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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
シナリオが、狂い始める

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第25話 世界が、戻ろうとしている

 王城の最も華やかな大広間で開かれた夜会。


 ルカ=フォン=エデルハインは、グレアムの同伴者としてその場に立っていたが、開始早々から明確な異変を感じ取っていた。


(……空気がおかしい。先日の茶会とも違う。会社ぐるみで特定のターゲットに自主退職を促す時の、陰湿な追い出し部屋の空気だ)


 令嬢たちの分かりやすい嫉妬や嫌がらせではない。


 もっと静かで、組織的で、息の詰まるような冷たい圧力。ルカという存在を「いなかったことにしようとする」力が、会場全体からじわじわと迫ってきていた。


 例えば、休憩室へ入ろうとした際、ルカだけ「手違いで」名簿に名前がないと止められた。


 例えば、以前話したことのある令嬢に挨拶しようとすると、彼女は怯えたように目を伏せ「急用で」とその場を立ち去った。


 極めつけは、給仕がルカを呼ぶ時、わざと別の令嬢の名前で「〇〇様」と呼びかけてきたことだ。


 個人の悪意ではない。システムとして、ルカをこの空間から排除しようとしている。


 これが、シナリオ外の異物を消し去ろうとする「世界の強制力」の正体だった。


 少し離れた場所で、重臣たちに囲まれていたグレアムが、鋭い視線でルカを見た。


 彼は一瞬でこの異様な空気に気づいていた。だが、今日は王国の未来に関わる重鎮たちとの対話の最中だ。彼が今ここで強引にルカの元へ向かえば、それは政敵に「公爵は政治より女を優先した」という格好の攻撃材料を与えてしまう。


 グレアムが動けない。

 それを察したルカは、彼に向かって小さく首を振った。「大丈夫です、一人でやれます」という意味を込めて。


 グレアムの表情が、苦渋に満ちたものに変わる。


 その一連の視線のやり取りを。


 少し離れた場所から、静かに見つめている翠の瞳があった。


(今、公爵殿は動けない。ならば──)


 レオナルト=クロイツは、完璧な騎士団長の笑顔を貼り付けたまま、静かに、そして計算し尽くされた動きで会場を回り始めた。


   *


 レオナルトの動きは、水面下で迅速かつ正確だった。


 まず彼は、ルカを「いなかったことにしようとしていた」貴族の令嬢たちの輪に自然に入り込んだ。


「そういえば、エデルハイン令嬢。先日、公爵閣下と領地の水資源管理について非常に有益な議論をされていたと伺いました。王国の未来を見据えた素晴らしい見識だ。皆様もご存知でしたか?」


 令嬢たちが「知らなかった」と青ざめた顔をする。


 王国第一騎士団長が公の場で彼女の価値を認める発言をしたことで、ルカの「存在」が会場に強烈に刻み込まれた。


 次に彼は、ルカが壁際で完全に孤立しかけた瞬間、彼女の元へと向かった。


 いつものように背後から気配を消して現れるのではない。今日は、誰の目からもはっきりと分かるように、堂々と正面から歩み寄った。


「エデルハイン令嬢、少しよろしいですか」


「えっ、騎士団長殿?」


 ルカが目を丸くする。


「公爵殿から、貴女の様子を少し見ておくように頼まれました。よければ、あちらの席へご案内しましょう」


「グレアム閣下が……頼んだ?」


 ルカは困惑した。先ほどのやり取りで、自分は明確に「大丈夫だ」と首を振ったはずだ。いつの間にそんな指示を出したのだろうか。


 するとレオナルトは、言葉ではなく視線だけで、グレアムの方を指し示した。


 ルカがそちらを見ると、重臣と話している最中のグレアムが、一瞬だけこちらを見て、わずかに顎を引いた。


(……この人たち、さっきのあの一瞬で、目だけで会話してたの!?)


 阿吽の呼吸。長年、共に王国の危機を乗り越えてきた二人の男たちの、恐ろしいほどの連携だった。


 その後もレオナルトは、ルカを排除しようとする黒幕側の貴族が彼女に近づこうとした瞬間に、「おや、〇〇侯爵。先日の騎士団の予算の件で、少しよろしいですか」と自然に割り込み、見事に引き離した。


 ルカはそれを直接見ていなかったが、遠巻きに状況を観察していたゲームプレイヤー──いや、彼女自身の社畜としての俯瞰的な視点には、全てがはっきりと見えていた。


   *


 レオナルトが傍にいることで、ルカへの排除の圧力は一時的に弱まった。


 しかし、ホッとしたのも束の間。ルカの視界の端で、ある異様な光景が繰り広げられていた。


 会場の片隅。


 王太子ルシアンと、彼に寄り添うように立つ光の聖女、リリアナ。


 二人が並んでいる光景を、周囲の重臣たちが氷のように冷たい──あるいは、明確な敵意を含んだ目で見つめているのだ。


『あの二人、まだあんなことを続けるつもりか』


『王国の危機に、平民の小娘にうつつを抜かすなど……』


 ひそやかな、しかし確実に二人を切り捨てようとする囁き声。


 本来のゲームのシナリオなら。あの二人が並ぶ姿は、全ての障害を乗り越えた「祝福される王太子とヒロイン」の象徴のはずだった。


 だが今は、完全に政治的に排除すべき邪魔な組み合わせとして扱われている。


(世界が……シナリオに戻ろうとしている。でも、戻ろうとしているシナリオの中身が、全部歪んでいる)


 シナリオの「正しい形」が、もはや誰にとっても幸せなものではなくなっている。


 その残酷な事実に、ルカは息を呑んだ。


   *


 夜会の終わり際。


 会場の出口へと向かう回廊で、レオナルトがルカに並んで歩きながら言った。


「今日はお疲れ様でした、ルカ嬢。少し、空気が悪かったですね」


「……助けてもらいましたよね、色々」


 ルカが前を向いたまま言うと、レオナルトはいつもの完璧な笑顔を作った。


「何のことですか?」


「全部見えてましたよ。令嬢たちへの牽制も、侯爵を引き離してくれたのも」


 レオナルトの足が、少しだけ止まる。


 完璧な仮面が、ほんの少しだけ剥がれ落ちた。


「……そうですか」


 その笑顔は、いつもの作り物ではなく、少しだけ本物の色が混ざっていた。


「貴女は、よく見ていますね」


「騎士団長殿も、よく動いていますね。過労で倒れないか心配になるくらいです」


 しばらくの、静かな沈黙。


 やがて、レオナルトがぽつりと言った。


「グレアム殿下の眼力には敵いませんよ」


 言いかけて。


 彼はハッとしたように口を噤み、静かに訂正した。


「……公爵殿の、眼力には」


 殿下、という言い間違い。


 それが、彼の中でグレアムをどう位置づけているのか、あるいは、公爵が今後どうなる未来を見据えているのか。


 その言葉の重い意味を、ルカはあえて聞かなかった。


 世界が元に戻ろうとする暴力的な力と、それを誰にも知られずに静かに押し返す力。


 その狭間で、名もなきモブ令嬢は、震える両足でしっかりと立っていた。

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