タイトル未定2026/03/22 19:58
その通帳は、雨の日の夕暮れ、地下鉄のベンチにぽつんと置かれていた。
三枝は、真面目だけが取り柄のしがないサラリーマンである。会社では手柄を上司に横取りされ、家では妻の愚痴の聞き役に徹する。そんな彼がふと手にしたのは、紺色の地味な表紙の冊子だった。
表紙には金文字で『徳の通帳』とある。
中を開くと、そこには奇妙な印字があった。
「電車で席を譲る:+5」
「道端のゴミを拾う:+2」
「同僚のミスをフォローする:+10」
三枝がこれまでの人生で積んできた「善行」が、すべて数値化されていたのだ。
最後のページには、太字でこう記されている。
『徳は、貯めるだけでなく「使う」ことも可能です』
三枝は半信半疑で、心の中で念じた。「この雨を止ませてくれ」。消費ポイント、マイナス50。
その瞬間、土砂降りだったはずの雨が、嘘のようにピタリと止んだ。
三枝は震えた。これは本物だ。自分はついに、理不尽な世界に報復する術を手に入れたのだ。
それからの三枝は変わった。
これまで以上に必死に善行に励んだ。お年寄りには親切にし、ボランティア活動にも精を出した。すべては「徳」という名の通貨を貯めるため。貯まったポイントを使えば、自分を馬鹿にした上司を左遷させ
ることも、宝くじを当てることも容易かった。
だが、ある日、通帳の残高が急激に減っていることに気づく。
何も願っていない。それなのに、ポイントが猛烈な勢いで削られていくのだ。
三枝は慌てて通帳の裏表紙を捲った。そこには、小さな注釈が付け加えられていた。
『※善行には常に「悪意」の利子が伴います。他者の不幸を願って徳を消費した場合、その倍の徳が「業」として徴収されます』
気づけば、三枝の周囲で異変が起きていた。
自分が左遷させた上司は、絶望のあまり失踪した。宝くじで得た大金は、妻の浪費と投資詐欺で消え、残ったのは莫大な借金だけ。
三枝が「善いこと」をすればするほど、その裏側で、誰かが決定的な破滅へと追い込まれていく。
三枝は必死でゴミを拾い、必死で笑顔を振りまいた。
だが、その心にあるのは純粋な慈悲ではない。「早くポイントを貯めて、この地獄を脱したい」という強烈なエゴだ。
「違うんだ、俺は善いことをしているはずだ!」
叫ぶ彼の足元で、拾い上げた空き缶が真っ黒な液体を吐き出した。
通帳の残高が「ゼロ」を表示した瞬間、世界が反転した。
三枝の目の前には、かつて自分が「徳」を使って蹴落とした人々が、同じ『徳の通帳』を手に並んでいた。彼らは一様に冷ややかな笑みを浮かべ、三枝を指差して念じている。
「……消費ポイント、マイナス全額」
三枝の身体が、音を立てて崩れ始めた。
善と悪は、一枚の紙を裏返すようなものだ。
あなたが積んでいるその「徳」は、本当に真っ白なものだろうか。
私たちは子供の頃から「良いことをすれば報われる」「お天道様が見ているよ」と教わって育ちます。
それはとても美しく、大切な道徳です。
けれど、もしその「善意」が目に見える数字になって、買い物のように自由に使えるようになったらどうなるのでしょうか。




