ただ、君の笑顔が見たかった
何の為に描くのかと問われたことがあった。
絵の具の匂いが充満した部屋で投げかけられた問いに、私は瞬きをして筆を動かしていた手を止めたのだ。
真っ直ぐに私を見る目はどこまでも純粋でガラス玉のようで、どう答えるべきなのだろうかと思ってしまった。
まだまだ伸び白があると言われたこの描くという作業を、私は飽きもせずに続けていて、だからと言って特に賞取りに固執するわけでもない。
まぁ、確かに疑問に思うかもしれないな。
汚れた筆を傍らのバケツに放り込む。
「君のためだよ」
笑顔で答えを出せば、ガラス玉のようだった瞳はゆらゆらと揺れた。
くすり、漏らした笑みに不服そうな顔をされてしまう。
「嘘ばっかり」
吐き捨てられた言葉に笑いながら背を向けて、再度キャンバスと向き合った。
白かったキャンバスは沢山の色が乗せられていて、作品になる過程にある。
あながち嘘じゃないんだけど、私の口から零れ落ちそうになった言葉を飲み込んで新しい筆を持つ。
背中に刺さってくる視線は描いているうちに忘れてしまうから、大して見られていても支障はないので気にすることはない。
言葉にできない思いなら沢山あって、言葉にできないならば絵にしてしまえばいいと思う。
言葉で伝えられないならば絵にすれば伝わるかもしれない、なんて独りよがりな考えだということはもう知っていて、何度も筆を置こうとした。
でも慣れ親しんだこの絵の具の匂いも、筆を持つ手も、目の前のキャンバスも、全部全部切り捨てることが出来なかったのだ。
「……結局は自分の為でもあるかな」
ぺたり、とキャンバスに筆を置いた。
独り言はどうやら届いていないようで何の反応もない。
若しくは聞こえないふりをしているだけなのか……どちらでもいいのだけれど。
この空間が好きで私の絵を見た君の反応が好きで、もう手放すことのできない世界がある。
それでも、私は……。
「あっ『綺麗……』」
記憶の奥底から呼び起こされた声と背後から聞こえた声が被さった。
ガタン、と椅子を蹴り立ち上がってしまう。
私の後ろには先程までソファーに体を沈めていた人物が立っていて、静かに、私が椅子を蹴ったことすら気付かないかのように絵を見つめていた。
その口元には笑み。
柔らかな微笑みだ。
飛び上がった心拍数を落ち着けるように、息を吐き出して椅子を元に戻す。
「ねぇ……」
「私ね」
私が問いかけようとすると、同じタイミングで口を開かれる。
目線は変わらず絵にあるので私は口を噤み続く言葉を待つ。
「貴女の絵は好きだよ」
嬉しい言葉なのだろうけれど他のことは全否定されているようで、僅かな苦笑が漏れる。
私は君の全てが好きだけどね、そんな思いは言葉にならずにキャンバスに吐き出された。




