第22話 なぜ、誰も聞かない
王城の奥深く、重厚な扉に閉ざされた議会前室。
グレアムの同伴者として、ルカ=フォン=エデルハインが初めて足を踏み入れたその場所は、華やかな社交界とは全く違う、重く冷たい空気に包まれていた。
(前世で言うところの『重要な役員会議の前の廊下』だ。全員が腹の底で何かを計算しながら、表面上は礼儀正しくしてる……息が詰まりそう)
並み居る王国の重臣たちが、次々とグレアムの元へ歩み寄り、恭しく挨拶を交わしていく。グレアムは表情一つ変えず、淡々とそれに応じている。
その重臣たちの輪の少し外側に、見知った顔があった。
王太子ルシアン。
先日遠目に見かけた時よりも、今日の彼はさらに顔色が悪く、その表情はひどく険しい。
だが、ルカが静かに観察していると、ある異様な事実に気がついた。
重臣たちは、次期国王であるはずのルシアンに形式的な会釈をするだけで、すぐに王国最強の軍事力を持つグレアムの方へと足を向けているのだ。
(……殿下が、軽く見られてる。これ、ゲームのシナリオと全然違う)
王道ルートを歩むはずだった「理想の王子様」の姿は、そこにはなかった。
*
重苦しい議会が終わった後。
人払いがされた廊下を歩きながら、ルカはグレアムのわずかな異変に気づいた。
彼は無意識のうちに、右手の手首のあたりを、左手でそっと押さえていた。
痛みを堪えるような、あるいは庇うような仕草。
小部屋に入って短い休憩を取った時だった。
グレアムが手袋を少しだけずらした瞬間、ルカの視界に「それ」が入った。
強靭な腕に刻まれた、複数の古い傷跡。
刃物で深く抉られたような、生々しい傷。社交の場や訓練でつくようなものではない。間違いなく、凄惨な戦場で命を削り合ってついた傷だ。
視線が、合った。
沈黙が落ちる。
グレアムの青い瞳が、少しだけ強張ったように見えた。醜い傷を見られたことへの警戒か、あるいは同情されることへの拒絶か。
ルカは、瞬時に判断した。
(……聞かない。触れない。でも、見なかったふりもしない)
同情など、この気高い男には必要ない。だが、無視して『何もない』ように振る舞うのも、誠実ではない。
ルカは少しだけ間を置いてから、ぽつりと言った。
「……今日の議会、長かったですね」
「……ああ」
グレアムが短く答える。
ルカは、ずらされた手袋の先を見つめたまま、静かに言葉を継いだ。
「明日、雨になりそうですね」
グレアムが、ハッと息を呑んでルカを見た。
傷の話ではない。でも、彼には痛いほど伝わった。雨の日に、古い傷が疼くことを、彼女は遠回しに、そして優しく気遣ってくれているのだと。
「……そうか」
グレアムは手袋を直すと、ゆっくりと窓の外の曇り空へ視線を向けた。
二人で、静かな時間を共有する。
やがて、グレアムが窓の外を見たまま、ぼそっと呟いた。
「……よく気が回るな」
「え?」
ルカが問い返す前に、彼はもう部屋の扉へ向かって歩き出していた。
*
廊下に出たところで、突如として騒ぎが起きた。
重臣の一人が血相を変えて走ってきて、グレアムの耳元で何かを囁く。
その瞬間、グレアムの顔が、今までに見たことがないほど険しく引き締まった。
「ルカ、ここで待て」
短い命令。グレアムは足早に回廊の奥へと消えていった。
一人残されたルカの耳に、遠くから切羽詰まった声が聞こえてきた。
ルシアンの声だった。普段の傲慢な威勢とは違う──完全に追い詰められ、余裕を失った焦りの声。
「……私は、王太子だ! なぜ、なぜ誰も私の話を聞かない!」
重臣たちの冷たい沈黙が、その叫びを冷酷に跳ね返しているのがわかる。
「殿下、お静かに。今は……」
「父上の容態が悪化しているのに、なぜ、全ての決定権がグレアム公爵に委ねられている!? 私は次期国王だぞ!」
ルカは、壁際で息を呑んだ。
国王の容態悪化。
公爵への権力集中。
王太子の完全な孤立と弱体化。
これは──ゲームのシナリオには、全くなかった展開だ。
ヒロインと結ばれ、祝福されて王位を継ぐはずだった物語は、跡形もなく崩壊している。
(……私が。私がローストビーフで咽せたあの日から、全部が、少しずつ変わり始めていたんだ)
シナリオの強制力が外れた世界は、残酷な現実の政治劇として、その牙を剥き始めていた。
*
足音が近づいてくる。
グレアムが戻ってきた。表情は先ほどと変わっていない。だが、ルカには分かった。今日のあの重苦しい議会が、何を決定したのか。
ルカは、小さく口を開いた。
「……聞こえてしまいました」
グレアムの足が、少しだけ止まる。
「……全部か」
「はい」
沈黙。
王国の最高機密に近い内情。普通の令嬢なら怯えて逃げ出すような事実。
グレアムは再び前を向いて歩き出しながら、ルカだけに聞こえる低い声で言った。
「国の歴史の第二幕が、始まる」
「え?」
ルカが聞き返す前に、グレアムは立ち止まり、振り返らずに続けた。
「お前も、巻き込まれることになる。危険も伴う。それでも──」
言いかけて、彼は言葉を切った。
少しの躊躇いの後、不器用な男が、初めて誰かに何かを託すような声で問う。
「……ついてこられるか」
ルカは、彼の広く、孤独な背中を見つめた。
答えは、とっくの昔に決まっている。
「はい」
迷いのない、真っ直ぐな一言。
第二幕が始まる、と彼は言った。
攻略本に載っていない令嬢は。
攻略本に載っていない、誰も結末を知らない歴史の第二幕へと、覚悟と共に一歩踏み出した。




