ラストチャンス
病室。
入り口のネームプレートには『今田叶』と書いてあった。
その病室は、この辺りで一番大きい病院の最上階にある。その病院の、そのフロアに病室があるということは……イコールで、もう二度とそこから出られないことを意味していた。
「…………」
今朝は天気が良く、換気をしているのか、病室の扉は開かれたままになっていた。
その扉の数歩手前で、翔機の足は止まってしまう。
今までに、こんなことは一度もなかった。
愛らしい妹に会うのに、その直前で躊躇することなんて、一度もなかった。
むしろ一刻も早く会いたくて廊下を走り、看護師さんに注意されて、謝りながら病室に駆け込むことの方が圧倒的に多かったほどだ。
それなのに……足が、止まる。
「…………」
電話で、叶の容態が急変したことを聞いた。
それはいつ起きてもおかしくないことで、常に何パーセントかの可能性はあった。
だから、理論上はそれが今起こってもおかしくない。
おかしくはないのだが……それでも翔機は、そんなことは起こらないと思っていた。そう思わなければ、やってられなかった。
「…………」
だから、何かの間違いなのだと思う。
この辺で一番大きい病院のくせに、ロクな医者がいないと聞く。腕のない医者が、大切な叶の診断を誤ったのだ。そうに違いない。
このまま自分が病室の入り口を潜れば、いつも通り、この世で一番可愛い妹が
『お兄ちゃん! いらっしゃい!』
と、見ているだけで幸せになれる笑顔を向け、微笑んでくれる――と、翔機はそう信じて、病室の入り口を潜った。
真っ白な部屋だ。
天井も、壁も、ベッドも、シーツも、机も、椅子も、ポットも、食器も、クローゼットも、洗面台も、歯ブラシも、コップも、全てが……白。
一目で気持ち悪いほど清潔だとわかる部屋の真ん中に――なによりも白い少女がいた。
いつものピンク色のパジャマじゃない、白い病室着に身を包んで。
いつもの陽だまりのような笑顔じゃない、ボンヤリとした表情で。
いつもの元気いっぱいの声じゃない、なにかに怯えた声で。
自分の大好きな兄、今田翔機に向かって……その少女は、こう言った。
「……お兄さん、誰?」
――チャンスだ、と翔機は思った。
いつも通り「今だ、チャンス!」と叫ぼうと思った。
今までだって、こんなことはたくさんあった。辛かったこと、悲しかったことを挙げたら、きりがない。
その全てを、翔機はチャンスだと信じて生きてきた。
たとえ父親に殴られても。
母親に捨てられても。
妹が病気になっても。
一人で貧乏生活をすることになっても。
学校でいじめられても。
友達ができなくても。
彼女ができなくても。
幸せがわからなくなっても。
生きることに疲れてしまっても。
その全てが、最期の最後に訪れるハッピーエンドの伏線なのだと、妄信してきた。
翔機の好きな物語では、大抵そうだ。
逆境に置かれ、不幸ばかりが降りかかる主人公はみんな、最後には望んだ通りの未来が手に入り、幸せになった。
だから、自分もそうなのだと信じて、今日まで歩いてきた。
父親に殴られたお陰で身体が丈夫になったし、母親に捨てられたお陰で精神も鍛えられた。
妹が不治の病にかかった時、自分はこの病気を治す主人公になるのだと喜んだ。
貧乏生活をしているお陰でお金のやりくりには自信があるし、いじめに遭った分、人に優しくしようと思えた。
友達も彼女もいなかったけど、幼馴染と共犯者は無理矢理に作ったし、幸せが明確な形をしていない自分は、誰よりも大きな幸せを手にするのだと思った。苦労して生きている分、誰よりも生の喜びに満ちた人生を送れるのだと歓喜した。
そうこうしている内に空から降ってくる美少女を見つけ、強引だが物語に参加した。
パートナーの精霊は最弱だったけど、物語のメインヒロインを平気で張れるほど美しかったし、一緒にいて楽しかった。
そんな最弱な彼女と圧倒的に力のある敵に対峙し、最後にはちゃんと奇跡が起こって主人公になれ、敵に勝てた。
――そして。
最愛の妹が、いなくなった。
このチャンスが、どんなハッピーエンドに繋がっているんだろう――とは、翔機は思わない。
このチャンスを、どうやってハッピーエンドに『繋げようか』、と翔機は思う。
翔機はいつだって〝今〟を生きてきた。
過去は振り向かないし、未来なんて見据えない。
歩く先を確認することはあっても、それは一瞬。見ているのは常に自分の足元。自分が今歩いているこの道を、一生懸命歩いてきた。
道に小石が転がっていればチャンスだし、行く手を阻む道路工事もチャンスだった。
だから今、世界一大切な妹がいなくなってしまったのもチャンスなのだと、必死に自分に言い聞かせる。
「…………っ」
――言い聞かせるのに。
頭では本当に、これがチャンスだと、思って、いるのに。
絶対に泣かないと決めていた。
むしろ、こんなビッグチャンスに泣くわけないだろ、と思っていた。
そんな翔機の目からは……とめどない涙が流れ続けている。
…………本当は、辛かった。
これまでの人生、苦しいことばかりだった。
チャンスだと思ったことなど、一度もない。
主人公になる……と言いつつ、誰よりも自分が主人公の助けを必要としていた。
にもかかわらず、そんな奇跡は一度だって起こらなかった。
不幸、不運、不遇、不条理、理不尽……この世の災厄が、全て自分に降りかかっているのではないかと錯覚するほどだった。
それでも、誰も助けてくれなかった。
誰も助けてくれないから、自分でなんとかするしかなかった。
必死にチャンスだと言い聞かせて。
泣きたいのも立ち止まりたいのも我慢して、ずっと一人で歩いてきたつもりだった。
……でも、違ったのだ。
翔機は決して一人ではなかった。
病室のドアを開けば幸せをくれる笑顔があったし、抱きしめれば傷を癒してくれる温もりがあった。
だから、今日まで自分は頑張ってこれたのだと。
だから、自分はこれまでの全てをチャンスだと言い張れたのだと。
公演時間がとっくに過ぎ、バッドエンドで幕が下りた舞台の上――ヒロインを救えなかった脇役は、ようやく気づくことができた。
「あの……大丈夫……ですか?」
「…………」
その声を聞いて、必死に涙を拭う。
たとえ全てを忘れてしまっても、目の前にいるのが最愛の妹には変わりない。
「ああ、大丈夫だよ……」
「――――っ」
涙が残る顔で無理矢理に笑顔を浮かべ、少女の頭を撫でようとすると……少女が、なにかに怯えるようにぎゅっと目を瞑った。
「…………」
先ほど少女は、翔機を指して「お兄さん」と呼んだ。
同じ『兄』の字が含まれていても、そこに込められている意味は天と地ほど違う。
「……ごめんね。お水が零れそうだと思って」
行き場を失った手でコップを掴み、机の端から十分な距離があったそれを、中央まで移動させる。
ゆっくり目を開いた少女は……無意識だろうが、掛け布団を自分の胸元まで引き寄せた。
「…………」
思春期の少女のすぐそばに、こんな『得体の知れない男』がいたら怖いだろう、と思って……翔機は、出口に向かう。
「あの……」
その背中に、少女の声が掛かった。
「お兄さんは……」
そういえば、まだ名乗っていなかった。
幼さを残した、今はなにかに怯えている表情の……でも、本当は陽だまりのような笑顔が似合う、世界一可愛い少女に、翔機は自己紹介する。
悲しみを隠し、涙の跡が残る顔で最高の笑顔を浮かべながら――
「おにーちゃんはね……君の、将来のお婿さんだよ」