるほどのひび割れがあり、たしかに鳴き声はその先より聞こえている。裸のまま斧だけを持ち、その細いひび割れに身体を通すと、はいずりながら奥へと進んだ。
先は長いようでしばらく窮屈な思いをしていると、ふと風を感じた。
やがては狭き道にも終わりが見えはじめ、どうやら外へと通じる穴であったようだ。
テヌフは顔をだし、辺りを見渡してみると、ある一点に目が留まった。
それは満月の真下にいた。
息を殺し、距離を保ちつつ大きく右へ旋回し、その場に伏せた。地面は湿っているが、草が生えているため、足場の状態は悪くない。風は、向かい風。風下についた。これで臭いは感づかれないはずである。
地面に這いつくばり、じわりじわりと距離をつめていく。
そこにいたのは、一頭の牡牛であった。
みごとな角で、一突きされれば胴など、いとも簡単に突き抜かれてしまいそうだ。
牡牛は天を向いていた。月を、満月を見ているような気がした。
テヌフは上体を低く保つよう、起き上がり、右足を前に出し、左手は地面に添えた。斧の刃先を確認し、半回転させた。樹木の硬さに合わせて刃を使い分けるため、刃の形状が違うのだ。鋭さよりも、破壊力を求めた。
テヌフは地を蹴り、牡牛にめがけて、一気に加速した。
斧を振りかぶり、高く飛んだ。
全身をそって溜めた力を牡牛の左側より振り下ろした。肉を切る感覚が手に伝わる。そのまま振り切った。
牡牛が奇声をあげ、一瞬にして血の香りが広がった。
斧を右へ振って、左前脚を斬った。どうやら、浅かったようである。骨の感触が無かった。
テヌフは立ち上がり、牡牛との距離をとった。
牡牛は暴れまわり、逃げようとしたが、テヌフは再び斧を振りかぶり、牡牛へと突進した。
夢中で、斧を振り続けた。ねっとりとしたものを身体に浴びながら、息を切らしながら。
発見が多くあった。斧の振り下ろしかた、角度、手首の使い方など。使いこなしていたと勘違いしていたようである。斧を振るたびに、新たな発想が次々と生まれてきた。
――そして、どれほどのときが経ったのか、その巨体は力を無くし、倒れた。いまにも消えそうな鳴き声をあげ、けいれんを起こしている。
テヌフは歩み寄った。すでに命は尽きかけている。口のなかでは、すでに唾液があふれていた。
牡牛は、鳴き声をあげなくなった。
こと切れたのか。テヌフは斧を短く持ち、頭のほうへとまわると膝をまげ、牡牛の顔を見た。
息が無い。
テヌフは、一つ大きく息を吐いた。
「――ヴォオォオォオオ!」
突如、牡牛が吠えた。
テヌフは思わず尻をつき、斧を長く持って身構えた。
牡牛の左眼がこちらを見ている。その眼がこちらを見ている。眼を逸らすことができない。まるで金縛りにあったかのようで、身体がいうことをきいてくれない。
――だが、やがては、その眼に力が無くなり、消えた。
辺りは静かになった。
テヌフは斧を振り上げ、亡骸の頭へと振り下ろした。何度も何度も振り下ろした。皮をはぎ、肉を食らった。暖かさが、まだ残っていた。