第10話 モブ令嬢には、敵が多い
王都の迎賓館で開かれた、大規模な茶会形式の集まり。
私は今日も、氷の公爵グレアム=ヴァルトシュタインの同伴者として、華やかな会場の端に立っていた。
「少し、要人との挨拶を済ませてくる。ここを動くなよ」
グレアムがそう言い残して貴族の波に消えた直後。
ルカはほっと息を吐き、壁際に並べられた色とりどりのスイーツコーナーへと視線を向けた。
(よし。今日こそ壁際でひっそり過ごすぞ。目立たず、関わらず、美味しいお菓子だけを食べる。完璧な計画だ)
そう意気込んで、ずらりと並んだ鮮やかなマカロンに手を伸ばそうとした時。
ふと、今日の空気がいつもと違うことに気づいた。
令嬢たちの悪意が、じわじわと形になって、私に向けられていたのだ。
最初は、すれ違いざまの些細な一言だった。
「あら、またいらっしゃったの。随分と居心地が良いのね」
扇子で口元を隠した令嬢が、棘のある声で通り過ぎる。
(ごきげんよう)
ルカは完璧な社畜スマイルを作り、華麗にスルーした。クレーム対応の基本は「受け流し」である。ここで反論すれば泥沼になることは、前世の経験から嫌というほど学んでいた。
しかし、悪意は次第に露骨になっていった。
お茶会の円卓に座ろうとすると、なぜかルカの座る椅子の両隣だけが、あからさまにぽっかりと空けられていたのだ。誰もルカに近づこうとないし、目を合わせようともしない。
(……あ、ラッキー。広々使えるし、隣に気を遣わなくていいじゃん)
前向きに解釈しようと努めたが、遠巻きにクスクスと笑い声を上げる令嬢たちの視線は、無数の針のように肌を刺してきた。
気にしないふりをしていても、内心はじわじわと削られていくのがわかる。
そして。
円卓の向かい側に座った、とりわけ派手な真紅のドレスを着た令嬢が、周囲に聞こえるような声で言い放った。
「それにしても、名もなき男爵家の三女が、公爵閣下の同伴者だなんて。笑い話にもならないわ」
「ええ、本当に。どうせ、あの恐ろしい閣下の何か卑劣な弱みでも握って、無理やりお側に侍っているんでしょうね」
「身の程知らずにも程があるわ。鏡を見たことがないのかしら」
はっきりと、ルカという存在そのものを貶める言葉。
ルカは、手に持ったティーカップを口に運んだまま、笑顔で固まった。
(笑顔、笑顔。社畜時代に、理不尽な顧客から理不尽な理由で一時間怒鳴られ続けた時と同じ顔をすればいいんだ。ここで泣いたり怒ったりしたら、相手の思う壺だ)
心の中でそう呪文のように唱え、口角を必死に引き上げる。
誰も自分を助けてくれないことなんて、ずっと前から知っている。自分はモブなのだから。
でも。
ティーカップの取っ手を持つルカの指先は、カチャカチャとソーサーと磁器を鳴らし、自分でも制御できないほど、小刻みに震えていた。
──その時だった。
「……行くぞ」
頭上から、氷点下の声が降ってきた。
振り返るよりも早く。
ルカの隣の、あからさまに空けられていた空間に、巨大な影が音もなく立ち塞がった。
グレアムだった。
遠くで重鎮たちと話し込んでいたはずの彼は、一瞬でルカの異変に──変わらないように見える貼り付いた笑顔と、震える指先に気づき、会話を打ち切って戻ってきていたのだ。
彼がルカの隣に立った瞬間、円卓を囲んでいた令嬢たちが、ひっ、と短い悲鳴を上げて一斉に口を閉ざした。
先ほどまでの優越感に浸った顔が、一瞬にして恐怖に染まる。
グレアムは何も言わない。
ただ、先ほど「弱みを握った」とルカを嘲笑っていた派手な令嬢を、絶対零度の目で見下ろした。
氷の刃のような、殺意すら孕んだ一瞥。
「ひっ……!」
令嬢は血の気を失い、ガタガタと震えながら深く俯いた。扇子を持つ手が小刻みに震えている。
グレアムはそれ以上彼女たちを相手にせず、ルカに向き直ると、いつも通りの低い声で言った。
「行くぞ」
「えっ、もう帰るんですか?」
ルカは驚いて彼を見上げた。
「用が済んだ」
「用が済んだ……?」
(でも閣下、さっきまですごく偉そうな大臣みたいな人と、大事な挨拶回りの途中だったはずじゃ……)
ルカの疑問には答えず、グレアムは彼女の背中にそっと手を添え、逃げるように──いや、これ以上ルカを悪意に晒さないように守りながら、静かに会場を後にした。
*
帰りの馬車の中。
二人きりの、静かな空間。
石畳を転がる車輪の音だけが響く中、しばらく重い沈黙が続いた。
やがて、グレアムが前を向いたまま、ぽつりと言った。
「……すまなかった。私が場を離れたせいで、不快な思いをさせた」
氷の公爵の口から出た、意外な謝罪の言葉。
ルカは驚いて、慌てて首を振った。
「いえ! 謝らないでください、閣下はお仕事だったんですから。私の方こそ、すみませんでした。あんな空気にしてしまって……。私のことは私でどうにかしないと、これ以上閣下にご迷惑をかけるわけには」
自分はただのモブであり、契約の同伴者だ。
公爵の顔に泥を塗らないよう、自衛くらいは自分でしなければ。そう思って出た申し訳なさからの言葉だったが。
「迷惑だと思ったことは、一度もない」
グレアムが、ルカの言葉をぴしゃりと遮った。
沈黙。
彼はゆっくりとこちらを向き、氷のように冷たい、けれどどこまでも真っ直ぐな青い瞳でルカを射抜いた。
「お前に向けられる悪意は、全て私への悪意だ」
「……え?」
「私が処理する。お前が一人で抱える必要はない」
断言だった。
軍神としての威厳と、一人の男としての、不器用で、ひどく重たい保護欲。
ルカは、何も言えなくなり、ゆっくりと窓の外へ顔を向けた。
彼からは見えない角度で、視界が少しだけ潤む。
(……『私が全部処理する』。そんな言葉を私に言ってくれる人が、これまでの人生にいただろうか)
じわり、と胸の奥が熱くなる。
一人で耐えるのが当たり前だった。理不尽を飲み込むのが仕事だと思っていた。
そんな自分を丸ごと肩代わりしてくれるような言葉に、ルカの心は激しく揺さぶられ──そして、一回転して変なところに時着した。
(……待って。これって、前世で言うところの『窓口の一本化』じゃない?)
ルカは、窓に映る自分の顔を凝視した。
(絶対そうだ! 閣下は、私が勝手に各方面と揉め事を起こして、事態を複雑化させるのが面倒なんだ。下っ端が独断で動いて火に油を注ぐのを防ぐために、『全てのクレームは本社の法務部を通せ』って言ってるんだわ!)
なんという徹底したリスク管理。
なんという完璧な危機管理体制。
(普通に考えたらそうよね。男爵家の娘が公爵の名前を背負って喧嘩なんてしたら、後始末が大変だもの。閣下は私を守ってるんじゃなくて、公爵家のコンプライアンスを守ってるんだ!)
そう結論づけると、ルカの胸の熱さは、急速に冷めた「納得」へと変わっていった。
「……ありがとうございます、閣下。ご指示の通り、今後は独断での対応は控え、全てのトラブル対応は閣下へ『報・連・相』させていただきます!」
ルカが涙を拭い、シャキッとした顔で敬礼に近い角度でお辞儀をすると、グレアムはわずかに目を見開いた。
「ほう、れん……?」
「はい、報告・連絡・相談です! リスク共有は組織の基本ですから!」
力強く宣言したルカに、グレアムは何か言いかけて口を噤み、ただ深くため息をついた。
馬車の中の空気は、先ほどまでの重たい糖度を失い、なぜか「深夜のオフィスのような連帯感」に包まれていた。
──攻略本に載っていないモブ令嬢は。
氷の公爵が差し出した特大の愛を、全力で「業務命令」として受理してしまったらしい。
10話まで読んでくださり、本当にありがとうございます!
グレアム閣下が焼き菓子を自分で作っていたこと、ルカはまだ「エマさんから聞いた」程度の認識で済ませています。本当に鈍感です。
10話まで来ると、物語が少しずつ動き始めます。ルカのポンコツっぷりは変わりませんが、周囲の世界が少しずつ「ルカを放っておかない」方向に動いていきます。
ここまで読んでくださった方へのお願いがあります。
・ブックマーク──更新通知が届きます
・評価──作者が飛び跳ねて喜びます
・感想──作者が泣いて喜びます
なかでも感想は、作者の一番の原動力です。一言でも嬉しいです。
これからも、ルカと一緒によろしくお願いします!




