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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
シナリオが、狂い始める

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第30話 悪役のまま、終わらずに

 ヴィルヘルム=アッシェンバッハ侯爵。


 王国の実権を握ろうと暗躍する、ゲームの「詳細不明の政敵」であり、この世界の巨大な黒幕。


 その恐ろしい存在を知り、ルカ=フォン=エデルハインが「ポンコツなりに逃げずに戦う」と深い覚悟を決めた、あの日から数日後。


 王城の図書室。


 ルカは眉間に皺を寄せ、歴史の専門書を広げながら、真剣な顔で物思いに耽っていた。


(……そういえば、今日の公爵邸のお昼ご飯、なんだろう)


 アッシェンバッハの陰謀でも、王国の未来でもない。


 ルカの脳内は今、完全に「本日のランチメニュー」に支配されていた。


(この前の牛肉の赤ワイン煮込みシチュー、めちゃくちゃ美味しかったんだよな。お肉が口の中でホロホロ崩れて……前世のどんな高級レストランより美味しかった。王国の食文化、マジで侮れない)


 強大な敵の存在を知り、覚悟を決めたはずだった。


 しかし、現在のルカの脳内占有率は、食事への期待が六割。グレアムへの「なんか最近、私の顔を見るたびに耳が赤くなる頻度が上がってきている気がする。公爵邸の空調壊れてるのかな?」という的外れな疑問が三割。


 そして残りの一割だけが、「そういえば今、王国って凄く大変な状況だったな」という薄味の危機感で構成されていた。


(ポンコツは、ポンコツなりに生きていくしかないと腹を括ったんだけど……それにしても私は、ちょっとポンコツすぎないか?)


 ルカが一人で的外れな自己ツッコミを入れていると。


 不意に、隣の椅子が静かに引かれた。


「……ごきげんよう、エデルハイン令嬢」


 振り返ると、そこには燃えるような真紅の髪の美女が座っていた。


 王太子の元婚約者、セシリア=フォン=ローゼンベルク。


 以前の夜会で声をかけられた時は、単なる好奇心の目だった。だが、今日の彼女の瞳の奥には、何かを射抜くような、確信に近い鋭い光が宿っていた。


「一つ、聞いてもよろしいですか」


「……はい」


 セシリアは手にしていた扇子をパチリと閉じ、ルカを真っ直ぐに見据えた。


「あなたは、この世界が『これからどう動くか』を、あらかじめ知っているのでしょう?」


 断定ではない。だが、疑問でもない。


 完全なる『確認』のトーンだった。


(来た。これ、前職で言うところの『内部監査』だ……!)


 ルカの社畜センサーが、最大級の警報を鳴らした。


 証拠は完全に揃っていないが、状況証拠から『クロだ』という確信を持っている監査部の人間の目。


 ここで下手に狼狽えて否定すれば、逆に怪しまれる。かといって、ゲームの知識があるなんて肯定もできない。


「……何のことですか?」


 ルカは、完璧な営業スマイルを顔に貼り付けて首を傾げた。


「婚約破棄の夜。あなたは、あの凄惨な修羅場の最中、全く動じていなかった。普通の令嬢なら恐怖で混乱するか、野次馬根性で騒ぎ立てるはずの場面で、あなたは壁際で平然とローストビーフを食べていた」


「ただの、食いしん坊なだけです。お肉が冷めるのがもったいなくて」


「ルシアン殿下が、わざわざ図書室まで出向いてあなたを探したのも。あなたなら『知っている』、あるいは『公爵を動かせる』と思ったからでしょう?」


「それも、偶然お会いしただけです」


 ルカはのらりくらりと躱すが、セシリアの追及は止まらない。


「アッシェンバッハ侯爵の名前が出た時も、あなたは驚かなかったそうね。……私のローゼンベルク家にも、独自の情報の網があるのよ。そして極めつけは、あなたが以前口にした『モブ』という言葉」


 ルカの肩が、ビクッと跳ねた。

 

 うっかり口を滑らせたあの言葉を、なぜ彼女が知っているのか。


「……全部、偶然です」


「私が婚約破棄された夜。あなたが咽せなければ、あの場の空気は変わらなかった。公爵も動かなかった。ルシアン殿下は私をそのまま一方的に断罪して、何も変わらなかった」


「それは、偶然だと思いますよ」


「……本当に?」


 セシリアの澄んだアメジストの瞳が、ルカの心の奥底まで見透かすように射抜く。


「あの夜、あなたがローストビーフを選んだのは偶然。咽せたのも偶然。それを見て、あの氷の公爵が動いたのも偶然。……全部が偶然だと言うのなら。それはもう、偶然ではなく『必然』と呼ぶべきではないですか」


 ルカは、何も言えなくなった。


 重い沈黙が、二人の間に落ちる。


(……悪役令嬢。物語を盛り上げるためだけに、全てのヘイトを押し付けられ、最後には惨めに断罪されるという、理不尽で損な役回り)


 ルカは、セシリアの顔を見つめながら、内心でそう毒づいた。


 前世の職場で言えば、上層部の失敗の責任を全て押し付けられ、トカゲの尻尾切りとして自主退職に追い込まれる中間管理職のようなものだ。


 そんな理不尽なシナリオを、彼女は一人で背負わされようとしていたのだ。


 セシリアは、扇子で口元を隠し、静かに息を吐いた。


「私は、この事実を誰かに暴露するつもりはありません。……ただ、知りたかっただけです。あなたが、何者なのかを」


 長い沈黙の後。


 ルカは、貼り付けていた営業スマイルをふっと消し、真っ直ぐにセシリアを見た。


「……全部が偶然だったとしても。全部が、必然だったとしても」


「ええ」


「セシリア様は、どうするおつもりですか。私が何者であっても」


 私がゲームの転生者であろうと、ただの食い意地の張った令嬢であろうと。


 貴女は、これからどう生きていくのか。


 その問いに。


 セシリアは、憑き物が落ちたように、ふわりと柔らかく笑った。


 それは悪役令嬢の険しい笑みではなく、年相応の、ただの一人の少女の美しい笑顔だった。


「……あなたがいたから、私は『ただの惨めな悪役』のまま終わらずに済んだ。……私にとっては、それだけで十分です」


 ルカは、思わず目を丸くした。


 セシリアは静かに立ち上がると、ドレスの裾を優雅に翻し、図書室の出口へと向かった。


 そして去り際、肩越しに振り返り、一言だけ残した。


「次に会う時は、もう少しだけ正直に話してくれると嬉しいですわ、エデルハイン令嬢」


 パタン、と扉が閉まる。


 一人残された図書室で、ルカは大きく息を吐き出した。


 心臓がバクバクと早鐘を打っている。


(セシリア様は……完全に気づいている。でも、私を糾弾するんじゃなくて、守ってくれようとしているんだ。……この人も、攻略本通りの嫌な女なんかじゃない。すごく賢くて、真っ直ぐな人だ)


 ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ。


 その時。


 政敵よりも強大なもの。それは、生理的欲求だった。


 張り詰めた緊張の糸が切れた静かな図書室に、ルカの盛大な腹の虫の音が鳴り響いた。


(…………よし、公爵邸に行って、煮込みシチュー食べよう)


 強敵の内部監査を乗り切ったルカの脳内は、再び肉へと支配されていった。


 悪役令嬢は、最初からずっと──誰よりも鋭く、そして誰よりも静かに、この物語の真実を見ていたらしかった。

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