ホテルまで
大地と出会ったのは大学生の頃だった。国文学科の自分とは対照的に体育科に席を置いていた彼とは、ふらりと入った音楽サークルの飲み会で打ち解けた。脚の靭帯を傷めて以来、続けていた陸上選手を辞めて、マネージメントや選手のケアを学んでいると話してくれた横顔がキラキラしていた。ギターが上手く、サークルには本当に時々しか顔を出さないけれど、存在感があった。背がスラリと高く、優しい顔立ちをしていて、時折見せる影が女の子達を惹き付けた。自分もその中の一人だった。彼から突然告白され付き合うようになってからは、周りからの嫉妬を僅かに感じるようになったけれど、それもまた心地良かった。
大学を出て数年経ち、自然な流れの中で結婚した。水口家は戦前から財を築き続けた名のある家で、大地はその跡目を継ぐはずだったが、何故か舅はすんなりと彼を自由の身にした為、念願だった企業の陸上部のマネジメントに就いた。順調に二人の男の子を授かり、贅沢ではないがそれなりに幸せに暮らしてきたつもりだ。姑は少し近寄りがたい人だけれど、上手くやってきたと思うし、特に舅が亡くなってからの三年ほどは頻繁に往き来している。息子たちもそれなりの大人になってくれた。熟年離婚の心配などこれっぽっちも心配ないほど、夫婦も仲がいいと思う。そう。こんなに突然、何の前触れもなく失踪するなど有り得ない。今まで一度だって、身勝手な振る舞いなどしたことがないのだ、彼は。なのに、どうして……。
『笠岡市役所前』という停留所は、ある意味期待通り、何もないところだった。目の前には小学校があり、門構えだけが塀と瓦屋根で造られている。きっと古くからのものなのだろう、歴史を感じる。反対側には、小さなスーパーマーケット、その奥に駅がある。人通りは驚くほど少ない。きっと過疎化で寂れていて、車なしで生活できないのだろう。この辺が町一番の繁華街であるはずなのに、商店街は冴えない感じで、殺風景だ。何より市役所自体、こんな規模で一つの市の面倒を見切れるのかというほど小さく地味である。下手をすれば、水口の屋敷の方が広く大きいかもしれない。
明海は立ち竦んだ。前にも後ろにも動けない。東京から飛び出して来たのはいいが、本当に大地はこんな辺鄙なところにいるのだろうか。今、夫婦はとんでもない危機的事態になっているのではないか。頭が朦朧とし始める。酷く疲れを感じながら、とりあえず自動販売機でドリンクを買い、近くの広場のベンチに腰を下ろした。
蓋を空け、中身の甘い液体を流し込むと少しだけ元気が沸いてきた。朝一で出てきたものの、もう夕暮れだ。じりじりと太陽が照り付けて来るけれど東京ほど暑くない。小さな旅館ぐらいあるだろうから、一泊しよう。観光客などほとんどいないだろうし予約なしでもすんなり泊まれるはずだ。
ポケットから振動を感じ慌てて携帯電話を取り出す。画面を開くと、長男の壮佑からメールだった。
『父さんから家に電話があったみたいだ。留守電を今聞いた。二、三日中には戻るって。大丈夫だって。会社に確認したら、有給を取ってるから問題ないみたい。用意周到だね。父さんらしいや。居場所は教えてくれなかった。何度かけ直しても繋がらない。とりあえず俺は明日一日休みだし、バイトもないし家にいるから、心配せずうろうろしてくれば。』
明海は、ほっとしたのと頭に来たのとで、思い切り地面を蹴りつけた。
「何なのよ!もう!」
腹を立てても仕方ないけれど、どうして有給を使ってまで、一言の相談もなく出掛けていくような、そんな悲しいことをするんだろう。二、三日で帰って来たって、許せることじゃない。私はそんなに寛大ではない。今まで、どんなことだって二人で相談して来たじゃない。妻に言えないほど重大で内密な事って、いったい何なのよ。
壮佑にはお礼のメールを送り、携帯電話をズボンのポケットにしまった。たとえ大地が電話をかけてきても、絶対に出てやらないんだから、と、心に誓った。
*
やはり奥方は、酷く憤慨した。死んでしまえと言われた。旦那様はそれを必死に宥め私に部屋に帰るように言った。
お腹は、もう隠せないほどに膨らんでいる。こうなることは分かっていたけれど、隠し通すことなど出来るはずもない。こっそり旦那様に打ち明けるつもりだった。書斎に入って行くのを、前々から怪しんでいた奥方に見られてしまい話の一部始終を盗み聞いた彼女は怒り狂って乱入してきた。両頬を平手打ちされ、罵声を浴びせられ、髪を引っ張られた。『今まで育ててやった恩を、よくも仇で返してくれたわね。流してしまえ!殺してしまえ!お腹の子もろとも、消えて無くなりなさい!』……まだ、痛い。
涙は出てこない。ただ、胸が抉られたように苦しい。きっと、追い出される。そして、路頭に迷う。母さん。母さん。母さん。私、何一つ悪いことなどしていない。育ててくれた旦那様にご奉公しただけなのに。どうしてこんな仕打ちに合わなければなれないの。
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