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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第一章 名もなきモブ令嬢、巻き込まれる

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第3話 公爵邸に、空気の読めない令嬢が来た

 門だけで、私の実家(男爵領の屋敷)より広かった。


 ルカ=フォン=エデルハインは、王都の一等地にあるヴァルトシュタイン公爵邸を前に、ポカーンと口を開けていた。


 黒アイアンの荘厳な門扉の奥には、どこまでも続く手入れされた庭園と、お城と見紛うほど巨大な白亜の豪邸がそびえ立っている。


(……これ、固定資産税いくら取られるんだろう)


 前世の社畜OLだった頃の貧乏性が顔を出し、ルカは思わず現実的な計算をしてしまった。


 馬車を降りたルカを出迎えたのは、完璧に整列した数十人の使用人たちだった。

 彼らは一様に背筋を伸ばし、直立不動の姿勢を保っている。しかし、その顔には明らかな緊張の色が浮かんでいた。


(えっ、この人たちなんで震えてるの。私が怖いの? それとも公爵様が怖いの?)


 ルカも別の意味で緊張していた。


 しかし、使用人たちの内心は全く違った。


『あの「氷の公爵」である閣下が、ご自身の意思で令嬢を屋敷に招くなど前代未聞だ。一体、どれほど恐ろしく、あるいは妖艶な方なのだろう……』


 そんな使用人たちの極度の緊張を他所に、先頭に立つ初老の男が一歩前に出た。


 隙のない身のこなし。公爵家に四十年間仕えるメイド長ならぬ、筆頭執事のクラウスだ。


「お待ちしておりました。エデルハイン令嬢」


 完璧な角度の礼。


 それを見たルカは、反射的に頭を下げた。


「いえ! こちらこそ、お忙しいところお邪魔します!」


 深々とした、見事なまでの四十五度のお辞儀。前世で取引先の社長に向けた、社畜仕込みの完璧な営業礼だった。


 使用人一同が、ピシリと固まった。


 貴族の令嬢が、使用人に対して頭を下げるなどあり得ないからだ。


 しかしルカはそんな空気に気づかず、「お世話になります」と愛想よく笑った。


 案内された応接室は、ルカの実家ごと買えそうなほど高価な調度品で埋め尽くされていた。


 ソファーの端っこにちょこんと座り、出された紅茶をすするルカ。


 公爵が執務を終えて現れるまでの待ち時間。


 ルカの背後には執事のクラウスと、給仕を担当する若いメイドのエマが控えていた。


 エマは、先ほどからずっとそわそわしていた。


 好奇心旺盛な彼女は、閣下が初めて私室のエリアに招き入れたこの「素朴で不思議な令嬢」に興味津々だったのだ。


 エマはクラウスの目を盗み、たまらず小さな声で話しかけた。


「あの……エデルハイン様。閣下とは、どのようなご関係でいらっしゃるのですか?」


「えっ」


 ルカは紅茶のカップを置き、正直に答えた。


「わからないんです。たぶん、深い意味はないと思うんですけど」


「え?」


「パーティーで特製のローストビーフを食べてたら、美味しくて咽せてしまって。それで目立ってしまったところを、なぜか助けていただいて……」


「え???」


 エマの顔が、理解不能な言語を聞いたように引き攣った。


「閣下が……お肉で咽せた令嬢を……屋敷に?」


 クラウスが慌ててエマを制止しようとしたが、時すでに遅し。ルカは「赤ワインのソースが絶品で、つい気管に入っちゃって」と、聞かれてもいない経緯まで全部しゃべってしまった。


 沈黙が落ちる。


 あの鋼の理性を持つ執事クラウスが、四十年のキャリアで初めて「どう反応していいかわからない」という顔で固まっていた。


 ガチャリ。


 その時、応接室の重厚な扉が開いた。


 軍服を少し着崩した、長身の男が入ってくる。氷の公爵、グレアム=ヴァルトシュタインだ。


 使用人たちが、弾かれたように瞬時な完璧な姿勢に戻り、深く頭を垂れる。


 しかし、ルカだけは違った。


「あ、来た」


 ソファーから立ち上がり、まるで待ち合わせに現れた同僚を見るような、気の抜けた顔で振り返った。


 グレアムの足が、一瞬だけピタリと止まる。


 ──この屋敷で、自分を見て「あ、来た」という言葉を発した人間は、彼の実人生において初めてだった。


「……下がれ」


 グレアムが短く命じると、クラウスとエマは一礼して足早に退室していった。


 広い応接室に、二人きり。


 グレアムはルカの体面ソファーに腰を下ろすと、長い足を組み、氷のような青い瞳でルカを見据えた。


「パーティーの件だが」


 低い声が響く。


 ルカは慌てて姿勢を正した。


「はい。あの、先日は本当に申し訳ありませんでした! 私の不注意でご迷惑をおかけしてしまって……」


「……謝罪か」


「え、違いますか?」


「私が助けたのは、私が望んでそうしたからだ。お前が謝る必要はない」


 ルカは、ぱちりと瞬きをした。


 予想外の返答だった。権力者特有の嫌味や恩着せがましい言葉が飛んでくると思っていたのに。


(この人、怖いけど……変なところで真っ直ぐだ)


「単刀直入に言う」


 グレアムが本題を切り出した。


「しばらくの間、私の『同伴者』として社交界に出てもらう。先日の騒ぎの隠れ蓑として、お前が必要だ」


 それは、実質的な契約の持ちかけだった。


 もちろん、ルカには断る権利がある。だが、グレアムの提示する条件は「実家の男爵領への大規模な投資」や「ルカの身の安全の完全保証」など、妙に具体的で、どう考えてもルカ側に有利すぎるものだった。


「……なんで、私なんですか?」


 ルカは、思わず本音をこぼしていた。


 権力闘争のダミーなら、もっと家柄の良い、見栄えのする令嬢がいくらでもいるはずだ。


 沈黙が落ちた。


 いつも即答するグレアムが、初めて少しだけ言葉に詰まったように見えた。


「……お前は、私の顔を見て怖がらなかった」


 ぽつりと、こぼれ落ちたような声だった。


 ルカは内心で猛烈にツッコんだ。


(いや、怖かったけど!? ただお肉で咽せてパニックになってただけですけど!?)


 冷酷無比の軍神。血塗られた氷の公爵。


 王侯貴族すら彼を恐れ、遠巻きにする中で、ルカだけが彼の前で「素」を晒した。ただの勘違いから生まれた、奇跡的なすれ違いだった。


 だが、その事実を口にするわけにはいかない。


 ルカは少し考えてから、ぽりぽりと頬を掻いて言った。


「私が怖がらなかったんじゃなくて……閣下が助けてくださったから、怖くなかったんだと思います」


 素直な、一切の打算がない言葉だった。


 あの四面楚歌の状況で、自分を引っ張り上げてくれたのは彼なのだから。


 グレアムの動きが、完全に止まった。


 青い瞳が、僅かに見開かれている。


 ──誰かに、そんなことを言われたのは、初めてだった。


 恐れられるか、権力を目当てにすり寄られるか。その二つしか知らなかったグレアムの胸の奥で、音もなく何かが動いた瞬間だった。


「……そうか」


 グレアムは短く呟くと、少しだけ口元を緩めた。


 それは冷酷な公爵の顔ではなく、年相応の一人の男の、不器用な表情だった。


「では、契約成立だな」


「えっ、あ、はい。美味しいお肉食べられるなら頑張ります」


 空気を読まないルカの返事に、グレアムは再び肩を震わせて笑いを堪える羽目になった。


   *


 帰りの馬車に揺られながら、ルカは窓の外をぼんやりと眺めていた。


(断るつもりだったんだけど)


 本当に、断るつもりだったのだ。


 モブはモブらしく、シナリオに関わらず生きていくと決めていたのに。


 あの人が「初めて怖がらなかった」と言った瞬間の、僅かな沈黙の意味が。


 どうしてか、ずっと頭から離れなかった。


「……私、ただのモブなのに」


 誰にも聞こえない声で呟く。


 自分には関係ない、高位貴族たちの物語のはずなのに。


 なぜか胸の奥が、じんと痛かった。

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