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第三章 幼稚園期

母が仕事を辞めた訳ではないのだが、自宅通いの幼稚園に入った。

私は、入園した当時のクラスの先生が大嫌いだった。

彼女は“えこひいき”をした。PTA役員をしている親の子供だけを可愛がった。

当然、役員では無い母を持ち、元来の頑固さも加わりかなり私は嫌われた。

彼女はあからさまな態度に出た。母にこう言ったのだ。

「eちゃんはいつも、私の話している途中にそっぽ向いている。

だから、今言ったことを言いなさいと言うと、話の内容は答える。可愛くない!」

私はその時の話を聞いて、「この人バカなの?」と感じた。

まぁ、ただ、嫌いだから彼女を見たくは無かっただけなんだが。


ある日、私がブランコに乗っていた時、急に友達が前に飛び出しぶつかった。

それを見ていた先生は私にこう言った。

「危ないでしょ!ブランコを止めなさい!」

彼女は幼稚園児の私から見ても馬鹿だった。

動いているブランコが、簡単に止まる訳が無い。私に飛び降りろとでも言うのか。

どちらかと言うと、飛び出す方が悪いのだ。

私は園長先生に言った。「注意したあの先生大嫌い!!」

彼女は次年度には、幼稚園から去っていた。(当然の報いだ)


通っていた幼稚園は、放課後お絵かき・ピアノ・バレエを教えてくれた。

と言うより、幼稚園を借りてそういう教室が開かれていた。

すべてを習った。(帰ってこられると困る母からすべてを習わされた)

ピアノは弾いている途中で眠るので、先生から辞めて欲しいと言われた。

バレエはとても好きで続いた。

お絵かきは、よく展覧会で入賞や佳作になった。


頭はいとこほど良くは無かった。

だからだと思うが、母は父方の祖母に私の作品をかなり自慢していた。

幼稚園の翌年度の担任の先生は、和田先生と言った。

とても優しく、賢い先生だった。彼女は“誉めて育てる”の教育者だった。

彼女は私を可愛がってくれた。放課後のお手伝いにも参加させてくれた。

私は先生が大好きで、毎日放課後に残ってお手伝いをした。

文鳥の世話(幼稚園児では無理なので、本当は先生のお仕事)。

お絵かき板(子供の作品を貼る掲示板のような物)の貼り替え。

先生の役に立つと思うと楽しかった。


先生は母にこう言った。

「前の担任に聞いていたので、やりにくい子だと思っていました。

お母さん、お手伝いの上手な可愛い子供さんですね!」

母は先生に感謝した。(私は正直者なだけだ…)


前年度の担任の時にはよく腹痛になった。

だが、和田先生の時代は楽しかった。

たまに痛くはなるが、彼女は仮病扱いをしなかった。

母も前担任も、私が熱も無いのにお腹が痛いと言うと仮病扱いをした。

何が原因なのかは医者でも判らなかった。今で言うと「自律神経失調症」かと。

和田先生は母に言った。「eちゃんお母さんが忙しくて寂しいんです。」

そうなのかどうなのかは、私には判らない。(幼児教育を勉強しておりません)

でも本当にお腹は痛かった。涙がでるほど…


先生は遅れて幼稚園に行っても、玄関で待っていてくれた。

母が到着時間を知らせていたらしい。

けれども、和田先生ほどの教育者は、私の時代はほとんど居なかった…

まぁ、現在ほど心理学が重視されていなかったのかも知れない。

この心理学が発達したので、私の現在の仕事はウハウハになったのだが…


お休みのある日、いとこ達と動物園に行った。

ライオンの赤ちゃんがリードで散歩をしていて、触ろうと近寄った私。

父はあわてて、私を引き離したらしい…

その後、私ではないのだが、その日にいとこが迷子になった。

彼女は他人を家の父と間違えて、しっかりその人のコートを握っていたらしい…

母は言った。「あれがeだったら、お父さんは叱ったろうねぇ。」

まったくだ。ちなみにいとこは父からは叱られなかった。


私は両親に厳しく育てられた。

間違いをしては許されない子だった…(本当の事です!!)

お休みのある日、母が仕事なので父と出かけた。

父は休日出勤の日だった。駅から自転車に乗って仕事場である役場に。

父はちょっと“えらいさん”だった。

父の部下の人は、私を可愛がってくれた。(チヤホヤされた…)

その時、何人の人と結婚の約束をしたかは覚えていない…


私は幼稚園のお友達で、mちゃんが好きだった。

彼女も一人っ子で、よく二人で「姉妹だったらよかったね」と言っていた。

彼女はとてもピアノが好きで、レッスン中に眠る私とは違ってものすごく上手だった。

家の事情がありオルガンで練習をしていたのだが、鍵盤数が足りなかった。

彼女のご両親は頑張って、彼女のためにピアノと家を購入した。

彼女が引っ越す時に、寂しさで引っ越したいと真剣に親に言った私だった。


幼稚園のお友達で、sちゃんという子がいた。

彼女のお母さんは、保護者のPTAさんだった。

彼女はピアノ・バレエ・お絵かきの他にも、琴・日本舞踊を習っていた。

あまり仲良くは無かったが、たまに遊んだ。

彼女の家で鬼ごっこをした時、私は鬼である彼女から逃げていた。

足が軟らかいものに当ったので見ると、

ハンバーグの入ったトレーに足を突っ込んでいた…(彼女の家はお肉やさん)

そのハンバーグの行方を私は知らない…


バレエの発表会を兼ねて、運動会で踊った。

衣装はピンク色で、キラキラのスパンコールがいっぱい付いていた。

まるで“プリマドンナ”のようだと悦にいった。

だが悲しいことに、発表が終わった後その衣装は、先生に徴収されたのだった…

とてもとても欲しかった私は、母におねだりしたが、

もちろん買ってもらえる訳が無かった。


幼稚園のクリスマス会には「イエス誕生」の劇をした。

私はもちろんマリア様がしたかった。が、投票でmちゃんになった。

仲良しのmちゃんがなったので、マリア様は諦めた。

かといって、牛や豚やその他大勢の役は嫌だった。

迷っているうちに、ストーリーテラーしか無くなっていた。

舞台に上がることすら無いこの役に、私はショックを受けた…

それに気付いた先生が「覚える事が多くて大変な役ね。

eちゃんだからきっと上手に出来るわ。」と言った。(先手必勝だな!)

私は台本を完璧に覚えて、大きな声でこの役をこなした。(目立ちたかった!)

今も大声なのは、この影響かも知れない…


幼稚園の給食は美味しかった。

母が糖尿病だった為、洋食を食べる機会がほとんど無かったからだ。

特に好きだったのはカレーライスとハヤシライス。

必ず一番先に食べておかわりをした。

おかわりの常連になった私に、園長先生の奥さんは言った。

「絶対におかわりに来るのね。お家でもいっぱい食べるの?」

「ううん。食べさせてもらわれへん。」

この会話で母はひどい誤解を受けたに違いない…


幼稚園の近くにボウリング場があった。

幼稚園は集団登園だったので、一度家に帰ってからまた行った。

ボウリングをする訳ではなく、そこに置いてあるゲームに夢中だった。

だが、ボウリング場には、幼稚園児一人では入れてもらえない。

私は大柄だったので聞かれると「小学生」と答えた。

幼稚園の登園には、ボウリング場の人に会わないよう気を使ったのは言うまでも無い。


ある日、母がお客様の所へ“仮縫い”に行った。(彼女は服飾デザイナー)

夜になっても帰って来ない母を心配して、駅まで迎えに行った。

母が家に着いてびっくりしたのは言うまでもない。

私が居なくなっていたからだ。母は近所を訪ね歩いた。

しかし、行方が分からなかったので仕方なく、警察に行くことにした。

警察に行くまでに駅がある。そこで私を発見した母だった…


私の両親は仲があまり良くはなかった。

その事でよく家庭裁判所に行った。

母が話をする間、私はお絵かきをや、箱庭を作って遊んだ。

箱庭を作れるのがそこしか無かったので、私は裁判所に行くことが好きだった。

だが、私の箱庭はことごとくけなされていたようだ。

心理学的な面では、決して誉められない結果だったようだ…


子どもは、親の事情を少し分かっていても、把握することは難しいと思います。

この文章に共感していただければ幸いです。

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