01-09(旧) 災厄の予兆
18/01/08 サブタイトルの変更(旧の追加)
それから暫くキャロが離れたがらなかったので、仕方なく事情を話してようやく無事にお花摘みを済ませることができた。本当はもう少し一緒に居たかったのだけど、黒歴史を生産するかの瀬戸際だっただけに仕方がない。戻ってきた時キャロは申し訳なさそうに赤面していて、なんとも微妙な空気が広がった。
そんな中俺がやっとのことで口にできた「き、気にしないで……」という言葉とキャロの誤魔化すような返事でなんとかその空気から脱したけれど、このいたたまれなさはしばらく続くのだった。
そしてこの身体のトイレ事情は俺に恨みでもあるのかと愚痴りつつ、グリズリーの手を回収した。ティアによるとこの熊の手は冒険者組合の窓口が買い取ってくれるらしい。毛皮ならまだ分かるけれど、熊の手とか何に使うんだよ。
毛皮はもちろん放置することにした。ティアは買取してくれるのはもちろん、野宿とかする時に使っても暖かいよ、と言ってたけれどやりたくないものはやりたくない。じゃあ代わりにティアがやってくれる?とオートモードにほんの少しだけ期待してみたけれど、ティアもやりたくないみたいだった。やりたくないことを押し付けるべからず。
その後はグリズリーみたいな強敵とは遭遇することのないまま、お昼時を迎えた。メインは大量に採れたルコの実。昨日今日ですっかりこの森での食事の定番になってしまったなあ、とぼんやり考えながらかじると、相変わらず癖になる味に頬が緩む。この身体になってからすっかり甘いものが好きになってしまったようだ。
(あはは、甘いものは命の源だからね、しかたないしかたない)
からかうような口調のティアにむー、としつつ、あえて次もルコの実を食べる。気に入ってしまったのだから仕方ないし、前の男の身体ならともかくこの身体だったら変には見えないだろ、ふん。
キャロはキャロで何とも言えない視線を向けてきてるし、二人して一体何なんだと思いつつも、いっそのこと開き直って思い切り甘酸っぱさを堪能する。
その結果、食べ過ぎてぽっこりお腹になってしまった少女が出来上がった。まともに動けないくらいお腹がきつくて、一体何をしてるんだ俺……と軽く自己嫌悪に陥る。魔物のうろつく森の中なんだしどう考えても自殺行為だろ。
「いざとなったら私が魔術でなんとかします!」なんてキャロは言ってくれたけど、心強いのか心苦しいのかよく分からない気分だ。そもそも手伝わせてくれないかな、なんて言っておきながら大して役に立ってないし、足まで引っ張ってるとか俺も割と残念だったり……?あわわわ。
そんな残念な俺が動けるようになるのは小一時間後だった。
―――――
最初に感じたのは、一つの魔力の反応だった。それが二つ、三つと瞬く間に増えていき、キャロに警戒を呼び掛けた時点で既に把握できない数まで増えていた。俺が魔力の反応の数を正確に感じられるのは五つまでだったりするので、それ以上の数のもの―おそらく魔物である―がこちらに向かっていることが分かる。
剣を構え警戒している中現れたのは、黒い靄に覆われた何かの群れ。見たところ犬みたいな四足歩行の生物だけれど、黒い靄に覆われて見た目がよく分からない。体長は一メートルにも満たないくらいなのだが、謎の黒い靄の存在にいつもよりも警戒レベルを引き上げた。
そのまま群れは俺たちを囲むように移動している。見たところ二十近くの数とその動きにキャロを逃がしてから戦うのは逆に危険だな、と内心で舌打ちし、ティア先生にこいつらのことを尋ねる。
(ティア、この魔物っぽい奴について何か分かる?)
(んー、纏ってる漆黒が薄いし、大した大きさでもないから、たぶんレッサーシャドウハウンドかな。危険度は17で、特徴は漆黒の息吹を吐いてくること。漆黒の息吹の範囲は視界が悪くなるんだけど、吸血鬼族は夜目がきくからあんまし影響はないよ)
(ブレス? ドラゴンとかが吐いてくるとんでもないもの、って印象だったけど、こんなのが吐いてくるのか……)
俺の中にあるブレスのイメージは、凄まじい炎の渦で一瞬で消し炭になるような凶悪極まりないものだ。ティアから聞いた話で感じたのはただ黒い霧をまき散らすような印象で、とても俺のイメージの中のブレスという単語と結びつかないものだった。
(あはは、妙に尖がった知識だね。体内にブレス用の器官をもつ魔物はドラゴンだけじゃなくてたくさん居るよ? ……とはいっても、レッサーシャドウハウンドはシェイムの森には生息していなかったはずだし、こいつも山の方から追われてきたのかな)
(たぶんそうだろうな。それとこれは勘なんだけど、進行方向から逃げてきた気がしてならない)
(……無理そうな魔物と遭遇したら全力逃走だね!)
キャロの魔術と吸血鬼の脚力による全力逃走はもれなく脳内で可決された。
剣で群れを牽制しつつ、近くの直径二メートル近くはありそうな巨木まで移動する。これだけの太さがあるなら、背後のカバーに使えるだろうとの判断だ。
「キャロはこいつらに見覚えはある?」
「間違いなくこの森に棲んでいない子たちです!」
「うん、これで確定かな。こいつらもたぶん何かの存在からこの森に逃げてきたんだろう」
キャロの言葉でティアとの予想の確証が得られた。杞憂であるに越したことはないけれど、念のためにと先程の脳内会議の内容を加えた行動方針をキャロに伝える。
「キャロは左側から向かってくる魔物に拘束。私は他を受け持つから、まずはそっちに集中して。手が空いたらこっちの援護をしてくれると助かるかな。
あと私が合図したら一点突破して全力で逃げるよ! こいつらが追われた原因が現れるかもしれないからね!」
「あいさです! ふふー、今こそ私に秘められた力を見せる時です!」
そんな自信あり気な返事に、少し心強さとむずがゆさを感じる。思えばこの世界に来てからはずっと一人で戦っていたのだ。初めて協力して戦う事に際して、誰かが隣にいる感覚というのも、悪くないと思った。
ちなみに拘束はキャロが使えると言っていた魔術で、草や蔓で相手を拘束する魔術らしい。聞いた限りでは割と汎用性がありそうだが、素早い魔物にはたして効くのだろうか。念のため、すぐにキャロのカバーに入れる動きを心がけることにする。
俺たちとレッサーシャドウハウンドの群れが睨み合う中、キャロの魔術を皮切りに戦闘が始まった。
「精霊よ、集え。森の管理者たる私が望むがままに、拘束せよ!」
左手にいるレッサーシャドウハウンドのうち一匹の足元から蔓が生え、一瞬で足へ、体へと絡みつくのが見えた。拘束途中で逃げられるかもしれない懸念は杞憂だったようだ。
群れのうち、キャロへと二匹、俺へと二匹と遅れてもう一匹が駆けてくるのが見える。キャロを狙う二匹の距離には差があるので、即座に次の詠唱を始めた拘束だけでどうにかなるだろう。
戦闘の余波でキャロの集中が乱れないように、こちらに駆けてくる三匹へ少しだけ距離を詰めた。
先行する二匹のレッサーシャドウハウンドは狙ったかのようにほぼ同時のタイミングで正面と右側から飛びかかってくる。俺は右側の一匹へと距離を詰めて正面からの噛みつきを躱し、右から角度をつけ思い切り力を込めて剣で払う。
頭骨を砕く感覚を感じつつ吹き飛ばした一匹を横目に、剣の勢いを殺さないように半回転する。そしてこちらへ後姿を向ける、先に躱したもう一体へと踏み込み、側面から首へ剣を叩き込んだ。その一撃により頭と胴体が離れ、頭が地面を転がるのに続くように胴体が崩れる。
そして振り返ると、致命的に遅すぎるタイミングで飛びかかってくる一匹へ文字通り直線に剣を放つ。力を乗せた、単純な突きだ。剣は目に突き刺さり、そのまま眼窩の周囲の頭骨を粉砕し頭骨内へと突き立った。さらに剣を捻り頭骨内を確実に破壊した後、突き刺した剣で持ち上げているような形になっているレッサーシャドウハウンドを、振り払うような動作で転がして剣を引き抜く。
近くに転がる二匹分の死骸を、俺は邪魔だと言わんばかりに明後日の方向へ蹴り飛ばした。戦ってる最中に踏んで転ぶなんてことになったら目も当てられないもんな。
周囲へ目を向けると、キャロの側のレッサーシャドウハウンドがちょうど地面から生える蔓に絡め取られる所だった。その周囲には既に簀巻きのようになった二匹がいるので、第一波は片付いたのだろう。
そして遅れて続く新手。キャロに三匹、こちらに三匹プラス遅れて二匹が駆けてくる。その他のレッサーシャドウハウンドもじりじりとこちらに近づき、包囲を狭められる。今度は数が多すぎるので身体加速を使う事を決め、タイミングを窺う。
視界の端に、こちらに駆けてくる内の一匹が大きく口を開くのが映った。そのあからさまな動きに、ティアから教えてもらったアレがくると予測する。
「ここで漆黒の息吹かっ! キャロ、右側から漆黒の息吹が来る。木を左に回り込むぞ!」
木を盾にするかのように位置を変えると、数拍の後、左右の視界を黒色が塗りつぶした。いや、塗りつぶしたように見えた、か。俺の眼には黒色の向こうに、ブレスを気にする様子もなくこちらへと駆けてくるレッサーシャドウハウンドが見える。
「あわわわ、これじゃ何も見えません…!」
おそらくキャロの眼では目の前が黒色で塗りつぶされたように見えるのだろう。視線が黒色のあちこちに向き、明らかに慌てている様子のキャロの頭にそっと手を乗せる。それにしても吸血鬼の身体じゃなかったら絶体絶命だったぞこれ。ショボそうだと舐めていてごめんなさい。
「キャロ、落ち着いて。私の眼なら見えるから、大丈夫」
キャロはその言葉にぽかんと口を開けてこちらを暫し見つめた後、反応が遅れたかのように目を輝かせた。
「さ……さすがアヤお姉ちゃんです! 凄すぎて意味がわからないです!」
聞いてるこっちこそ意味が分からないキャロの言葉に苦笑しつつ、黒色へと目線を戻す。レッサーシャドウハウンドはさっきから迷いなくこちら目がけて駆けてきているし、これはあちらさんも見えてるな。
時間差をつけて三匹と三匹と二匹が距離を縮めてくる。この数に、キャロへの視界阻害。これは俺がやるしかないんだろうと気合を入れる。
キャロにちょっと相手してくるね、と気楽さを努めて言い、頭に置いた手を離す。そしてちょうど最初の三匹が黒色へ到達するくらいのタイミングで、身体加速と念じる。
久しぶりのスローモーションの世界の中、黒色の中のレッサーシャドウハウンドへと踏み込む。初めは右の一匹の頭に斬り上げの一撃。続けて半円を描くように手首を返し、真ん中の一匹へと袈裟斬り。そのまま体を捻りながら左へ一歩動き、最後の一匹へ力任せの薙ぎ。両刃の剣だからこそできた動きに、両刃の剣は両刃なりの利点があるのだろうと感じる。
そして後続へと踏み込むと、薙ぎ、斬り、斬り、突き、薙ぎと蹂躙するかのように一呼吸の間に屠る。
身体加速を解除すると、一瞬の間に頭をかち割られ、目から頭骨内を抉られ、首を落とされたレッサーシャドウハウンドの死骸が八匹分転がっていた。
(いやー、こうして剣士が実際に見てる光景を目の当たりにすると、強いのにも納得がいくねえ)
(剣士というか、身体加速で素早くただ力任せに剣を叩きつけてるだけなんだよなあ)
(またまたー、謙遜しちゃって。さっきの戦い、流れるように一つ一つの動きが全部繋がってたよ。間違いなく腕が上がってきたんじゃないかな?)
俺の中では今までで一番上手く動けたと思ってはいるのだが、動けば動くほど見えてくる選択肢の多さに頭がくらくらしている。剣が上手いというのはこの引きだしを如何に的確に、変幻自在に引き出せるか、そしてそれらの一閃一閃に技術が乗っていることなのだろう。だからこそ、先ほどのティアの言葉を素直に受け取ることができなかった。
「アヤお姉ちゃーん! 無事ですかー!?」
そんな中、まだ視界の奪われた場所にいて状況が把握できてないキャロの声で我に返る。黒色の向こうに、目線をあちこちに向け不安そうに警戒しているキャロの姿が見えた。
レッサーシャドウハウンドの残りは四匹(プラス拘束中三匹)といったところか。一瞬で屠られた同族に警戒しているのか、包囲を狭めるのを止め、こちらの動きを窺うかのように俺達の周りをゆっくりと歩いている。この様子ならひとまずは手出しはされなさそうだ。
「大丈夫ー。今からそっちに向かうねー」
ほっと息をつくキャロを見つめながら、今のうちに視界の広い場所へ誘導するべく、黒色へと足を踏み入れる。
俺の姿が見えたからなのか、表情が和らいだキャロの手を取ると、そのまま黒色の向こうへと誘導する。黒色の中を通る僅かばかりの間、キャロは身体を強張らせて俺の手をぎゅっと握りしめていた。
「さてさて、あちらさんはずっとこっちの様子を窺ってるし、どうしたものかな」
キャロを連れ出してから暫く警戒を続けているが、向こうから仕掛けてくる気配がない状態が続いていた。いっそのことどこかに行ってくれないかな、なんて淡い期待をしてみるけれど、靄の合間から覗く鋭い眼光を目撃してしまい、ため息をつく。
ちなみにキャロは、「もしかしたら降参してこの森の一員になってくれるかもしれません!」なんて森の管理者っぽいことを言って交渉に向かおうとしたが、言葉が通じなくてあえなく撃沈していた。
うーん、キャロというか森の管理者と魔物の関係がよく分からない。こうやって魔物討伐を手伝ってくれたりする割に魔物のことをこの子呼ばわりしてるし。
森の調和を保つ仕事と言っていたっけ。森全体の生態系のバランスの調整役みたいな感じなのだろうか。魔物の生息域を割り振ったり、木々の状態を維持したりだとか。
……考えれば考えた分だけいろいろな予想が出てくるので、その思考を止めることにした。早い話、キャロに直接聞いてみればいいのだ。機会はこの先いくらでもあると結論付け、目の前の状況へと思考を切り替える。
レッサーシャドウハウンド達はある程度距離と取ってるとはいえ、思い切り力を込めた踏み込みで届くぐらいの距離だ。なのでいっそのことこちらから仕掛けようかと考える。少なくともそれでこの停滞状況は動くよな。
そして仕掛けることを伝えようとキャロに視線を向けると、キャロはどこか怯えるような強張った表情を浮かべていた。額には汗が浮かび、その顔は若干青くなっており、尋常でない様子を感じる。
「なにか、嫌なものが、居ます」
キャロの様子と言葉を受け、すぐに魔力の反応へと意識を向ける。俺が感じる範囲内にはレッサーシャドウハウンド以外の魔力が感じられな――いや、するりと外部から感知範囲に入ってきたかのように、何かの反応を感じた。何と形容すべきだろうか、いつも感じている魔力とはまるで違い、それを感じただけで嫌悪感や恐怖が湧き上がってくる。その得体のしれない魔力にうすら寒さを感じ、身体にはぷつぷつと鳥肌が立つ。
(ティア、これは……?)
(魔力に、悪魔の残滓が混じってる。この反応だと悪魔自体ではないみたいだけど、何処かにそれが関わった何かが居るね)
(この魔力の感じに加えて、悪魔って名前。……どうせ、ロクでもない存在なんだろ?)
(うん、その通り。人族魔族問わず、魂を狩り集めて、己の力として取り込む存在。存在するだけで根源的な恐怖を引き起こす、この世界の生きとし生けるもの全ての、敵だよ)
ティアの言葉のせいなのか、悍ましい魔力にあてられたのか、気がつけば呼吸が荒くなっていた。深呼吸をして気を落ち着かせようと何気なくお腹に手を当てようとして、手が震えているのに気付く。ごまかすかのようにローブをぎゅっと掴んで眼をつむり、深く呼吸を繰り返す。
ここ数日で最も強く感じる嫌な予感に、手だけではなく全身が震えるかのような錯覚を覚える。
(この様子、なら。俺は、悪魔とやらに、勝算は、無いんだな)
(…うん。悪魔は生物の精神を犯すんだ。言葉通りにね。もし血脈の解放の反動がなければ、あるいはリョウが魔術を使いこなせるようになる時間があれば、悪魔の階位にもよるけれど、まだ勝ちの目の可能性はあった。
今わたし達にできることは、その証拠をできるだけ早く持ち帰って、冒険者組合に知らせること。それで直ぐにでも調査隊が組まれ、討伐の準備が進められるはず)
(こんな、状態の森に、キャロを残してアルレヴァに帰れと?)
ついティアに呼びかける声が低くなってしまう。頭も恐怖に染まる身体もティアの言葉に納得しているのだけれど、ただ感情に任せるがままに言葉を発してしまった。
(ほぼ確実に守れる道と、ほぼ確実に守れない道。リョウ、冷静になって。キミはキミ自身の過去を否定するの?)
(ああクソ、記憶の共有か。……ああもう、そうだよ、ティアの言ってることは正しい、間違いなく正しいよ、クソッタレ)
眼を開き、やり場がない感情を吐きだすように言葉に乗せる。自分の身体のはずなのに、うまくコントロールがきかない。これもこの身体になったせいなのかともやもやとした感情が追加される。
そこで、いつの間にか様子を窺っていたレッサーシャドウハウンドの姿が、見えなくなっていることに気付いた。感情を振り払うかのように頭を振り、これこそが魔物が山から追われてきた原因の正体か、と悍ましい魔力の方へと視線を向ける。反応は一つ。これが群れであったのなら、と背筋が冷える。
悍ましい魔力は少しずつこちらに近づいてきている。方角は、奇しくも俺たちが進んでいた方向。
「キャロ、これは悪魔の残滓だ。ひとまずぶちのめすが、その後はすぐにここを離れるぞ。私では本体が現れると手の打ちようがない」
「これが悪魔の残滓……。こんなちっぽけな一部でも怖くて体が震えてたまらないです……」
震え声で言葉を発したキャロを安心させるように、後ろから抱きしめる。
正直なところ、キャロが居なければ湧き上がる恐怖と未知の存在に今すぐにでもここから逃げ出したいところだ。もちろんそんなことはできないけれど。
それに、キャロは顔を真っ青に染めていながらも、その眼には力がこもっているのを見てしまった。そんな眼をされたら、キャロのお姉ちゃんとしても、引けなくなるじゃないか。
「大丈夫、私がついてるから。キャロは絶対に、守る」
――お兄ちゃんのせいじゃないって言っても、きっと分かってくれない。
――だから、次こそはその手で私以外の大切な誰かをちゃんと守ってあげて。
まるでこの時を待っていたかのように、脳裏へ声が響いた。
恐怖なんて、捻じ伏せてしまえ。
身体が拒否したとしても、歯を食いしばって力づくで動かしてしまえ。
あの時と違って、成し遂げるための力が、今の俺にはある。
未だかすかに震えているキャロの身体へさらに力を込めながら、眼を魔力を感じる方向へ向けた。
手の震えは既に止まっている。これなら身体の動きに支障はない。
「アヤお姉、ちゃん……?」
何かを感じ取ったのか、疑問を口にするかのような声。私は誤魔化すようになんでもないよ、とキャロの頭を撫で、そっと抱きしめていた体を離す。
そして、二メートルを超す人型の魔物の姿が視界に入った。
その姿は分厚い筋肉に全身を覆われているかのように見える。煤けたような灰色の肌にひしゃげた鼻と爛々と輝く眼、そして少し長さのある特徴的な耳。まるでにやけているかのような口元からは真っ黄色に染まった歯が覗いている。胴体は重厚な鎧に覆われ、アヤの身長を軽々と超す大きさの大剣を右手に持っている。鎧とボロ布の間から覗く肌からはゴツゴツした印象を受ける。
(……なるほど、そういうことね。この魔物はトロル、危険度は30。超強化したただのゴブリンみたいに特別な能力はないんだけど、こいつは自然発生せず、悪魔の固有魔法によってのみ造られる魔物。……嫌な予感がしてたまらないね、これは)
(……悪魔に造られたから、残滓が残っている、か。それに固有魔法?)
(その通りだよ。ついでに言うと、過去に悪魔が街や国を攻めてきた時には、大量のトロルを伴っている。それこそ軍規模の。だから、最悪それを覚悟しておいてね。
それから魔法についてだけれど、悪魔は太古からの存在だから、魔術じゃなくて魔法を使うんだ。魔法は詠唱が必要でないっぽいから、極めて厄介なのさ)
さっきからただ事でない言葉ばかりが続いている。ここまで悪い予感に重ね塗りされたら完全に大事だろ、これは。
長引かせると危険が増すだけなので、全力で片をつけることに決める。
「キャロ、全力でやるから、離れてて!」
キャロの返事を聞かないまま剣を抜き、トロルへ全力で踏み込んで身体加速を使う。
トロルは俺の動きに反応したかのように右から大剣を薙ぐように振っていた。思ったよりも早いトロルの反応に舌打ちし、大剣を潜るようにして確実に回避する。お返しとばかりに大剣を持つ両腕目がけての振り下ろし。体重を乗せるよりも速さを優先したためか、骨を砕いた時点で剣が止まった。
予測の範疇の結果なので動揺することなく剣を引く。そしてトロルの右腕の握りが離れるのを横目に、首を目がけて剣を振る。背が低いこの身体では剣を含めてなんとか届く高さなので力を込め辛い。そのため、狙いは首を刈ることではなく、喉を斬り裂くこと。呼吸という概念がトロルにあるならば、致命傷たりうる一撃。狙い通り剣閃は途中で止まることなく、トロルの喉を斬り裂いた。
そして無理矢理な一撃だったので、体勢を整えるのに少し時間を要してしまう。結果、トロルの首から勢いよく噴出した真っ黒い血を浴びてしまった。ステップで距離を取りながら、トロルって血が黒いんだなあと思いつつ、この出血の勢いは重要な血管を斬り裂いたと確証を得る。もちろん、トロルの肉体がそういう構造をしているのであれば、だが。
トロルは大剣を手放し、もがき苦しむかのように両手で自らの首を抑え、しばらくした後地面へと倒れた。今回は上手くいったけれど、魔物にどれだけ俺の常識が通じるのか確かめておく必要があると思う。
「――! やりましたね、アヤお姉ちゃん! 速すぎて何が何だか分かりませんでしたが!」
(お疲れ様。トロルはゴブリンと同じように、耳と、あと魔力結晶が討伐の証拠になる。魔力結晶は吸血鬼族でいえば心臓の辺り―えと、人族の心臓の辺りに埋まってるから抉りだしてね)
純粋に喜色を含んだ声と、労うかのような声。同時にかかった声に苦笑しながら、まずキャロに討伐の証を剥ぐのでその間の警戒をお願いする。
そしてティアにはへいへい、と頭の中で適当に返事をし、べたべたする全身に顔をしかめながらトロルの耳を切り取り、心臓の辺りを剣で抉る。剣を抜き取ったタイミングで血が噴出し、さらに被害が大きくなったことにため息をついたり、肋骨らしきものに邪魔をされたりしながらも、なんとかトロルの身体から魔力結晶を引っこ抜いた。見覚えのある魔力結晶より若干大き目だ。
(人型の魔物ってのもあったし、完全にスプラッタだな、これ)
胃からこみ上げてくるものを押し込める。今までの魔物は平気だったけれど、今回は勝手が違うようだ。多分、今の俺の顔は青くなってると思う。
(こういうのは追々慣れていくしかないね。それに、殺害への強い忌避感はこの世界ではなくした方がいいよ。人族にも、身体とか所持品を狙う輩がたくさんいるからね、殺して切り抜ける方が安全というのは多々あるよ)
その言葉にぞっとしながら、ひとまず撤収しようとキャロに声をかけるのだった。
指輪物語的なトロルの設定ってあまり見かけないよね、ってことでこんな設定にしてみました。