第18話 静かな場所で、それぞれが
特に用事や「同伴者」としての仕事があるわけではない。
でも、ルカ=フォン=エデルハインが公爵邸を訪れることは、いつの間にか自然なことになっていた。
「お待ちしておりました、エデルハイン様」
執事のクラウスが完璧な礼で迎え入れ、背後でメイドのエマが嬉しそうに紅茶の準備を始めている。
(……呼ばれてもないのに来るの、これで三回目だな。もはや完全に習慣になってる)
ルカは内心で少し気恥ずかしさを覚えながら、クラウスの案内に従っていつもの私的な書斎へと足を踏み入れた。
だが、入室した直後。
気が抜けていたルカのドレスの袖が、入り口近くの棚に引っかかってしまった。
コロン、と。
棚の上に飾られていた、明らかに年代物の、恐ろしく高価そうな陶器の調度品が傾き、床に向かって落下していく。
ルカの時間が、スローモーションになった。
(やばいやばいやばい! 怒られる! これ絶対めっちゃ高いやつだ! 前世で一番でかい契約を失注した時より深刻かもしれない!)
ルカは反射的に身を投げ出し、両手を伸ばして──。
パシッ。
床に落ちるギリギリ、数ミリのところで、見事に調度品を両手でキャッチした。
沈黙。
後ろでクラウスが息を飲んでいる気配がする。あの調度品がどれだけ大切なものか、執事だからこそ分かっているのだろう。
デスクの向こうで書類に目を通していたグレアムが、顔を上げ、無言でルカを見た。
絶対零度の視線。
ルカは床に這いつくばったまま、死を覚悟した。
「……ナイスキャッチだ」
ぼそっと。
本当に、小さな声が聞こえた。
クラウスが目を見開く。エマが両手を口で押さえる。
ルカが「え?」と顔を上げると、グレアムはもう書類に目を戻していた。
だが、彼の広い肩が、微かに震えている。
(……笑い堪えてる!? あの氷の公爵が!?)
ルカは、安堵と可笑しさがないまぜになり、自分も必死に笑いを堪えながら、調度品をそっと元の場所に戻した。
*
グレアムが唐突に口を開いた。
「……お前は、何が好きなんだ」
ルカは紅茶のカップから顔を上げた。
「好きなもの。食べ物でも、場所でも、なんでもいい」
突然の質問。
ルカは少し考えてから、正直に答えた。
「食べること。寝ること。あとは……読書と、静かな場所が好きです」
「そうか」
グレアムはそれだけ言って、視線を落とした。
少し間があって、ルカが逆に尋ねる。
「閣下は?」
グレアムが、ピタリと動きを止めた。
こんな単純な質問を、今まで誰からもされたことがなかったのだろう。少しだけ考えてから、小さな声で答えた。
「……本を読むこと。領地の視察。あとは」
少し、間があって。
「静かな場所」
ルカは、ふふっと小さく笑った。
「同じですね」
グレアムは何も言わず、少しだけ視線を逸らした。
彼は立ち上がると、本棚から一冊の歴史小説を取り出し、ルカに渡した。
「閣下、こういう歴史小説も読まれるんですか」
「……問題があるか」
「いえ、嬉しいです。なんだか、閣下ご自身が好きなものを教えてくれた気がして」
グレアムの耳の先がほんのりと赤くなったことに、ルカは気づいていない。
そこからは、二人で別の本についての感想戦が始まった。
「第四章の、あの将軍の奇襲の戦略は秀逸だ。地形を完璧に理解している」
「そうですね。でも私は、第七章の市井の人々の暮らしの描写が凄く好きでした。戦争の裏側で、みんな必死に生きてて」
「……そこを読んだか」
グレアムが、満足げに少し目を細める。
大局、構造、戦略を見るグレアム。
人、感情、日常を見るルカ。
視ている場所は全く違うのに、なぜか不思議と話が噛み合い、互いの見えていない部分を補い合うように、穏やかな時間が流れていった。
*
同じ夜。
第一騎士団の騎士団長室。
レオナルト=クロイツは、執務室の壁際にある私物の本棚を整理していた。
ふとした弾みで手が滑り、数冊の本が雪崩を起こして床に散らばる。
彼はしゃがみ込み、散らばった本を一冊ずつ拾い上げて元の場所に戻していく。
その中で、一冊だけ、手が止まった。
古びた表紙。
それは、彼がまだ子供の頃に読んだ、古い恋愛小説だった。
(そういえば……こういった本は、随分と読まなくなってしまったな)
いつからだろうか。
王宮の暗闘を生き抜き、誰からも憧れられる「完璧な騎士団長」の仮面を被り始めてから。ただ感情を動かすだけの、利益にならない本を手に取ることはなくなっていた。
他の実務書や戦術書は、全て本棚に戻した。
でも、その一冊だけは戻さず、手元に残した。
レオナルトは椅子に深く腰掛ける。
色褪せた表紙を開く直前、彼の脳裏に、ある人の無防備な笑顔が──市場でスモモの種を飛ばして笑っていた少女の顔が、ふわりと浮かんだ。
彼は誰にも見せない静かな笑みを浮かべ、ページを捲った。
(……たまには、こういうのも悪くないか)
*
「そろそろ帰ります」
話が一段落し、ルカが立ち上がった。
グレアムは、手元にあった本をルカに差し出した。
「持っていけ。続きがある」
「これ、シリーズものだったんですか?」
「ああ。三巻まである」
「じゃあ、全部読んできますね」
ルカが三冊の本を大事そうに抱えると、グレアムは短く、少しだけぶっきらぼうになった。
「また来い」
「はい」
ルカが元気に答えて部屋を出た直後。
扉の外で待機していたエマが、目を輝かせて駆け寄ってきた。
「エデルハイン様! 閣下ご自身から『また来い』とおっしゃったのは……」
そこまで言ったエマを制し、ルカは先回りして言った。
「私が仕えて以来、初めてですか?」
「……はいっ!」
エマが力強く頷く。
いつもなら「え、何がですか?」と鈍感を発動させるルカだったが。
今回ばかりは、少しだけその言葉の意味を理解したように、柔らかく微笑んだ。
本を三冊抱えて公爵邸を後にしながら、ルカは「また来い、か」と小さく繰り返した。
秋の夜風が心地よい。
なんだかとても、悪くない言葉だと思った。




