第二章 幼児期
私は3~4歳の時、母方の祖母に預けられた。
両親が共働きだったため、私は仕事の邪魔になるからだ。
母は預ける事に抵抗したが、父は決めた。
母方の祖母は良い人だったが、怖かった。
明治生まれの頑固者だった。
私は、ガスも無い(薪生活)水道も無い、その村で1年間暮らした。
祖母は教育熱心な人で、私を手伝いに参加させてくれた。
私は頑張った。釜戸でご飯を炊いている時見張っていた。
お風呂を沸かしている時、言われた時間には報告した。
私は祖母が好きだったが、それでも早く母の元に帰りたかった。
だから、出来る限り頑張った。
だが、元来の性格のせいで、祖母は大変だったと私は思う。
祖母の住んでいる村はお店がほとんど無かった。
酒屋と、魚屋と、日曜雑貨の店だけだった。
週2回来てくれる“じょんじょさん”は、わたしの憧れだった。
テレビで流れるCMのお菓子を持って来てくれる。
私は“じょんじょさん”が大好きだった。
だが、祖母は「そんなもの毒!!あかん!!」と言って、
私の欲するお菓子などは、絶対に買ってはくれなかった…
明治時代の女は厳しい!子供は甘やかさない!決して…
普通は孫には甘いと言うが、彼女は別!
私は、祖母が好きだが恐かった…(親のように責任があったからかも…)
その後、“じょんじょさん”は私のストレスを増やすだけの人となった。
祖母に預けられている時、お盆の行事があった。(1回は来るわな当然!)
無くなった方のお宅にお邪魔して、竹のわからん物に水をかけて帰る行事だ。
私はお菓子がもらえるので嬉しかった!
だが、祖母は危険な行事と私を諭した。
まずは、マムシだ。田舎の夜道を歩くと噛んでくる。
他にも色々な虫の餌食となる数時間…
私は浴衣の下にTシャツ、靴下履いて、仲良しの遠縁のお兄ちゃんと廻った。
eちゃん変だよと、言われながら。
祖母に預けられていた時、保育園に通っていた。
保育園だから当然のように昼寝の時間があるのだが、私は寝ない子だった。
祖母との暮らしにより、寝る時間より遊びたかったのだ。
その保育園では“いじめっこ”が居た。
いじめられるのは私の遠縁の子だった。
ある日、四人がけのブランコに彼が乗ろうとしていじめられた。
“いじめっこ”は彼に乗るなと言う。少し彼は目が悪かった為、それが移るというのだ。
ウィルスでも無い障害であるものが、移るなどナンセンス!
私は激怒して、いじめっ子をブランコからひきずり落とした。
そいつは軽く怪我をしたが、遠縁の子の心の傷はもっとひどかった…
いじめっ子にもっと痛手を!と感じたのは私が鬼だからだろうか。
保育園では、当然のように毎年学芸会がある。
日曜日だったので、両親が見に来ると言う。
私は頑張ってメインの大太鼓をゲットした。
当日は台風による大雨だった。が、学芸会は始まった。
昔のことだから、警報が出ても学芸会をしたのだろう。
だが、交通はストップする。私の番になっても両親が来ない。
舞台に立って悲しくなったその時、マイクを持った先生が大声を出した!
「eちゃんのご両親が来られました!!」
私は嬉しくて、いつも以上にしっかりと大太鼓を叩いた。
(現実はドラマよりドラマチック…)
祖母は、早寝早起きの人だった。
けれども、家事があると遅くまで起きていることがある。
ある日の夜、私がトイレに起きると、台所に明かりがついていた。
「シャシャッ」という音がするので。何をしているんだろうと、台所を見ると…
長い髪をたらして、寝巻き(パジャマでは無く寝巻きです!)姿の女性が…
ひょぇ~!!となって逃げ出そうとしたら、声をかけられた。
「eどうしたんだい?」
そこには、お風呂上りのままの祖母がいた。
私が起きていると危ないので、包丁を夜に研いでいたらしい。
子供心にマジで怖かった…
祖母と二人暮らしの為か、我が家はよく貰い湯をした。
親戚の家へお邪魔し、お風呂に入れてもらうのだ。
この貰い湯が私は好きだった。
よその子なのでおやつが出るからだ。
飴だったり、ガムだったり… さすがにもらい物なので、祖母も止めなかった。
嬉しくて毎日でも貰い湯をしたくて、親戚の家を夕方転々とした。
すると、必ずどこかで声をかけてくれるから。
親戚の人に、祖母はずいぶん気を使ったと思う。
だが、子供の頭の中は「貰い湯」一色だったんだろう。
祖母の家には大きな井戸があった。
とても大きいので、危ないからと鉄板で蓋をしてあった。
「絶対に、井戸に近づいたらあかん!!」と言われていた。
私は真面目に言い付けを守っていた。
だがある日、友達に“エエカッコ”をしたくて蓋に上って見せた。
ギィギィ鳴る鉄板の蓋の上を歩いていると、一瞬にして景色が変わった!
そう!落ちたのだ!
私は必死に上がろうともがき、手足を動かした。
友達は祖母を呼びに走った。
私は何とか水面まで上がり、飛んで来た祖母に助けられた。
その時叱られたのかどうかは覚えていない… よほどのショックだったのだろう。
井戸の蓋は風化して脆くなっていたんだと思う。
その後、私は大きくなっても、井戸には決して近づかなかった。
その事故があってから、程なく私は両親の元に帰った…
両親が共働きで、仕事の邪魔になると母方の祖母に預けられました。
この母方の祖母はめっちゃ働き者で、特老に入ってからも最後までお手伝いをしていました。
見習わなければ!