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夕暮れの魔法と、私の選択~完璧な異世界と、本当の居場所~

作者: ざつ

人は誰しも、現実の厳しさから逃れたくなる瞬間があるのではないでしょうか。学校での人間関係、勉強のプレッシャー、あるいは些細な友人との諍い。そうした日々の小さな、しかし確かな重みが、時に私たちを立ち止まらせ、どこか遠い場所へと思いを馳せさせることがあります。


この物語の主人公、アオイもまた、そんな思春期の少女の一人です。

親友との些細な喧嘩がきっかけで、彼女の心はひどく傷つき、現実から逃げ出したいという強い願いを抱きます。


そんなアオイの前に現れたのは、一匹の不思議な黒猫。その猫に導かれるように、アオイはまさに「夢のような」異世界へと足を踏み入れます。そこは、何の不満も不安もなく、ただ穏やかな時間が流れる、彼女にとっての理想郷でした。


しかし、本当に「完璧な場所」が、私たちにとって幸せなのでしょうか? 刺激も苦難もない世界で、アオイの心に芽生えたのは、意外な「物足りなさ」でした。

この物語は、異世界での体験を通して、アオイが自分にとって本当に大切なものは何か、そして、なぜ現実の世界で「頑張る」ことが必要なのかを見つけていく、心の旅を描いています。


これは、誰もが経験するであろう「心の逃避」と「自己との対話」の物語です。


読み終えた時、きっとあなたの心にも、温かい光が灯ることを願っています。

どうぞ、アオイの小さな冒険にお付き合いください。


薄紫色の夕焼けが空を染める頃、公園の片隅で、アオイは一匹の黒猫と出会った。


夕暮れの光を吸い込むような真っ黒な毛並みに、まるで上質な琥珀を溶かし込んだような瞳が印象的な猫だった。

人懐っこく、警戒心なくアオイの足元にすり寄ってくるその猫に、アオイは吸い寄せられるように手を伸ばした。


柔らかく、温かい毛並みに触れた瞬間、アオイの脳裏にチカチカと奇妙な光が瞬く。

それは、まるで万華鏡を覗き込んだかのような、複雑でいて鮮やかな光の渦だった。


視界が急速にねじれ、公園の景色が音もなく溶けていく。


挿絵(By みてみん)


次に目を開けた時、アオイの目の前には信じられない光景が広がっていた。


見慣れた公園の遊具は影も形もなく、代わりに目に飛び込んできたのは、見たこともないほど巨大な植物が天に向かって伸び、色とりどりのキノコが怪しく、しかし優しく輝く、奇妙で幻想的な森だった。


空には三つの月が、それぞれ異なる色合いで、ぼんやりと光を放っている。


耳慣れない鳥のさえずりは、まるで澄んだ鈴の音のようで、心地よく響き渡った。


呆然とするアオイの足元には、先ほどの黒猫が、まるで全てを知っているかのようにすまし顔で座っていた。


「まさか、あなたが…?」


アオイは震える声でつぶやいた。


この猫が、自分をこの世界へ連れてきた張本人だと、直感的に理解したのだ。


黒猫はアオイの言葉に答えるように、静かに「にゃあ」と鳴いた。

その声は、アオイの心に直接語りかけるように、はっきりと響いた。


「ここは、君の望む場所かい?」


アオイは瞬時に、そして迷いなく答えた。


「はい…!ここにいたいです!現実の世界は、もう嫌なことばかりで…。親友のユイと喧嘩しちゃって、私が言いすぎたって分かってるのに、謝れなくて…。学校では、あの数学の先生がいつも怖い顔をしてるし、グループの作業もなんだか気を使うし、家では勉強しろってうるさいし…。もう、全部から逃げ出したいんです」


アオイの言葉を、黒猫は否定することなく、ただ静かに頷いた。


琥珀色の瞳は、アオイの心の奥底を見透かしているかのようだった。


「そう望むなら、しばらくここにいればいい」




黒猫に導かれるまま、アオイは異世界の森の奥へと進んでいった。


この世界は、アオイが夢にまで見たような、まさに理想の平和な世界だった。


地面には、どこまでも続くふかふかの苔が生え、足を踏みしめるたびに、まるで雲の上を歩いているかのような優しい感触が足の裏に伝わる。

苔の間からは、手のひらほどの大きさの、虹色の小花が咲き乱れ、そよ風に揺れるたびにキラキラと輝いた。


頭上を見上げれば、枝から透き通るような葉が何枚も垂れ下がり、その葉の間からは、淡く発光する綿毛がゆっくりと舞い降りてくる。

綿毛はアオイの肩に触れると、ふわりと消えていく。


森の奥には、湧き水が流れる小さな泉があった。

水は透き通り、底には七色の小石が敷き詰められている。


泉のほとりには、幹が真珠のように輝く木が生えていて、そこには見たこともない鳥が羽根を休めていた。

その鳥は、アオイが近づいても逃げることなく、澄んだ声で歌い始めた。

それは、まるでオルゴールのような、優しく心に染み渡るメロディだった。


空には常に三つの月が浮かび、昼も夜もなく、世界を優しく照らしていた。

昼間は青白い月と橙色の月が空に並び、夜になると紫色の月が加わり、幻想的な光景を作り出す。


この世界には、怒鳴り声も、悲しいニュースも、時間厳守のプレッシャーも、テストの点数もない。

ただ、穏やかな時間が流れ、アオイは心ゆくまでその平和を享受した。



最初の一見、アオイは夢見心地だった。


朝は小鳥のさえずりで目覚め、泉で顔を洗う。

昼は、不思議な甘い香りのする果実を食べ、午後は木陰で昼寝をしたり、虹色の小石を拾い集めたりした。

夜には、光るキノコの下で、黒猫の隣に座り、三つの月を眺めた。

悩みも、不安も、全てが遠い世界のことのように感じられた。




しかし、そんな理想的な日々にも、次第に微かな違和感が忍び寄ってきた。


最初は、泉の水があまりにも澄み切っていて、反射する自分の顔があまりにも穏やかすぎることが、どこか不自然に思えた。


次に、食べた果実の甘さが、毎日同じで、飽きがくるようになった。

どんなに美味しいものでも、毎日同じ味だと感動が薄れるものだ。


そして、小鳥の歌声も、最初は心地よかったけれど、次第に単調に聞こえるようになった。

いつも同じメロディで、いつも同じ調子。新しい歌を聞きたい、とアオイは無意識に望むようになっていた。


黒猫は、そんなアオイの変化を、じっと見つめていたようだ。

泉のほとりで、七色の小石を拾っていたアオイの足元に、黒猫は静かに現れた。


「ねえ、アオイ。この場所が、君が本当にいるべき場所なのかな?」


その問いに、アオイは少し迷った。

確かに、この世界は美しく、心地よかった。


だが、時折、ふとした瞬間に、物足りなさを感じるようになっていたのだ。


ユイと喧嘩した日のことを思い出し、あの時の自分の言葉が、ユイをどれだけ傷つけたか、今なら少し分かる気がした。


友達の、他愛ない話で笑い合う顔がちらつき、学校の廊下のざわめきや、部活動で汗を流した後の達成感を思い出したりする。


「もう少し、ここにいたいです。だって、あっちの世界は、ユイとの喧嘩もまだ解決してないし、あの数学の先生がいつも怖い顔をしてるし、グループの作業もなんだか気を使うし、家では勉強しろってうるさいし、テストの点数でガミガミ言われるし…。嫌なことばかりで、辛いんです」


アオイは、心に浮かんだ嫌なことを一つ一つ反芻するように呟いた。

猫はアオイの言葉に耳を傾け、再び静かに頷いた。


しかし、その琥珀色の瞳の奥には、何かを試すような光が宿っていた。




さらに時間が経った。


アオイは異世界での生活を満喫しているように見えたが、違和感は日に日に大きくなっていった。


泉の水は、やはりどこまでも澄み切っていたが、その水面に映る自分の顔が、まるで人形のように感情に乏しく見えた。

どんなに美しい花を見ても、どんなに心地よい風を感じても、心の奥底で感じる物足りなさが募っていく。



この世界には、喜びも、悲しみも、怒りも、驚きもない。

ただ、穏やかな「無」が広がっているだけだと、アオイは漠然と感じ始めた。


それは、アオイが望んだ「刺激のない平和」だったはずなのに、いつしか「刺激がない」ことが、アオイの心を蝕み始めていた。


ふと、アオイは考えた。


「でも、現実社会は嫌なことばかりだっただろうか…?」


確かに嫌なこともあったけれど、笑い合ったことや、嬉しかったこともたくさんあったはずだ。


ユイと、たわいもないことで笑い転げた日。

家族との温かい食卓で交わした言葉、友達とのおしゃべりで時間を忘れた放課後、難しい問題が解けた時の喜び、部活動でみんなと一つの目標に向かって頑張った時の連帯感。


それらは、決して「刺激がない」わけではなかった。


むしろ、感情が大きく揺さぶられる、かけがえのない瞬間だった。


この世界には、そうした「現実の温かみ」が、どこか欠けている。

それは、まるで、美味しくないけれど栄養だけはある食事を延々と食べさせられているような感覚だった。


アオイは、この世界の穏やかさが、次第に寂しさに変わっていくのを感じていた。




三度、黒猫がアオイに問いかける。


それは、アオイが真珠の輝く木の根元に座り、三つの月をぼんやりと眺めている時だった。


「アオイ、君はまだここにいたいかい?」


アオイは猫の琥珀色の瞳をじっと見つめた。


もう迷いはなかった。

異世界の美しさは色褪せてはいないけれど、もうここが心地よい場所だとは思えなかった。

心の違和感は、確かな「帰りたさ」に変わっていた。


「ううん、違う。ここは素敵だけど、私が本当にいるべき場所じゃない。私の家族も友達も、学校も、全部あっちにあるから。


 あっちには、確かに嫌なこともあるけれど、それと同じくらい、いや、それ以上に嬉しいことや楽しいこともたくさんあった。

 

 ユイとも、ちゃんと仲直りしたい。数学の先生は怖いけど、ちゃんと教えてくれるし、友達とは、ぶつかることもあるけど、その分、仲良くなれることもある。

 

 勉強も、大変だけど、新しいことを知るのは面白い。私、あっちで、ちゃんと頑張りたい」


アオイの言葉を聞いて、黒猫は満足そうに小さく「にゃあ」と鳴いた。

その声には、どこか安心したような、そして暖かさの混じった響きがあった。


黒猫の体が、再び淡い光の渦に包まれていく。


「そうだね。じゃあ、そろそろお別れの時間だ」


アオイもまた、その光に優しく包み込まれていく。

暖かく、懐かしい、そして少しだけ苦いような感覚。





次に目を開けた時、目の前には見慣れた公園の景色が広がっていた。

薄紫色の夕焼けはまだ空に残っていて、ブランコが風に揺れている。

まるで何もなかったかのように、日常がそこにあった。



黒猫の姿はどこにもない。


しかし、アオイの心には、異世界での体験と、自分の居場所を再確認した確かな想いが残っていた。


足元には、異世界で拾った七色の小石が一つ、キラリと光っていた。


それは、夢ではなかったことの証。



アオイは、ふと時計を見た。

まだ、数分しか経っていない。


公園のベンチに座っていたはずの体は、先ほどと同じように、ほんの少し冷たくなっていた。



黄昏時の夢。


そうか、全部、この黄昏時がくれた、ほんの短い間の「夢」だったのだ。


でも、その夢は、アオイに大切なことを教えてくれた。



「アオイ!」


突然、背後から聞き慣れた声がして、アオイは振り返った。

そこに立っていたのは、数日前から気まずくて顔も見たくなかった親友のユイだった。

ユイは少し困ったような顔をして、アオイを見つめている。


「あのさ…この間は、ごめん。私も、ちょっと言いすぎた」


ユイの言葉に、アオイの胸の奥がじんわりと温かくなった。


あの異世界で感じた「寂しさ」は、きっと、ユイと仲直りしたいという気持ちの表れだったのだ。


「ううん、私もごめんね。私がもっと、ちゃんと話せばよかった」


アオイとユイは、お互いの顔を見て、小さく笑い合った。



夕焼け空の下、二人の間に漂っていた気まずい空気は、さっきまでの夢のように消え去っていた。


一回り成長したアオイの新たな日常が、ここからまた始まる。

喧嘩をしても、仲直りできる友達がいること。


それが、どれほど温かく、かけがえのないものかを知ったアオイは、これからの日々を、きっともっと大切にできるだろう。


この物語を最後までお読みいただき、ありがとうございます。


アオイが迷い込んだ異世界は、多くの人が一度は夢見る「完璧な平和」の象徴だったかもしれません。


しかし、真の豊かさは、喜びも悲しみも、そして時には小さな衝突さえも含む、複雑な現実の中にこそあるのかもしれない。アオイが異世界で感じた「物足りなさ」は、まさにそのことを教えてくれます。


大切な人との絆や、日々の小さな挑戦が、私たちの心をどれほど満たしてくれるか。この物語が、あなたの日常を改めて見つめ直すきっかけとなれば幸いです。

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