第一章 宮廷入りはできませんっ!?
「宮廷入りおめでとうございます、セレンさん」
大通りへと繋がる小道。荷物を片手に、緊張が感じられる足取りで歩いていたセレンは急に呼び止められた。
ひんやりとした微笑みを浮かべてセレンの前に現れたのは一人の少女。黒い頭巾をすっぽりと被り杖を構えている様子は、明らかに祝福のためにやって来たようには見えない。
セレンは穏やかな笑顔を浮かべつつ、宮廷魔術師採用試験の最終選考対象者であった好敵手の少女に返事をする。
「ありがとう、テルル」
いつもよりも丁寧にまとめた月影と同じ輝きを持つセレンの髪が風に揺れる。
今日はセレンの十六の誕生日であり、宮廷入りの日。セレンは宮廷に向かう途中で現れたテルルに警戒する。
(なんか嫌な感じがするわね……)
テルルが呪いを専門とする魔術師だということは選考中に何度か対峙しているので知っている。その彼女が、魔術を使うのに最も適した装備で目の前に立ちふさがっているのだ。これで不吉に思わないほうがむしろ不自然だろう。
「最終選考までともに進めたこと、心から感謝いたしますわ」
そう言うテルルの笑顔には不気味な影がある。
「いえ、こちらこそ。――試験は結果としてあたしが通過したけれど、テルルには魔術の才能があるわ。また何処かで会える日を楽しみにしてる」
「その通りですわ。私には才能があるのですもの。あの宮廷魔術師は一体何をご覧になってらしたのでしょう」
低く呟くように告げるテルルに、セレンは笑みがひきつるのを堪えて続ける。
「わざわざ見送りに来てくれてありがとう。あなたのことだから、てっきり姿を現さないだろうと思っていたんだけど、ここで会えて嬉しかったわ。――でもごめんなさい。そろそろ行かなきゃ、約束の時間に間に合わないの」
「そうですね」
テルルはにんまりと笑んで素直に頷く。
その様子に、セレンは拍子抜けした。
(そうよね。テルルはいつもと変わらないじゃない。人を疑うのは良くないわ)
そして、宮廷入りを邪魔するのではないかと思っていた自分をセレンは恥じる。相手がどんな人間であろうと、端から疑ってかかるのは良くはない。
――信じなければ信じてもらえませんよ。
最終面接官であった宮廷魔術師師範代の青年の台詞が蘇る。
「じゃあ、また――」
「お待ち下さい。あなたにはなむけがありますの」
頭を下げてすれ違おうとしたセレンの腕を掴むテルル。その力は尋常なものではない。ぐいっと引き寄せられたかと思うと、テルルの真紅の唇が囁いた。
「あなたに星と月の祝福を」
その言葉に反応して展開する魔法式。それは祝福の気持ちなど欠片もない呪いの言葉。
対抗魔法を唱えることもできたのに、セレンは反応できなかった。まもなく彼女の視界に変化が現れる。
(えぇっ?)
景色が遠くになって霞んでゆく。強く掴まれていたはずの腕からは力が感じられない。
やがて状況が落ち着き、そこでテルルはのけぞった。
「あぁ、いい気味ですわ! 田舎娘のあなたには、そのお姿が大変似合っていましてよ」
「なっ……!?」
セレンは自分の手足を見て驚く。
銀色の毛皮を持つ獣の四肢。頭の上についた丸い耳。ピンと伸びた銀色のヒゲ。彼女の特徴的な長い髪が置き換わったかのような長い尻尾。
「ご自分でもよくよくご覧になりたいでしょう?」
上機嫌な様子でテルルが差し出してきたのは小さな手鏡。セレンはそこに映し出された自分の姿に絶句した。
「ふふっ。あなたはこの姿で残りの一生を送りますのよ。あぁ、傑作ですわ」
「あなたって人は……」
「声が小さくて聴こえませんでしてよ? もっとも、チュウチュウと言っているようにしか聴こえませんけど」
ケラケラと声高らかに笑いながら、テルルはくるりと向きを変える。
「さ、私も準備をはじめませんと。セレンさんが宮廷入りできなくなったとなれば、次にお声がかかるのは私ですものね」
「ちょっとっ! 待ちなさいよ! あたしを元に戻してってばっ!」
「頑張りなさいな、セレンさん。ごめんあそばせ」
ちらりとセレンを見やると、テルルは早足で立ち去る。
「テルルっ!」
セレンは叫ぶが、その背が見えなくなるまでテルルは一度も振り向かなかった。
(どうしよう……これってやっぱり、ネズミよね……?)
手でペタペタと触ってみるが、伝わる感触は小動物を撫でているかのようなものだ。
セレンはため息をつくと、あらためて回りを見る。セレン自身が着ていた服が辺りに散らばっていて、さながら海のようだ。見慣れているはずの路地も幅が広く、見知らぬ場所に思える。
(と、とにかく、このままじゃ宮廷には行けないわ。おろおろしている場合じゃないものね)
そう自分を励ますも、不安で仕方がない。セレンは呪いを解く方法を知らなかったのだ。
(……まずは、この状況を誰かに知らせよう。私一人ではどうにもならないもの)
彼女自身を知らせるものは回りに散乱している。ならばあまりここから離れない方が得策だ――そう判断したところで、セレンは辺りが暗くなったことに気付いた。視線をゆっくり上げていく。
「うっ?!」
そこにいたのは巨大な――と言っても、セレンから見た時の印象だが――野良犬が彼女をじっと見下ろしていた。
思わずセレンの身体が震える。
「お……美味しくないよ?」
獲物を狙う目であることは直感的にわかった。出していた舌を引っ込めると、野良犬は鼻先をセレンに向けてくんくんさせる。
(ひいっ!)
短い前足でセレンは自分の頭を守る。しかし野良犬はパクリとはせずに、離れていった。
(ふ、ふう……)
ほっとして、セレンはそむけていた顔を上げて野良犬を見る。野良犬が次に向かって行ったのは彼女の荷物。
「あの……そこに食べ物はありませんよー?」
セレンは恐々と話しかける。
ぎろり。
「ひぃっ」
野良犬はセレンを睨むと、彼女が持っていた鞄の取っ手をくわえ……そのまま走り出した。
「ちょっ……待って! 待ちなさいってば! それはあたしの荷物なんだからっ!」
小さい身体でセレンは懸命に追いかける。しかし、体格の違いもあってすぐに離されてしまった。
「うそ……最悪……」
ぜいぜいと息を切らし、セレンは野良犬を見失ったところで立ち止まる。夢中で駆けたために、先ほどの場所が遠くなってしまった。人間の大きさならたいした距離ではないのだろうが、今のセレンからすればかなりのものだった。
「も……戻ろう」
このままでは人間に戻る機会を失ってしまう。セレンは危険を感じ、来た道を戻り始める。
そのときだ。
「きゃあっ! ネズミ!」
頭上の高いところからおばさんのかん高い声。それと同時に振り下ろされる箒。
「うわわっ! 待って!」
セレンは間一髪でそれを避けると、山積みになった木箱の裏に駆け込む。
(こ……これは本格的にまずいわ)
落ち着いて状況を聞いてもらうどころの話ではない。ネズミは害のある動物とされている。つまり、嫌われ者なのだ。
セレンの変わり果てた姿であるネズミを求めて叫ぶおばさんの声が聞こえる。まだ諦めていないらしい。
(……と、とりあえず、人目のつかないところを通ってあの場所に戻ろう)
周囲に注意を払いながら、セレンは自分の荷物が転がっている場所を目指す。しかしその道も一筋縄とはいかなかった。
通りを走る馬車が水をはねてはそれを浴び、幼児に見つかっては追い回される。苦手な虫に遭遇したなら回避を忘れない。
「なんなのよ、もう……」
辺りが赤く染まりだす。陽が暮れ始めているのだ。
セレンは立ち止まると、塀や壁に囲まれて小さく区切られた空を見上げる。
(遅刻どころの騒ぎじゃなくなってるし……)
あちこち走り回ったために、ただでさえ遠くなった道程が倍以上になっている。見知った町であるのに、これはまるで異世界だ。そんな場所を動き回ったせいでヘトヘトである。
(疲れた……)
体力を消耗し疲弊しているそんなセレンに、静かに忍び寄る一つの影。気配を察すると、残る体力を振り絞ってセレンは機敏に前方へと駆けた。
「ニャ」
尻尾の一部を掠めたところで、襲ってきた野良猫を視界に入れる。
「……って」
ネズミでも冷や汗は流れるものだろうか。セレンは後方にかたまる猫たちの姿に戦慄した。
(なんか集まってるしっ!)
運悪く猫のたまり場に迷いこんでしまったらしい。目をギラギラさせた猫たちが、セレンの姿を見て狙いを定めていた。
「言っておくけど、あたしを食べたら腹痛起こすんだからねっ!」
威嚇をしてみるも、野良猫たちには効果がないらしい。黙って間合いをつめてきている。
(くうっ、この身体じゃなけりゃどうってことないのにっ!)
細く逃げ込めそうな場所を探すが、身を隠してやり過ごすことができそうなところは存在しない。壁に囲まれた小さな路地は、清掃が行き届いていた。
(こうなったらっ!)
セレンは逃げるのを諦め、猫たちと対峙する。
「――炎よ、我に従えっ!」
得意の火炎魔法。動物は炎が苦手だと聞いていたので、これで追い払うことができれば充分だ。焼き殺す必要はないので、火加減はいつも以上に弱めを設定している。
(せめて目眩ましくらいにはなりなさい!)
呪文に呼応して紡ぎ出される魔法式。セレンに内包された魔力が解放され、炎を作り出す。
ぼふんっ!
「って、あれ?」
不発だった。
きょとんとするセレンを、手前にいた黒猫が跳びかかる。
(あーっ! 印を結べてないっ!)
二発目を放とうとして最大の欠点に気付き、セレンは退避する。
(危機的状況だわっ。こんなところで死にたくないっ!)
そのときだ。セレンの身体が急にふわりと浮いた。
(……へ?)
果敢にも追撃しようと跳躍する黒猫。しかしセレンの身体を掠めることさえなく、彼は落下していく。そして、黒猫たちは小さくなってゆき、やがて彼女がいただろう路地も遠くに離れていった。
(――どういうこと……って!)
疲れていたために気付かなかったらしい。セレンはようやく状況を理解した。一羽の鷹に捕らえられ、空を飛翔しているのだ。
「ちょっ! 放しなさいっ! あたしは食べられないわよっ!」
セレンは慌てて身をよじる。このままでは巣にでも連れて行かれて、美味しく食べられてしまう。たまったものではない。
「こら、おとなしくしてろ!」
焦るような低い声。
セレンはその声に聞き覚えがあったような気がして、鷹の横顔を見やる。
「あなた……もしかして……?」
「話は宮廷に入ってから聞きましょうか、セレン君」
「は、はいっ!」
厳しく叱りつける声に、セレンは背筋をピンとさせる。この鷹の正体はセレンが最終面接で対面した宮廷魔術師師範代アスターなのだ。
(見つけてくれたことには感謝だけど、これってかなりマズイ状況じゃない?)
胸がドキドキする。それは恋ではなく、これから説教を受けるのではないかと身構えているがゆえの反応。
(あぁ、やだやだっ! どうしよう)
祈るように両手ならぬ前足を合わせていると、周囲を森で囲まれた広大な土地にそびえたつ城が見えてくる。セレンが目指していた宮廷だ。
城の側に建っている背の低い屋敷群。その中にある一つの部屋に窓から侵入すると、鷹はセレンを解放した。どうやらこの部屋は彼のものらしい。
「全く……何処で油を売っているのかと思えば、なにやっているんですか?」
トゲトゲした冷たい口調で言い放つと、鷹は発光し姿を変える。
太陽と同じ輝きを持つさらさらの髪、眼鏡を通して見える空と同じ色の瞳。羽織っている質の良いローブは国の紋章入りである。彼は整った顔に苛立ちの色を濃く乗せて、セレンを見下ろす。
「えっと……ですね……」
畏縮してしまって言葉が出て来ない。
「初日に遅刻という事態がどういうことなのか、わかっていらっしゃるでしょうね?」
「は、はいっ! それはもちろんです!」
「ならば、さっさと術を解いて土下座して謝るくらいしたらいかがです?」
腕を組んだ高圧的な態度で、なかなか手厳しい提案をしてくる。セレンは迫力に負けて一瞬身を縮めると、アスターを見つめた。
「それが……自分でこの姿になったわけじゃありませんでして……」
「宮廷魔術師の見習いといえど、そのくらいできなくてどうするんです?」
ギロリと向けられる冷やかな視線。
「う……あたしが変身魔法を苦手にしているのを知っているくせに……」
「ほう……口答えしますか? 君の直属の上司である僕の前で」
セレンはその台詞を聞いて口をあんぐりと開ける。
(――よ、よりにもよってこの人が先生っ!)
面接のとき、セレンは確かに彼ができる人だとは思った。話をした感じでは、信念をしっかり持った指導者に足る人物に見えたからだ。実際、二十歳そこそこの年齢でありながら宮廷魔術師の師範代を務めているのである。それ相当の能力があるに違いない。しかしそれは遠く憧れる分には良くても、身近で接するとなると話は変わる。自他ともに厳しい性格で少々説教好きなのだ。
「セレン君、僕は情けないですよ。自分で君を選んだことを恨みますね。これほど出来の悪い生徒だとは思いませんでした。君にはがっかりです」
(そ……そこまで言うっ!?)
大げさに額を押さえて言うアスターの前で、セレンはむっとする気持ちをなんとか抑える。口にしたら何倍になって返ってくるかわからない。
「今年こそは心穏やかに自己紹介をして、和やかな気持ちで指導を始めることができると期待していたんですよ?」
「え……?」
トゲトゲした口調は変わらなかったが、思いがけない台詞にセレンは鼓動が跳ねる。
「無事に一人前の魔術師に育てることができたら師範代を卒業できると聞いて、優秀な人材を選んだはずだったんですがね! この僕の落胆を、どう責任取ってくれます?」
「って! 結局自分の出世のためじゃないっ!」
損したと言わんばかりにセレンは叫ぶ。
(――なによなによ。こっちこそがっかりよ! もっと志が高い人だと思ったのに! ちょっとでも憧れちゃったあたしが馬鹿みたいじゃない!)
セレンの文句に対し、アスターは眼鏡の位置を直して続ける。
「当然ですよ。出世以外に何があるんです?」
「国のためとか、王様のためとか、国民のためとか、色々あるじゃない!」
「そのためにも地位や名誉は必要ですよ? やりたいことをやれる身分になるためには、手段を選んではいけません」
(な、なんか真っ当なことを言っているように聞こえる……)
心が動かされそうになるが、セレンは最後とばかりに言ってやる。
「じゃ、じゃあ、師範代であるあなたは何が望みなのよ?」
「君に言ったところで何も変わりません」
馬鹿にするような言い方であっさり切り捨てられる。
「なによっ! 協力できることがあるかも知れないじゃない」
「協力する気があるなら、いつまでもそんな格好していないで下さい」
「だから戻れないのっ! テルルに呪われて、解除呪文もまともに唱えられないんですっ!」
「偉そうに言うことですか? 恥を知りなさい」
突き刺すような冷たさを持つ視線がセレンを貫く。
「そ……その通りです……」
反論する余地はない。アスターの言葉は至極もっともな意見だからだ。
「目上の人間に対する態度もなってませんね。困っているというわりには威勢が良いようで?」
(――そうよ。この人ならこんな呪いなんて簡単に解けるんじゃない?)
セレンは彼がこの事態を解決してくれる存在であることに気付き、背筋を伸ばす。
「し、失礼しました! 咄嗟のことに取り乱していまして、すみません」
「何を今さら」
心を入れ替えて謝るも、アスターの態度は冷たい。それでもセレンはめげずに続ける。
「もし、宮廷魔術師見習いの権利がこのあたしにまだあるなら、必ず立派な魔術師になってあなたを師範にしてみせます! ですから、この呪いを解いてはいただけませんか?」
「そんな情けないネドブネズミの姿になってどうしようもない君が、僕を師範にするのですか?」
言って鼻で笑う。しかし、セレンは必死に訴えた。
「しますよっ! だってあなた言ったじゃないですか。優秀な人材を自分の目で選んだんだって! あたしを信じろとは言わないわ、あなた自身の目を信じてくれればそれで良いの!」
「ほう……」
感心するかのような呟き。そして口の端を笑みの形に歪めた。
「――良いでしょう。その意気込みだけは買います」
だけ、の部分を強調して言うと、眼鏡を外して片目を細めて続ける。
「しかし、ドブネズミの姿でそれを言われても格好がつきませんけどね」
くっくっと喉を鳴らしてアスターは笑いだす。そんな彼に対してセレンはぷくっと膨れる。
「――さ、からかうのもこの辺でやめるとしますか」
(か……からかうって……!)
噛み付いてやりたい衝動は、しかしアスターが見せた柔らかな微笑みで消え飛んだ。
「改めて自己紹介をしておきましょう。ドブネズミ相手と言うのも滑稽ですが」
(――一言多いっ!)
むっとしているセレンに対し、彼は宮廷にいる人間に相応しい所作で応じる。
「僕は魔術部隊所属のアスター=ロゼットです。魔術師の育成が主な仕事で、位は師範代。今日からセレン=ルーナの指導教官になる予定でした」
「指導を始める前から過去にしないでよっ! ――一応、この姿で失礼しますが、あたしはセレン=ルーナ。今日からお世話になります」
セレンは自分の指導教官であるアスターに頭を下げる。
「……って、人間に戻してもらってからの方が良かったんだけど……」
不満げに呟くと、アスターはクククと笑う。
「なっ! わ、わざとねっ!」
「こんな事態は滅多にありませんからね。ドブネズミで宮廷入りだなんて、後世まで残る笑い話だ」
(つくづく失礼な言い方っ!)
「しかし、それは他人の話なら、です」
アスターはセレンを見下ろす。冬空のようなピンと張りつめた空気が辺りを包む。
「自分の選んだ生徒がそんな状態でやって来たとなれば、僕の経歴にも傷がつく。早急に対処すべき事象だ。――従って、今回は特別に呪いを解いてあげましょう。証拠隠滅も兼ねて」
(――結局自分のためかいっ!)
動機はさておき、人間に戻れるかもしれないこの機を、アスターの機嫌を損ねることで失わないように沈黙を守る。文句はそのあとだ。
一方、アスターは魔術を使うために両目を閉じて意識を集中させ始めていた。周囲に複雑な魔法式が浮かび上がり、魔力が編まれてゆく。
(すごい……)
肌がピリピリと痛む。それはアスターの魔力に起因する現象だ。
「――月の使者よ、この者にかけられし呪いを取り除きたまえ」
つむがれた呪文に呼応して、魔法式が一つの円陣を引き出す。高位の浄化魔法だ。
セレンの足下に展開された光の円陣は、しかしすぐさま闇の炎によって打ち消された。
「え……?」
「あれ?」
予期せぬ事態に、二人してほうけた声を出す。何が起きたのか理解できない――いや、受け入れたくなかったのだ。
「あ、アスター先生……?」
説明を求めて声をかけると、低い笑い声になって返ってきた。見ればアスターの目の奥に不気味な光が宿っている。
「――どうやら彼女もまた優秀な頭脳をお持ちだったようですね」
「へ?」
セレンは首をかしげる。
「僕の魔術が効かないように細工がされていたんですよ――君が僕に助けを求めるとわかっていたのでしょう」
「ええっ?! じゃ……じゃあ、あたし、戻れないのっ?!」
「いえ、方法なら他にあります」
その台詞にセレンはほっと胸を撫で下ろす。
「他の魔術師に依頼するのが最も手っ取り早いですが、それは僕の威信にかかるので却下します」
「ちょっ……!」
「なので、手間にはなりますが、聖水を取りに行きましょう」
(なんだ……ちゃんと方法はあるんじゃない)
口が悪いので腹立つが、なんだかんだ言いつつも世話を焼いてくれるアスターに、セレンは信頼を寄せつつあった。
「……あ、ありがとう」
「何故、礼を?」
怪訝そうに見つめてくるアスターの瞳。
「元はあたしの失態なのに」
もじもじしながら告げるセレンを、アスターは小さく鼻で笑う。
「何を勘違いしているんです? 自分の弟子の失態の責任を負わねばならないのが不満なだけですよ。それに、これは僕に対するテルル君の挑戦だ。この程度のことでは決めた方針を変えないのだということを示す必要があります」
イライラした感情を微塵も隠さずに告げるアスターはなかなか迫力があった。
「――都合をつけてきます。君はこの部屋で待っていなさい」
言って、アスターはさっさと部屋を出てしまう。
(……あんな喋り方しかしないけど、結構面倒見のよい教官なんじゃない)
一人残されたセレンは、ふとそんなことを思った。