5・螺子とネジ
三日後の朝、螺子を抱えて眠りから覚めた零司は腕の中にいる体温を確認してふうっと息を吐いてこう言った。
「螺子、悪かったな。俺の根暗に付き合わせて」
そうして「残された時間がもったいないからな」と笑う。
「俺の鬱々としたところを嫌いでないと言ってくれたが、俺はもう鬱々とするのはやめることにする」
心を決めた、すっきりと頭の晴れたような顔だった。
「少し人らしくないことをしようと思うんだが、聞いてくれるか」
その内容は、螺子の目を丸くさせるに十分なものだった。
[螺子とネジ]
人らしくないこと、とはいったいどういうことか。
首を傾げる螺子にこほんとひとつ咳をして、零司は少しだけ言葉に悩むようにもごもごと口を動かしてからこう言った。
「式を挙げないか。籍を入れることはできないが、俺はこの町の住人の前でお前を嫁にとりたいんだ」
螺子はびっくりして目を丸くし、口をあんぐりと開けた。
あまりに突飛な申し出だった。人が機械人形を嫁にとるなど聞いたことがない。
「返事は?」
零司が耳を赤くして螺子をねめつける。否と答えることは許さないという風情だった。
「は……い……」
螺子は一度目はおそるおそると、二度目ははっきりと返事を返した。
「はい。よろこんで」
花の咲くように笑った螺子に、零司はその身体を布団に押し倒して薄桃色の唇に口を合わせた。
その年の雪の始まりの日、真っ白な新雪の綿帽子を被った白無垢姿の花嫁と黒羽二重の羽織に黒の稿柄の袴を履いた花婿が、式の会場となる神社に向けて螺子巻の家から出立した。
町の住人たちは二人の目出度い門出に銘々めかし込んで通りに姿を現した。
雪が淡く華のように宙を舞う。
頬に当たり消えてゆく雪に心地良さそうに目を細めながら花嫁は花婿に寄り添った。
のちに町の住人たちは二人の姿を思い出すたび「胸の詰まるような美しい花嫁行列だった」と口を揃えて言うのだった。
※ ※ ※
冬を越して春が過ぎ、出会って三度目の夏が訪れた。
動きにくそうに赤と黒の金魚が描かれた風鈴を吊るそうとする螺子に零司が取って軒先に吊るす。
螺子はその動きを次第に鈍らせていた。右半身だけでなく左半身にも支障を生じ始めている。
夜などはネジが巻かれているのにも関わらず、脳の機能を保護するために機能が停止し、人で言う深い眠りの状態に陥った。
弱りゆく螺子に、彼女が眠っている間に零司が涙することもあったが、彼は起きているときはつとめて明るく振る舞った。
昼は日傘をさして散歩に出る。
零司は陽の光が螺子に当たらないよう傾けて螺子の歩調に合わせて歩みを進める。
青い空にもくもくと白い入道雲が伸びあがり、セミが耳に煩く合唱し、家々の白壁が強い日差しを更に熱く照り返していた。
土が熱で蜃気楼をあげる中、零司のこめかみに落ちる汗を見て螺子が言う。
「こう暑いと心地良いとも思えませんね。もう少し日傘の中に入ってください。私は平気ですから」
つぅと日傘を押し返そうとした瞬間に、ドクンと胸のポンプが鳴るのを螺子は聞いた。
視界がぶれる。
斜めに傾いていく零司の姿を目で追いかけるも、映り込んでくる視界の情報は電源を落としたようにふつりと途絶えて遮断された。
※ ※ ※
気が付いたときに、螺子は寝室の布団の上で横にならされていた。
体内のセンサーが時刻を告げる。
「もう二日が経ってしまいましたか」
横には零司が暗い顔をして座っていた。
「あなたには長い二日だったようですね」
零司の顔には不精ひげが生えていた。ずっと螺子のそばに付いていたらしい。
「最後の刻が近付いてきているみたいです」
左脳に詰まった異物は径を七十五%に増やしていた。月日をかけて循環液中の物質を吸着したためだ。
それに合わせるように脳の腐食も進行している。
「夏を越せるか越せないか、といったところでしょうか」
体内情報を伝えるセンサーを搭載しているからこそ知りうる情報だった。
残された時間はもう少ない。
「…ないでくれ」
零司の目からぽろりと涙が零れ落ちる。
「死なないでくれ。螺子。俺の目の前から……いなくならないでくれ」
叶うことのない願いだった。知っていて零司は願いを口にした。
つらいのは螺子だって同じだろうに、口にせずにはいられなかった。
螺子の横になっている布団につっぷして零司は泣いた。
「っ……お前が起きているときに泣くのはこれで終いにするからっ。今だけは、……泣かせてくれ」
零司の零した涙が布団に染みて広がっていく。
螺子は自分のために落とされる涙を見て零司の頭をそっと撫でた。
「涙の出ない私の代わりに泣いてくれる人がいるということは、なんて幸せなことなんでしょうね」
しゃくりあげる零司が涙を止めるまでずっと、螺子は優しく頭を撫で続けた。
泣かないでほしいとは、一度も言わなかった。
※ ※ ※
真っ赤な夕焼けに空の雲も白い壁の家々もすべてが朱く照らし出されていた。
夏の終わりにひぐらしが鳴く。
縁側で螺子は零司の頭を膝に乗せ、朝顔の柄の団扇を動かしていた。
パタ、パタンとぎこちない動作で風を送りながら、螺子は夕焼け小焼けの唄を歌った。
風にガラスの風鈴が揺れる。ちりん、ちりんと短冊が揺れて硬質な中にやわらかな響きを含んだ音を鳴らした。
目を細めて螺子が唄を止める。
「最後の刻が来たようです」
「そうか」
零司はピクリと肩を揺らしたが、そう応えただけで動かず、送られてくる風を受け続けた。
「こうなってみて初めて、あのときの礼次郎様の言葉の意味が分かった気がします」
礼次郎は死に際して穏やかに、見送られるのも悪くないものだと言い表した。
今、螺子の心は凪いで安らいでいる。
「置いていかれるのは身の切られる思いでしたけど、置いていくのは案外幸せな心地なんですね……」
ひぐらしの声が止み、すべての音が一瞬世界から消え去った。
零司は起き上がり、薄っすらと開かれた螺子の目蓋を閉じ、手に握られたままであった朝顔の柄の団扇をそっと引き抜いて置いた。
朝顔の花言葉は『短い愛』『儚い恋』、そして『愛情の絆』。まるで二人の関係性を表しているような柄であった。
「……っ」
声にならない声で呼ぶ。
零司は両の手で顔を覆って嗚咽を漏らしながら泣いた。それは失ったものへの手向けの涙だった。
風鈴が回る。くるくると回る。
楕円の中で黒い金魚は赤い金魚の尾を追い、赤い金魚は黒い金魚の尾を無限に追いかけた。
零司は工具を持ち出して、螺子の首筋、左耳の後ろに付いている一センチ程の大きさのネジをパチンと切り取った。
※ ※ ※
この町に来て何十度目かの夏、零司は幼い孫を伴って石造りの階段をのぼった。
のぼって行った先、幾つかある墓のうち二つに花を供えて手を合わせる。一つには「螺子巻 礼次郎」、もう一つには「螺子巻 螺子」の文字が彫られている。
「おじいちゃん、このお墓ってだれの?」
近頃何に対してもこれは何だ、あれは何だと尋ねるようになった孫が問う。
「礼次郎というのはおじいちゃんの遠い親戚にあたる人だ。機械人形作りでは名の知れた人だったんだよ」
零司は笑って孫の頭をなでた。
「もう一人、螺子というのはおじいちゃんの最初の奥さんさ」
なでる頭は夏の熱気に汗をじんわりとかいていた。持参してきた水筒に麦茶を注いで小さな口につけてやる。
「どんな人?」
「そうだなぁ……」
一息ついて返されたコップを回しながら零司は少しの間思案した。
「触れるとすぐに溶けてしまう淡雪のような女だった、かな」
遠い目をする祖父に、幼すぎて言葉の意味を捉えきれない孫は「ふうん」とさも分かったかのように合相づちを打つ。
最近ではなんでも大人の真似をしたがる孫は、知らないということを周囲の者に見せたがらない。それも成長の証なのだろう、と零司は口元を笑みの形に変えた。
「いい女だったってことさ」
「いい女って何?」
「芯が固くて格好良いってこと」
にやりと笑ってみせると、今度こそ意味が分からなくて孫は自分を見下ろす祖父に首を傾げて「よく分かんない」と口を尖らせた。
墓参りはこれで終わり、と零司が墓に背を向ける。眼下には数十年来変わらぬ町並みが広がっていた。
「帰りに風鈴を買って帰ろうか」
「わあい」
新しく物を買ってもらえるとはしゃぐ孫が転げ落ちないように、小さくやわらかい手を取り石段をおりていく。
「どんな柄がいい?」
「ひまわりー!」
問いかけにすぐに返す孫は素直で可愛らしい。
「向日葵かぁ。あるといいなぁ」
「あるよ。絶対あるー!」
行き着く目的地までの道中、二人はずっと手を繋いで笑いあいながら歩いて行った。
※ ※ ※
商店が並ぶ通りの一角、大小の時計が並ぶ店舗の奥で、零司が眼鏡をかけて時計に細いドライバーを差し込む。
表の看板には『螺子巻時計店』の文字。この店は螺子が死んで数年後に零司が建てたものだ。
時計を腕に巻く人は減り、どこに行くにしてもどこかしらで時間を知りうる時代にあっても、仕様勝手の良さというよりは装飾品として時計は一定に需要があった。特に零司の作る一からの手製の時計は求められて、店構えとしては古びているが、一流の時計屋として『螺子巻』の名前は世に知られるようになっていた。
柱時計がボーンボーンと十八時を知らせる。
「もうこんな時間か」
零司は呟いて懐から銀の時計を取り出して針を見た。
今日も時刻は正確だ。
零司は懐中時計のネジをくるくると回した。一センチ程の大きさの古い古いネジだ。
この零司愛用の懐中時計は一日一回こうしてネジを動かさないと時を刻めない。そういう風に零司が作った。
眼鏡を取って時計の肌に耳を当てる。
機械の鼓動がカチカチと正しい刻を刻む音に零司は静かに目を閉じた。
どこかで風鈴売りの風鈴を売り歩く声に合わせてちりんちりんという澄んだ音の重なりが鳴っていた。