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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第二章 氷の公爵と、腹黒騎士団長

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第6話 公爵閣下が、うちに来た

 その日の朝、エデルハイン男爵邸は未曾有のパニック状態に陥っていた。


「ひぃぃぃっ! ヴァルトシュタイン公爵閣下の馬車が、うちの門の前に止まっておるぞ!!」


 窓の外を覗いた父が、悲鳴のような声を上げた。


 急いで正装に着替えようとパニックを起こした結果、ワイシャツの袖口に頭を突っ込んでジタバタしている。


 母は「応接室の棚の埃を払っていないわ!」と白目を剥いて卒倒しかけ、二人の姉たちは二階の窓から「本物の氷の公爵よ!」「やだ、彫刻みたいに顔が良い!」と黄色い悲鳴を上げていた。


(……この家族、本当にうるさいな)


 ルカ=フォン=エデルハインは、すっかり冷めた紅茶をすすりながら、一人だけ冷静に呆れていた。


 昨日の図書室での襲撃事件から一夜明け、ルカは「休養」という名目で実家に帰されていたのだ。


 ガチャリ、と玄関の扉が開く音がする。


 誰も出迎えに行ける状態ではないため、ルカがため息をつきながら玄関へと向かった。 


 そこに立っていたのは、軍服姿の威圧感たっぷりな長身の男。


 王国最強の軍神、グレアム=ヴァルトシュタイン公爵、その人である。


「あ、閣下。おはようございます」


 ルカは、近所の人が回覧板を持ってきた時のようなテンションで挨拶をした。


「……近くに用があった」


 グレアムは無表情のまま、短くそう言った。


(公爵領のタウンハウスと王都の端にあるうちの男爵領、馬車で二時間くらいかかるんですが)


 ルカは内心で的確なツッコミを入れたが、大人の対応で飲み込んだ。


   *


 通された応接室は、地獄のような空間だった。


 父はガチガチに緊張し、一文字も喋れずに直立不動で震えている。


 ローテーブルの上には、母が震える手で出したお茶と、近所の市場で買ったばかりの「三袋で百銅貨」の素朴な焼き菓子が置かれていた。


(やばい。こんな庶民の味、公爵様の舌に合うわけがない)


 ルカが冷や汗を流す中、グレアムは無言でその焼き菓子を一つ手に取り、口に運んだ。


 パリッ、と素朴な音が響く。


 沈黙。


 父の寿命が縮む音が聞こえた気がした。


「……悪くない」


 グレアムが、ぽつりと言った。


「おおおお……! もったいなきお言葉!! ルカが幼い頃からよく泥だらけになって買いに行っていた菓子でして!」


 安堵のあまり、父が感極まって泣き出し、謎の思い出話を語り始めた。


「お父様、泥だらけの話は今しなくていいから!」


「いやしかし、この子が木から落ちて前歯を折った時の話も──」


「閣下、耳塞いでください! 父の記憶を消去して!!」


 ルカが必死にフォローするたびに、父が余計な黒歴史を暴露していく。


 グレアムはそんな親子のやり取りを、相変わらず無表情で、しかしどこか眩しいものを見るような目で見つめていた。


   *


「……すみません、お見苦しいところを」


 ついに空気を読んだ(あるいは限界を迎えた)父が退室し、ルカはグレアムを連れて裏の小さな庭へと出ていた。 


 手入れはされているが、公爵邸の庭園と比べれば猫の額ほどの広さしかない。


 しかし、季節の花々がところ狭しと咲き乱れ、陽の光をたっぷりと浴びていた。


「ここで育ったのか」


 グレアムが、周囲を見渡しながら珍しく自ら口を開いた。


「はい、狭いですけど、好きな場所です。……公爵邸の庭よりはずっと雑多ですけどね」


「……公爵邸には、花がない」


 グレアムの低い声が落ちた。


「え?」


「手入れに手間がかかるという理由で、先代が全て刈り取らせた。あるのは芝と、針葉樹だけだ」


 それは、彼が育ってきた無機質で冷たい環境を如実に表していた。


 王国の前衛という重責を背負い、ただ実利だけを求めてきた氷の公爵。彼の世界には、無駄なものや、ただ美しいだけの花は存在しなかったのだ。


 ルカは、少しだけ胸が痛んだ。


 そして、何も考えずに、足元で元気に咲いていた淡いピンク色のマーガレットを一輪、手折った。


「じゃあ、これ、持って帰ってください」


 ルカは、屈託のない笑顔でその花をグレアムに差し出した。


「お水に挿しておけば、数日は持ちますから」


 打算も、媚びも、何もない。


 ただ、彼の無機質な日常に少しでも彩りがあればいいと思っただけの、素直な行動だった。


 グレアムは、差し出されたその花をじっと見つめる。


 それから、大きく無骨な手で、壊れ物を扱うようにそっと受け取った。


「……」


 無言だった。


 しかし、ルカの視線より少し高い位置にある彼の耳の先が、ほんのりと赤く染まっていることに、ルカは全く気づいていなかった。


  *


 帰り際。


 男爵邸の古びた門の前で、馬車に乗り込もうとしたグレアムが、ふと立ち止まった。


 振り返り、ルカを見下ろす。


 昨日の事件の緊迫感はもうない。けれど、彼の瞳の奥には、確かな熱が宿っていた。


「……お前が無事だったことを、確認したかった。それだけだ」


 ぼそっと、言い訳のようにこぼれ落ちた言葉。


 わざわざ片道二時間もかけて、たった一人の令嬢の顔を見るためだけに足を運んだ理由。


 ルカは少し驚いたように目を瞬かせ、それから、ふわりと笑った。


「はい。わざわざありがとうございました。気をつけてお帰りくださいね」


 グレアムは小さく頷き、逃げるように──少しだけ早足で馬車に乗り込んだ。


 馬車が遠ざかっていくのを見送り、ルカは「はー、緊張した」と大きく伸びをした。


 その瞬間。


「ルカ!!」


「ちょっとルカ、あんた!!」


 屋敷の扉が勢いよく開き、二人の姉が飛び出してきた。


 そして、獲物を捕らえるような目でルカを取り囲んだ。


「見たわよ! 公爵様、あんたから花もらった時、顔が真っ赤だったじゃない!!」


「あんな恐ろしいって噂の閣下が、あんたを見て照れてたわよ! どういうこと!?」


 姉たちが、興奮冷めやらぬ様子でルカの肩を揺さぶる。


「……え? 耳?」


 ルカは、全く意味がわからずに首を傾げた。


「照れてるわけないじゃん。今日は気温が高かったから、軍服で暑かったんじゃない?」


「「このポンコツがぁ!!」」


 姉たちの盛大なツッコミが、王都の空に響き渡った。


 どうやら、私の家族は。


 鈍感な私よりも多くのことに、気がついているらしかった。

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