プロローグ
春の朝。カーテンの隙間から差し込む朝の光で、俺、蝶野ホタルは目を覚ました。んー、まだ眠いな。布団の中は暖かい。まだ起きたくない。目を擦りながら時計を見ると、7時50分。8時には家を出ないと学校に遅刻する。んー。あと、あと5分寝よ。そう思いながら布団に顔を沈めると、大きな声が聞こえた。
「ホタル! いつまで寝る気! 遅刻するわよ!!」
1階から母の声が響いた。
「あと5分寝かして!」
「前にもそう言って遅刻したでしょ!」
「うぐっ……」
結局布団から引きずり出され、いつもの朝が訪れた。階段を降りていくと、味噌汁のいい匂いが漂ってきた。焼き鮭の匂いもするな、やはり和食。和食は全てを凌駕する。食卓には父も座っていた。なにやら新聞を読んでいるらしい。
「おう、おはよう。ホタル」
「んー」
眠そうな声で返事をすると、父が笑った。
「中学生になっても、朝が弱いのは変わらないな」
「親父もだろ」
「うぐっ……」
朝食を済まして、急いで支度をし、家を飛び出る。くそ、朝ごはんを食べてたら8時10分だよ。全力で走ればギリギリ間に合う、故に走る! 住宅街を駆け抜けて学校へ全力疾走をしていると、後ろから声が聞こえた。
「おーい、ホタルー」
振り返ると、そこには友達の大地がいた。大地は自転車を立って漕ぎながら俺の方へ向かってくる。
「おう! いい所に来たな大地、後ろ乗っけてくれ!」
「ったくしょうがない奴だなホタル。良いだろう。俺の愛車、スーパースターダストに跨りなッ!!」
「助かるわ」
大地の自転車の荷台に腰を下ろし、すぐに大地は自転車を漕ぎ始めた。俺の全力疾走より数段も早い自転車は、まるで隼を思わせる。
「そういやホタル、お前数学の課題やったか?」
「え?」
初耳だ。数学の課題だと……? そんなもの聞いたことがない。
「え? ってお前、もしかしてやってない?」
「いや、数学課題出てたっけ」
「昨日先生言ってたろ。聞いてなかったのか?」
「一言も覚えてないなぁ」
「ホタル、お前終わったな」
「そんなこともあるよな〜、先生に謝る準備しとかないと……お、もう着いたのか。はえー」
大地と雑談をしていると、いつの間にか学校に到着していたらしい。いや、やはり自転車は素晴らしい。人間の走力を凌駕するこの速さこそ、俺が追い求めた物なのだ。
くだらない授業を流し聞きし、先生に全力で謝罪し、友達とくだらない話をし、先生に怒られ、昼休みに騒ぎ、授業を終え、放課後に遊ぶ。毎日同じ事の繰り返し。それでも、退屈は一切合切感じない。
放課後、いつもの公園に俺、大地、そして健太、悠人のいつものメンバーで集まる。家から持ってきたボールでサッカーをしたり、ゲームをしたり、コンビニでジュースとお菓子を買ったりして。何時間でも遊べた。
「将来どうする?」
健太が言った。
「俺、プロ野球選手になる」
大地が答える。
「無理だろ」
「無理だな」
「無理に等しい」
「3人揃ってひでーヤツらだな、おい」
「お前運動神経ないだろ。体育の成績いくつよ?」
「2」
「ほれみろ」
そのまま流れ、健太は警察官、悠人は芸人と答えた。みんなそれぞれ夢があっていい事だ。素晴らしい。
「ホタルは? 将来なにやりたいの?」
「んー、特に決まってないなぁ。強いて言うなら漫画家かなー」
「お前、美術の成績いくつよ」
「2」
「無理だな」
「無理だね」
「無理ちゃむ」
夕焼け、赤く染った青かった空。そう、家に帰る時間だ。
「また明日なー」
「おう」
「じゃなー」
「また明日」
そんな言葉を何の疑問も無く交わす。明日も会える。来週も会える。来年も会える。そう信じて。
家へ帰り、玄関を開ける。靴を脱いで揃えて置く。これをしないと母さんに怒られちまうからな。階段を登って自分の部屋に戻る。机の上にある課題を終わらせないと、また先生に怒られるなーなんて考えながら、ベッドに横になる。ふと本棚に目を移すと、そこには異世界系漫画が並んである。俺が買った作品だ。名前に惹かれて購入し、そこからファンになって言った作品。今では最新刊が出るとすぐに買いに行くほどのファンだ。ちなみに、作品名は、「異世界に転移したので学校を休めると思ったら、別にそういう訳ではありませんでした」、ね。今は66巻出てる。
ベッドの上でボーッとしてると、いつの間にか窓の外は暗くなっていた。やばい、何もしないで夜になってしまった。世界一無駄な時間を送っていた。なんて考えていると、下から母さんの声が聞こえてきた。
「ご飯よ!! 降りてきて!!」
「うーい」
ベッドから起き上がり、部屋を出る。すると、カレーに匂いが鼻を包む。あ、失礼。Curryの匂いが鼻を包む。食卓には親父と母さんが揃っており、あとは俺だけ。席につき、食べ始める。テレビではバラエティ番組がやっており、咀嚼しながらそれを見る。たまに面白いのもあれば、実につまらない物もある。が、それがバラエティのいい所であろう。
カレーを食べ終わり、テレビを眺めて、しばらくして自分の部屋に戻る。気づけば時間は夜の11時。寝ないと明日も遅刻する。早く寝ないとな。が、俺の目に映り込んできたのは机の上の課題。これをやらないとそれはそれで怒られる。んー…………
俺は長考熟考した末、眠りについた。窓の外には星。俺は思っていた。明日も、来週も、来年も、ずっと、こんな楽しい日々を過ごしていくんだろうなと。それが壊れるなんて、考えたことも無かった。
数ヶ月後の事だった。
最初はほんとに、小さな違和感だった。左目が痛い。それだけ。昔から目が痛む事はあったし、昨夜は夜中までずっとゲームをしていた。だから目薬を差せばすぐに治まると思っていた。俺は深く考え無かった。
だが、翌朝鏡を見ると俺は固まった。
「……?」
左目がおかしい。白目だった部分が少し黒くなっている。黒ずんでいる。俺は事情を話し、病院へ連れて行って貰った。検査、検査、検査、また検査。何度検査をしても原因は分からない。原因不明故に、何をどうしようも何も出来ない。
「まぁ、大丈夫でしょう」
医者はそう言った。お医者さんがそういうなら大丈夫なんだろうと、その日の夜は少し安心して眠ることが出来た。
数日後、俺の左目は悪化していた。黒い部分が広がり、白目が少しづつ黒に侵食されて行ってる。正直、というかもう気持ち悪い。鏡を見るのが日に日に怖くなっていった。なんなんだよこれは、俺はなんかの病気に罹っちまったのか? そんな事を考えながらも、俺は学校に行く。学校でも俺の事は騒ぎになっていた。
「なあ見た?」
「見た見た」
「あいつの目だろ?」
「そうそう」
最初はみんな不思議そうにヒソヒソ話、俺もそこまでひそひそ話に興味は無かった。だが、1週間が経った頃。俺は聞いてしまった。
「あいつの目、キモくね?笑」
聞こえてしまった。
「化け物みたい笑」
そんなセリフ。俺は声の方へ振り返ると、声の主と思わしきクラスメイトは目を逸らした。何も言ってないよと言わんばかりに。
その日の帰り道、大地に聞いてみた。
「なあ、俺の目さ、そんなに変かな」
すると大地は困った顔をした。
「いや……どうだろ笑」
大地は否定しなかった。その時、俺の胸が少しだけ傷んだ気がした。
そして春が過ぎ、夏が終わる頃には左目の異変は更に進行していた。白目だった部分は真っ黒に変色し、黒目だった部分は真っ白になっていた。更に、左目の周囲の皮膚が黒く変色してきた。まるで火傷の痕みたいに。ジュクジュクと滲み、触ってみると大変痛む。病院に行ってみるも、治療法は分からない。学校では更に噂が広がった。
「あれ病気らしい」
「伝染るんじゃね?」
「近づかない方がいいって笑」
少しづつ周りとの距離が開いていくのが感じられた。いつもつるんでいた健太、悠人は話しかけてこなくなり、クラスメイトも誰も話たがらない。みんな俺を避けていた。
それでも、大地だけは違うと信じていた。幼稚園からの付き合いだ、こんな俺でもいつもどうり遊んでくれるのではないか、と思っていた。
放課後、俺は急いで教室を出た。大地を探して。大地のクラスの教室には居ない。図書室にも居ない。屋上にも居ない。食堂にも居ない。体育館にも居ない。大地、どこに居るんだ? 少し疲れて、もう帰ろうと校門を出た所で、やっと大地を見つけた。大地だ。健太と悠人と一緒に楽しそうに話している。俺は急いで大地達に駆け寄る。
「大地!」
声をかけると、3人の肩がピクっと震えた。なんだろう、少しだけ嫌な反応だ。
「なあ、今日公園行くんだろ?」
……………………誰も答えない。沈黙が答え。
「どうしたんだよ」
大地が視線を逸らす。
「……悪いけど、今日は帰る」
「え?」
「ちょっと用事あって」
明らかに俺を避ける為の嘘。
「じゃあ、明日は?」
しかし、大地は答えない。俺の胸がザワつくのが分かった。
「なぁって」
「俺、なんかしたか?」
何回も聞くも、大地は答えない。聞きすぎたか、少し焦ってたかもしれない。この時の俺は、おかしかった。大地は答えぬまま、しばらくして健太が舌打ちした。
「もういいだろ」
「え?」
「もういい加減気付けよ」
俺は理解できない。
「気付けって……何が……?」
すると、大地がやっと口を開いた。大地の唇はだいぶ重そうに見えた。
「ホタル」
「その目さ」
「……目?」
「見てると怖いんだよ」
「……え」
頭が白くなっていくのが感じられた。
「最初は平気だったんだよ、でも最近どんどん酷くなってるじゃん」
「……」
「なんかさ……」
「気持ち悪いんだよね」
この言葉を聞いた瞬間、世界が止まった。大地は、大地だけは他とは違うと信じていたのに。
「お前も、そう思うのか」
俺の声は少しかすれてた気がした。
「違うんだ」
「違わねぇだろ!」
初めて怒鳴った。すると大地達は怯えたように1歩下がる。その動きがなにより辛かったのを覚えている。大地の目はまるで化け物を見る目。今までほかの人で感じていた目。大地だけは向けないと思っていた。
「俺たち友達だろ」
「ずっと一緒だったじゃねぇか」
「……」
「ゲームもしたし!」
「……」
「将来の話もしたろ!」
「……」
「なのに……なのに」
「……」
「なんでそんな顔するんだよ!!」
声が裏返る。大地は苦しそうに俯いた。そして、しばらくして小さく呟いた。
「だって怖いんだよ、気持ち悪いんだよ……」
その一言だった。今までずっと一緒に、人生を共に楽しんできた友達が……………………ああ。
「……」
俺は何も言わずに歩き出した。今はもう誰とも顔を合わせたくない、誰とも話したくない。後ろから大地の声が聞こえる。
「ホタル!」
振り返らない。
「ホタル! ごめん!」
当時の俺は聞きたくなかったんだと思う。
家に帰る途中、俺は気づいた。涙が止まらない。目から涙が止まらない。でも、1番悲しかったのは大地を恨めなかった事だ。自分でも、自分を鏡で見る度に、この左目を心底気持ち悪いと思っていたから。故に大地を責めることすら出来なかった。なんでこんな考えになったのか、当時は本当に焦っていたのだろうか。この瞬間、俺の胸にはぽっかりと穴が空いた気がした。
中学生卒業後、俺は遠くの高校に通い始めた。地元からは遠く離れ、電車とバスで2時間の学校。遠くの高校なら俺を知る人は誰もいないし、この目を知る人も居ない。やり直せる、そう思い、遠くの高校を選んだ。入学式の日、俺は左目に眼帯をしていた。左目を隠すために。目の周りのジュクジュクと膿んでいる傷が眼帯に触れて痛むが、人に見られるくらいなら幾分もマシ。そして髪も伸ばした。できるだけ目立たないようにする為に。最初の数日は実に平和だった。中学とは違う。誰も自分を、左目を知らないし、普通に話しかけてくれる。それが凄く嬉しかったのを覚えている。けれど、そんな日々も長くは続かなかった。体育の授業中、左目の眼帯が外れてしまった。咄嗟に手を伸ばして素早く眼帯を拾おうとしたが、焦りすぎたせいで転んでしまった。
「痛っ……た」
「蝶野、大丈夫?」
転んだ俺を助けようとしてくれた女子が喋りかける。俺は中学の時のように返事をしてしまった。
「あぁ、全然、大丈夫」
その時、その女子と目が合った。この一瞬、俺は左目を忘れていた。
「うわ」
誰かが呟いたのが完全に聞こえてしまった。俺は急いで眼帯を拾い上げるが、遅かった。
その日の内に噂が広まり、グループチャットや校内の匿名掲示板には「バケモン」「呪われてる」「キモすぎ笑」とずらりと並んでいた。中学と同じ。違う学校、違う人間に違う環境でも結果は同じだった。俺は理解した。変わらないんだなぁと。机には落書きが書かれた。「片目バケモン」やらなんやら。先生に相談してみるも、返ってくるのは「気にしすぎじゃないか?」の一言だけ。
家に帰っても両親とは話してない。そのまま部屋に籠り、ご飯はコンビニで買ってきた弁当。家にある鏡の前に立つと、鏡には俺が映っていた。化け物みたいな俺。この目が、この目さえ無ければ俺は……なんて、何回考えた事だろう。気持ち悪い、気持ち悪い目。誰よりそう感じているのは俺なんだ。誰よりも俺が1番感じている、化け物なんだと。
高校2年生、この頃はもう夢や目標やらなんて無かった。友達もおらず、将来も見えない。恋人なんて考えたこともなかった。大学に行く理由も無いし、そのまま就職するにもこの目があるし。正直、生きる理由がない。ただ単に毎日を浪費してるだけのそんな日々。無駄。
ある雨の日、俺は公園に立ち寄っていた。誰もいない公園は妙に広く感じられ、故に孤独を感じさせる作りだと思った。そのままブランコに座って空を見上げる。天気は悪い。雨が降り注ぎ、空は青空を隠して灰色に染まっている。制服がずぶ濡れ、冷たさが俺を抱き抱える。正直、この時はこの雨の雰囲気に酔ってた気がする。ダッセ。
「いや……疲れたな」
このセリフもダサい。雰囲気に酔いすぎだと思う。が、高校生だ、それくらい許して欲しい。ともかく、何に疲れたのかは明白だった。この人生に疲れていたのだ。この目のせいで俺の人生は完全に崩れ去った。友も生活も将来も何もかも。もういっそどこかへ消えてしまおうか、その方が楽な気がしてきたな。と言っても行くあてなんて無いのだが。
そんな時、後ろから少女の声が聞こえた。
「やっと見つけた」
振り返ると、そこには青髪の少女が立っていた。恐らく俺と同い年か、少し年下の少女。ミディアムボブくらいの長さの綺麗なストレートの髪、大きくクリっとした目、純白のワンピース。まるで、天使のようだ。いや、よく見ると頭の上に光輪が浮いている。なんなら背中に白い羽根も生えてる……これは……天使だ。そうに違いない。
その天使のような少女は俺の左目を見つめるも、嫌がるような、気持ち悪いと思ってるんだなって顔もせず、むしろ予想外の言葉をかけてきた。
「辛かったでしょ」
それは俺の胸を撫でるような、包んでくれるような、とにかく俺が欲しかった一言だった。少女は微笑む。
「私はニト」
「女神様の使い。要するに、天使」
そういった天使は俺の人生を変える言葉を口にする。
「突然だけど、君のその左目のそれ」
「消せるかもしれないよ」




