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ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第三章 それぞれの距離

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第15話 枯れていなかった

「読み終わりました」


 前回借りた分厚い農業書を抱え、ルカ=フォン=エデルハインは意気揚々と公爵邸を訪れていた。


「……早いな」


 出迎えたグレアムは、少し目を丸くしてわずかな驚きを見せた。


 無理もない。専門的な土木用語や治水データが敷き詰められた実用書を、たった数日で読破してきたのだから、普通の令嬢ならあり得ないスピードだろう。


(ふっ、甘いですね閣下。前世で、締め切り前日に徹夜で市場調査レポートを量産し、上司の無茶振りに応え続けていた社畜に、専門書の一冊や二冊、なんてことはないんですよ!)


 ルカは内心で得意げに胸を張りながら、案内されて応接室のソファに腰を下ろした。


 そこからは、お待ちかねの「感想戦」である。


 ルカが「第三章の部分、うちの領地みたいな傾斜地での治水にすごく参考になりました。あれから雨季の氾濫も防げそうです」と報告すると、グレアムは「……そこを読んだか」と満足げに少しだけ目を細めた。


「あの工法なら、予算もこれまでの半分で済むはずです。ただ、資料の調達ルートを再検討する必要が……」


「資材は北部から流した方が早い。手配は私がしておく。技術者の手配も進んでいる」


 地味極まりない話題だが、二人の会話のテンポは心地よいほどに噛み合っていた。


 ただの「契約の同伴者」という名目のはずなのに、この時の二人の空気は、まるで長年連れ添い、互いの思考を先読みし合える優秀なビジネスパートナーのように自然だった。


 話が一段落したところで、グレアムがゆっくりと立ち上がった。


「次の参考資料を渡す。来い」


 そう言って、ルカを屋敷の奥にある私室な書斎へと案内した。


   *


 重厚なオーク材の本棚が壁一面を覆う、インクと古い紙の匂いがする静かな書斎。


 グレアムが本棚に向かい、背表紙を長い指でなぞりながら次の本を探している間、ルカは部屋の中をぐるりと見渡した。


 ふと。


 窓辺に置かれた、小さなガラスの花瓶に目が留まった。


 そこには、一輪の淡いピンク色のマーガレットが挿されていた。


 見覚えがある。


 先日、ルカが実家の庭で手折り、「持って帰ってください」とグレアムに押し付けた、あの花だ。


 ルカは、その場で小さく息を呑んで固まった。


 花瓶の中の茎は、透明な水にしっかりと浸かっている。花びらも色褪せることなく、まるでたった今摘んできたばかりのように瑞々しさを保っていた。


 切り花をこれほど長く持たせるには、手間がかかる。


(水が、替えられてる。誰かが毎日、丁寧に水を替えてる)


 ルカは、無意識の内に花瓶のそばへと近づき、そっと指先を伸ばした。


「……閣下」


「なんだ」


 本を探したまま、グレアムが背中越しに低い声で答える。


「この花、まだ咲いてますね」


 グレアムの指が、本棚の途中でピタリと止まった。


 ゆっくりと振り返り、窓辺に立つルカを見る。


 一瞬の、静かな沈黙が落ちた。


「……水を替えれば持つ」


 グレアムは、ただそれだけを言い残し、何事もなかったかのように再び本棚へと向き直った。


 ルカは、そっと手を下ろした。


 窓から差し込む陽光の中で、マーガレットがわずかに揺れている。


 窓の外には、綺麗に手入れされているが、花の一切ない冷たい庭が見えた。


(この人は、私が適当にしたものを、ずっと大切にしてくれていたんだ)


 それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。


 軍神と呼ばれ、誰も寄せ付けない氷の公爵。その無機質な書斎に、ぽつんと置かれた一輪の花。その不器用な優しさが、痛いほどに伝わってくる。


 ──しかし。


 ここでルカのこじらせた脳内フィルターが、即座に無粋な横槍を入れてきた。


(……いや、待って。早とちりはよくない。ここは公爵邸だ。クラウスさんをはじめ、有能な使用人が山ほどいる。花瓶の水替えなんて、メイドの毎朝の環境整備に組み込まれているだけの可能性が高い。閣下本人が直接やっているとは限らないじゃないか)


 危ない危ない、上司のちょっとした気遣いを「私に気があるのでは」と勘違いする痛い部下になるところだった。


 そう自分を戒めながら、ルカは背後に控えていたメイドのエマへと、確認の意味を込めて視線を送った。


 するとエマは。


 ルカの視線の意味を瞬時に察し、口パクで「ち・が・い・ま・す」と動かしながら、ぶんぶんと、首が飛んでいきそうな勢いで横に振った。


「私たちは、恐れ多くて一切触っておりません!」と、全身で主張していた。


 ルカは、再び窓辺の花瓶を見た。


(閣下が、毎日、自分で……?)


 胸の奥の温かさが、先ほどよりもさらに一段と熱を帯びて、じわりと広がっていくのを感じた。


   *


「……庭に出るか」


 新しい本を二冊手にしたグレアムが、ぽつりと言った。


 ルカは静かに頷き、二人は書斎を出て、庭のベンチへと向かった。


 木漏れ日の落ちるベンチに、並んで座る。


 ルカが渡された新しい本を開き、グレアムも自分の本を開いて活字を追い始める。


 会話は、ほとんどない。


 時折、ページを捲る音が重なり、遠くで風が木々を揺らす音が聞こえるだけ。


 しかし、その沈黙は決してぎこちないものではなかった。お互いの存在がそこにあるだけで完結する、ひどく穏やかで、満ち足りた静寂だった。


 ルカは本から顔を上げ、ふと庭の景色を見た。


 針葉樹と芝生だけの、花のない庭。


(……またいつか、あの人に花を渡したら。また自分で、水を替えてくれるのかな)


 そんなことを、少しだけ考えた。


 名もなきモブ令嬢と、氷の公爵。


 二人は王都の片隅で、ただ静かに並んで本を読んでいた。


 それだけのことが、なぜかとても、大切な時間に思えた。

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