仰せのままに、御主人様(8)
狭い厨房に大の男二人に少女が一人。
マデーラは標準より少し小柄だが、アルポイはどちらかというと恰幅が良い方だし、ヴェネフは縦に長い上に着脹れているので全員入れば流石にぎゅうぎゅう詰めになる。
そんな少々苦しい体勢で周囲を見回せば、竈の上に薬缶と鍋が並んで置かれていた。冬林檎のものと思われるほのかに甘い芳香は、鍋の方から漂ってくる。
「ほう……」
「これは……」
それを覗きこんだアルポイとヴェネフは声をあげた。
まだ湯気の立つ鍋の中、ぷかぷかと浮かぶ赤い物体。それをじっと見つめながら、アルポイはあごを撫でた。
「なるほど、果汁を入れるんじゃなくて煮出したのかね」
感心したような言葉に、マデーラが嬉しそうに笑う。
「そうなの。冬林檎って香りも味も強いでしょ? こうやって皮を煮出した湯でお茶を淹れると、その香りや甘みが癖の強いお茶を飲みやすくしてくれるってわけ。オレンジとか他の果物や木の実でも応用は利くけれど、林檎は大抵の人が好きだし何より手頃でしょ?」
「ふむ、こういう飲み方もあるんだなあ。確かにこれなら手軽だし、ベネディスの茶の香りが苦手な人でも口にしやすくなるかもしれない」
「でしょ!」
褒められて嬉しいのか、どうだとばかりにマデーラがヴェネフの方へ視線を向ける。しかし、肝心のヴェネフの視線は未だ鍋の中に向けられたままだった。
何処か居たたまれないようなその視線に、マデーラの眉がぴくりと持ち上がった。
「……何か言いたい事がありそうね、ヴェネフ?」
マデーラの言葉にはっと我に返ったヴェネフは、慌てて手を前で振った。
「いえ。滅相もございません、お嬢様」
内心ぎくりとしながらも、何事もないかのように否定する。確かに言いたい事はいろいろあるが、ここは主人であるマデーラを立てるべきだという事はわかっていた。
よく出来た使用人は、その場の空気を読めなければならない。だが、すっきりしない様子ながらもマデーラが追求せずに再びアルポイの方へ顔を向けると、その目はまた鍋の方へと向かう。
(皮……? 皮、って……)
茶の淹れ方のみに目が向いているらしいアルポイには眼中にないようだが、ヴェネフにはどう見ても、鍋の中に入っている物体には皮よりも身の方がついているように見える。
これでは『皮を煮出した』というよりは、『身を削って煮出した』に等しい。──林檎が一個丸ごと鍋に浮いていないだけマシなのだろうか……。
茶こそ見事に淹れてみせたマデーラだったが、やはり料理の腕前的なものは初心者に等しかったのだ。
さりげなく厨房内を見渡せば、案の定、作業台の上に使用したと思われるナイフとほとんど食べる部分が残っていない、ある意味器用に芯だけ残したとも言える林檎のなれの果てがあった。
これはマデーラが手を怪我しなかっただけでも奇跡なのかもしれない。
最初から糖蜜などと煮れば、保存も利くし用途も広がっただろうに。実に勿体ない事この上ない。再利用するにしても、果たして単に水煮にしたりんごを後から味付けして、何処まで美味しさが出るものやら。
こうするとわかっていたら、無理にでも(おそらく相当抵抗されただろうが)手伝ったのだが。
ヴェネフも料理が素晴らしく堪能という訳ではないが、それでもマデーラよりはナイフの扱いは心得ているし、林檎に限っては好物なだけあって皮を剥くのなら得意だ。
(哀れな……)
きっと普通に食せば素晴らしく美味しかったであろう冬林檎を、ヴェネフはそっと心の内で悼んだ。
「あとね、種明かしはまだあるの」
そんな複雑そうなヴェネフに疑わしそうな目で見ながら、マデーラはさらにそんな事を言い放つ。思いがけない一言にヴェネフは我に返った。
「え?」
「まだ、だって?」
もうこれで種明かしは終わったとばかり思っていた二人に、マデーラはふふんと勝ち誇ったように笑ってみせる。
「これだけじゃ、ベネディスのお茶そのものの癖は抜けないの。もう一手間かけるのよ」
「ああ、なるほど」
マデーラの言葉にすぐにアルポイは納得したように頷くが、元の状態をよく知らないヴェネフにはそもそもその癖というものがわからない。実際に茶を口にした時にも言っていたが、一体『癖』とはなんなのだろう。
「……癖、ですか?」
首を傾げるヴェネフに、その疑問を察したらしいアルポイが補足する。
「ベネディスの茶が味より香りを優先するのには、理由があるんだよ」
「単に流儀的な意味ではないと?」
「ああ、それこそレサイア産の茶葉と比較したらわかるんだが……。独特の風味というか苦味というか──一種のえぐ味があるんだ。それを誤魔化す為にいろいろな茶葉を混ぜて複雑な味にしたものが定着した、という説が一般的だね」
「苦み?」
「物によるけど、基本的にそこまで強いものじゃないし、元々茶葉には多少なり苦味があるからね。気にならない人には気にならない程度だよ」
つまり、香りで苦味を誤魔化しているという事だろうか。
理解した上で、先程口にしたマデーラの茶を思い出してみる。確かにあれには気になる程の苦味は感じなかった。
「冬林檎の甘みで隠されたという訳ではないのですか?」
「それももちろんあるけど、皮から出る甘みなんてたかが知れてるでしょ?」
至極当然のように答えられた。あれだけ身がついていれば甘みも出るだろう──と思った事は黙っておいて正解だったようだ。
マデーラはそのまま厨房の一角に向かうと、一つの包みを持ち上げた。見覚えのあるそれは、先程市場で買い求めたものの一つだ。
「それは?」
不思議そうに尋ねるアルポイへ、マデーラは楽しげに答える。
「塩よ」
「塩?」
頷いて振って見せるそれは、確かに先程マデーラが先に買うと主張した塩の包みだった。
「これを少しだけ茶葉に混ぜてから、振ってよく塩を落とすの」
そこまで聞いても何がしたいのかよくわからない。それはアルポイも同様だったようで、首を傾げている。
「何の為にですか?」
問えば、先程まで自信満々の様子だったマデーラが少しばつが悪そうな顔になる。
「……実はわたしもあまり詳しくはわからないんだけど、ベネディスの茶葉には目に見えないくらい、小さな灰がついてるんですって。だからそのまま普通に淹れると苦みが出るんだって、……母様が言ってたわ」
つまりこれもリエナからの受け売りだったのだろう。
「だから塩を使って、その灰を取り除くの。完全とはゆかないけれど、これだけでも随分違うでしょ?」
「灰……」
理由を知らないマデーラは無邪気に言うが、何か思い当たる事があるのか、アルポイの表情が曇った。マデーラはアルポイのそんな様子に不思議そうな顔をする。
「確かにあそこには灰の海がある。なるほどね……、それでなのか」
その言葉でヴェネフもようやく思いだした。ユーディンと商談に同行した際、何処かで耳にした話だ。
北西大陸の西側には、砂ではなく広大な灰の海がある。そこは人はおろか、生物の存在しない死の大地。そこはかつて北西大陸が何カ国かに分かれていた頃には、大陸で一、二を争う国の首都が置かれていたのだという──。
今となってはその国の名も定かではないが、その悲劇的な結末は今もまだ語り継がれている。出る杭は打たれる──その教訓を持って。
マデーラが生まれる前の話だし、ヴェネフにとっても伝え聞いた程度なのだから、彼女がその事を知らなくても不思議ではない。意図的かはわからないが、リエナもおそらく詳細は語らなかったのだろう。
「ああ……。そう言えばお嬢様、塩の銘柄は指定しなかったくせに、海塩じゃないと駄目だって言ってましたね」
何処か重くなった空気を変えようと、市場での事を思い出しながらそう言えば、マデーラはよく気付いたとばかりににっこりと笑った。
「岩塩だと砕かないとならないし、海の塩は少ししっとりしてるからいいんだそうよ。そしてお茶を淹れる時は、葉を洗うようにして最初に出た分は捨てるの」
「残った塩分と灰を取り除く訳ですね」
「その通り。普通の茶葉より少し手間がかかりはするけど、味はこっちがいいし、正式なお作法に比べたらずっと手軽だもの。実際に飲み比べて貰えば、今までより売れるようになるんじゃないかしら?」
たかが一杯の茶に、と言う人間もいるだろう。レサイア産の茶葉ならそんな面倒な手をかけず、しかも安いのだから、そちらで十分と言われるかもしれない。
だが、元々茶は嗜好品。比較的日常的に口にする物ではあるが、個人で楽しむ他は客人などに振る舞うのが普通だ。少しの手間で上質な茶葉がぐっと飲みやすくなるなら、確かに今までよりも購入者は増える可能性は高い。
アルポイもそう思ったのだろう。細い目をさらに細めて、見上げるマデーラの頭を撫でた。
「流石はリエナさんの愛娘だ。うん、嬢ちゃんの言う通りだと思うよ。実際に試してみよう」
「本当!?」
認められた事が嬉しかったのか、ぱあっとマデーラの表情が明るくなる。
「ああ。約束通り、茶葉も半額にしてあげるよ。お陰でベネディスの茶葉が売れるようになりそうだからね」
一瞬、マデーラがきょとんとした顔になる。
おそらくアルポイに認められる事に夢中になって、そもそもの目的──茶葉の値引き交渉──をすっかり忘れていたのだろう。この辺りはまだまだ子供である。
やがてその事を思い出したらしいマデーラは、ヴェネフの顔を見上げ、両親の死後、初めて見せる心底嬉しそうな笑顔を見せた。
「やったあ! ありがとう、アルポイさん!!」
そのまま狭い厨房で、マデーラがアルポイに抱きつく。ただでさえ密度的に限界だったのだから、その行動はある意味自殺行為に等しかった。
「ぐふっ」
逃げ場もなく勢いに押されたアルポイの身体と壁に挟まれ、ヴェネフは目を白黒させる羽目に陥った。