第21話 よくやった、は記念日である
静かな王城の図書室。
ルカ=フォン=エデルハインは、今日も今日とて分厚い歴史書を開きながら、一人で物思いに耽っていた。
(……逃げない、と決めた。決めたはいいけど……具体的に何が変わるんだろう)
昨夜の夜会。
政敵の令嬢や男たちからの脅迫を真っ向から論破し、「モブとして生き延びる」という前世からの信条を捨てた。
そう、あれは紛れもなく一大決心だった。ルカの人生におけるターニングポイントのはずだった。
だが、一夜明けてみれば。
朝ご飯はいつも通り美味しかったし、空は青いし、お給料(領地への投資)は相変わらず振り込まれる予定だ。
(……うん。とりあえず、今日も本を読んで過ごそう。わざわざ自分から行動を起こす必要はないし)
前世OLらしく冷静に分析し、ルカは静かにページを捲った。
自分自身は何も変わっていない。ただ腹を括っただけ。そう思っていたのだが──この世界の側が、少しずつ形を変え始めていることに、ルカはまだ気づいていなかった。
*
昼過ぎ。
グレアムの執務室の呼ばれ、公爵邸を訪れたルカは、玄関に足を踏み入れた瞬間から違和感を覚えていた。
「エデルハイン様。本日もお越しいただき、大変光栄でございます」
出迎えた執事のクラウスが、いつもより一段階深く、そして妙に恭しいお辞儀をしたのだ。
後ろに控えているエマに至っては。
「エデルハイン様! お荷物をお持ちいたします! 喉はお渇きではありませんか!? 何かご入用のものはございませんか!?」
と、いつもの三倍増しで気を遣い、目をキラキラと輝かせている。
(……なんで今日に限ってこんなに丁寧なの? 私、何かしたっけ?)
ルカが困惑して二人の顔を交互に見ていると、執務室の扉が開き、グレアムが姿を現した。
「……騒がしいぞ」
氷のような一言。
いつもならこれで縮み上がる使用人たちだが、今日のクラウスは一味違った。
「申し訳ございません、閣下。ただ、昨夜の令嬢の素晴らしいご判断とご覚悟を伺い……我々一同、大変感銘を受けまして」
「えっ? 昨夜の?」
ルカが首を傾げると、エマが興奮気味に身を乗り出してきた。
「一人で政敵の脅しを退けられたのですよね! 閣下から聞きました! しかも、怯むどころか『備忘録として全て報告する』とまで言い放ったと……! ああ、なんというご立派な!」
「エデルハイン様。私がこの公爵邸に仕えて四十年の中で、あのような武勇伝を持つ令嬢は初めてでございます」
クラウスがハンカチで目頭を押さえている。
(閣下、帰りの馬車の中で報告したこと、屋敷の使用人に全部話したんだ……。というか『備忘録』って言ったの、改めて他人の口から聞くと恥ずかしすぎるって!)
ルカは羞恥で顔から火が出そうになりながら、グレアムの背中を追って足早に執務室へと逃げ込んだ。
*
執務室で二人きりになると、グレアムはいつものように書類の束に向かいながら、低い声で切り出した。
「昨夜のことだが、話しておく必要がある」
「はい」
ルカが背筋を伸ばす。
脅してきた男たちや令嬢の処理は、既に彼とレオナルトの手によって水面下で終わっているらしい。だが、グレアムの横顔は少しだけ険しかった。
「彼らは末端に過ぎない。背後にいる人間は、まだ動いている」
それは──国家規模の暗闇が、水面下で確実に進行しているという事実。
だが、そのトーンはあくまで淡々としており、ルカを過度に怯えさせないよう配慮されていた。
「わかりました」
ルカが落ち着いて答えると、グレアムは書類を捲る手を少しだけ止めた。
そして、顔は伏せたまま、珍しく不器用な声で言った。
「……昨夜は、よくやった」
ルカは「えっ?」と顔を上げた。
グレアムは視線を書類に戻しているが、その耳の先が、ほんのりと赤く染まっている。
(褒められた。あの軍神グレアム閣下に、褒められた。これは記念日として手帳に記録すべき案件では?)
ルカの胸の奥が、じんわりと温かくなる。
しかし、そこで終わらないのがルカである。
(いや待て。上司からの突然の『よくやった』は、絶対に額面通りに受け取ってはいけない。あれは高い確率で、次の無茶振りの前振りだ。前世でも『君の提案書、すごく良かったよ。ところで今週末なんだけど──』というパターンで何度休日出勤させられたことか!)
ルカが瞬時に警戒態勢に入った、まさにその時。
「次の社交界は来週だ。準備しておけ」
グレアムが事務的に告げた。
(やっぱり次の仕事の前振りだった!!)
ルカは内心でズッコけつつ、「承知いたしました」と完璧な営業スマイルで返事をした。
*
帰り際。
公爵邸を辞し、王城の連絡回廊を通って帰路についていたルカは、ふと、遠くの渡り廊下に見知った金髪の影を見かけた。
第一王子、ルシアン=エーヴェル。
最初のパーティーで、ヒロインを庇って悪役令嬢に婚約破棄を叩きつけていた、あの威勢の良い王太子だ。
あれ以来、彼がルカの視界に入るのは初めてだった。
だが、少し離れた場所から見える彼の様子は、以前の自信に満ちた姿とは少しだけ雰囲気が違っていた。
肩を落とし、側近を連れることもなく、どこかひどく疲れたような、翳りのある顔で歩いている。
ルカは、思わず足を止めた。
(……おかしい。ゲームの中では、婚約破棄イベントの後、ルシアン殿下はヒロインのリリアナちゃんと結ばれて、幸せな王道ルートを歩むはずだったのに。でも、なんか……すごく顔色が悪い)
世界が、シナリオ通りに進んでいない。
自分が意図せずに起こしてしまった波紋が、彼らの運命を確実に歪めているという予感。
(でも、私にはどうすることもできない。関係ない。私はただのモブなんだから)
そう自分に言い聞かせる。
……でも、昨夜、私は「逃げない」と決めたはずなのに。
関わるべきが、関わらざるべきか。
答えが出ないまま、ルカは小さく息を吐き、再び歩き出した。
一体自分はいつまで、どこまで「知らないふり」ができるだろうか。




