第四章 小学生前期
私は小学生になった。
1年の担任は藤原先生と言った。恐い先生という記憶がある。
足を机の中に入れて座っていたら、こっぴどく叱られた。
当然、私が悪かったのだが、廊下に立たされた思い出がある。
また、私はおせっかいだった。友達が勉強を解らないでいると教えてあげた。
だが、説明しても唖然としている彼女に私はよく切れた。
先生はまたまた、私を叱った。「怒るくらいなら教えなくてもよろしい!」
けれども毎日、この調子を繰り返したのだった。
1年生は2年生のかっこうの餌食だった。
1年間1番下できた彼らは、よく新1年生をいじめた。
ある日私は、教室に入ってきた2年生の顔にザリガニの死骸を投げた。
彼は泣いて友達に助けを求めた。が、先生が来て喧嘩は中断された。
その日の帰り、5人の2年生が私の前に立ちはだかった。
私は喧嘩をした。が、1対5なのでとても勝ち目が無かった。
負けるのは悔しいので、帽子に唾を吐きかけ、手足に噛み付いた。
全員のセーターの首を、思いっきりひっぱって伸ばしてやった。
私も泣いたが、全員泣かしてやった。
私がまだ1年生の時は、まだ給食に脱脂粉乳がでた。
コーヒー牛乳・牛乳は好きだった。が、脱脂粉乳の日は…
お残しをすると叱られるので、鼻をつまんで飲んだ!
ただの脱脂粉乳の日はまだ我慢が出来た。
コーヒー味の脱脂粉乳は最悪だった。
鼻をつまんでも飲めなくて、泣きたくなった。
2年生になって脱脂粉乳が無くなってほっとした。
これで、給食が楽しくなった私だった。
私はバレエを続けていた。やがて“トゥシューズ”を履くことになった。
嬉しくて嬉しくて、買いに行く日を指折り数えていた。
私は、昔から病院に定期検診に年一回行っていた。
足が悪いとは思っていたが、そこまで悪いとは思わなかった。
母によると“先天性股関節脱臼”なのだそうだ。
そう言えば、赤ん坊の頃の写真はギブスを足にはめていたような…
で、医者曰く「その後遺症で足が45度しか開かないのに、
バレエを続けているといつか悲しい思いをする。今の内に止めなさい!」
らしい… 母に、医者に聞いて考えた。ひたすら考えた。
が、結局答えは出ないまま、トゥシューズは亡き者と化した…
私には幼馴染の男の子がいた。“やっちゃん”と言った。
よく一緒に遊んだ。彼も正義感が強く気が合った。
ある日二人で公園に出かけた。ふと公園の横の駐車場で袋を見つけた。
私たちは、門をすり抜けその袋を手に取った。セメントだ!
私たちは急いで帰って、バケツを取ってきた。
バケツにセメントを入れて持って帰った。
やっちゃん家の前でセメントで遊んだ。そう粘土の感覚で…
どれくらい時間が経ったかは覚えていないが、私たちは真っ白だった。
それを見つけたやっちゃん家の事務員さん。急いでお風呂を沸かした。
私たちはお風呂に掘り込まれ叱られた。
「あんた達!!固まったらどうする気?!」
そんなの解っていたら、していない…
私の家にはお風呂が無かった。だから、お風呂屋さんに行った。
いつもは母とか、一人で行くのだが、ある日父と行く事になった。
私は父と行くのが嫌だった。父と行くと男の友達に会う。
それが何より嫌だった。(女の子なんだから当たり前!)
父と入ると、6年生の男の子が居た。
端っこで目立たないようにコソコソ洗っていた。
父が、「そんな洗い方はあかん!」とゴシゴシこすった。
「お父ちゃん、声大きい」と思った瞬間その子は湯船に落ちた。
何があったかは、コソコソ隠れていた私には判らない。
ただ、その子が頭から血を出して泣いて帰って行くのを見ただけだ。
父は私に言った。「eはあんな子に成るんじゃないぞ!」
私は思った。「成りたくねーよ!!」と…
小学2年生の時の担任は住友先生といった。
穏やかで優しい先生だった。国語の時間はよく本を読んでくれた。
印象に残っているのが“銀河鉄道の夜”だ。
長い話だったので、何日間かに分けて読んでもらった。
毎日が楽しかった。だが、先生は身体が弱くてよくお休みをした。
「先生が来ないと分かっていたら学校を休んだのに」
と思った私だった…
幼稚園時代に続いて、相変わらずよくお腹が痛くなった。
けれどもやはり“仮病”扱いだった。
教頭先生は“仮病姫”とあだ名を私に付けた。
遅刻をする度に教頭先生は「仮病姫、よく来たなぁ!偉いぞ!!」
と誉めてくれた。が、いくら“姫”でも、この名は嬉しくなかった…
だって本当に仮病だと、人に思われるからだった。
私は用務員のお兄さんと仲が良かった。
昼休みや放課後、用務員室に行くとおやつをくれた。
もらうだけだと申し訳ないので、私は掃除を手伝った。
運動場の枯れ葉拾い、水槽の掃除 etc…
教頭先生はそんな私を、とても良い子だと思っていたらしい。
ギブ&テイクだとは、考えもしなかったのだろう。
近所に文房具店があった。そこの女の子とよく遊んだ。
その店の横にはいつも、要らなくなった紙くずがあった。
文房具店の女の子と私と、他にも2人ほど居たと思うが、
車の陰でゴミを燃やして遊んでいた。
ゴミを取りにいった子らが喧嘩を始め、彼女らの横にあった材木が倒れた。
まともに下敷きになった私は大泣きした。
文房具店のおばさんが慌てて出てきた。
おばさんに連れられ、家に帰った私は母に叱られた。
「何で材木の近くで遊ぶの!危ないでしょ!!
見てみ、こんな怪我して!!自分が悪いんやから泣きな!!」
泣くなと言われて止まる涙なら苦労はしない…
しかし、火遊びがばれなかったのは幸い(?!)だった。
3年生の時の担任の先生は男性だった。谷先生と言った。
その先生はよく私たちと遊んでくれた。
共働き家庭の子がほとんどなので、放課後にドッヂボールをしてくれた。
日曜日や土曜日には、公園に遊びに連れて行ってくれた。
学級文庫には“サイボーグ009”が並んでいた。
私は先生が大好きだった。
ある日遊びに行った帰りに先生に会った。
先生は「パッフェでも食べるか?」と言ってくれたがやはり先生だ。
結局は“ペロペロキャンディ”を買ってもらった。
それでも、私はとても嬉しかった。
私は毎日、先生の後を追っかけていた気がする。
ある日転校生が来た。Akikoと言った。
彼女は私の幼馴染を好きだったようだ。
ことごとく私に意地悪をしてきた。
あまりにひどいので、だんだんやっちゃんと遊ばなくなった。
友人の誕生日会の日、いくら待っても彼女は来なかった。
「何であんな子呼んだのよ?」と思いながら誕生日会は進んだ。
誕生日の子は食堂の子で、お父さんがおでんやご馳走を作ってくれた。
みんなで楽しく過ごした次の日、Akikoに私たち女の子は詰め寄った。
「昨日ねぇ、プレゼント買いに行ったら先生と会ってぇ、
ずっと先生と一緒に買い物したのぉ!」全員が切れた。
切れてあきれて、女の子達は彼女を“はみご”にした。
Akikoはますます、やっちゃんにベッタリなった…
母はある日仕事を辞めた。
オーダーメイドは廃れてきたのと、糖尿病が良くなかったからだ。
その年に初めて“お誕生日会”なるものをしてもらった。
今までおよばれはしても、仕事場メインの我が家には来て貰えなかった。
そのせいか、私より母がかなり頑張ってくれた。
鶏の丸焼きを買い、ケーキも大きな物を買ってもらった。
母が糖尿病の為、そんな物にあまり縁がなかった私。
すごく友達に自慢をしたが、友達には当たり前だったかもしれない…
私は一人っ子だったので、母は姉妹をと考えていた。
だが、母はもう50歳に手が届く年になっていた。
そこで、里子を引き取ろうと思った。
連絡が来て、福祉施設に私たちは行った。
里子候補の女の子は、出ては来なかった…
知らないおばさん(母)と、知らない子(私)は嫌だったようだ。
待つ間に仲良くなった男の子が言った。「僕行ってもいいよ。」
施設長と母は話し合った。結局その子が良ければと家に帰る事になった。
帰りに外食をした。私はオムライス、その子はホットケーキを頼んだ。
その子には量が多かったようで、お姉ちゃんぶって私は残りを食べた。
すっごく嬉しくて、その子と手をつないで帰った。
家に着いて彼は大泣きした。なぜ?!そこには父がいた。
結局父が恐いと言う事で、彼は施設に帰った。
里子話はそこで終わった…
小学生時代は、先生ありきの生活だったと思います。
当時の住まいは、商業地域で両親共働きが当たり前の場所でした。
子どもの寂しさなどを、当時の先生方はかなり考えてくださっていたと思います。