第19話 最初から、いなかった人間
華やかな夜会。
ルカ=フォン=エデルハインは、今日も公爵の同伴者として、会場の隅にある壁際でひっそりとお菓子の皿を抱えていた。
サクサクのパイを口に運んだ時。ふと、強い視線を感じた。
嫌がらせをしてくる令嬢たちのものや、探りを入れてくる貴族の男たちのものとは違う。もっと真っ直ぐで、冷ややかな視線。
振り返ると、少し離れた場所に、一人の令嬢が立っていた。
燃えるような真紅の髪。周囲を圧倒するような、華やかで、しかしどこか近寄りがたい美貌。
王太子の元婚約者であり、あの夜、婚約破棄を突きつけられた「悪役令嬢」──セシリア=フォン=ローゼンベルクだった。
あの夜は絶望で青ざめていた彼女が、今夜は別人のように静かで、冷たく美しい顔をしている。
彼女はゆっくりと、ルカの方へと歩みを進めてきた。
(会いたくない……というか、怖い。でも、敵意は感じない。なんだろう、この人)
ルカが警戒を強める中、周囲の令嬢たちがざわめき始めた。
「婚約破棄されたローゼンベルク令嬢が、なぜ公爵の同伴者に?」という、好奇と緊張の混ざった空気が漂う。
セシリアはルカの隣に並ぶと、手にしていた扇子をパチリと閉じた。
「……あなた、面白いわね」
それは、純粋な好奇心からくる言葉だった。
「は、はあ……」
「あんな凄惨な場面で、堂々とお肉を食べていた令嬢が。今度は氷の公爵の同伴者になるなんて、普通じゃないわ」
「お恥ずかしい限りです」
「恥ずかしいと思っているの? あなたの顔、全然そう見えないけれど」
図星を突かれ、ルカは少し固まった。
セシリアは、アメジストのような瞳でルカを真っ直ぐに見据えたまま、続けた。
「ヴァルトシュタイン公爵は変わったわ。……あなたが現れてから。それは、あなたも気づいているでしょう?」
「……私のせいで変わったとは、思っていません」
ルカが静かに否定すると、セシリアは扇子を開き、口元を隠して小さく笑った。
「そう。でも、私はそう思っている」
そして。
ルカの耳元に、彼女の冷ややかな声が落ちた。
「あなたは何者なの、エデルハイン令嬢。……私には、あなたがこの場所に『最初からいなかった人間』のように見えるわ」
ルカの背筋が、すっと冷えた。
*
少し離れた場所で。
レオナルト=クロイツは、二人の会話を遠目から静かに見つめていた。
(ローゼンベルク令嬢が、ルカ嬢に……?)
レオナルトの表情が、わずかに険しくなる。
セシリア=フォン=ローゼンベルクがどういう人物か、彼は知っていた。彼女は単なる嫉妬や悪意で動く愚かな女ではない。高い知性と、真実を見極めようとする強い好奇心で動く人間だ。
だからこそ、ルカにとっては余計に厄介な相手になる。
ルカの顔が、わずかに青ざめているのが見えた。
助けに行かなければ。
レオナルトが一歩踏み出しかけた、その時。
群衆を割るようにして、黒い軍服姿の男が、誰よりも早くルカの元へ向かっているのが見えた。
(……公爵殿が動いた)
レオナルトは、踏み出しかけた足を引き、静かに止まった。
(ならば、私は必要ない)
彼が守るなら、ルカは絶対に安全だ。
自分が出る幕はない。
レオナルトは微かに自嘲するように笑い、背を向け、影の中へと消えていった。
*
グレアムは、自然な──しかし牽制を含んだ動きで、ルカの隣に立った。
セシリアがグレアムを見る。グレアムがセシリアを見下ろす。
二人の間に、複雑で張り詰めた空気が流れる。
やがて、セシリアが扇子で口元を隠し、小さく笑った。
「公爵閣下。……相変わらず、お早いこと」
「……ローゼンベルク」
グレアムが、地を這うような声で一言だけ名前を呼んだ。
それだけで、「これ以上、私の同伴者に話しかけるな」という絶対的な拒絶の意味が込められている。
「失礼いたしました。お邪魔をするつもりはございません」
セシリアは優雅に、完璧な淑女の礼をした。
そして踵を返す直前、すれ違いざまに、ルカだけに聞こえる声で一言だけ残した。
「また話しましょう、エデルハイン令嬢。……あなたのことが、もっと知りたいから」
*
その夜。
男爵邸の自室のベッドの中で、ルカは暗闇を見つめながら一人考えていた。
セシリアの言葉が、耳から離れない。
『あなたがこの場所に最初からいなかった人間のように見える』
(気づかれている。全部じゃないけど、私がこの世界のイレギュラーだということを、彼女は感じ取っている)
ルカは初めて、自分の存在がこのゲームのシナリオに与えた「影響」を、正面から考えた。
グレアムが変わった。レオナルトが変わった。
もしかしたら、セシリアの断罪の場面があんなに滑稽に終わってしまったのも、自分が咽せたせいかもしれない。
(私がいることで、ゲームのシナリオがどんどん変わっている。それは……良いことなのか、悪いことなのか)
答えは出ない。
元のシナリオに戻した方がいいのか、それともこのまま進んでいいのか。
(私は、この人たちのことが好きだ。グレアム閣下も、レオナルト騎士団長も、お姉様たちも、クラウスさんも、エマも。この世界で出会った、全員のことが)
モブとして、シナリオに関わらず平和に生き延びること。
この大切な人たちと関わり続け、彼らの運命を変えてしまうこと。
その二つが、もう両立できなくなっていることに──ルカはこの夜、初めて気づいた。
攻略本に載っていない令嬢は。
攻略本に載っていない選択を、いつかしなければならないのかもしれなかった。




