00-06 シェイムの森のキャロット
内容は旧『00-07 ドライアドの少女』をベースに大幅に変更しています。
キャロットの髪色を小豆色から亜麻色に変更。幼女成分の増加。
アヤ・ヒシタニという名前をアヤ・ランバスに変更。
ぼんやりとした光に満ちた石造りの一室に置かれた木製のベッドに、少女が安らかな表情を浮かべながら胸を上下させ眠っていた。長いブロンドの髪が少女の右側に流れるように広がり、光にほんのりと煌めいている。陶器のように艶やかな白い肌、ぶっくらとした桃色の唇、目鼻立ちがくっきりとした愛らしいかんばせ。将来はさぞかし美人になるであろう外見である。
やがて少女の長い睫毛がぴくりと動き、瞼がゆっくりと開かれた。まるで吸い込まれそうな錯覚を覚える紅色の瞳は、寝起きのせいかどこかぼんやりとしており虚空を見つめている。
少女は右腕と右足をもぞもぞと動かすと、眠っている間に蹴飛ばしていた掛布団を抱き寄せ緩い笑みを浮かべ再び瞼を閉じた。布団の感触を楽しむように強く抱いたり力を弱めたりを繰り返し「ふひゃぁ」とだらしのない声を漏らした。そしてもぞもぞと身体を動かし一番よい体勢を見つけると、その動きを止め再び微睡みの中へと落ちて――
(おーい? 二度寝するなー! 起きろ起きろ!)
少女の頭の中に、はきはきとした女の子の声が響いた。その声で微睡みから引き戻された少女は、不機嫌そうに眉を寄せながらゆっくりと瞼を開いた。
「んぁぁぁ……」
少女は抱いていた布団から両手を放すと、両手を上に伸ばし寝ころんだまま大きく伸びをした。名残惜しそうに布団を見つめること数秒、ようやくベッドから上半身を起こした。
少女の視界に入ったのは白く細い身体。そして少しぶかぶかのワンピース――ローブと、大きく捲れ上がった裾から覗くドロワーズ。
――夢じゃなかった。できれば夢であってほしかった。
少女――リョウは何となく犯罪的な気分になりながら捲れた裾を直す。乱れを直したというのに、ローブの裾から伸びる白い素足が視界に入りどうにも決まりが悪い。ぼんやりとした思考そのまま、身体を動かしベッドから素足を下ろして腰かける体勢になった。
(おあよー、てぃーあ)
そしてティエリアに伝わったのは、間の抜けた舌っ足らずな可愛らしい声。
普段リョウが頭の中で会話するときは、身体から実際に発せられる声よりも少し低い少年のような声質なのだが、寝起きでぼんやりしているためなのかこの時は違った。そのギャップが見事にティエリアの感性を撃ち抜き、震わせた。
(ぶっ、何その声、超絶可愛い。もうちょっと聞かせて? もっとなんか言って?)
(んええ? どゆこと?)
昨日会話したリョウの様子からはとてもではないが想像できない様相に、ティエリアは歓喜の声を上げそうになった。だがここで覚醒させては勿体ないと思い自制すると、リョウが覚醒しきるまで中身のない会話を交わし、その可愛らしさを堪能し悶えるのであった。
*―――――*―――――*
(うわ、ほんとに傷治ってるや)
覚醒したリョウは左手でビスケットをうまうまと食みながら左上腕部を見つめていた。包帯代わりにしていた布は既に外しており、傷口は綺麗さっぱりと消え滑らかな白い肌が露わになっている。試しに左腕を持ち上げたり回したり握ったりと動かしてみるも、全く支障なさそうであった。
驚きの混じった声を発したリョウに対し、ティエリアは少し得意げな様子を含ませて言う。
(急速回復の技能のおかげ、ってのもあるんだけど、一番の要因はそのビスケットだよ)
(これ?)
リョウは齧り半端な形になった星型のビスケットを見つめる。塩気や甘みだけではなく、不思議な“濃厚”さが原因かなとぼんやりと考えた。
(そのビスケットは吸血鬼族に合わせて作った上、なんと薬効があるのさ。【ポクポ】草の変種……って言っても分からないか、珍しい薬草とかを練り込んでるんだよ)
ビスケットがきつね色ではなく黒色をしている時点で何か混ぜ物をしている、とは誰にでも分かるだろう。ただそれはフレーバーのためではなかった。一晩で動かなかった腕が動く程の効能の代物であった。それが尋常のものではないと察したリョウはおずおずとティエリアに問いかける。
(その、これ、そんな効果あるなら、ご飯にするより取っておいた方がいいんじゃない?)
(……たしかに、そうかも。だったら普段は他の物食べて、特製ビスケットは三日に一度くらいにしようか)
少し考え込んだ後にティエリアはそう提案した。なんだか食い意地の張った子供のようだとリョウは思い苦笑しかけたが、続く言葉で表情も頭の中も凍り付いた。
(今のリョウだと吸血するのは難しいでしょ? 処理したドラゴンの血も練り込んでるから、大体それくらいのペースで食べていれば問題ないよ)
「……吸血、血」
リョウはティエリアが言い放った言葉の一部を呟いた。どうやらその単語が頭の中に入ってこないようで、何度か繰り返す。やがてその意味を咀嚼し終えると、たどり着いたキーワードをぼそり。
「吸血鬼族」
読んで字のごとく、血を吸うと書いて吸血。
リョウが舌を動かすと、すぐに舌先は尖った犬歯に当たった。その存在を確認するように舌を絡める。間違いなくその尖った歯は存在していて、歯先から舌を引っ掻くような刺激が返ってくる。
「なるほど、そりゃそうだ。あはははは」
リョウは牙を覗かせ笑い声を上げながら、ベッドに転がった。
鋭い牙を以って人の血を啜り栄養源とするという怪物――吸血鬼は日本でもよく知られている存在だ。いまやその吸血鬼となったリョウ自身が、ティエリアがわざわざ日本語で「吸血鬼」と言っている存在が、血を必要としていないはずがない。その事実に今更気づかされたのである。
リョウはひとしきり笑い転げると、再び座り乱れた髪を後ろへ払った。
(ねえティア、俺の知識の『吸血鬼』とこの世界の吸血鬼、似てるところがあると思うんだけど。その違いについて聞いておきたい)
(ああそっか。リョウの知識に含まれてたから省略したけど、そこのところちゃんと説明しておかないとね。ええとリョウの世界の吸血鬼は……弱点多っ!? 【アンデッド】じゃあるまいし、日光がダメとか意味わかんないっ)
この世界の吸血鬼族は夜と闇の種族と呼ばれ、多種多様な種族の中でも上位に位置する存在である。見かけからは想像もつかない強靭な肉体と再生能力を持ち、紅色の目を持ち夜目が効く。月光を浴びることで魔力効率を増幅でき、【血操術】で血を操る。
弱点となりうるものは、まず銀の武器。銀で傷つけられると激しい痛みに襲われるため注意が必要である。次に夜に強く朝に弱い性質があるが、これは慣れ次第で克服できるという。後は定期的な血の摂取が必要なことに気を付けていれば、他に弱点らしい弱点は特に存在しない。
地球では吸血鬼は死者が蘇ったものという伝承があるが、フォアグリムでは吸血鬼は数多の種族の内の一つだ。死者が動く魔物であるアンデッドとは全くもって関係がない。
(この世界にも【ウニール】や香草で追い払えるなんて逸話はあるんだけど、完全な間違い。でも一理あるのかな、吸血鬼族は鼻が利くし、あの臭いは苦手なヤツはとことん苦手だから)
ティエリアの考察を聞きながら、リョウは内心冷や汗をかいていた。思い返すは昨日の日中の散策。もし地球での伝承通りであったならば、うきうきと水浴びに出向き、そして灰燼に帰していただろう。
そうこうしているうちにビスケットを食べ終えたリョウ。ビスケットの入っていた袋の口を閉めると森を抜ける準備である。髪をリボンで後ろに纏めブーツを履く。カバンを肩に掛け、ミスリルの短剣は直ぐに抜けるように左手に。
準備を整えた姿は、短剣が無ければ森歩きをするよりもむしろ街歩きをするものであった。「よしっ」と呟き気合を入れている様子だがどうにも締まらない。
遺跡の外に出ると、森は薄暗く木漏れ日は弱々しかった。木漏れ日の角度から察するにまだ早朝なのだろう。リョウは欠伸を堪えくぐもった声を漏らした。向かうは湖の方向、まず洗濯物の回収である。
一晩干した結果、下着は乾いていたが、穴の開いた真っ黒いローブはまだ少し湿り気がある様子。リョウは少しだけ考え込む素振りをみせると、周囲に目を向けた後いそいそと真っ黒いローブに着替えた。穴は開いているが、やはり見栄えのよいローブで森を歩く気にはなれなかったのである。
(こういう破れって、普通は直して着てるものなの?)
(平民や低・中級冒険者の多くはツギハギしてるね。ここ百年くらいでコットン栽培は盛んになったとはいえ、服を頻繁に買い替える余裕がある層はあんまし多くない)
(ふむふむ。平民……ってことは貴族がいるのか)
(勿論。ほとんどの国が王制だよ)
貴族という言葉にリョウは眉を寄せた。地球において、時代にもよるが特権階級は面倒な存在だったはずだ。昨日の湖に映った、人形のように整った顔つきを思い出してため息をついた。面倒なことにならなければいいのだけれど。
最後に物干しにしていたロープを仕舞いカバンをかけると、ふと思い立ったようにリョウは左手に持つミスリルの短剣を抜き空を薙いだ。手首を返し袈裟に銀閃を走らせると、頷きながら短剣を鞘に納める。長く伸びた雑草のひとつが宙を舞い半分に分かれ、ふわりと地面へと落ちた。
(調子は上々、かな?)
(うん。昨日みたいな不覚はとらない)
気合も上々に、目と耳の神経を尖らせ周囲を警戒するリョウ。この森が危険である事は昨日嫌というほど味わったのである。同じ事を繰り返す気はさらさらない。
結果としてリョウが最初に捉えたのは、
(――歌?)
小鳥の囀りのような可愛らしい声が、穏やかなメロディを奏でている。おかしな話だが、森の中に居るというのに、まるで森のざわめきを感じさせるような歌声であった。
*―――――*―――――*
「~♪」
湖の畔で、萌葱色のワンピースを纏った少女が岩に腰かけていた。彼女は目を瞑り、ゆったりと身体を亜麻色の髪を揺らして歌を紡いでいる。リョウの知識にない言語であり、それはティエリアも同様であった。そのためか、声ではなく一つの楽器が歌を奏でているようであった。
(女の、子……? 何でこんな危険なところに?)
(その姿のリョウが言う言葉じゃないと思うよ?)
ティエリアの返しに苦い表情を浮かべながら、リョウは穏やかに歌う少女を見つめる。ぷにっとした頬が印象的で、見た目はかなり幼い。幼女といってもよい見た目である。見た目相応に足をぷらぷらと揺らし微笑ましい光景であった。
やがて少女は歌い終え、閉じていた目を開いた。蒼色のくりっとした眼である。彼女はぼーっと湖面を見つめ、そして視界にリョウの姿が入っていることに気づいたようで、はっとした様子で視線を交わした。紅色と蒼色、対称的な色の瞳が朝日に照らされて、まるで水晶のようにきらきら輝いている。
数秒だろうか、数十秒だろうか。暫くの間、互いに言葉を交わすことなく見つめ合う。リョウは少し口を開きぽかんとした表情で、少女は目を丸くして。互いに思う事は同じであった。――綺麗な瞳。
先に我に返ったのはリョウ。コミュニケーションの基本である会話をと、ひとまず選んだのは人族共通語。
「……こんな森の中で何をしてるの?」
森に迷い込んだ子供だろうか。いや、だとすれば魔物が出る森でのんびりと歌っていた理由が説明できない。この世界の住民ならば魔物が非常に危険な存在であることはよく知っているだろう。ならばこの蒼い眼の少女は、もしかすると見た目通りの存在ではないのではないか。
(念のため言っておくけど、用心してね)
(言われなくとも)
ティエリアの見解も同じであった。リョウはいつでも逃げ出せるような心構えのまま少女に近寄る。
そんなリョウ達の警戒とは裏腹に、彼女はだたぱちぱちと目を瞬かせた。
「えと、歌っていました?」
「……そうだね、でも、魔物が出るから危ないよ?」
「危ない魔物さんからは逃げるよ?」
「うん――うん?」
言葉は通じたが、どうにも話が噛み合っているようで噛み合っていない気がする。リョウは人差し指を顎に当てる。見た目通りのただの子供ではないというのは分かった。では一体この少女は何なのだろう。
「冒険者?」
「違うよ。お姉ちゃんは冒険者?」
「お――わ、私も違うよ」
少女から「お姉ちゃん」と呼ばれたことにリョウはぎょっとしながらも、言葉遣いに気を付けながら答える。この身体で「俺」という一人称はまずいという判断だった。
少女は蒼い眼を左右に揺らすと、腰かけていた岩の上からぴょんと飛び降り、リョウの紅色の瞳をじっと見つめた。
「私はキャロット。キャロット・シュレスです。お姉ちゃんのお名前はなあに?」
「お、私は――」
――菱谷涼介? 今の俺は、誰なのだろう。
キャロットと名乗った蒼い眼の少女を前に、紅い眼の少女は言葉を詰まらせた。この身体に涼介という名前はそぐわない。ならば何と名乗ろうか。
「――アヤ。アヤ・ランバス」
「アヤ、アヤお姉ちゃん」
名前を繰り返し、左手の指先でワンピースの裾をいじりながらじっと地面を見つめるキャロット。その仕草に、はて、どこかで見覚えがあるような、と考え込むリョウだが、やがて得心がいったかのような表情を浮かべる。妹が何かお願い事をする時の癖によく似ていたのだ。遠い日々の中の妹の姿を幻視して目を細める。
やがてキャロットは意を決したかのように顔を上げた。
「わ、私とお友達になってくれませんかっ!」
「へ?」
思いもよらぬ言葉に目を丸くするリョウに、キャロットは目を伏せながら続ける。
「私、一人でこの森に住んでるの。それでね、森に住んでたり、森に来るいろんな人とお話しようとしたの。でも仲がいい魔物さんとはお話ができなくて、この森に来る冒険者さんは恐い人たちばっかりで」
段々と尻すぼみになっていく声。キャロットは口調からして年齢または知能は見た目相応なのだろう。そのような幼い子が、森の中でひとり孤独に暮らしていた。果たしてどれほどの心細さの中で生きてきたのだろうか。
(ティア――)
(分かってる、けど判断材料が少なすぎる)
(この子からは全く悪意を感じない)
(うん、それはわたしも感じてる。だからその確認。“ドライアド”なのかどうか聞いてみてくれないかい?)
(それはいいけど、ドライアドって何?)
(その質問は後でね)
会話をぶつ切られたリョウはキャロットに意識を向ける。彼女はそわそわと上目遣いでリョウをじっと見つめて返事を待っていた。その様子はまるで不安を感じている小動物のようだ。
「一つだけいいかな。キャロットちゃんはドライアドなの?」
キャロットはぎゅっとワンピースを掴みながら答える。
「うん、そうだよ。……アヤお姉ちゃんは、吸血鬼族、だよね?」
リョウは視線を彷徨わせた。隠し通そうとしていたことを早々に見抜かれ、明らかに動揺を見せている。
(大丈夫、“調和神様の御子”なら安心できる)
(ちょうわ……? え、どういうこと?)
(吸血鬼族だと見抜かれたのも問題ないってことさ)
安堵を含んだティエリアの言葉に疑問を浮かべながらも、リョウは一旦目を閉じ、こほん、と可愛らしく咳払いした。
「うん、そうだよ。――友達になれて嬉しいよ、キャロットちゃん」
「――っ!! よろしくね、アヤお姉ちゃん!」
キャロットは不安げな表情から一点、満面の笑みを浮かべた。その屈託のない花のような笑顔はリョウの胸をほんのりと温めた。
(きゃー! キャロ可愛いすぎっ! 出来ればお持ち帰りしたい!)
そしてキャロットの笑みに当てられたのか、ティエリアは軽い暴走状態に陥った。リョウは分からないでもないけれど、と内心苦笑いを浮かべながら笑顔を返す。
「こちらこそ、よろしくね」
笑顔を浮かべるふたりに一際強い風が吹き、その髪が大きく揺れ煌めいた。
*―――――*―――――*
【ドライアド】。調和神の御子とも呼ばれるこの種族は、森に生き森の調和を保つ存在として知られている。彼らが住まう森は動植物が豊かで、冒険者達による魔物の間引きがなくとも、森から溢れた魔物の大群が人の住まう処を襲う、【スタンピード】と呼ばれる災害が起こらないのだという。また様々な知識を有し、森と共に生きる【森人族】などからは崇められる存在なのである。
そんな存在であるキャロットは、シェイムの森の中をまるで散歩するような軽い足取りでリョウを先導していた。キャロットの前の深く生い茂った草や木々は、道を作ってくれるかのように左右に割れるという摩訶不思議な動きをしてふたりの行く先を作ってくれている。『森渡り』という【精霊術】による効果だ。リョウはその光景に目を奪われつつも、周囲の警戒をしながらキャロットを追ってその道を辿る。
「アルレヴァ――あっち方向にあるっていう街を目指してるんだけど――」
「なら私が案内するねっ」
発端となったのは短いやり取り。手を握りしめ張り切った様子を見せるキャロットにリョウが押し切られ、道案内をお願いしたところこれであった。
(やー、快適快適。キャロの【精霊の加護】は一味違うね)
ティエリアは平常運転である。この世界に生きる者にとってありふれた光景なのか、それとも千年近く生きるティエリアだからこそ出てきた言葉なのかリョウには判断がつかない。だがその気の抜けきった様子に、吸血鬼族だと見抜いたキャロットは本当に問題はないのだと安堵し歩みを進めた。
唐突にキャロットの右前方からガサガサと草をかき分け踏みしめる音が鳴る。
「アヤお姉ちゃんっ」
「うん、こっちも聞こえたっ!」
キャロットの鋭い声にリョウは頷き位置を交代する。道なき道が本当に道になるとはいえ、魔物がうろついていることには変わりはない。例えばホーンラビット――角の生えたウサギの魔物――ならばキャロットと仲がいいらしく、ぷうぷう鳴いて擦り寄る様は見ていて微笑ましいのだが。もちろんそういったキャロットと友好的な魔物とばかり遭遇するのではないのだ。
茂みから現れたのは身長がキャロットよりも低い、濃い緑色の皮膚を持つ二足歩行の魔物だ。まるで飛び出しているようなぎょろっとした目、引き延ばされたような鉤鼻、口の端から覗く不潔にてらてらと光る黄色い歯。泥にまみれ薄汚れた身体には何も纏っていなく、右手には木を粗削りした棍棒を握っている。ゴブリンと呼ばれるE+ランクに該当する魔物だ。低いながらも道具を使う知能を持ち、群れを成して暮らし、繁殖能力が高い。そして女子供を狙って襲い人肉を食らうという性質から冒険者の間で積極的な討伐が推奨されている。
本日三回目の遭遇に、近くにティエリアのいう巣でもあるのかと疑問を浮かべつつも、リョウは抜剣しゴブリンに肉薄。相対加速を使い振り下ろされる棍棒を躱すと、首を狙う一閃を放った。刃は狙った位置を通過しなかったものの、首の根付近を斬り裂き危なげもなくゴブリンを仕留める。
血を噴出させながら崩れ落ちるゴブリン。リョウはその血を浴びないように気を付けながら傍に寄ると、恐る恐る討伐の証である右耳を切り落しカバンに括りつけた袋に仕舞った。
まだ慣れぬ作業をこなすリョウの後ろで、キャロットは目を輝かせながらその様子を見つめていた。彼女にとって、襲い掛かってくる魔物はただ逃げるしかなかった存在だ。それを目にもとまらぬ速さで一撃だ。綺麗な姿、綺麗な瞳、初めての友達。それに凛々しい姿が追加されのだ。剣を使え、さらに魔術まで行使できるアヤはキャロットにとって憧れになっていた。
「アヤお姉ちゃんすごいっ! 一撃だよ一撃!」
「私なんてまだまだだよ」
スプラッタな光景を前にはしゃぐキャロットにリョウは苦笑いを浮かべる。命が懸っている上にお金に換えられるとはいえ、殺し死骸の一部を切り取るのは気が重い。それが人型とならば猶更だ。身体の重さを振り払うかのようにかぶりを振る。
(ティア、お願い)
(了解っ)「火よ、我が望む。死したるものに永久の眠りを」
ティエリアの『焼却』によりゴブリンの死骸が白炎に包まれる。その様子を確認したリョウはキャロットに振り返った。
「さ、行こうかキャロ」
「……きゃろ?」
不思議そうな表情を浮かべるキャロットに「あ」とリョウは短く声を漏らした。ティエリアがキャロットのことを「キャロ」と呼ぶからか、引きずられてしまったようだ。
「ええとほら……キャロットだからキャロ。愛称にどうかな……って思ったんだけど」
「キャロ……キャロ。えへへ」
しどろもどろの誤魔化しに気づく様子を見せずに、キャロットは笑みを浮かべた。どうやら愛称がお気に召したようだ。そんな些末な事を心から喜んでいるキャロットに、リョウは思わず手を伸ばし頭を撫でていた。
「アヤお姉ちゃん?」
「おっと……先行こうか」
「うん!」
それからは魔物に遭遇することなく、四半刻程で森の端に着いた。まばらに生える木々の間からは遠く石造りの壁のようなものが見える。おそらくあれがアルレヴァなのだろう。
リョウはちょっと着替えてくるね、とキャロットに言うと、木の陰に隠れ穴の開いたローブから見栄えのいいローブに着替える。リョウには幼い女の子に着替えを見せつける趣味も、ボロボロの服で街に行くつもりもなかった。前者は外見だけに限ると全くもって問題ないではあるが。
やはり目につく部位に大穴の開いた服より、まともな服の方が気分がよい。風でローブの裾がはためいたり、下半身がスース―するのに慣れないのは仕方がないだろう。リョウはまだ女の子歴一日である。
「キャロはどうする? このまま私に着いてくる?」
「私はこの森を守らないといけないから」
寂しげに笑うキャロット。どうやらここでリョウとはお別れのようだ。そんなキャロットの様子にどうしたものかとリョウは腕を組み考え込む。一緒に行動しているうちに情が移ってしまったのだろうか、このままさよならというのはどうにも後味が悪い。それにキャロットとは友達になったのだ、せめて街でこの世界に慣れ必要なお金を貯めるまではできるだけ一緒にいてあげたい。
(ティア。冒険者って、この森での仕事ってあるんだよね?)
(うん。低ランク向けの採取依頼から討伐依頼まであるよ)
元々冒険者になるのは予定通りである。冒険者は登録に必要なのが少々のお金のみ。今のリョウのような後ろ盾もない住所不定無職の少女ですら就くことができるのである。
「アルレヴァに行くって言ったけど、そこで私は冒険者になる予定。そして暫く戦う術を勉強しながらお金を貯めるんだ。だから――」
にこり、とリョウはキャロットに笑いかけた。キャロットは冒険者と聞いてまさか、と目をぱちくりさせる。シェイムの森には度々冒険者が来て、魔物を狩ったり採取を行っているのである。つまり――
「また会いに来るね、キャロ。次はもっと色んなことをお話したりしよう?」
キャロットは満面の笑みを咲かせ、大きく「うん」と頷いた。
「――そうだ、アヤお姉ちゃん。これあげるね」
キャロットはワンピースの前ポケットを漁ると、蔦がストラップのようについた胡桃のようなものを取り出し、リョウに手渡した。
「これは?」
「私が作った鈴! この森に来たときに鳴らしてね。すぐ会いに行くから」
リョウはキャロットのお手製だという鈴を転がすと、カラカラと低く鈍い音が鳴った。中が空洞になっており、何か固い物が入っているようだ。素材は違えど確かに鈴であった。蔦を摘んで軽く振ってみると、カランカランと軽快に音が響いた。
(位置を伝える【魔道具】の一種かな?)
ティエリアが興味を隠せていない声音で鈴をいじりたそうにしているが、リョウは(後でね)とさらりと受け流しキャロットへ視線を戻す。
「ありがとうキャロ。大事にするね」
リョウはお礼を言ってキャロットの頭を撫でる。はにかむキャロットにほんわかするリョウとティエリアだったが、このままではいつまで経っても出発できないので名残惜しくもその手を放した。
「じゃあ……四日以内にまた来るね」
「うん、またね、アヤお姉ちゃん!」
数日のお別れは笑顔で、ささやかな約束を胸にして。ささやかといえど、キャロットにとってそれは世界を彩る花であった。
リョウが何度も振り返ってはキャロットへと手を振っていたのは余談である。