この世界のどこかにいる誰かのために
今朝起きたとき、なんとなく体がだるくて。こめかみの辺りがズキズキと痛かった。
ああ、雨だな。と、思う。そうなのだ。今日は、雨が降るのだ。
「行ってきます、お母さん」
仏壇の前にすわり手を合わせる。その横の飾り棚には小さな写真立て。やさしい瞳をした女性が、わたしを見つめていた。それが、お母さん。一度も会ったことがない、わたしのお母さんだ。
お母さんは十七年前、わたしを生んだ翌日に亡くなった。お父さんの話によると、お母さんはもともと病弱であったらしい。それは、雨雲を呼ぶ風がとても強い、夏から秋へと移り変わる日の出来事だった。
「おまえのせいじゃないんだよ。誰もそんなこと思ってやしないから、だいじょうぶだ。安心おし」
お父さんは、誕生日がくるたびにそう言って抱きしめてくれた。わたしを思ってのことなんだろうけど。そう言われるたびに、わたしは悲しくなる。お父さんが、寂しそうにポツリと言うからだ。わたしにではなく、自分自身に話しかけるかのように。
わたしは、お母さんのことなんか知らないし、お母さんがどういうものなのかわからない。わからないものは、想像することができないのだから。「おまえは可哀そうな子供だ」と言われても、どう反応したらいいのか困るだけなのだ。
「べつに寂しいなんて思ったこと、一度もないよ」
と、答えると、大人たちは満足そうな笑みを浮かべた。それどころか、「まあ、よくできたお子さんね」と言って、わざとらしく悲しそうな顔をつくり褒めてくれたものだ。
だから、わたしは可哀そうなフリをした。大人たちが満足したいのなら、させておけばいい。どうせ、わたしの思っていることなんか、本気で聞くつもりがないのだから。
「今日は、遅くなるのか? 学校の帰り、どこかに寄るのかい?」
お父さんが台所から顔をのぞかせた。お弁当の卵焼きをつくっているのだろう。甘くて香ばしいニオイがぷうんとする。
仏壇に向かって一礼すると立ち上がって、わたしはお父さんの隣に移動した。
「青葉でバイトがあるの。もうすぐお兄ちゃんの誕生日だしね。何かプレゼントをしてあげないと」
お父さんがつくってくれたオカズを、自分のお弁当箱に詰める。
「そうか。バイトがあるのか。だけど、お父さんも今日は残業なんだ。迎えに行けないから、実に任すよ。いいかい?」
「うん」
フライパンの上に薄く伸ばした卵を、お父さんは器用に巻いていった。フライパンを斜めに傾けて、フライ返しをあやつる。
巻き終えた卵焼きを皿に乗せたあとに包丁を取り出して、トントンと手際よく切り始めた。
「本当は冷ましてから切るんだけどな。時間がないし、まあいいか。由香、オカズに持っていくか?」
「ううん、いい。今食べてく」
卵焼きを一切れつまんで口の中に入れた。もちろん、つくり立てだったので、少し熱かったけれど。砂糖の甘さと塩のしょっぱさが利いて、とても美味しい。
「どうだ、ウマいだろう。これがお母さんの味だぞ。お母さんの得意料理だったんだ。ちゃんと覚えておくんだよ」
お父さんは楽しそうに笑った。リンダリンダをゴキゲンに鼻歌で歌いながら、シンクでスポンジを泡立ててフライパンを洗い出す。
――あ。
台所の窓がカタカタ震えたので外を見たら、西の風がピュウーッと吹いていて。歩道の脇に植えられたイチョウの木の枝が揺れていた。
――あの二人、どういう関係なんだろう。恋人同士と見えなくもないけど、なんか不思議。変なの。
バイト中、テーブル席に案内した一組のカップルの様子が気になったので、お盆で顔を半分かくし覗き見をした。
いまいち頼りなさそうな、ひょろっとした男の人と、長い髪がキレイな女の人。四人掛けのテーブルに対角線上に向かい合ってすわっている。
二人は何をしているのかというと、定食屋に来ているのだから食事をしているのは当たり前なんだけど。キレイな女の人は驚いたような顔でまじまじと、男の人が味噌カツを食べる様子を眺めているだけだった。
彼を見つめる瞳がやさしい。お母さんと同じ、やわらかい雰囲気がする。その瞳を見て、わたしはハッとなった。
ひょっとしたら、あの写真立ての中のお母さんは、お父さんを見つめていたのかもしれない。今わたしの目の前にいる女の人のように。カメラのファインダーをのぞく恋人を愛おしく思って。
そうだよ、きっと見つめていたんだ。
その考えに至ったとたん、じんわりと疑問が浮かび上がってきた。
いつかわたしにも、そんな日がやってくるのだろうか。誰かを愛おしく思って、穏やかに見つめる日がくるのだろうか。この世界のどこかにいる、まだ出会っていない誰かのために、お母さんの卵焼きをつくってあげる日が……。
だめだ。今は、まったくイメージできない。
「由香ちゃん」
「はい?」
厨房から名前を呼ばれたので振り返った。わたしがバイトをしている定食屋、青葉のおかみさんだ。
おかみさんは、わたしのお母さんとは違ったタイプ。ふくよかな体つきをしているけれど働き者らしく、休んでいるところを見たことがない。人並みか、それ以上に体が丈夫なのだろう。そして、うちの事情をよく知っている大人のひとりだった。
「もう九時を過ぎたから、そろそろ帰った方がいいわ。風も強くなってきたし。お兄さんがお迎えに来るんでしょう?」
「あ、はい……」
テレビ画面に表示されたデジタル時計を見ると、二十一時七分になっていた。もうバイトの時間はおしまいだ。あまり遅くなると、帰り道がこわい。
住まいはここから徒歩十分のところにあるマンションだ。昼間はいいけど、最寄り駅から離れているため夜は人通りが少なくなる。それに何より、これ以上風が強くなってしまったらと思うと、気が気でなかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて。今日はあがります。ありがとうございました」
エプロンを外して頭を下げてから、自分の荷物をとりに奥へ行った。
「あっ……!」
店の裏側にある扉を開けようとノブに手をかけて回したら、わたしの手から離れて勢いよくバタンと開いた。外側の壁に強く叩きつけられる。
カタンカタンと何度も音を鳴らしつづける看板。ひっくり返って蓋が開いたポリバケツ。その周囲にまき散らされたゴミのかたまりもまた、吹き飛ばされるのは時間の問題だ。
見慣れた街の中を激しい風が渦となって駆け抜けていた。
――ああ、そっか。台風が近いんだっけ……。
目の前の光景が信じられなくて。ぼんやりとバイト中にテレビで見た天気予報を思い出した。この地方は直撃を免れたものの、まもなく暴風圏にすっぽり入るとの予報だ。
「台風が過ぎるまでは、かなり強い風が吹くでしょう。ご注意してください」
アナウンサーが何度も同じセリフを繰り返していた。
――これはヤバい。かなりヤバいよ。
頼みの綱のお兄ちゃんは、まだ来ていない。お父さんは仕事。今日は残業で遅くなると言っていた。
どうしよう。このまま走っていってしまおうか。雨が降って家に帰れなくなる前に。ここにずっといるワケにはいかないんだし。だけど、風が。強い風が……。
「イタタ……」
強風をまともに体で受けたせいだろう。こめかみの辺りがひどく痛くなってきた。
今度の痛みは、今朝とは比べ物にならない。見えない大きな手で頭をわしづかみにされて、ギューッとひねり潰されようとしているみたいだ。ズキンズキンと頭に痛みが走るたびに、呼吸がしづらくなる。
もうすぐだ。すぐにでも雨が降る。強い風が雨雲を呼んでいる。
息も絶え絶えに、助けを求めて扉の外を見たちょうどそのとき。出入り口の向こう側から、とつぜん人影が飛び込んできた。
「ひゃあっ!」
ビックリして、思わず目をつむる。すると、聞き覚えのある声がした。
「なんだ、田所じゃんか。変な声出すなよ~。お化けかと思ったぜ。それより、なんでドアが開いてるんだ?」
「え、克己くん……?」
恐る恐る目を開けると、背の高い男の子がいた。定食屋、青葉の跡取り息子。同級生の克己くんだ。ニヤニヤして、わたしを見おろしている。
「どうしたんだよ、目なんかつむちゃってさ。キスでもしてほしいのか、んん?」
おどけた調子で冗談を言いながら、開けっ放しになっていた扉を「よいしょ」と片手で閉めた。
「ば、バッカじゃないのっ。アンタが急に帰って来たからビックリしたの! ただ、それだけなんだからねっ」
こんなにも風が強い夜に、どこに行っていたのだろう。彼は意外にも優等生なので、塾に行っていたのかもしれない。と、思ったけれど、そうではなさそうだった。派手な色をした花柄のシャツを着て、首にネックレスなんかしちゃって。なんかチャラっぽい格好をしていたからだ。
そういえば、彼の親友の関くんが嘆いていたっけ。彼女が出来たとかなんとかで付き合いがわるくなったって。もしかしてデートでもしてきたのだろうか。
だけど、わたしには関係ない話だ。
「帰るから。そこ、どいてくれる?」
にらみつけるように視線を向けると、克己くんは目を丸くした。
「まさか、こんなときにひとりで帰るのか? 外すごかったんだぜ。オレは足腰を鍛えてあるから余裕シャクシャクだったけど。おまえみたいなちっこいヤツなんか、カンタンに飛ばされていっちまうぞ?」
「そんなの関係ないでしょう、アンタには。わたしが帰りたいって言ってるの。さっさとどいてよ」
「なんだよ、人が心配して言ってやってんのに。かわいくねえな、その態度おう」
「アンタになんか、かわいいなんて、これっぽちも思ってほしくないわよーだ。そっちこそ何なのよ、その服。ダッサダサッ」
「なんだとおーっ」
ゴオーッとうなる強風に負けないように、わたし達は声を張り上げて怒鳴りあった。遅れて迎えに来てくれたお兄ちゃんと、早めに仕事を切り上げて帰ってきたお父さんが、二人そろって「あのう、もしもし?」と声をかけてくるまで。
いつのまにか頭痛がおさまっていたことを気づかずに。わたしはずっと彼と言い争っていたのだ。
「昨日の青葉は大変だったな~。内も外も嵐だったでよう。強風が吹き荒れとっただがや~。なあ、由香リン?」
次の日の朝、お兄ちゃんはわざとらしく方言丸出しで冷かしてきた。
「うるさいなあ。そんなことばっか言ってたら、今日は日の丸弁当にするよっ」
「うっほほーい。おお、こわっ。わかりやしたよーん」
お兄ちゃんにからかわれたせいで、一晩眠って沈静化されたハズの怒りが込み上げてきた。けれど、すぐさま、恥ずかしさへと一気に変わる。
はあ、わたし。なんてことをしでかしたのだろう。克己くんは自分の家に帰ってきただけなのに、それを怒鳴りつけるなんて。
起こしかけた発作がおさまったのは、彼のおかげ。言い争っているうちに、強い風がこわくなくなったからだった。
ため息をつきながら、台所の窓の外の景色を見る。今日も風が吹いていた。イチョウの木の枝が揺れている。けれど、夜のうちに台風が通り過ぎて行ったので、昨日よりは穏やかでやさしい。
「由香、卵焼きをつくっているのかい?」
お父さんがネクタイを締めながら、わたしのうしろからのぞきこんだ。
「うん、そうだよ。なかなか上手に巻けないけど……」
お皿の上には、お世辞にも上手とは言えない卵焼きがのっていた。このグチャグチャに形がくずれた卵焼きは、わたしの手作りだ。
「だいじょうぶ。こういうのは慣れなんだから。何度もつくっているうちに、うまくなるさ。おまえはお父さんとお母さんの娘なんだから、ちゃんとできるようになるよ」
そう言ってお父さんは、わたしがつくった卵焼きを一切れ食べた。「ウマい!」と大げさにうなずく。
「お父さん、ありがとう」
今日からは、わたしが卵焼きをつくる。お父さんとお母さんとお兄ちゃん、そしてまだ会っていない、この世界のどこかにいる、わたしだけの誰かのために。毎日つくって、心の底から美味しいと喜んでくれる日のために、練習すると誓ったのだ。
だけど、とりあえず。今日だけは。アイツの分もつくってあげよう。昨日、わたしと一緒に嵐のような風を起こしたアイツのために。
「由香、弁当箱の数がひとつ多いような気がするんだが……」
「あ、うん。ちょっとね。今日は部活があるの。よぶんに持っていくんだ」
そう言って、わたしはウソをついた。
お父さんには絶対、ないしょだ。
(END)
読んでくださってありがとうございました。