第5話 その日、モブは守られた
氷の公爵の「同伴者」としての生活にも、少しだけ慣れてきた頃。
その日、ルカ=フォン=エデルハインは王城の巨大な図書室にいた。
今日は珍しく、グレアムは朝から執務室に缶詰めで、レオナルトも騎士団の遠征訓練に出ている。つまり、完全なる一人時間だ。
(やっと一人だ。今日は誰にも絡まれない。本を読んで、美味しいお茶を飲んで、静かに過ごせる)
ルカの足取りは羽のように軽かった。
壁一面に天井まで届く書架が並ぶ中、分厚い歴史書を探して歩き回っているうちに、ルカは自分がどこにいるのかわからなくなってしまった。
(あれ、出口どっちだっけ)
周囲には誰もいない。カビと古い紙の匂いだけが漂う、薄暗い人気のない区画。
このまま呑気に「迷子のお知らせ」でも待とうかと思っていたのが、運の尽きだった。
「──エデルハイン令嬢ですね」
不意に、背後から声をかけられた
振り返ると、見知らぬ男たちが三人、ルカの退路を塞ぐように立っていた。
身なりの良い貴族の服を着ているが、その目つきは暗く、明らかに友好的なものではない。
(うわ……これ、夜道で絡まれてるのと同じような感じだ)
ルカの脳内で、冷静な社畜アラートが鳴り響いた。
「少し、お話を聞かせていただけませんか」
男たちが、じりじりと距離を詰めてくる。
「ヴァルトシュタイン公爵の同伴者として、彼の屋敷に出入りしているそうですね。公爵の現在の派閥の動きや、弱みになりそうな情報……知っていることを教えていただければ、すぐに解放しますよ」
にたり、と男の一人が嫌な笑みを浮かべた。
あからさまな脅迫。情報を引き出すための拉致一歩手前だ。
(ほら見なさい! やっぱり権力闘争のコマにされてるじゃないか! 最初から言ってたじゃん私!)
ルカは内心で、グレアムとレオナルトに向かって大声で文句を言った。
とはいえ、ここでパニックになっても状況は好転しない。相手は三人。大声を上げても、この奥まった区画では誰にも届かないだろう。
「……申し訳ありませんが、私は何も知りません。ただのお飾りの同伴者ですので」
ルカが静かに、波風を立てないように答えた。
しかし、男たちは鼻で笑った。
「そうは言ってもねえ。公爵が私室にまで招き入れた女が、何も知らないはずが──」
男の一人が手を伸ばし、ルカの細い腕を乱暴に掴んだ。
強い力。
痛みに、ルカが顔をしかめた。
──その瞬間だった。
図書室の空気が、一変した。
音もなく、気配すらなく。
書架の暗がりから、一人の男が滑り出るように現れた。
ルカの腕を掴んでいた男の手首を、背後から、無造作に片手で掴む。
メキッ、と。
骨が軋む、嫌な音が静寂に響いた。
「あ、ぁ……ッ!?」
男が悲鳴を上げる前に。
氷点下よりも冷たい、地獄の底から響くような低い声が落ちた。
「その手を離せ」
たった七文字。
それだけで、室温が三度は下がったように錯覚した。
漆黒の髪。殺意を孕んだ氷の青い瞳。
グレアム=ヴァルトシュタイン。
彼が手を離すと、男は手首を押さえて床に崩れ落ちた。
「ひっ……こ、公爵……! おい、逃げろ!」
残りの二人が蜘蛛の子を散らすように、慌てて出口に向かって走り出す。
しかし、彼らが角を曲がった直後。
「お急ぎですか?」
柔らかな声が、男たちの足を縫い止めた。
「少し、お話を聞かせていただけませんか」
いつの間にか、出口を塞ぐように一人の男が立っていた。
第一騎士団長、レオナルト=クロイツ。
いつもの笑顔を浮かべている。しかし、その翠の瞳の奥は、一切笑っていなかった。底冷えするような怒りが、静かに渦巻いている。
逃げ場を失った男たちは、背後から現れたレオナルトの部下たちによって、声すら出せないまま静かに取り押さえられ、連行されていった。
一部始終を見ていたルカは、息を呑んだ。
いつものコメディのような空気は、微塵もない。
二人が、本気の顔をしている。
ルカが生まれて初めて見る、権力者が本気で動く瞬間だった。
男たちが連れ去られ、薄暗い通路には三人だけが残された。
グレアムがゆっくりと振り返り、ルカを見下ろす。
いつもは感情を見せないその顔だが、今は少しだけ、眉間にきつく力が寄っていた。
「怪我は」
短い問い。
「……ないです。大丈夫です」
ルカが答えると、グレアムは「そうか」とだけ言い、レオナルトが軽い口調で歩み寄ってきた。
「災難でしたね、ルカ嬢。しかし貴女、相手は三人だったのに、逃げようとしなかったんですか?」
「逃げ道がなかったので……。あと、変に騒いで怪我をするより、話し合いで穏便に解決できないかと思って」
「……話し合い」
「だめでしたけど」
ルカが少し肩を落として言うと、レオナルトは小さく笑い声をこぼした。
笑いながら、その瞳の奥には、先ほどまでの冷酷さとは違う、真剣な光が宿っていた。
静寂が戻る。
視線を逸らしていたグレアムが、再びルカへと真っ直ぐに向き直った。
「ルカ」
ルカは、ぱっと顔を上げた。
今まで、「エデルハイン令嬢」か「お前」としか呼ばれなかった。
初めて、彼が名前だけで呼んだ。
「今後、一人で動くな」
それは、軍神としての絶対的な命令の形をとっていた。
けれど、その低く淡白な声の奥には、触れれば壊れてしまいそうなものを扱うような、別の「何か」が確かに混ざっていた。
ルカはしばらく彼を見つめ、それから、静かにこくりと頷いた。
(怒ってるのに、全然怖くない。……どうしてだろう)
そんな二人を少し離れた場所から見つめながら、レオナルトが何かを決意したような顔をした。その静かな熱を帯びた表情を、ルカは見ていない。
*
その夜。
男爵邸の自室のベッドに潜り込み、ルカは一人、暗闇の中で考えていた。
(今日、二人がすぐに来てくれた。あれは、偶然じゃないと思う)
執務で忙しいはずの公爵と、遠征に出ていたはずの騎士団長。
彼らはきっと、どこかでずっと、私のことを見ていてくれたのだ。守るために。
彼らの行動を「ありがた迷惑」として片付けていた自分を、少し恥じる。
ぎゅっと、布団の端を握りしめた。
私は、ゲームのシナリオには存在しない、ただのモブなのに。
シナリオにはない自分が、シナリオにない二人の行動によって、守られた。
窓から差し込む月明かりを見つめながら、ルカは小さく息を吐いた。
名前のない令嬢には。
どうやら、名前を呼んでくれる人が、増え始めているらしかった。




