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1・螺子と礼次郎

 舞台は、人が動く歩道で移動し、空飛ぶ車が横行するニューシティと呼ばれる都市から離れた場所にある小さな町。

 人の手で、人と共にあるようつくられた一体の機械人形のささやかな日常がそこにはあった。



[螺子と礼次郎]



 螺子ねじこは機械人形であった。

 体内ボディに砂粒の二、三が入り込んでしまえば、とたんに調子が悪くなるくらいには精密な出来の人形であった。

 螺子を作った技師は名を螺子巻ねじまき 礼次郎と言う。螺子巻の家系を辿って行くと古くは手作業で一からすべてを製作する時計屋に流れ着く。今は途絶えてしまった螺子巻時計店の子孫に当たるのが礼次郎であった。

 礼次郎はたいそう腕の良い機械人形技師であった。それは一からオリジナルの機械人形を設計し組み立てられる程の。

 礼次郎は機械人形の世界では名の知られた男であった。彼が設計し世に広めた機械人形は多々あれど、彼が新しく作った螺子は取り分け風変りな機械人形だった。

 

 そもそも螺子の作られた背景には、礼次郎の引退が関わっていた。

 六十を超えても現役でい続けた礼次郎は七十を迎える前に後進の者に華々しく道を譲り渡し、近代的な街を捨て田舎に引っ込むことにした。その際に身の周りの世話をするための機械人形を作ることにしたのだ。

 礼次郎は新たな機械人形を作るにあたり、人と変わらぬものをコンセプトとして設計を行なった。

 性能は当時世に出ている最新の機械人形と遜色ないもので、見た目は人と大差なく、会話も滑らかで、触れる肌も人のそれと同じくやわらかな温度を保持するようにした。

 また、人と同じように考え成長するように思考系の回路も最新式のものを搭載させた。

 それは礼次郎の生涯最後にして最高の出来の機械人形となった。


 礼次郎は螺子巻の家名をもじり、遊び心で微細な部品から出来たその機械人形にネジの文字に当て字を成して螺子ねじこと命名した。それは自作にこれまでNR―100などの品番を振ってきた礼次郎が初めて名をつけた機械人形となった。


 螺子の変わっているのは、その首筋、左耳後ろに付けられた一センチほどのネジにあった。

 礼次郎は螺子が動くのに、他の機械人形と同じく整備を怠らなければ太陽の光で半永久的に稼動し続けられる動力を取り付けたのだが、螺子の起動スイッチとしてゼンマイの仕掛けを取り付けたのだ。

 それは一日一回、人の手によって巻かれなければ頭部への情報伝達系回路が遮断されて停止する仕掛けであった。


 自分の身の回りの世話をさせるが、自らも手を掛けてやらねばならぬ存在として設計したのは、機械を愛する礼次郎らしいものと言えようか。

 ただの世話焼き用の機械人形としてだけでなく、彼は家族として螺子を大切に扱った。昔に妻と娘を亡くし、独り身として数十年を過ごしてきた彼の、螺子は真実家族であった。


 ※ ※ ※


 使い込まれた檜のまな板で淀みない規則的な動作で野菜を刻む螺子の手を礼次郎は頻繁に止めさせた。

「来てごらん、螺子。雪が降り始めた」

 呼ばれればすぐに前掛けを取って礼次郎の元へ向かうのが螺子であった。


 礼次郎は縁側にあぐらをかいて空を見上げていた。寒空に礼次郎の白い息が溶けていく。暗い空からは白い綿毛のような雪が舞い始めていた。


「昼間より六度気温が下がっています。雲も三十%増えていますから、気温の降下と共に氷晶ひょうしょうの重みを雲が維持しきれなくなったのでしょう」


「まったく、お前は情緒が足らんな」


 淡々と計測の結果を伝えてくる螺子に礼次郎が苦笑いする。手招きして近くに呼び寄せ白い手を取り、落ちてくる雪に触れさせる礼次郎の手は長いこと縁側にいたためか、すっかり冷え切って固くなっていた。

 中に入るよう促そうとする螺子に礼次郎が笑う。

「どうだ?」

 綿の雪は螺子の手の平に触れて溶けていく。

「痛覚として表現するならば冷たい、と言えば良いのでしょうか。あぁ、消える際に氷の結晶が見えました」

 螺子の紫紺の目は機械らしく細部に渡るまでよく見えるのだ。センサーが感じ取るままを螺子は述べた。

 そうではない、と礼次郎が首を振る。

「心地良い、というくらいの情緒はないのか」

 その間にも螺子の手の平に次々と雪は降り落ちて消えていく。そのどれもが己の保持する温度よりも低い温度であるということと肌の刺激としてわずかの痛みを伝えてくるということしか螺子には理解できなかった。

「はあ、心地良い……ですか」

 どう思考しても肌の温度より数十度低い氷の粒が当たって消えて行ったとしか捉えられない。人の感情を理解するのが螺子には何よりも難しいことだった。

「その割に随分と体が冷え切っておいでのようで」

 センサーが感知する礼次郎の体温が下がっている。世話焼き人形としての責務として主に風邪をひかせるわけにはいかないのだが、礼次郎は雪見の席から立ち上がろうとはしなかった。

「ふん、いらん一言だけは人並みになったな、螺子。冷たさもまた、痛いときもあれば心地良いときもある」

 その違いを螺子が理解したことはこれまで一度としてない。けれど礼次郎は根気強く螺子に人の感情を教えていくのだった。


「螺子、熱燗をつけてくれないか。今夜は雪見酒と洒落こもう」


 持ってきた熱燗を主が啜るその横で螺子は真似をして空の盃に口を付ける。

 冷たくなった主の肩に温もりを伝えるように頭を傾ける螺子の頬に雪が一片ひとひら降り落ち消えてゆく。


――これは心地良いことだろうか。

 

 溶け行く氷の粒に螺子の思考回路はそう計算をはじき出す。けれど、それが正しい答えであるのかは螺子には分からなかった。そんなときは決まって電算の回路がチクリと痛み、思考に停止をかけるのだ。

 止まる回路に、しかし螺子は体内を巡る循環液の流れがゆるりとなるのを感じるのだった。


 後ろの仏間で雪明りに写真がぼうっと浮かび上がる。それは礼次郎の妻と娘の写真だった。

 写る二人は、瞳を閉じて雪の冷たさを解析する螺子によく似た面立ちをしていた。


 ※ ※ ※


 除夜の鐘がゴゥンゴゥンと静かな夜道に染み渡る。

 螺子が己を作った主と並んで白壁と紺の瓦屋根が続く住宅地を抜けて東方にある寺まで歩いていくのはこれで四度目になる。

 礼次郎は着物の上に小袖のたもとに丸みのない男性用の角袖コートを羽織っている。

 螺子は正月らしく、銀鼠色の着物に雪華せっか小紋の帯、差し色として青磁色の帯揚げを絞めて礼次郎の隣を歩いた。唇に塗られた鮮やかな朱の紅は、二十代半ばの見た目の螺子によく映えていた。


「除夜の鐘は人の百八の煩悩を払うために行われるそうですね。諸説あるようですが、それが一般的なのだと聞きました」


「それだけ人はごうの深い生き物だということさ」


 螺子は杖を突いて歩く礼次郎の歩みに合わせて下駄を運ぶ。礼次郎はそんな螺子に遠慮するわけでなく、深夜の空気を楽しむようにゆっくりと歩みを進めた。


 寺には既に人が多く集まって参拝の列をなしていた。

 小さな子供から腰の曲がった年寄りまで様々な年代の人が並んではいるが、実は元来の住人は年のいった老人ばかりであるのがこの町の特徴であった。

 礼次郎が居を構えたこの町は「古き良き次代」と唄われた昭和の時代をモチーフに作られている。

 硬化素材の透明ガラスの街並みが主流となっているニューシティとはその趣を異とし、郊外の観光客が多く訪れる観光地となっているのがこの町だった。

 住人たちは大概が現役の職を辞したのちの隠居先としてこの地を選んだ老人たちである。

 老人ばかりではあるが住人たちは皆生き生きと暮らし、他を排することなく、新参の者であっても笑顔で快く迎え入れる気の良い人々ばかりであった。

 それは機械人形の螺子とて例外ではなく、礼次郎と同じく住人たちは螺子の存在を町の住人の一人として受け入れていた。

 彼らを見るにつけ、螺子には百八もの煩悩を人が持っているようにはとても思えなかった。


 列に並び鐘の響きを身に受ける。それもまた今度で四度目の恒例となりつつある行事の一つであった。

「煩悩が百八もあるとは、人はずいぶんと余分の事を抱えているのですね」

 螺子の感想に礼次郎は、ははと笑う。初めの頃はそういった感想すら出てこなかった螺子がそんな感想を述べることが嬉しかった。螺子は意識していないだろうが、その言葉は螺子の思考が導き出したもの。

 少しずつ螺子は人になっていく。礼次郎にはそれが嬉しかった。


「人に百八の煩悩は苦行でしかないが、お前はそれを知るくらいで丁度良いのかもしれんな」


 礼次郎が螺子の手を取り舞う粉雪に触れさせる。その冷たさに螺子の情報回路が過去の雪の記録メモリーを呼び起こした。


「これは心地良い、ですか?」


 そう尋ねる螺子に「さあ、どうかな」と礼次郎は意地悪く笑うのだった。


 やがて年の明けを告げる声があがり、参拝の列が進みだす。

 人の波に礼次郎が足をとられないように、螺子はその体を支えた。


「螺子、願いを抱け。まずはささやかな願いから……そうだな、来年もこうして共に年を越せるように。とでもしておくか」


 次からは自分で考えろと言われたが、螺子は次の年もその次の年も同じ願いごとを呟いた。

 願いというものがよく分からなかったということもあったが、それが最善の願い事であろうと思考が答えをはじき出していたことも理由にあった。

 主と共にあることが螺子の作られた意義であって、存在していく意義であった。




 深夜、温かな色合いの電球の下、螺子が白い着物の寝間着を腰ほどに下ろして礼次郎に背を向ける。

 礼次郎は銀の聴診器を螺子の透き通った肌にあてがい、呼吸を静かに目を閉じる。


 トン トントン


 人差し指と中指の二本で、医者が患者にするように数度叩いて鼓膜を打つ音に意識を集中させる礼次郎の顔は、かつて最高の技師と呼ばれた者のする顔つきであった。

 礼次郎は体内ボディを通る音の返りで、通常様々な機械の管を取り付けて行う検査と同じ精度の判別を行うだけの技能を持っていた。それは長年の経験と豊富な知識を持つからこそなせる技であった。


「暖かくなったら循環液の入れ替えをしよう。少し流れが悪いようだ。さあ、ネジを巻いておこう」


 その声に螺子は黒髪をより分けて首筋をあらわにする。

 ゼンマイを回す間、螺子は生物の様相から無機物の様相に代わる。じっと動きを止めて身を差し出す姿は、等身大の彫像のようであった。

 礼次郎の動かすネジが明日も螺子を生かす。それは螺子がこの世に作られて今までずっと変わらぬ、翌日の朝を迎えるための二人の儀式。

 左耳後ろの小さなネジを礼次郎は節くれだった指でくるくると器用に回すのだった。


 ※ ※ ※


 螺子は昼間、礼次郎を置いて買い物に出かける。

 前掛けをして竹編みの買い物籠を持ち、下駄をカラコロと鳴らしながら商店を巡るのが螺子のいつものスタイルだった。

 商店は外注の店舗と共に、町の農園で作られた野菜などが並べられる土地の直売所としての機能をはたしている八百屋も存在していた。元気な住人の中には趣味として本格的な畑を持つ者もいたりするのだ。

 置かれているのは不揃いで多少傷の入ったものもあったりするのだが、栄養価としては外注の店舗で売られているものより高いので、螺子はあえて選んでそれらを購入し食卓に出していた。礼次郎もそれらの野菜を好んで食すので、今では八百屋は螺子の行きつけの店の一つとなっている。

 

 夏の今はきゅうりとトマト。

 町の地下を巡る井戸水で冷やしたそれらは、めっきり食の細くなった礼次郎でもよく食べる。

 よい出来のものをと物色する螺子に店の女主人が笑いかけた。

「螺子ちゃん、いつもありがとうね。今日は仕入れがたくさんあったから、一つおまけで持っていくといいよ」

 彼女は馴染みの客と同じように機械人形の螺子に接する住人の一人である。

 籠の中に置かれていた大きなトマトを一つ取り、彼女は螺子の手に乗せた。

「いつもすみません」

 最初の頃は勘定が合わなくなるからと電算回路の違和感に困り顔をしていた螺子も、今では素直に礼を述べて好意を受け取るようになった。

「いいんだよぉ。いつも贔屓にしてもらってるんだから」

 螺子のささやかな成長をこの女主人を含めた住人たちは微笑ましく見守るのであった。


 八百屋を出て通りを歩く。

 途中でたくさんの風鈴を乗せて売り歩く手押し車がゆっくりと進んでいるのを横目に通り過ぎる。

 車を引くのは対観光客用の機械人形だ。近くにある夏祭りを意識してか、ここ数日ははっぴを着て売り歩いているのを見かける。

 夏の日差しに汗ひとつかかない人形に子供たちが駆け寄っていく。風が吹き抜けて、ちりんちりんと高く低く涼やかな音色を奏でて風鈴の短冊が揺れていた。




「ただいまかえりました」

 カラカラと引き戸を開けて中に入る。けれど人の返答はなく、主は寝ているのだろうと螺子は買い物籠を玄関に置いた。

 礼次郎は最近は夏の暑さのためか、昼間は寝ていることが多い。食事の量もがたんと落ちてしまっている。


――昼食は喉の通りの良い素麺にしようか。


 履物を置き直す螺子の耳にチョロチョロと水の流れる音が入ってくる。 

 機械人形の螺子がそのような人らしいミスを起こすことはない。礼次郎が誤って水を出しっぱなしにしたのかもしれない。

 けれど螺子の中の何かが「それは違う」と警告のように繰り返した。


――庭?


 螺子のいる位置からは庭の様子は見えない。「早く行け」と思考回路が訴えかける。

 螺子は買い物籠を蹴飛ばすという機械人形にあらざるミスを犯しつつ庭へと走った。蹴飛ばした買い物籠からごろりと八百屋の女主人にもらったトマトが転がり落ちた。


 木の板で作られた床をトタトタと走る。

 胸が軋む。帰ってくるまで不調のなかった胸部に圧迫感を感じた。

 庭先に主の突っ掛けが片方転がっていた。

 回路が種々の計算を同時に行いだして視点が定まらない。胸のポンプが正常より強く液を押し出す。


「旦那様っ!」


 螺子は裸足で庭の土を踏んだ。湿り気を帯びた土が足裏にべちゃりと付着する。

 先ほど通り過ぎた風鈴売りの売り子の声がすぐそこまで近付いてきていた。


 ※ ※ ※


「まったく、夏の暑さにバテちまうとはなぁ。俺も老いたもんだ」


 敷いた布団の上で礼次郎がぼやく。その顔色は発見時は土気色をしていたが、今はもういつもの色を取り戻していた。

「もう少しご自分の体を大切にしてください。私のいないときは特に」

 その横で螺子は水差しからコップに水を注ぐ。

「水撒きくらい、私に言えばすむことです」

「水撒きくらい、俺にだってできる」

 ふんと鼻を鳴らす礼次郎にいつもより粗雑な手つきで螺子はコップを差し出した。

「実際は出来なかったでしょう」

 差し出された水をあおり「酒のほうがいい」と礼次郎がコップを置く。そのひょうとした態度に螺子は柳眉を逆立てた。


「まあそんな顔をするな」


 礼次郎が螺子の手を引く。螺子は促されるままに彼の胸に耳を当てた。

 トクトクと心臓が脈打つ音を耳のセンサーが拾う。


「老いたがな、俺はもう少し生きるさ」


 耳を打つ音が以前より弱まっていることを、螺子のセンサーは数値として明確に感じ取っていた。


――まただ……胸が軋む。


 けれどそれが故障などではないことを螺子は知っていた。体内ボディのセンサーはなにも異常を知らせる信号を発していなかった。


 ※ ※ ※


 もう少し生きるとは言ったものの、礼次郎の体力はその年の暮れまでもってはくれなかった。


 冬の始まりに木枯らしが枯葉を飛ばす。

「私を置いてゆくのですか」

 横で目を伏せる螺子に礼次郎が笑う。初めは笑うことすらぎこちなかった人形が、ずいぶんと人らしくなったものだ。

「失敗したな。その顔で泣かれるのは堪えると思って涙の機能は入れなかったんだが、泣かれずにそんな顔をされるほうが余程堪える」

 螺子に付いているのは目の保護として瞳を僅かに濡らす程度の機能。そんなものでは涙の一滴でさえ落とすことはできない。


 力の抜けた手で礼次郎が螺子の手を握る。握力はほとんど無しに等しく、握るというよりも手を重ねたと言い換えたほうがましなくらい弱々しいものだった。

 もうネジを巻く力も残っていない、と礼次郎が呟く。それは明日以降、螺子が稼働できなくなるということを示唆していた。

 しかし稼働できなくなる、ということは正確には機械人形の螺子にとって「死」ではない。誰かがまたネジを巻けば、再び螺子は動くことが可能となるのだ。それが人と螺子が決定的に違う部分であった。


「私を置いてゆくのですね」

「……すまんな」 

 機械人形の「死」は壊れてその機能を果たさなくなる状態になること。

 螺子がはっきりとは自覚していなくてもそれを望んでいることを礼次郎は分かっていた。

 けれど礼次郎にはその願いを叶えることはできなかった。礼次郎は機械人形技師としての誇りを持っており、その誇りとして自分が作ったものを壊すことなど決してできはしなかった。


「いずれ、またお前のネジを巻く人間が現われる。その人間に寄り添って生きるといい。機械人形としてではなく、人として」

 螺子は「嫌だ」と思った。けれど主の命令は絶対。はっきりとした礼次郎への反抗心を螺子は押し隠して「はい」と答えた。


「今までずっと見送ることばかりしてきたが、こうして見送られるのも案外悪くないものだな……」


 その言葉を最後に、徐々に呼吸を減らして礼次郎は息を引き取った。




 日が暮れて、螺子は屋根裏の階段を昇る。そこは物置場として使用しているスペースだった。

 荷物を避けて隙間に座る。

 螺子は目を閉じ、静かにそのときを待った。

 思考の経路が呼び起こす記録メモリーは礼次郎と共に過ごした日々のものばかりだ。

 春に散る桜のもの悲しさ、夏の夜の意外と涼やかな風、晩秋に向けて静まりゆく虫の声。冬のしんしんと降る雪の心地よさ――

 軋む胸。どんなに腕の良い技師でもこの軋みを修復することは叶わぬだろう。


――涙が出れば良いのに。

  

 やがて刻が来て、ぜんまいの仕掛けが止まる。ただの置物と化した螺子に小窓から青白い月光が降り注ぐ。照らされる頬は無機物のそれで、ぼうっと闇夜に浮かびあがった。

 

 どこかで仕舞われないまま残された夏の忘れ物の風鈴がちりんと鳴る。冬に近い秋風に寒々と風鈴は寂しげな音色を一音奏でて途絶えた。





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