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海が凪ぐ  作者: 西原詩絵
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夫の失踪

 どうして、関西人はこんなにもマナーが悪いのだろう。水口(みずぐち)明海(あけみ)は軽く、それでいてわざとらしい溜め息を吐いた。

 東京から新幹線に乗り込み、やっとの思いで到着した新大阪からの電車内は、ぺちゃくちゃと喋る声や携帯電話を弄る音やイヤホンから漏れるガサガサしたリズムの切れ端などの雑音がひたすら反響していて落ち着かない。

 イライラしながら難波へ辿り着き下車し、酷く速足な人並みを掻き分けながらどうにか看板を頼りにバス乗り場へと急ぐ。これが難波ウォークか。品がない。何となくうるさい印象。

ブツブツ文句を浮かべながらバスターミナルが何とか見えてくる。動く歩道の上を更に足早に歩いていく人々を横目に、隣にある普通の歩かない歩道の上をスタスタと脚を動かして建物を出ると、広場が見えてきた。若者たちが、ストリートダンスを練習している。自動ドアをすり抜け、OCATというバスターミナルの建物の中に入り、エスカレーターを登って二階へ行く。電光掲示板で時間を確認して、両備バスのチケットを買う。カブトガニ号という、気恥ずかしくなるような名前のバスに乗車しなければならない。ローカルなだけあって値段は安い。


 空いている待ち合いスペースの席に腰掛け、時間を確認する。出発まであと二十分か……。ギリギリ間に合ったようだ。壁には建物の案内パネルが貼り付けてある。地下二階から地上六階の建物で、二階がターミナルになっている。行き先ごとの乗り場がいくつかある。二階以外はレストランや雑貨屋、病院など様々なテナントが入り、屋上には庭園があるらしい。どんなものか気になったけれど、もうここを訪れることもないだろうと、少しの興味を隅に追いやる。


 疲れた。やるせない気持ちが明海を包んでいく。どうして四十代の女が一人、こんなところにリュックを抱えて佇んでいるのか。別に、一人旅が好きなわけではない。聞いたこともない片田舎の町に、行きたいと思っているわけでもない。けれどこのチケットが、私の運命を握っているのだから、バスに乗らないわけにはいかないのだ。


 リュックから緑茶のペットボトルを取り出し、一口飲んでまたすぐに仕舞った。眠気が襲ってくる。強行突破のこの旅には、思った以上に体にも心にもストレスを与えているようだ。だるい脹ら脛を軽くマッサージしながら、目頭に溜まりそうな水分を堪える。泣いてなんかいられない。


『しばらく旅に出ます。大地(だいち)


 殴り書きではない丁寧な字で書かれたそれは、ダイニングテーブルの上に置かれた白い紙切れに大人しく納まっていた。寝起きの明海は、一瞬現実を疑った。夫が家出することなど、いったい世界中の平凡な家庭の平凡な主婦がどのくらいのパーセンテージで予想できるのだろうか。昨日寝るまで、彼は自分の隣にいた。確かに、いた。そして何の前触れもなく、消えた。

「そのうち出てくるよ。心配しなくていいと思うけど。」

楽天的な次男の和哉(かずや)が食パンをかじりながら言った。

「何かないの、手掛かりとか、部屋に転がってんじゃない。」

長男の(そう)(すけ)が洗い物をしながらぶっきらぼうに言った。明海は深い溜め息を吐き、喉を通りそうもない朝食とにらめっこをした。


 二人の息子が出掛けてから、寝室を調べてみた。どこを探したって、手掛かりらしきものなど出てこない。第一、何を調べればいいのかも分からない。仕事は普通に行っていたし、苦しんでいるようにも見えなかった。浮気しているような素振りもなかったから、まさか愛人と失踪した訳でもあるまい。

――じゃあ、なんで。


 心を落ち着けようと、台所へ戻りコーヒーを淹れた。ふわりといい香りが拡がる。椅子に腰掛け窓際に目をやると電話が視界に入った。そしてこげ茶色の台と白い電話機の間に、見馴れない紙のようなものが挟まっているのが見えた。明海は立ち上がり、慌てて駆け寄る。その端を指で摘まんで引き抜くと、一枚のパンフレットが出てきた。

〝カブトガニの里・笠岡〟

聞いたこともない地名、見覚えのないパンフレット、夫の失踪……。

 

 直ぐ様パソコンを立ち上げ、インターネットを開く。

 岡山県の一番端にある町。生きる化石と謳われる、カブトガニが繁殖しているらしい。他には、これといって何もない。そんな場所に何の縁があるというのだ。馬鹿げている。仮に夫がその地を目指したとしても、探しようもない。和哉の言う通り、待っていればそのうち帰ってくるだろうか。


 翌日、リュックを背負い夜明けに家を出る明海を、息子達は呆れた顔で見送った。ルートは全て調べ、始発に乗って出掛けることを決めたのは、長年連れ添った夫婦の、勘のようなものだった。大地は多分、けっこう苦しんでいる。一人で何でも抱え込んでしまう人だから、恐らく、妻にすら話せないことを自分一人で消化し切れなくなって、旅に出たのだと思う。それが何故カブトガニなのかは、分からないけれど。


 気付くと転た寝をしていて、ハッと目が覚めた。既に到着しているバスに慌てて乗り込んだ。


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