第16話 名前のない令嬢の、名前のない戦場
侯爵家主催の夜会。
会場に足を踏み入れた瞬間から、ルカ=フォン=エデルハインの社畜センサーは、警報のようにけたたましく鳴り響いていた。
(……空気がおかしい。これ、査定前の職場の空気だ。表面上は普通に談笑してるのに、全員が腹の底で何かを探り合ってる時の、あの独特のヒリヒリした感じ……)
氷の公爵の同伴者として慣れてきた令嬢たちの嫉妬とは、種類がまた違う。
ルカに向けられているのは、もっとねっとりとした、値踏みするような上位貴族の男たちの視線だった。
ルカが壁際で気配を消そうとした隙を突くように、見知らぬ壮年の貴族が、極めて丁寧で友好的な笑みを浮かべて近づいてきた。
「エデルハイン令嬢、素晴らしい夜ですね。少し、お話をよろしいでしょうか。実は、公爵閣下とのご関係について、いくつかお聞きしたいことがございまして……」
にこやかな声。
しかし、その目の奥には明らかに「情報を引き出してやる」という探るような光が宿っていた。
(出た。取引先を装って探りを入れてくる、競合他社のスパイだ。前世でも展示会で一回やられたやつ!)
ルカは瞬時に警戒レベルを最大に引き上げた。
前世で培ったクレーム対応と、のらりくらりと躱す営業スマイルを全開にする。
「お気遣いありがとうございます。ですが、私はただのお飾りの同伴者ですので、閣下のことは何一つ存じ上げなくて……」
笑顔で受け流そうとするが、相手は引き下がらない。それどころか、気がつけば背後や横からも、同じような目をした別の貴族の男たちが近づき、ルカの四方をじりじりと囲み始めていた。
物理的な圧迫感。逃げ場が塞がれていく。
:
同じ頃。
夜会の喧騒から離れた、王城よりの別室。
「騎士団長殿。……公爵の同伴者の令嬢について、何かご存知では」
薄暗い部屋の中で、政敵側の有力貴族が、探るような低い声で問いかけてきた。
「あの令嬢が、公爵の私室にまで出入りしているという噂があります。彼女が公爵の何を知っているのか、あるいは、公爵が彼女に何を握られているのか……」
第一騎士団長、レオナルト=クロイツは、極上の笑顔を浮かべたまま、グラスの酒を揺らした。
「さあ。私には何も」
甘く、涼やかな声で答える。
「あの令嬢は、公爵殿が社交界の煩わしさから逃れるために用意した、ただのお飾りの同伴者でしょう。少し風変わりですが、無害なだけの少女です。深い意味は、何一つないかと」
完璧な笑顔。完璧な嘘。
権力闘争の最前線にいるレオナルトの言葉に、貴族の男は「そうですか……騎士団長殿がそうおっしゃるなら」と、不満そうにしながらも引き下がっていった。
扉が閉まり、部屋に一人になった瞬間。
レオナルトの顔から、笑みが完全に消え失せた。
彼はグラスを回し、中のワインをぼーっと見つめてため息をつく。
政敵側にルカの情報を少しでも流せば、公爵の足を引っ張ることができたかもしれない。騎士団の立場を有利にすることもできたはずだ。
しかし。
(……ルカ嬢のことを、こいつらには渡さない。絶対に、触れさせない)
自分の利にはならない。グレアムに感謝されるわけでもない。
ルカ本人に知られることなど、一生ない。
それでも、彼はその冷酷な頭脳をフル回転させ、誰にも気づかれない場所で、彼女に伸びる火の粉を笑顔で払い落としていた。
最後に一つ大きな伸びをして、ワインを飲み干してから彼は呟いた。
「……恋敵と政敵はまた別、か……」
*
一方の夜会の会場。
四方を貴族の男たちに囲まれ、いよいよ逃げ場がなくなったルカの視界が──ふいに、巨大な漆黒の影によって遮られた。
「……私の同伴者に、何か用か」
背後から響いた、地獄の底のような低い声。
男たちが弾かれたように振り返り、グレアムの姿を見た瞬間、一斉に顔色を失って散っていった。
「大丈夫です、閣下。何も話していませんし、何も聞かれていません」
ルカが小さく息を吐いて報告すると、グレアムは珍しく表情を動かした。怒りではなく──ひどく焦ったような、心配に近い何かがその青い瞳に浮かんでいた。
「……お前には、話しておく必要がある」
グレアムは、周囲の喧騒からルカを隠すように立ち位置を変え、初めて「政治的な話」を口にした。
「今、王宮では王太子殿下の求心力が低下している。その弱体化に乗じて、王国の権力図を塗り替えようと動いている勢力がある。……彼らは私を排除するために、お前を『私の弱点』として利用しようとしている」
ルカは息を呑んだ。
それは、令嬢たちの嫉妬とは次元の違う、組織的で国家規模の悪意。
「……私がいなければ、閣下にご迷惑を」
ルカが思わず口にした言葉を。
「違う。お前は悪くない」
グレアムが、強い口調で否定した。
「でも、私がいなければ、彼らも私を狙う理由は……」
「……お前がいない、と仮定した話はするな」
珍しく、グレアムが感情を露わにしてルカの言葉を遮った。
沈黙が落ちる。
彼はルカを真っ直ぐに見下ろし、深く、静かに告げた。
「私がいる限り、お前には指一本触れさせない」
*
帰りの馬車。
ルカは窓の外の流れる夜景を見ながら、今夜の出来事を一人で整理していた。
(私はただの、名前すらないモブのはずなのに。どんどん、この世界の『シナリオの中心』に引き込まれている気がする)
前世で遊んだゲームの知識など、今の複雑に絡み合った政治劇の前では何の役にも立たない。
攻略本に載っていない令嬢が、攻略本に載っていない戦いの中心に、じわじわと引き込まれつつあるらしかった。
──そしてその夜、彼女の知らない場所で。
一人の騎士団長が、彼女の平穏を守るために静かに笑顔を消し、孤独な嘘をつき続けていたことを。
彼女も、公爵も、まだ何も知らない。




