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海が凪ぐ  作者: 西原詩絵
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 二人は、神島にある介護福祉施設を訪れた。受付から案内されフロアに辿り着く。窓から海が見える。数人の老人たちが行き来したり、仲間と談笑しながらお茶を飲んでいる。案内されたのは一番奥の部屋で、プレートには、『藤本あけみ』と書かれていた。


 部屋に入るとベッドに女性が腰かけていた。六十代とは思えないほど髪は全て白髪になっているが、その肌は白く、美しい。視線の先には海がある。それを見つめている。

「藤本さん、お客さんが来ちゃったよ。息子さんだって。ええ男じゃね。ゆっくりしてもらったらええからよぉ。――どうぞ。」

 にこやかな中年の女性スタッフに、二人は軽く会釈をし、ゆっくりと老女に近付いた。

「こんにちは。」

 大地は静かに挨拶をした。老女は一瞬視線を向けたが、微笑んだまま、また海に戻った。

「海がお好きなんですね。」


 老女は何も言わない。時の流れが妙に永く感じられる。しばらく、親子の空白の時間を埋めるように優しげな沈黙が流れた。明海は老女の視線の先にある穏やかな水面を見つめた。

「海はねぇ、どこまでも繋がっとるんよ。笠岡も、九州も、東京も、満州も、アメリカも。世界中みぃんな、海に囲まれとるんよ。間に隔てるもんは、何もないんよ。」

老女が突然口を開いた。大地は、彼女のすぐ隣にゆっくりと座った。

「そうですね。どこまでも、繋がっています。」

 親子の横顔は、よく似ている。明海は目頭から込み上げてくる熱いものを、そっとハンカチで拭った。

「だから屋敷の二階から、毎日海を眺めているの。いつか、カブトガニのように、あの浜へ戻りたい。父さん母さんと過ごしたあの町へ帰りたい。きっと、邦さんが、おかえりって言ってくれる。」

 まるで十歳の少女のように、彼女は語る。そして、ふと気が付いて、明海の方を向いた。それからとても不思議そうな顔をして、スッと立ち上がった。

「あなた、どこかでお会いしましたか?」

 明海はなんと答えて良いか分からず、黙ったまま強張った。

「そう。」

 老女は口許を歪ませて、首を捻りながら、また窓の外へ視線を戻した。そして、ゆっくりと元の位置に腰かける。

「ダイちゃん、大きくなったかしら。」

 大地と明海は、顔を見合わせた。

「病気などせず、暮らしているかしら。今頃、小学校へ通っとるんじゃろうね。」

 僕が大地です、お母さん。……喉元まで出かかった言葉を飲み込む。

「ダイちゃんと、もう一度だけ、この海が見たい。ダイちゃん、お願いだから、お母ちゃんの元に帰ってきて。」


 老女は目を潤ませたかと思うと、途端に咽び泣いた。大地はその手をしっかりと握りしめ、背を擦った。この人の時間は赤ん坊を失った辺りから止まったままなのだと、佐久間が言っていた。ありがとう、ありがとうと、小さな声で大地は呟く。明海は、そんな二人をひたすら見守っていた。



 帰り際、福山駅へ佐久間が自家用車で送ってくれた。新幹線なら、県内の新倉敷駅よりすぐ隣の広島県のほうが近いそうだ。彼は本当に喜んでくれ、「またお越し下せぇ」と笑顔で言ってくれた。あけみが不憫で仕方なく、記憶を無くしていたとしても、一度だけでいいから彼女を大地に引き合わせてやることが生涯かけての夢だったそうだ。

 自由席に並んで座り、弁当を開ける。

「何だか申し訳ないわね。昨晩はご馳走して頂いて、今日はお弁当まで。」

「そうだね。申し訳ないけど、ありがたいね。」

 大地は割り箸を割りながら答えた。

「こんなふうに二人でゆっくりするの、何年ぶりでしょうね。」

「さぁ。前回は結婚前ぐらいかな。」

 子供が育ってからは舅の具合が悪く、中々落ち着く時間がなかったからか、こんな長旅をしたのは本当に久しぶりだった。


 そういえば、と、大地が鞄から封筒を取り出した。中には、あけみの母、小夜子の写真が入っていた。とても可憐で、上品な顔立ちをしている人だった。母と娘は本当にそっくりで、またその息子も、よく似ていた。……それを見てふと思う。あの舅は、自分の罪を咎められる事をどこかで望んでいたのではないだろうか。だから何も分からない和哉に、こっそりと告白したのでは……。それにしても、と明海は優しく笑う。

「不思議よね。あなたのお母さんと私、同じ名前なのよね。」

 大地は微笑んだ。

「佐久間さん、これをどうしても俺に渡したかったらしいんだ。お祖父さんから預かった、唯一の形見だったみたいでさ。――

明海、今回は、本当にすまなかった。そして、追いかけて来てくれてありがとう。」

 何言ってんのよ、と、大地の肩を叩く。

「お義母さんもさ、きっと色々辛かったのよね。……負い目を感じながら生きて来たはず。そこまでして守りたかったのよ、家を。大地、あなた、幸せよ。お父さん、お母さんと呼べる人が、沢山いて。沢山の人に愛されて。」

 うん、と、大地は頷いた。

「さぁ、帰りましょう。東京へ。荘佑も和哉も、心配して待ってるわ。私達の家に、帰りましょう。」

 久しぶりに、夫婦は手を繋いだ。





〝大地〟これがあなたの名前。ほら、見て、瀬戸の海よ。向こうが四国。晴れていたらよく見えるわね。ほら、私がお母さん。お母さんは、アケミ。あなたは、ダイチ。仲良くしてね。ダイちゃん、お母さんは、あなたをきっと守るからね。いつか邦さんと三人で、海水浴に行こう。お母さんの思い出の海に、あなたを連れて行ってあげるからね。お母さんは、どんなことがあっても、あなたを愛し続けるわ。だから、ダイちゃん、幸せに育ってね。お母さんは、あなたに出会えて、本当に嬉しい。ダイちゃん、こんな私の元に、産まれてきてくれて、ありがとう。


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