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海が凪ぐ  作者: 西原詩絵
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車中の不思議な夢

 車内はひと気がなく、大阪の中心部からの乗車だというのに、四人ほどしか乗客がいない。目的地は余程寂れているのだろう。明海は荷物を隣の座席に下ろし、カーテンを端に寄せて窓から外を眺めた。さようならバスターミナル、と、心の中で呟く。出発後アナウンスが流れ、運転手がシートベルトの着用を促した。難波から梅田へ。二人ほど乗り込んだが、席はガラガラの、明らかな赤字路線バスだった。

 梅田の町は少しは都会的だった。けれどやはり、大阪はガチャガチャしていて品がなく、好きになれない。明海はカーテンを閉め携帯電話を取り出した。

 荘佑が心配してメールをくれている。自分が本当は探しに行きたかったようだが、大学の授業を休ませるわけにはいかないと明海が制止した。『心配ないよ』とだけ返信して、折り畳んだ。大地からの連絡は一切ないし、電話もメールも繋がらない。考えることがだんだん億劫になり始めたのでとりあえず寝ることにした。隣に人はいないから、寝顔など気にせず眠れそうだ。




 身籠ったと気が付いたのは、お腹が少し大きくなり始めた頃だった。元々月のものは不順だった為いつものことだろうと気にしなかった。これといって悪阻もなく、元気に働けていたからだ。私は酷く迷った。正直に打ち明ければ殺されるかもしれない。孤児だった私を引き取って、育てて下さった旦那様には本当に感謝している。鬼のような形相をした奥方が脳裏に浮かぶ。――母さんさえ、生きていてくれたら。

 どうしようもない夢を何度思い描いただろう。それは浮かんでは消えていく、儚いシャボン玉のようだった。

 母は奉公人として幼い頃から旧家に住み込んでいた。その家の主が軍人であった為戦時中満州へと渡りそこで落ち着いた暮らしをしていたが、やがて敗戦を迎え日本へと引き揚げてきた。

 その道中でソ連兵からの暴行を受け、身籠り、自ら主の元を離れて兄を出産した。堕胎しようか、それとも自殺しようか、極限の選択に悩まされていたが分娩室で泣く赤ん坊の声を聞いたとたん産みたいという思いが沸き上がり、合の子を産んだ。赤い髪をした、綺麗な子供だった。しかし、身寄りもなく母自信が憔悴し母乳も出ず最低の栄養状態であった為、助けてやる術もなく三ヶ月ほどで兄は死んだ。母は苦労をして戦後を生きた。九州の町を転々とし、カフェーの女給など夜の商売で何とか生計を立て細々と生活する最中、たまたま九州を訪れていた父と出会った。父は岡山県の西の端で小さな会社を経営している町工場の社長だった。二人はすぐに惹かれ合い、結婚し、間もなく私がこの世に産まれた。母の人生に於いて恐らくこの時が一番幸福だったのだろう。たった一枚の写真の中の母は菩薩のようで、父はその隣に精悍な顔立ちのまま微笑んでいる。幸せは長くは続かず、私が五歳になった年、父は結核に罹患し、あっけなくこの世を去ってしまった。会社は潰れ、母は再び夜の世界に身を落とすことになった。それから約三年、彼女は過労から体を壊し、父のあとを追うようにあっけなく死んでいった。

 取り残された私は父の会社の親会社社長夫妻に引き取られ育られた。夫妻には子供がなく旦那様は八歳の私を養女にしたがったが、奥方がそれを頑なに嫌がり、女中のような扱いを受けて生活した。それでも、満足に食べることが出来るのが幸福だった。母は、どうだったのだろう。幼くして身寄りを亡くし、使用人として過ごした幼年期はどんなものだったのか。そして、乱暴されたソ連兵との間に出来た兄をどんな思いで産んだのだろうか。

 もうすぐ夕食の支度を始めなければならない。私は立ち上がり、窓を開けた。海が静かに凪いでいる。






 車内アナウンスで慌てて飛び起きると、瀬戸サービスエリアに辿り着いていた。瀬戸ということは、もう既に二度目の休憩ということだ。朝が早かったのと疲れのせいで、眠ってしまうとなかなか目が覚めない。危うく乗り過ごさないように気を付けなければ、と、大体の到着時間に合わせて携帯電話のアラームをセットしておいた。

 手洗いを済ませ席に戻る。それにしても変な夢を見た。昔の話だったけれど、妙に生々しく首筋辺りに感覚が残っている。夢の中の少女は、窓辺から静かな海をずっと眺めていた。あんな孤独、味わったことがない。

 一時間ほどで鴨方インターに着き、高速道路から降りる。ハピータウンという大型スーパーマーケットを横目に町へ入っていくと、国道二号線に出る。道沿いにいくつか停留所があり、真っ直ぐ笠岡へと続いていた。なんて田舎なんだろう。最近建ったような全国的なチェーン店が、全く町に馴染んでいるように見えないのは気のせいだろうか。

 明海は産まれも育ちも東京で、テレビか、観光ぐらいでしか土臭さに触れたことがない。持ち物にしても、リュックこそ近くのショッピングモールで買った古いものだが、その中身の財布、ポーチ、ハンカチですら、ちょっとしたブランド物で、それをさらりと身に付けている。バスの中の数人の乗客の中では、そこだけ切り取ったように色彩と空気感が違っている。都会の人間は、やはりどこか洗練されているものだ。

 一人、二人とバスから降りていき、笠岡市役所前で明海も降車した。

 微かに潮の香りが五感をくすぐる。海が近いのだろうか……。笠岡に着いたのはいいけれど、大地がどこにいるのか検討もつかない。彼は、こんな突拍子もないことをする人間ではない。よっぽどの何かに突き動かされたのだろう。けれど、その衝動がこの町にあるとは到底思えない。

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