表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ローストビーフにむせただけで氷の公爵に溺愛されました。〜攻略本に載っていない社畜令嬢ですが、最強の二人に独占されて平穏な隠居生活が崩壊した件〜  作者: 成瀬 一
第三章 それぞれの距離

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/31

第13話 それでも、もう少しだけ

 第一騎士団の騎士団長室。


 朝陽が差し込むデスクで、レオナルト=クロイツは山積みの書類にサインを続けていた。


 羽ペンを動かす手は規則正しいが、頭の中は全く別の光景に囚われていた。


 昨日の訓練場。土埃の舞う中で、自分を見つめていた無防備なヘーゼルアイ。「普通にかっこよかったです」と、真っ直ぐに言ったあの声。


(……駄目だな)


 いつもなら完璧にこなせるはずの日常業務が、今日に限って少しだけ手につかない。


「閣下。すこし、お顔色が優れませんが……」


 報告書を持ってきた副官が、心配そうに声をかけてきた。


「ああ、すまない。少し寝不足なだけだ。問題ない」


 レオナルトは、いつもの完璧な、誰もが安心する笑顔で返した。


 副官が安堵して退室した直後。


 扉が閉まる音とともに、その完璧な笑顔が静かに剥がれ落ちた。


(問題しかない)


 小さくため息をつき、羽ペンを置く。


 自覚してしまった恋は、たった一晩で、彼の心の中を容赦なく侵食し始めていた。


   *


 昼。


 王城の長い回廊を歩いていたレオナルトは、ふと足を止めた。


 視線の先、数十メートルほど離れた中庭へと続くガラス張りの渡り廊下に、見慣れた二つの影があった。


 氷の公爵、グレアム=ヴァルトシュタイン。


 そして、その少し後ろを、小走りでついていくルカ。


 二人は特別、親しげに話しているわけではない。グレアムが手元の書類に目を通しながら歩き、ルカが、「待ってくださいよ、脚長すぎますって」とでも言うように何かを文句めかして言っているだけだ。


 だが。


 ルカの言葉に、グレアムが足を止め、振り返って何かを短く返した。


 ルカが不満そうに、でも可笑しそうに笑う。


 その瞬間だった。


 グレアム、いつもの氷のように冷たく強張っているはずの口元が。


 ほんの一瞬だけ、ふわりと緩んだのだ。


(ああ……あの人が、あんな顔をするのか)


 レオナルトは、柱の陰に身を隠したまま、息を呑んだ。


 軍神として畏怖されるグレアムが、誰かの前であんなに無防備に表情を和らげるのを、レオナルトは今まで一度も見たことがなかった。


 外交の場でも、血の匂いが漂う戦場でも、緊迫した会議室でも。あの男は常に、誰も寄せ付けない絶対零度の顔をしていた。


 それが、彼女の前でだけ、少しだけ「人間」になる。


 レオナルトは、二人に気づかれる前に、静かに踵を返した。


 胸の奥が、軋むように痛んだ。


   *


 騎士団長室に戻ったレオナルトは、窓辺に立ち、一人で王都の景色を見下ろしていた。


 遠く、青空に突き刺さるようにそびえる、公爵邸の尖塔が見える。


 彼は初めて、自分のこの感情と、静かに向き合った。


 ──私は、あの令嬢の何に惹かれたのか。


 彼女は、自分が作り上げた完璧な仮面を、あっさりと見抜いた。


 怯えながらも逃げず、「怖いけど、理解しようとしている」と言ってくれた。


 身分も、顔も、権力も関係ない。誰も自分を「ただのレオナルト」として見なかったこの世界で、ただ一人、ありのままの自分を見てくれた。


 ──私に、勝ち目はあるか。


 ない。


 公爵は既に、あの令嬢のために動いている。社交界の悪意から彼女を守り、自分の弱みを晒すことすら厭わないだろう。


 何より、ルカ自身が気づいていないだけで、彼女の目は常に公爵を追っている。


 それが恋心ではなかったとしても。


 あの不器用な男が、自分より先に、自分より深く、彼女の中に入り込んでいる。


 ──それでも、なぜ傍にいるのか。


 レオナルトは、窓辺に手を置いたまま、目を閉じた。


 少しの間、沈黙が落ちる。


 やがて。


 レオナルトは、静かに笑った。


 それは他人に向けた作り笑いではない。自嘲でもない。ただ、どうしようもない諦めと、それでも手放せない温かい何かが混ざった、本物の笑みだった。


(好きだから、か。それだけだ。理由なんて、それ以上でも以下でもない)


 どうにもならない。


 勝ち目がないとわかっていも、もう、この感情を止めることはできなかった。


   *


 夕方。


 厳しい訓練を終えた騎士たちが並ぶ練兵場に、レオナルトが姿を現した。


「よくやった。皆、今日の動きは悪くなかったぞ」


 夕日に照らされながら、彼はいつもの笑顔で、いつも通りの完璧な騎士団長として部下を労った。


 誰も、彼が今日一日、何を考え、何を悟り、どれほどの痛みを飲み込んだのかに気づく者はいない。


 その夜。


 執務机に向かいながら、レオナルトは一つだけ、自分の中で決意を固めた。


(傍にいる。……それだけでいい。あの令嬢が、私の前で笑っているのを見られるなら、それだけで)


 羽ペンが、静かに紙の上を滑る。


 勝ち目がないからと言って、逃げ出すつもりは毛頭なかった。


 負けると悟りながら戦い続ける方法を、騎士団長は誰よりもよく知っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ