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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
名前のない戦場へ

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第20話 ここにいろ、と言われる前に

 煌びやかなシャンデリアが照らす、王都の夜会。


 ルカ=フォン=エデルハインは、今日も公爵の同伴者として、会場の隅にある壁際でこっそりとお菓子の皿を抱えていた。


(……よし。今日こそは、だ。今日こそは穏便に……)


 心の中でそう呟きながら、今夜の特製マカロンを口に運ぶ。外はサクッと、中はしっとりとしていて絶品だった。


「少し、挨拶回りに行ってくる。周りに気をつけろ」


 隣にいたグレアムが、そう言い残して貴族の波の中へ消えていく。


 ルカは小さく息を吐いた。


(なんかずっとこのパターンだな。パーティーの同伴者って意外と暇なのかもなぁ。美味しいもの食べられるからいいけど。とにかく、お願いだから今日は何も起きないでくれ……)


 そんなルカの切実な願いは、あっさりと打ち砕かれた。


「エデルハイン令嬢、少しよろしいですか。あちらのテラスから見える、お庭の薔薇が見事でして……」


 感じの良い笑顔を浮かべた、見知らぬ令嬢が近づいてきたのだ。


 自然な誘い出し。だが、ルカの社畜センサーが警報を鳴らした。断ろうとして視線を巡らせると、令嬢の後ろに、体格の良い男が二人、さりげなく逃げ道を塞ぐように立っていることに気がついた。


 逆らえば、ここで騒ぎになる。


 ルカは皿を置き、静かに「……はい」と頷き、彼らの後に続いた。


   *


 案内されたのは、夜会の喧騒が遠く聞こえるだけの、人気のない薄暗い中庭だった。


「さて、エデルハイン令嬢」


 令嬢は先ほどまでの愛想の良い笑顔を消し、冷ややかな声で切り出した。背後の男たちが、じりじりとルカとの距離を詰める。


「エデルハイン男爵領のことを、ご存知ですか。最近、王都から技術者が派遣され、水路の工事が始まったとか。……工事というのは、不測の事態(事故)が起きやすいものですよね」


 ルカの背筋が、すっと冷えた。


 グレアムが手配してくれた、領地の未来を救う水路の改修工事。それが今、明確な脅しの材料として使われている。


「お父上、お母上、それから……お姉様方。皆さんお元気そうで何よりです。先日の伯爵家のガーデンパーティーでも、随分と仲睦まじいご様子をお見かけしました」


 監視されていたのだ。


 ルカの家族がいつ、どこにいたのか。全てを把握されている。


 ドレスの裾を握るルカの指先が、微かに震え始めた。


「ヴァルトシュタイン公爵との関係を、今すぐ切っていただければ──ご家族にも、領地にも、指一本触れません。それだけです。簡単でしょう?」


 令嬢が、にこやかな笑顔を作った。だが、その目は全く笑っていない。


 ルカが沈黙していると、背後の男が一歩前に出て、低い声で続けた。


「静かに生きたいのでしょう? それができますよ。今すぐここを離れ、公爵という台風の目の傍から消えれば」


 静寂が落ちる。


 その沈黙の中で、ルカの脳内では、前世の社畜OLとしての経験が猛烈な勢いで回転し始めていた。


(これは『交渉』だ。相手は私に『YES』と言わせたい。脅しを使っているということは、実力行使できない明確な理由があるんだ。今ここで本当に私の家族に手を出せば、間違いなくグレアム閣下に全てがバレて、彼らは報復される。だから、私を精神的に追い詰めて、脅しだけで自主的に退場させようとしてる)


 冷静に分析できている。


 でも、やはり体は正直で、足はすくみ、手はカタカタと震え始めていた。


 家族の顔が浮かぶ。


『ルカ、あの人、ちゃんとあなたのことを見てるよ』と涙ぐんでいたイルマ。


『……感激いたしました』と静かに言ってくれたエリーゼ。


 黒歴史を暴露する父。埃に絶叫する母。


(この人たちを、巻き込みたくない)


 そして──グレアムの顔が浮かんだ。


 一緒に食べた焼き菓子。書斎の枯れない花。「ナイスキャッチだ」と堪えた笑い。「また来い」という言葉。


「私がいる限り、お前には指一本触れさせない」と言ってくれた、あの絶対的な背中。


 レオナルトの顔が浮かんだ。


 いつもは完璧な騎士団長を装っていても、仮面を外せば、顔を赤くしてスモモの種飛ばしに付き合ってくれる優しい青年の、あの笑顔。


 ルカは、ハッと気づいた。


(……もし私がここで折れて逃げたら。私が『脅しに屈した』という情報が、政敵からあの人たちに届く。それは──あの人たちを、もっと危険な場所、不利な立場に追い込むことになる)


 逃げることが、守ることにはならない。


 逃げることが、むしろ、自分の大切な人たちに危険を呼び込むことになる。


 それに。


(あの人たちを……裏切りたくない)


 ルカは一つ、大きく深呼吸をした。


 震える手を、ドレスの裾ごと、思いきり強く握りしめる。


 そして、顔を上げた。


「……お断りします」


 令嬢と男たちが、「は?」というように目を見開いた。


「家族のことは、確かに怖いです。でも──」


 ルカは、令嬢の目を真っ直ぐに見据えて言い放った。


「私がこれで折れたという情報が広まれば、公爵閣下は政敵に対して『弱みを握られやすい』と見なされ、もっと危険な立場に立たされる。そしてそれは、閣下の守ろうとしている私の家族へのリスクも、結果的に跳ね上がるということです。……あなた方の脅しは、逆効果です」


 それは、前世で理不尽な顧客のクレーム対応を最前線で受け続け、決して会社の不利益になるような安易な妥協(イエス)を口にしなかった、一人の社畜の最後の矜持だった。


 男たちの表情が、険しく変わる。


 ルカは一歩も引かず、冷たく続けた。


「それと、このお話は全て、公爵閣下にご報告させていただきます。……備忘録(エビデンス)として」


「……お前っ」


 男の一人が腕を伸ばそうとしたが、ルカはそれを視線で制した。


「帰り方は、自分で決めます。失礼いたします」


 踵を返す。


 足がガクガクと震えている。心臓が破裂しそうだ。


 でも──歩き続ける。絶対に振り返らない。


(……逃げたく、ない)


 中庭から夜会へと続く、重い扉のノブに手をかける。


 震える手で、その扉を開け放った。


 その瞬間。


「っ……!」


 扉の向こう側に──グレアムとレオナルトが、息を切らせて同時に立っていた。


 二人とも、いつもの彼らではなかった。


 グレアムの氷のような青い瞳が、ルカの姿を見た瞬間、怪我はないか、震えていないか、一瞬で上から下まで確認する。


 レオナルトが、ルカの背後にある中庭の暗がり──そこにいる男たちを、一瞥する。その翠の瞳は、これまでにないほど冷酷で、全く笑っていなかった。


 ルカは二人を見て、張り詰めていた糸が切れたように、少しだけ笑った。


「……帰ろうとしてたんですけど、やめました」


 グレアムが「何?」と短く問う。


「逃げる機会があったんですけど……なんか、やめてしまって」


 二人が、同時にピタリと動きを止めた。


 ルカは、震える声で続ける。


「おかしいですよね、ただのモブなのに。ただの、石ころなのに……まだ、ここに居たいだなんて」


 重い沈黙が落ちた。


 グレアムが、ルカをじっと見下ろす。何も言わない。


 でも──青い瞳の奥に、今まで見たことのないような、全てを焼き尽くすほどの熱が宿っているのが分かった。


 レオナルトが、小さく息を吐いた。


 完璧な仮面の笑顔が崩れ落ちて、ただの一人の青年としての、本物の表情になる。


「……おかしくないですよ。なんにも」


 レオナルトはそう優しく言って、視線をグレアムへと向けた。


「後は任せます」とでも言うように。


 グレアムは、ルカから目を離さないまま、静かに、低く言った。


「……ここにいろ」


 それは、いつもの軍神としての「命令」ではなかった。


 私の傍からいなくならないでくれという、懇願と、祈り。お願いに近い、何か。


 ルカは、真っ直ぐに彼を見つめ返して。


「はい」


 と、はっきりと答えた。


「心配無用ですよ。あなたの歩む道は、公爵殿が整えてくださる。背中は、私がお守りいたしましょう」


 レオナルトが微笑むと、グレアムは腕を組んだまま頷いた。

 

 それだけで。


 三人の間の空気が、世界の色が、穏やかに、そして決定的に変わった。


   *


 帰りの馬車の中。


 ルカは窓の外の流れる景色を見ながら、一人で考えていた。


 前世の知識を駆使して「モブとして、シナリオに関わらず生き延びる」という固い信条。


 それが今夜、完全に終わった。


 私はもう、この台風の目から逃げられない。


 でも不思議と、全く寂しくはなかった。


 むしろ、胸の奥がじんわりと温かかった。


 攻略本に載っていない令嬢は、今夜、攻略本に載っていない選択をした。


 逃げない、という選択を。


 そしてそれは、思ったよりもずっと──悪くなかった。

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