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3・螺子と悪意

 泣くなんて、本当に機械人形らしくない……。


 頬に落ちてくるしずくに零司は思った。



[螺子と悪意]



 強い日差しが木漏れ日として拡散して肌に触れてくる。

 顔には何か黒い影が覆いかぶさって日差しを止めていた。

 唇から注ぎ込まれる人の体温のぬくもりに零司はごほごほと咳込んだ。


「零司さんっ。よかった、意識が戻って」


 螺子の細い指が顔に張り付いた髪をなぜる。覗き込んでくる螺子の顔から頬に落ちてくる雫は冷たく、何滴も降ってきた。

 ぽたぽた。ぽたぽたと。


「泣くな、螺子」


 濡れそぼった螺子の黒髪から垂れた雫が螺子の目元を濡らし、零司の頬に落ちてくる。

 ぼんやりとする意識の中で、零司は螺子の目元をぬぐった。それでも垂れる雫は螺子の目元を濡らし、零司の頬を濡らす。


「泣かないでくれ」


 雫が垂れてこなくなるまで、零司は螺子の目元をぬぐい続けた。


 ※ ※ ※


「まったく、川で溺れて死にかけるなんて」

 風呂あがりの零司の体に団扇で風を送りながら螺子は頬を膨らませて怒った。帰ってから思い出したかのように怒り出すのはこれで三度目だ。

 いい加減にしつこいと零司はその言葉を右から左へ聞き流す。

「全身濡れてしまったが、お前は無事か?」

「私の中身は精密ですけど、そのあたりは人と同じで水に浸かったくらいでは壊れないんですよ」

 話を逸らすように労わってみせると、怒気は失せ、今度は気にかけてもらったと恥ずかしそうにそっぽを向くのはやはり人のようであった。


 暮れゆく夕日の中で風鈴売りの売り歩く風鈴のが外の通りに渡る。

 団扇で風を送りつつも螺子は寂しげに外へと意識を向けた。

「螺子は風鈴が嫌いか?」

 夏になると螺子は時折寂しげな目をして遠くを見つめる。それが大抵風鈴の音色を聞いたときだと零司は知っていた。

「そうですね……」

 螺子が言いよどむ。

 尋ねられればすぐに答えを返す他の機械人形とはそこが歴然と違う部分であった。

 思考に悩むのは人のすることだ。

「あまり良い思い出のないもので」

 零司は財布を取り出してまだ熱気の残る外へと飛び出した。


 何事かと待つ螺子に、一つのガラス製の風鈴を持ち帰る。風鈴には赤と黒の金魚が描かれていた。

 零司は戸惑う螺子の目の前で買ってきた風鈴を軒先に吊り下げた。

「良い思い出のないのなら、これから作ればいい。赤いのはお前で黒いのは俺だ」

 ほら、と零司が風鈴を揺らす。

 揺れると黒い金魚は赤い金魚の尾を追い、赤い金魚は黒い金魚の尾を楕円の中を無限に追いかけているように見えた。


――心地良い音色。


 ガラス特有の音色をちりんと奏でる風鈴に、螺子は目を閉じて聴き入った。


 ※ ※ ※


 夏の日差しに零司が日傘を傾ける。

 より多く影が行くように螺子に寄せられた日傘は零司の体の三分の二も隠せてはいなかったが、零司にはそれで不満はなかった。

 今日は共に野菜の買い出しに出かけた。


「人参が多すぎやしないか」

 竹編みの籠を覗いて言う。

「またそんな子供のようなことを」

 零司は人参があまり好きではないのだ。初めて煮物で出したときも人参を選り分けて残そうとした。

「人参にもカロテンなどの栄養がたくさんあるんです。次からは量を減らしてさしあげますから、今回は全部食べてくださいね」

 言う螺子に「お前は俺の母親か」と渋々箸をすすめていたのは一度のことではない。

 螺子は量は減らしても人参を完全に使わなくすることはしなかった。意地のようにほぼ毎食どこかに人参を仕込んだ料理を出した。

 残そうとすることはしなくなったが、買い物に来て人参を見かけると文句をもらすのだ。


 文句は言うが、人参を出すなとは零司は言わない。螺子が栄養面を考えて出していることを分かっていたからだ。

 溜め息ひとつで見かけた人参をなかったことにする。どうせ拒んでもどこかに紛れ込ませて出してくるのだ。螺子はそういう女だ。


「そろそろ職を探さないとな。退職金はたんまりともらっているからまだまだ生活には困らないが、そろそろこの宙に浮いた生活もなんとかしないと」

「町を出るのですか?」

「いや、この町で出来ることを探そうと思う。螺子もこの町が好きだろう?」

 零司はなにかを決めるとき、螺子のことも含めて考える。

 螺子の意にそぐわないものは、所有者という有利な立場であっても零司は選択肢に入れなかった。

「そうですね」

 同等の存在として扱ってくる自分の所有者に、螺子は目を細めて笑う。

 家々の軒先に吊るされている風鈴の音色は心地良く螺子の耳に響いた。



 不意に昭和の町に似つかわしくない香りを感じ取ったのは螺子のほうが早かった。


 顔を香りの源流に向ける。

 白壁の町並みに赤い毒の華が立っていた。けばけばしい赤の服を纏った女だった。


「零司……?」


 横に並び立つ零司に驚いたように開かれた口は、次の瞬間には歪んだ笑みの形を取る。唇は鮮やか過ぎるほどの赤だった。


「理恵……」


 零司の体が強張る。暑さのせいでなく、緊張のせいで額に汗が流れていく。

「そちらは?」

 女の目が螺子を捉える。獲物を物色するような視線に零司が螺子を背にかばい前に出た。

 それに面白そうに女が笑う。嫌な種類の笑みだった。

「ふうん、もう新しい女を見つけたんだ……って二年以上にもなるんだから当たり前か。ふふっ。私と別れたときはあんなに悲しそうな顔をしていたのにね。

 ねえ、私別れてしばらくしてから零司の家に行ったのよ。どこに行ったのかご両親に聞いたんだけど、田舎にやったの一点張りで応えてくれないんだもの」

 当然だ。彼女が零司にした所業を思えば傷付いた息子の居場所を言うなどどの親が言えようか。

「まさかこんなところで会えるなんて思わなかったわ。あなたとはやっぱり不思議な縁で結ばれているのかしら」

 笑う女に零司は唾を吐きすてたい思いにかられた。けれどそれをしてしまえば負けてしまうような気がして零司は衝動を懸命に抑え込んだ。


「お前とはもう完全に切れている。用がないならもう行こう」


 零司の二つ目の言葉は螺子に向けたものだった。

 螺子の手を取り足早に歩き出す。視線はもう女を見ていなかったが、意識は固く女の方向に集中していた。手には緊張のためか怒りのためか小刻みな震えが走っていた。

 横を通り過ぎるとき、螺子には聞こえた。

「あなたが拾ったのね。……私の零司を」

 憎々しげな負の感情を持った声だった。


 ※ ※ ※


「あれが退職金をたんまりもらった理由だ」

 

 家に帰り、壁にもたれかかるように座り込んだ零司は絞り出すように言葉を出した。

 螺子はその様子を黙って見下ろした。


「理恵とは婚約までした仲だった。多少わがままなところはあったが、好きだと、愛していると思っていたんだ。そう思っていたのは俺だけだったみたいだけど……」


 零司は封印していた記憶を苦しそうに顔を歪めながら話し始めた。


 幼いころから零司は機械人形に携わることに憧れていて、その憧れへと突き進むため専門学校に入り熱心に学んで技師の資格を得た。

 いずれは自作の人形をと思って入社した会社で、零司はすぐに受付として働いていた理恵と付き合い始めた。彼女は零司の勤める機械人形会社の社長の娘だったのだが、そういった背景を抜きにして零司は理恵のことを大事に思っていた。

 夢と共に愛する人を得て、未来は明るいものだと一人でそう思い込んでいた。


 理恵に対しては思いだけでなく行動として、休日には必ずどこかへ出かけ、連絡を欠かさず、終電がなくなったときなどは急いで迎えに行った。

 都合の良いだけの男だったのだと気付いたのは、給料をつぎ込んだ婚約指輪を用意してすぐのことだった。

「務めていた会社の社長、理恵の親父に娘と別れてくれと言われたんだ」

 理恵に系列会社の社長の息子との縁談が持ち上がったのだ。その会社は理恵の父親が経営する会社より数段規模が大きく、将来への発展性もまだまだ持ち合わせている大きな会社だった。

 縁談相手がもたらす利益は多大で、ただの技師であった零司が与えられる条件とは天と地ほどの差があった。

 親心とそして会社の経営者という立場にあって美味い蜜があるならそちらへ誘われるのは当然のこと。

 手切れ金として多くの退職金をちらつかせて、理恵の父親は零司に理恵と縁を切るようせまったのだ。


「俺はそれを聞かされてもまだ理恵の心は俺にあると信じていた」


 父親に隠れて会いに行った零司に理恵は冷たく言い放った。

「私に愛されているなんて本気で思っていたの? 良い条件が見つかったならそちらへ行くのは当たり前でしょ。だって零司ってば何も持っていないんだもん。パパからたくさんお金をもらえるんじゃないの? それをもらって楽しく暮らしたら? もう帰って。あんまりしつこいと人を呼ぶわよ」

 涙も出なかった。

 理恵の言葉にすべてを打ちのめされた。今まで注ぎ込んできた仕事への情熱も理恵への愛情もくすんだ灰となって消えてしまった。

 会社に利益をもたらす娘の恋人であったという事実は、それ以上会社にい続けるこを拒まれるに十分な理由だった。

 系列会社にはもう雇い入れてはもらえない。理恵の父親は業界に手を回すので違う道に生きろと言った。娘の醜聞となる事実はすべて隠すつもりなのが透けて見えていた。


 懐に持っていた指輪を投げ捨て、零司は多額の退職金を得て会社を去った。愛を否定され、夢を打ち砕かれた零司に残ったものは腕にかかえられるほどの段ボールに入るくらいのわずかな荷物だけ。

 すべてが空虚で空しく思えた。奮起してもう一度立ち直る気力は残っていなかった。


「よくある話だ。昼ドラの十分の時間軸にも満たないそれがこの町に来た理由だ」


 半年以上を自宅で無為に過ごして、親に勧められるままこの町に来てようやく忘れることができたのだ。いや、忘れたと思っていた。

 理恵に会った衝撃は当時の衝撃を思い出させ、こうして手を震わせる。


 当時の喪失感が蘇ってきたことで震える手を螺子が取る。重ねてとんとんと叩く動作は幼子に母親がするような手つきだった。

「そしてその理由のおかげで私はあなたに見つけてもらえた。私はあなたの理由に感謝します」

 ありがとう、と紡がれる言葉に零司は螺子を掻き抱いた。

 肩口に染みていく水分に螺子は優しく零司の黒髪を梳いた。


 その夜は一つの布団で共に目蓋を閉じた。

 夜、昼の様々の声が途絶えてからも、何度も起き上がる気配に互いに目蓋に口づけ、頬に口づけ、唇に口づけを交わした。

 何者も入り込まない幸福の時間だった。


 ※ ※ ※


 翌日、町内会の寄合に出席した帰り、理恵は再び零司の前に姿を現した。

「零司」

 甘く重い香水の匂いを振りまいて理恵は零司の腕にすり寄ってきた。

 気分の悪さは変わらなかったが、思うほど手に震えは走ってこなかった。今は気分が悪くなる理恵の顔よりも、台所で食事の用意をして待っているだろう螺子の顔を見たかった。

「昨日一緒にいた子、あれ機械人形なんですってね」

 ふふっと毒々しい赤い唇が嘲笑に歪む。

「零司ったら人が駄目になって人形に走っちゃったのかしら。そんなに相手をして欲しいのなら、手を出せない人形よりも私がまた相手をしてあげましょうか? ねぇ、寂しい寂しいれ・い・じ・くん」

 胸糞の悪い声に香りに零司は腕を振りほどいた。


「どんなに寂しく見えようと、俺自身は今の状態に満足している。余計なお世話だ。帰ってくれ」


 昨日とは打って変わった力強い瞳に、理恵は立ち竦む。これ以上ここにいる理由はないとばかりに零司はその場を去って行った。

 その背が振り返る様子は微塵もなかった。


「どこに帰れって言うのよ……」

 理恵の脳裏には幸せそうに並んで歩く二人の姿が浮かんでいた。

 かつて自分が捨てたそれに彼女は赤く塗られた爪を噛んで呻いた。


 ※ ※ ※


 その日は気持ちの悪い高い湿度の空気が町を流れていた。

 暑く蒸す空気に住人も外出を控えて家にこもってエアコンの除湿機能をオンにする。


「回覧板を持って行ってきます」


 居間で作業に没頭する零司に声をかけて、螺子は家の扉をくぐって外に出た。

 零司は取り寄せた部品で時計を作っていた。良い職はないかと思案した結果、螺子の「螺子巻の家系は古くを辿れば時計を生業としていた」という言葉に発想を得て、試しに自分で組み立てることにしたのだ。

 細かな部品に仕入れ先や値段の構成を考える。手ごろな値段で仕上がらなければ物は売れない。どれだけの時間でどれほどのものができるか試すために時間を計りながら組み立てていくのは、久しぶりに工具を手にした零司には心が浮き立つ作業であった。


 軒先の風鈴がちりちりと揺れる。

 風の強い日であった。もうすぐ台風が来るとラジオの向こうにいるアナウンサーが繰り返し放送をかけていた。

 重い灰色の雲が空の青を浸食し始めていた。




「螺子さん」

 

 記録メモリーに残っている甘い匂いの重なりが鼻を突く。

 回覧板を回し家に戻ろうとする螺子にかけられた声は、零司に毒々しい甘さで囁きかけた声とはまた種類を変えた悪意のこもったものだった。


 螺子は警戒をしつつ振り返る。

 けれど螺子には、最近普及し始めた緊急時の筋組織リミッターの解除装置など付いてはいなかったし、反射神経も人と同じようなもので咄嗟の判断に多少すぐれているだけで動きは人と同じようなものであったので、それを避けることができなかった。

 人と同じようにというコンセプトのもとで作られた螺子に人以上の反射能力の発揮など初めから出来はしなかった。

 それが螺子の明暗を分けた。


 粘着性のある液体が顔の左側に勢いをつけてかけられる。

 それは腐食性のある酸だった。人とほとんど成分の変わらぬ螺子の肌が細かな泡をたてながら溶けていく。

 あらわになっていく内部に女は笑い声をあげた。奇声に近い、勝利を得たという笑い声だった。


「ほら、どんなに繕っても人形は人形なのよ。それがあんなに幸せそうにしてるなんて、なんて滑稽なのかしら。

 あははっ。零司もこれで目が覚めるわね。人形相手に俺は満足しているですって!? バカじゃないの。私を置いて幸せになるなんて許さない! それが人ならまだしも機械人形だなんて……私をバカにするのもほどがあるわ!」


 螺子にはそれが嘆きの声に聞こえた。


「おかしいと思ったのよ。あんなに私を愛した零司が、あんなに別れ際に絶望に叩き落された零司がたった二年で違う女をそばに置くなんて。うふふっ、人形だったからなんだわ。

 でも許さない……私を置いて幸せになるなんて許さない! 零司は私を想って生涯惨めに生きていくの。そうでないといけないのよっ」


 哀しいと寂しいと訴えかける叫びに聞こえた。


――零司さん……。


 浴びせられた酸による白い煙が上がる中で、螺子は少しだけ寂しそうに笑う人を想った。






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