4・螺子と失意
最初は人真似だった。
主が笑えば笑い、悲しめば同じように悲しんだ。
やがてその中に祖語が生じ、喜怒哀楽の中にもたくさんの種類があり、たとえば同じ「喜」でも受け手によって感じ方が違うのではないかと思考の経路が軋みをあげるようになった。
「ずいぶんと人らしくなったな」
頭を捻る螺子に主はよくそう言って笑ったものだ。
[螺子と失意]
零司が知らせを受けて駆けつけたときには、理恵はすでに到着していた警官が伴ってきた警邏人形に取り押さえられているところだった。
「零司っ。零司は私のものよ。誰にも渡さない!」
叫ぶ理恵に目もくれず、零司は土の地面に倒れる螺子を抱き寄せた。
透明感のある白であった顔は左側がただれて溶け、あらわになった内部の機械の線が小さな火花をパチパチと発していた。
「この女は知り合いですか?」
尋ねる警官に零司は冷たく「いいえ。顔も知らない女です」と答える。それが理恵の父親との契約であったという以上に、理恵のことを知り合いであると認めたくないという思いが強かった。
零司の言葉に理恵が駆け寄ろうとする。けれど警邏人形に取り押さえられていたため零司の元へ行くことは出来なかった。近付けないという事実に理恵の顔が蒼白となる。
「いやっ。離してっ。零司、私を見てよ。零司っ!」
ああ、と泣き崩れる理恵にも零司はじっと螺子を見つめて視線を向けなかった。理恵のことなどもう爪の先ほども頭に残ってはいなかった。
「すまない螺子。一人で行かせた俺が悪かった」
横抱きに抱え上げる零司に螺子は「いいえ、あなたでなくて良かった」と身を寄せる。
それは長年連れ添ってきた夫婦者のようであった。
重い黒灰の雲から雨がパラパラと降り出し始めていた。
※ ※ ※
ジジジッ
救急箱ではなく工具を脇に置いて、零司は螺子の顔を修復した。パチパチとはぜる火花が二人の顔を照らし出す。
「よかった。いくらか部品が残っていて」
家の蔵には機械人形用の部品が仕舞われていた。それらを漁って零司は修復に取り掛かった。
蔵の一角は簡易の無菌室となっていて、そこで機械人形の内部部品の修復を行なうことができるようになっていた。
「本当にすまない。俺のせいだ」
繰り返す零司に螺子は「いいえ、あなたでなくて良かった」と繰り返した。
人で言うと血管に相当する内部部品の管から漏れる液をぬぐい、管を繋ぎ直す。熱を当てて切れた細い神経の線を結ぶ。溶けた部分を入れ替え、新しいものと取り換える。
傷は痛ましいものだった。
綺麗だった螺子の顔は無残に酸によって焼かれていた。
螺子の受けた傷を自分のもののように感じながら、それでも手を止めることなく零司は修復に専念した。
専念の甲斐あって、螺子の顔は元の美しい顔を取り戻した。しかし修復は完全ではなかった。よく見てみれば古い肌と新しい肌の色味に違いがあることが分かる。
常人にはほぼ気付かれないような差である。だが技師である零司にはわずかの差も目立って感じられて余計に痛ましく思えた。
「俺が」
つなぎ目に手を当てて、何度目かになる謝罪の言葉を述べようとする。
「ふふっ。あなたのそういう鬱々としたところ、嫌いではないですけどもうやめましょう」
触れる手に頬を寄せ優しく微笑み、
「少しお話をしましょうか」
と螺子が人差し指を零司の唇に当てて言を止めさせた。
「初めはね、嫌だったんですよ」
なにを言われるかと肩をぴくりと動かす零司に螺子は語り始めた。
「ネジが回されて新しい所有者が現れたと知ったとき、嫌だなぁと思ったんです。私の主は旦那様、礼次郎様だけでいいと思っていたから……」
できれば目覚めて新しい所有者を得ることなどしたくはなかった。
けれど機械人形として螺子は目覚めないわけにはいかなかった。
所有者を得られない人形は廃棄される運命だ。それでも良かったが、きっと礼次郎は螺子が廃棄されることを望まない。
そうして目を開けて見たものは、失った主によく似た男だった。
「久方ぶりの起動で思考が混乱していたんです」
主に問いかけるように初めて会ったばかりの所有者に問いかけてしまった。
「失った事実を再認識したくないと思ったからかもしれません」
すぐに違うと気付き、胸の軋みを抑えて笑いかけた。
新しい所有者として仕えることになるならば友好な関係でいたい。嫌われて破棄されるよりは自分の存在は有効であると示してそばに置いてもらえればと思った。
「だと言うのにあなたはまるで生気がなくて、まるで感情を知らない機械人形のようでした」
今まで身近にいたのが表情の変化に富んだ人々ばかりだったので、表情の読み取りにくい零司はおおよそ人らしくないように見えた。
感情の区別を理解できなかった以前の自分を思い起こさせる零司に、礼次郎に教えてもらったことをこの人に伝えることができればと思った。この人が感情を表に出すことができるようになれば、自分は再び起動したことに意味を持たせることができるのではないかと。
主を失ってこの世に残されたことに意味があったなら――。
「最初のうちは礼次郎様の真似をしていたんです。こういうとき、あの方ならどうしただろうか、どう感じただろうか。そう考えながら行動していました。
私の感情の発露は礼次郎様にありましたから、そうしてあなたが感情を取り戻していけば、礼次郎様が生きてきたことの意義があったのだと私なりに納得できるのではないかと思ったんです」
零司に世話焼き人形の役目以上にお節介に構っていたのは、弔いの意味だった。自分は礼次郎には身の回りの世話以外なにもできなかったから。
礼次郎に育てられた感情で零司が感情を取り戻すことができたなら、それは礼次郎が螺子を作ったことの、螺子が生まれたことの意義が生まれるのではないか。そう思っていた。
「あなたには悪いですが、始まりはすべて礼次郎様の、いいえ自分のためでした。あの方は私の製作者であり、かけがえのない家族でしたから……」
零司と暮らすうち、人真似の喜び・怒り・哀しみ・楽しさはかつて礼次郎に教えられたそれらとは色あいを変えていった。
親戚といえども所詮は違う人間。喜びの仕方も怒り方も哀しみ方もかつての主とはまったく違った。少しずつ表情に感情を表し始めた零司に嬉しいと感じたのは、確かに螺子自身の中で生じた感情だった。
始まりの理由は形を変えて、心の部分から零司が笑ってくれると嬉しいと感じるようになっていった。
「これがあなたという新しい所有者を得た私の理由です」
螺子は薄く笑って「ずいぶんと機械人形らしくない理由でしょう?」と、頬に触れたままであった零司の手に細い手を重ねた。
「俺は……」
もう片方の手を螺子の右の頬に添えて、零司は螺子の張り付けたばかりの新しい皮膚に口づけた。
「俺は感謝する。お前が俺のものになってくれた理由に感謝する」
ゆっくりとした口づけは螺子を労わるように二度、三度と繰り返された。
――涙が出れば良いのに。
螺子は思った。もし塩気のある水の流れることがあれば、それはきっとうれし涙というものになるだろう。震える目蓋に零司は唇を付けた。
雨脚が強くなっていき、蔵の壁に風が緑の葉を打ち付ける。
ごうごうと吹く風の中、二人は抱き合って日が暮れて夜が明けるまでを過ごした。
余談になるが、理恵の罪状は賠償を多少支払うだけの器物破損というもので終わり、取り調べの後すぐに釈放されたという。
これに怒ったのは零司でも螺子でもなく、二人を愛する住人たちであった。彼らの中にはかつて大企業のトップに君臨していた者もおり、あらゆるコネクションを利用して理恵の父親の会社を窮地に追いやった。その結果、会社は海外企業に買収という形になってその社名を変更させられた。
理恵自身の背景をここで述べておく。
彼女は系列会社の御曹司と結婚までこぎつけたにも関わらず、その関係性はひどく冷めたものだったらしい。
新婚の夫はわがままに過ぎる彼女を振り返ることなく浮気を繰り返していたそうだ。
その幸福のない結婚生活に嫌気がさして零司の元を訪れたのが、理恵の「私別れてしばらくしてから零司の家に行ったのよ」の言葉に繋がることになる。
不自由のない贅沢な暮らしは確かに理恵が望んでいた生活のはずだった。
しかし彼女は誰にも振り返られなかった。父親でさえ目先の利益に捕らわれ、娘を見ていた。扱いは丁寧であっても、会社に富をもたらすための道具であるという感情が隠しきれていなかった。
簡単に心変わりしたものの、確かに理恵は零司のことを愛していた瞬間があったのだ。自分を見てくれていたのは零司だけであったのだと気付いたときにはもうすでに時は遅かった。
会いに行ったものの零司の両親によってすげなく追い返され、会うことの叶わなかった理恵は頼るすべなく穏やかに心を病んでいった。
幸福な瞬間の思い出があるせいで病んでしまったとも言えるかもしれない。
養生のために父親が出費して旅行に行かせた先で零司に遭遇してしまったのは、零司と螺子だけでなく理恵にとっても悪い出会いとなってしまった。
彼女は離縁され、精神の病院へ入院させられた。今後は何にも縛られず、自身の中で美化された過去の思い出を胸に生きていくことになるだろう。
これが自分の欲に任せて行動し、すべてを失った一人の女の顛末である。
※ ※ ※
事件から数か月が経過した。
夏は終わりを告げ、夕方を越えると虫たちが深まりゆく秋の到来を唄うようになった。
零司は最近手製の時計を本格的に作り始めている。通販に限り注文を受けるようにしたのだがこれが意外に当たり、売れ行きは好調で、作るはしから買い手が付くものだから日がな一日時計作りに時間を当てるようになっていた。
日々の暮らしは緩急なく平穏で、それでも幸福な時を刻んでいった。
暑さも一段落した。もう風鈴の音に涼を求める季節ではない。
箱に入れて来年の夏まで大切に保管せねばと吊るした風鈴に手をかけたところで、螺子はピタと動きを止めた。
――まただ。最近動きがおかしい……。
ここ数日、右半身に違和感を生じていた。
動作に計算上の動きとコンマ数秒ではあるが遅延を起こすことがある。歩く時など、右足からの動き出しに後れを取ることが度々あった。
内部のセンサーに耳を傾ける。
――左脳部、右半身ヘノ循環液管二径三十一%ノ異物付着アリ。管及ビ左脳部、循環液ノ流量低下ニヨル腐食進行中。左脳部全摘出ヲ推奨シマス。交換ヲ行ナッテ下サイ。交換ヲ……
螺子はそっとセンサーの警告を閉じた。
ずっと思考系の回路に重点を置いた生活をしていたため、異常が生じ始めるまで警告に気が付かなかった。
異常の原因は分かっている。
零司のかつての恋人・理恵にかけられた腐食性の酸だ。酸によって左顔面が腐食した際、切れた管から異物が入り込んでしまったのだろう。
左脳部全域の摘出をセンサーは要求していた。
――それをするということは……。
螺子は首を振って風鈴を仕舞った箱を閉じた。
「このあと、礼次郎様の墓参りに行きませんか?」
昼食時、白飯を茶碗につぎながら螺子はそう提案した。
今日は礼次郎の月命日だった。
紅葉の紅が川辺に踊る。
橋を渡ってゆるやかな登り坂を歩き、石階段を十数段上った先に礼次郎の墓はあった。
零時が墓に参るのは初めてのことだ。螺子は月命日には必ず来ていたようだが、零司はこれまで一度も来たことはなかった。
名前しか知らない相手の墓に参ったところで何も浮かばないというのは建前で、以前螺子が見せた礼次郎に向けたまなざしを見たくないというのが一番の本音であった。
とことん心の狭い男だと自分でも思うが、見たくないものは見たくないのだ。
けれど螺子に誘われるままこうして来てみれば、丁寧に墓を掃除し線香を手向ける螺子にも心穏やかに見ていることができている己がいる。
それは螺子と心通わせることができたためだろう。そう思うともっと早くこうして墓に参りに来ればよかったと零司は思った。
高台にある墓地からは昭和の町並みを一望できた。零司と螺子が住んでいる住宅地から商店の並びまで、日々を暮らす町並みのすべてをここからは見ることができた。
「ここに眠る人々は、ここから残された人々と町並みを見守っているんでしょうね」
ここに墓を決めたのは生前亡くなる前の礼次郎だ。自分の晩年住んでいた町を墓からでも見守っていたいというのが礼次郎の意志であった。
「私の願いを聞いてくださいますか」
町を背に螺子が振り返る。
「私が壊れて動かなくなってしまったら、ここに埋めていただけませんか」
「ねじ…こ。なにを」
「私はもうすぐ止まってしまうようです」
螺子は淡々と状況を説明した。
理恵に腐食性の酸を浴びせられた際に異物が循環液の流れる管に侵入してしまったらしいということ。そのため左脳部の細くなっている部分が詰まって流量が減っていること。
その影響は技師の零司には細かく説明せずとも理解できることだった。
左脳部の腐食、つまり人間で言うならば壊死が進行しつつある。
告げられる状況に零司は言葉を失った。
「数か月後か、数年後か、期間は分かりませんけど、いずれ必ず止まってしまいます」
「左脳部を摘出すれば……」
「摘出すればそのスペックを補うために右脳も取り換える必要性が出てきます。私のはもう古い型になりますから」
それに加えて螺子は礼次郎のオリジナルだ。似通ったものはあっても同じものは存在し得ない。
「そうなれば」
かすれる零司の言葉を螺子が引き継ぐ。
「そうなれば、脳を取り換えた私は私ではなくなります」
機械人形の大元の思考経路の集合は人と同じ頭部に設置される。そのため機械人形の思考経路の部品の集まりは広く「脳」と呼ばれていた。
それをすべて取り換えるということは、その部品の変わった人形はこれまでの人形とは全く中身の違うものになるということだ。それはどれだけ外見が同じであっても別物として起動する。
零司が出すすべての案に螺子は首を振った。丁寧に管の詰まりを取り除いても脳の腐食は進行する。腐食してしまった一部を取り換えることは不可能に近いこと。
解決策は脳のすべてを取り換える以外にありはしなかった。それを知っていて、思いつく限りの案を零司は提示していった。
螺子の記録を移し変えてはどうか、と零司は言った。しかし記録は膨大で、すべてを移し変えることは到底出来ない。
「一部をコピーしたところで、それはきっと私ではなくなるでしょう」
何か希望はないかと提案し否定され、やがて案の尽きた頃、
「私は私のままでいたいんです」
螺子は眉を寄せる零司の腰に腕を回した。
「止まってしまうそのときまで、私をそばに置いて頂けませんか」
零司は螺子を無言で抱きしめた。きつくきつく、目の前から消えてしまわないように抱きしめた。
それから数日、零時司は言葉なく螺子をそばに置いた。
せっかく軌道に乗り始めた時計製作の手も止み、家にこもって時刻がくると螺子のネジをキリキリと回した。
螺子のほうも黙ってじっとそばに付き従った。二人の間に言葉はなかった。
一度手の中にあるものを失ってしまったことのある零司にとっては、二度目の喪失感は身が切り刻まれるほどの痛みであった。食事の用意をしに螺子が立ち上がることさえ、零司には肝を冷やすような動きに感じられた。
(どうせ失ってしまうのならば――)