第13話 それでも、もう少しだけ
第一騎士団の騎士団長室。
朝陽が差し込むデスクで、レオナルト=クロイツは山積みの書類にサインを続けていた。
羽ペンを動かす手は規則正しいが、頭の中は全く別の光景に囚われていた。
昨日の訓練場。土埃の舞う中で、自分を見つめていた無防備なヘーゼルアイ。「普通にかっこよかったです」と、真っ直ぐに言ったあの声。
(……駄目だな)
いつもなら完璧にこなせるはずの日常業務が、今日に限って少しだけ手につかない。
「閣下。すこし、お顔色が優れませんが……」
報告書を持ってきた副官が、心配そうに声をかけてきた。
「ああ、すまない。少し寝不足なだけだ。問題ない」
レオナルトは、いつもの完璧な、誰もが安心する笑顔で返した。
副官が安堵して退室した直後。
扉が閉まる音とともに、その完璧な笑顔が静かに剥がれ落ちた。
(問題しかない)
小さくため息をつき、羽ペンを置く。
自覚してしまった恋は、たった一晩で、彼の心の中を容赦なく侵食し始めていた。
*
昼。
王城の長い回廊を歩いていたレオナルトは、ふと足を止めた。
視線の先、数十メートルほど離れた中庭へと続くガラス張りの渡り廊下に、見慣れた二つの影があった。
氷の公爵、グレアム=ヴァルトシュタイン。
そして、その少し後ろを、小走りでついていくルカ。
二人は特別、親しげに話しているわけではない。グレアムが手元の書類に目を通しながら歩き、ルカが、「待ってくださいよ、脚長すぎますって」とでも言うように何かを文句めかして言っているだけだ。
だが。
ルカの言葉に、グレアムが足を止め、振り返って何かを短く返した。
ルカが不満そうに、でも可笑しそうに笑う。
その瞬間だった。
グレアム、いつもの氷のように冷たく強張っているはずの口元が。
ほんの一瞬だけ、ふわりと緩んだのだ。
(ああ……あの人が、あんな顔をするのか)
レオナルトは、柱の陰に身を隠したまま、息を呑んだ。
軍神として畏怖されるグレアムが、誰かの前であんなに無防備に表情を和らげるのを、レオナルトは今まで一度も見たことがなかった。
外交の場でも、血の匂いが漂う戦場でも、緊迫した会議室でも。あの男は常に、誰も寄せ付けない絶対零度の顔をしていた。
それが、彼女の前でだけ、少しだけ「人間」になる。
レオナルトは、二人に気づかれる前に、静かに踵を返した。
胸の奥が、軋むように痛んだ。
*
騎士団長室に戻ったレオナルトは、窓辺に立ち、一人で王都の景色を見下ろしていた。
遠く、青空に突き刺さるようにそびえる、公爵邸の尖塔が見える。
彼は初めて、自分のこの感情と、静かに向き合った。
──私は、あの令嬢の何に惹かれたのか。
彼女は、自分が作り上げた完璧な仮面を、あっさりと見抜いた。
怯えながらも逃げず、「怖いけど、理解しようとしている」と言ってくれた。
身分も、顔も、権力も関係ない。誰も自分を「ただのレオナルト」として見なかったこの世界で、ただ一人、ありのままの自分を見てくれた。
──私に、勝ち目はあるか。
ない。
公爵は既に、あの令嬢のために動いている。社交界の悪意から彼女を守り、自分の弱みを晒すことすら厭わないだろう。
何より、ルカ自身が気づいていないだけで、彼女の目は常に公爵を追っている。
それが恋心ではなかったとしても。
あの不器用な男が、自分より先に、自分より深く、彼女の中に入り込んでいる。
──それでも、なぜ傍にいるのか。
レオナルトは、窓辺に手を置いたまま、目を閉じた。
少しの間、沈黙が落ちる。
やがて。
レオナルトは、静かに笑った。
それは他人に向けた作り笑いではない。自嘲でもない。ただ、どうしようもない諦めと、それでも手放せない温かい何かが混ざった、本物の笑みだった。
(好きだから、か。それだけだ。理由なんて、それ以上でも以下でもない)
どうにもならない。
勝ち目がないとわかっていも、もう、この感情を止めることはできなかった。
*
夕方。
厳しい訓練を終えた騎士たちが並ぶ練兵場に、レオナルトが姿を現した。
「よくやった。皆、今日の動きは悪くなかったぞ」
夕日に照らされながら、彼はいつもの笑顔で、いつも通りの完璧な騎士団長として部下を労った。
誰も、彼が今日一日、何を考え、何を悟り、どれほどの痛みを飲み込んだのかに気づく者はいない。
その夜。
執務机に向かいながら、レオナルトは一つだけ、自分の中で決意を固めた。
(傍にいる。……それだけでいい。あの令嬢が、私の前で笑っているのを見られるなら、それだけで)
羽ペンが、静かに紙の上を滑る。
勝ち目がないからと言って、逃げ出すつもりは毛頭なかった。
負けると悟りながら戦い続ける方法を、騎士団長は誰よりもよく知っていた。




