第29話 攻略本には、詳細不明と書いてあった
翌日。
公爵邸の書斎に呼び出されたルカ=フォン=エデルハインは、入室した瞬間に部屋の空気がいつもと違うことを察知した。
「昨日の税務調査の件だが、話がある」
デスク越しにグレアムが切り出した。
いつもの領地経営や水路の話ではない。彼の視線は、鋭く、そして少しだけ真剣すぎた。
(上司から『ちょっといいかな』と個室の会議室に呼ばれた時と全く同じ空気だ。絶対にいい話じゃない。良くて組織改編、悪ければリストラの通達……そんなラインかな)
ルカが内心で身構えると、グレアムは低い声で続けた。
「お前に、この一連の動きの『黒幕』について、明確に話しておく必要がある」
ついに。
今まで「政敵」という抽象的な言葉で語られていたものの、具体的な姿が明かされる時が来た。
「……ヴィルヘルム=アッシェンバッハ侯爵」
グレアムの口から、重々しくその名が紡がれた。
「王国北部を地盤とする大貴族だ。表向きは『国王の忠臣』として知られているが、実態は違う。彼は国王の病状の悪化を隠れ蓑にし、王国の実権を段階的に自らの手へと掌握しようとしている」
グレアムの言葉が、ルカの頭の中でパズルのピースをはめていく。
ルシアンの婚約破棄を仕組んだのも、グレアムとローゼンベルク家の政治的な繋がりを切断させたのも。そして昨日、ルカの実家に税務調査という嫌がらせを入れたのも。
全て、このアッシェンバッハ侯爵の策略だったのだ。
「……お前は、この名前を知っているか」
グレアムが、探るように問いかけた。
「……少し、待ってください」
ルカは目を閉じ、脳内の「乙女ゲーム・緋色の誓約データベース」に全力で検索をかけた。
ヴィルヘルム=アッシェンバッハ。
アッシェンバッハ。
(……いた! ゲームの中に!)
ルカは目を見開いた。
(確か……グレアムルートのバッドエンドでだけ出てくる人物だ! グレアムが政治的に完全に孤立して失脚した時に、『王国の新たな実力者』として最後に台頭してくる男。でも正規ルートではほとんど名前しか出てこなくて、私が読み込んだ公式の攻略本にも『詳細不明の政敵』としか書かれていなかった……!)
ルカの顔が、じわじわと青ざめていく。
あのゲームの中で、氷の公爵を破滅させた男が、今、現実の脅威として目の前に立ちはだかっている。
(……というかあのゲーム、乙女ゲームにしては世界観重すぎるな……)
「……何か知っているのか」
青ざめたルカを見て、グレアムが目を細めた。
ルカは迷った。ゲームの知識だなんて言えるはずがない。
でも──昨夜、ベッドの中で「ポンコツなりにできることをする」と腹を括ったばかりだ。
「……少しだけ、知っています」
「どこで」
「遠い親戚から聞いた、ただの噂話の類で……確実ではないのですが」
ルカは必死に言い訳を並べながら、ゲームのバッドエンドから逆算した「アッシェンバッハの真の狙い」を話し始めた。
「アッシェンバッハ侯爵は、『国王陛下の病状が悪化するほど有利になる』立場にいますよね。彼の最終目標は、おそらく……ルシアン殿下を完全な傀儡にして、自分が実質的な王国の支配者になること。そのために、殿下から優秀な庇護者──つまり、公爵閣下を切り離そうとしている」
「……」
「ただ、彼には弱点があるはずです。それは『絶対に自分の手は汚さず、証拠を残さないことへの執着』です。……逆に言えば、決定的な証拠さえ作れれば、彼の足元は一気に崩せるはずです」
ゲームのテキストの端々に散らばっていた情報を繋ぎ合わせた、ルカの必死のプレゼンだった。
グレアムは、ルカをじっと見た。
氷のような青い瞳が、ルカの言葉の真偽を測るように静かに揺れている。
「……その情報は、どこまで確かだ」
「完全には保証できません。でも……方向性は、合っていると思います」
グレアムは少し考えてから、短く言った。
「……参考にする」
(『参考にする』か。前職の上司なら『そんな重要な推測、なんで今まで言わなかったんだ!』って怒鳴るところだけど、閣下は怒らない。この人は情報の出所や怪しさよりも、情報の『質』を正確に見極める人だ)
ルカが安堵の息を吐いていると、グレアムが珍しく、自分から情報を補足するように話し始めた。
「アッシェンバッハは、昨日の税務調査を仕組んだだけではない。今、ルシアンの周囲の側近を、一人ずつ巧妙に切り崩している。金で買える者は買い、脅せる者は脅している」
「じゃあ、ルシアン殿下は今……」
「信頼できる側近が、ほとんどいない状態だ。あの会議での発言も、四面楚歌の中で絞り出したものだろう」
図書室で見たルシアンの焦燥の顔が、ルカの脳裏に蘇る。
*
ルカは一つ、どうしても分からないことがあった。
(ゲームの攻略本には『詳細不明の政敵』としか書かれていなかった。でも今、私はこの人物の動機も手法も、リアルタイムで直面している。……攻略本が教えてくれなかったことを、この世界が、現実が教えてくれているんだ)
ルカは、グレアムの目を見て尋ねた。
「閣下、一つだけ聞いていいですか。アッシェンバッハ侯爵は……なぜ今、具体的な行動を起こしたんですか。国王陛下の病状は、以前から悪かったはずなのに」
グレアムの動きが、少しだけ止まった。
沈黙が落ちる。
やがて、彼はルカから視線を逸らし、静かに、だが重い声で言った。
「……お前が、来たからだ」
「え?」
ルカが聞き返す。
「私に、守るものができた。それが──あの男には、格好の『つけ込む隙』に見えたんだ」
ルカは、雷に打たれたように固まった。
(私が来たから、閣下に隙ができた。私の存在が……彼らへの攻撃の口実になっている)
重い罪悪感が胸を突く。
でも、同時に。
(私の存在が、この冷酷無比な氷の公爵を、『守るものがある人間』にした。……それは、弱さだけじゃないはずだ。子を持つと女性が『母親』としてこれまでの何倍も強くなるように、守るものがある人間は、何も持たない人間より、ずっと強くなれるはずだから)
窓の外の曇り空を見上げる。
攻略本に「詳細不明」と書かれていた男の顔が、今、はっきりと見えた。
そしてそれは──ルカが想像していたより、ずっとずっと大きな敵だった。




