去るものと去らざるもの
ノバミムへの遠征を終えて、レムリアックへと戻ったユイは、その翌日から現在に至るまで完全に執務室の置物となり続けていた。
「旦那……少しは働いてくださいよ」
「おいおい、私は病み上がりなんだよ。少しくらいは労ってくれても良いじゃないか」
ユイは連日のように労働を薦めてくるクレイリーに対し、執務室の自らのデスクで頬杖をついて読書をしながら、視線を移すことなく返事をする。
「……一体、何ヶ月前の話をしているんでやすか。それに病み上がりで、隣の自治領にカチコミにいったのはどこの誰でやしたかね?」
「さあ、誰だったんだろうね。少なくとも私は商売の話をしに行っただけで、私自身は指一本手出しはしていないよ」
「たしかに、そう言えばあの時も旦那は働かなかったでやすからね……」
あのノバミムでのカチコミの際に、激しい戦いの中一度も剣を抜くことなく悠々とオメールセンの下まで歩いて行ったユイのことを思い出し、クレイリーは呆れたような溜め息を吐く。
「良いじゃないか、それでもうまくいったんだからさ。あそこで販売網を確保できなかったら、この土地でいくら魔石を産出しようと、この土地の魔石の行き先は無かったんだしさ」
現在クラリスの王都であるエルトブールの市を仕切っている大商人たちは、そのほとんどがブラウたち貴族の御用商人たちであった。それ故に、ユイはたとえレムリアックから魔石が取れるようになろうとも、通常経路では販売できないという可能性を当初から想定していた。だからこそ最も市場としては魅力的で、そしてレムリアックから魔石を卸す行為が様々な波及効果を生み出しうる手段を彼は選択したのである。
「それはそうでやすけど……でも、欲張って旦那が注文を取りすぎたせいで、こっちはてんてこ舞いなんでやすよ。在庫は右から左に次々動いて行くし、どんどん地方やノバミムから人が押し寄せてくるし、そのためのアンチルゲリル処理はてんやわんやだし。ほんとリュートさんがこの土地を離れる代わりにと、慌てて補充の魔法師たちを呼び寄せなかったら、間違いなくレムリアックは回っていませんでしたからね」
「うんうん、つまり商売繁盛で実に良いということだね。いやぁ、私はついに左うちわの人生を手に入れたということだよ」
「……なんだかなぁ」
満面の笑みを浮かべながら一向に働こうとしないユイに対し、付ける薬はないとばかりにクレイリーは肩を落とす。
しかし、そんな弛緩しきった執務室の空気は、その直後にセシルが部屋へと駆け込んで来るなり一変する。
「はぁはぁ……ユイ君。ちょっと、ちょっといいかな」
「どうしたんだい、セシル。珍しいね、君が息を切らせるほど慌てながらやってくるなんて」
ユイはクレイリーの時の対応と違い、手元の書籍から肩で息をする彼女へと視線を移す。
「こ、この手紙を。この手紙を見て!」
セシルはそう口にすると、彼に向かって一枚のきれいな上質紙を手渡す。そのセシルの一連の行動にユイは首を傾げならも、その紙へと彼は視線を移した。すると、彼はすぐに額に皺を寄せ、そのままの姿勢でしばし硬直する。
「……まったく」
間違いではないかという思いから、二度その文面を目に通した後に、ユイは大きな溜め息を吐き出した。すると、何やら芳しくない事態が起こったことを感じ取ったクレイリーは、ユイに向かって心配そうに尋ねる。
「旦那……一体どうされたんですかい?」
ユイは一度首を左右に振った後に、先ほど受け取った手紙をくしゃくしゃと丸めると、それをクレイリーめがけて放り投げる。
「ちょ、この用紙は公式な命令書に使われる特注の上質紙じゃないですか。全くこんな大事なものを……って、命令書?」
クレイリーはそこまで自ら口にしたところで、自分の発言に違和感を覚え、慌ててその文面へと目を走らせる。すると必死に字を追っている彼に向かい、ユイは他人ごとのような口調でその内容を口にする。
「私への転勤命令だよ。この片田舎を離れて、近隣国の中でもっとも大きな国へ行ってこいだとさ」
自らのケルム帝国への駐在命令をユイは鼻で笑うと、弱ったように頭を掻く。
「……ユイ君、どうするつもりなの」
「断れるなら、断りたいものだけどね……ただ、おそらく難しいだろうね。その命令書を発行した外務次官の後ろには、例の組織がついていらっしゃるだろうからさ」
ユイは暗に貴族院のことをセシルへとほのめかすと、彼は疲れたように肩を落とす。
「ですが、旦那。この土地のことはどうするんでやすか?」
「そりゃあ、代理を立てるに決まっているさ。他に手はないからね……しかし、しばらくは呆けていたかったけど、これでまた少し働かなければならなくなったか。はぁ……全くもって困った事だよ」
ユイはそう口にするなり絶望的な表情を浮かべると、大きな大きな溜め息を吐き出す。
「代理と言うことは、ここの統治を他の人間に任せるつもりなの? でも、貴方の代わりができる人なんて……」
「いや、それは全く心配していないんだ。なにしろ、最も信頼出来る代理人が私の目の前にいるからね」
ユイはあっさりとセシルの心配を否定すると、そのまままっすぐに彼女を見つめた。
するとセシルは、そのユイの視線の意味を理解して途端に狼狽する。
「……嘘でしょ。そんなこと私には――」
「できるできないということを抜きにしても、私は君にここを任せたいんだ。もちろん能力的にも君なら何一つ問題無いと思っているんだけどね、セシル六位。いや、セシル領主代理」
否定的な言葉を口にしようとしたセシルに対し、ユイは苦笑いを浮かべながら彼女にかぶせるようにそう告げる。
すると、セシルはユイに向かって言いたいことがありそうな視線を送りつつ、すぐに首を左右に振った。
「私には無理よ。それに私は……」
「セシル。君より優秀で君ほどこの土地を愛している人間を、少なくとも私は知らない。だから君にお願いしているんだ。他の人に任せることなんて、とてもじゃないけど私には出来ないからね」
ユイは自らの視線を宙に漂わせながらそう口にすると、手にしていた書物を閉じて机の上に置く。
「ユイ……君」
「あと、クレイリー。君とカインスもしばらくはここに居残りね。君たちには特に命令は来ていないからさ、彼女のことは任せたよ。と言うわけで、私は引継のための細々としたことをするために、ちょっと下の資料室へ行ってくるよ」
ユイは頭を掻きながら二人に向かってそう告げると、そのまま彼は席を立ち上がりまっすぐに部屋から出て行く。
そうして部屋の中には、クレイリーとセシルだけが残された。
「セシル六位……旦那は仕事を押し付けるのが仕事みたいなお方ですが、できない人間に仕事を押し付けたところは見たことがありやせん。きっとこの土地を任されるのも、六位を信頼しているからだと、あっしは思いやす」
「……そうじゃないの。ここを任されることも確かに不安だけど、私は……ただユイ君ともっと仕事がしたかったの。例え、私を最後まで見てくれなかったとしてもね」
セシルはそう口にして、笑っているようなそれでいて悲しんでもいるような、なんとも言えない曖昧な表情を浮かべる。
すると、その彼女の目にほんの少し輝くような雫が貯まっていることに気がついたクレイリーは、彼女に向かって遠慮がちに問いかける。
「失礼を承知でお聞きしますが、やはり旦那のことを」
「……学生の時からね。でも、きちんと諦めたつもりだったの。なのに、偶然ユイくんがここの領主として再び私の前に姿を現したから、私は気づいてしまったの。あの頃の想いが、今でも私の中にはっきりと根付いていたってことがね」
「セシル六位。それは……」
クレイリーはセシルの独白を耳にしてわずかに顔をしかめる。すると、そのクレイリーの表情から、セシルは言いにくそうにする彼の言葉を汲み取って口を開く。
「うん、言いたいことはわかる。だから何も言わないで。私もさ、一緒に働いてみてわかっちゃったから。彼は変わっていないって、そしてきっとこれからも変わることはないって。でもね、そんな人を追いかける馬鹿な子がね、一人くらいいても良いじゃない」
そう言い終えてセシルは無理やり笑みを作ろうとすると、その瞳から一滴の水滴がこぼれ落ち、彼女の頬に一筋の跡を残す。
「……すみやせん」
「あなたが謝ることじゃないわ。これはあたしが勝手に想っているだけだから。それに、今後も時々領主としてレムリアックに帰ってくることはあるでしょう? 私は彼にここの状況を報告する、彼は最近起こったことを私に話してくれる。彼との関係が途絶えるわけじゃない、そして私は諦めるつもりもない」
そのセシルの言葉を耳にしたクレイリーは、悩ましげな表情を浮かべた後に、迷いながらも彼女に問いを発する。
「でも、本当にいいんですかい? あっしがこういうことを言うのも何ですが、旦那のことを想っておられる方は、たぶん他にもいらっしゃりやすぜ」
「例えば女王陛下とか?」
「……ご存知で?」
「噂を聞いてなんとなく、ね。でも負ける気はないわよ。こっちは学生の時からだもの、年季と積み重ねたものが違うわ。さてっと」
セシルは両手で自分の顔を軽く叩くと、俯いていた顔を上げクレイリーに視線を向ける。
「ウジウジするのはおしまい。私は私にできることをする。まずはこのレムリアックを、ユイ君の代理として恥ずかしくないように経営していくわ。という訳で、これからよろしくね、クレイリーさん」
その笑みを目にしたクレイリーは、この場から立ち去っていた男に対し大きな溜め息を吐き出すと、そのままセシルに向かって笑みを返す。
「あの働かない人の下で働くことを思えば、きっとこれからは天国で働く気分になれそうでやすからね。へへ、喜んでセシルさんの下で働かせて頂きやすよ」
その言葉を口にしたところで、クレイリーはセシルの差し出した手を取ると、しっかりとした握手を交わす。
そうして彼はユイ不在のこの地を守るために、精一杯目の前の女性を助けることを固く心に誓った。






