真右衛門の憂鬱 (蓼風 すぴんおふ)
舞台は「蓼風 その五」で源二郎が訪れる前、昼間の青井家。青井真右衛門があんなことを源二郎に言った理由の種明かし的極小品です。
初めてお読みになる方のことを考慮し、人物や背景の説明をある程度織り込んでいますが、「蓼風」未読の方にはひとつ謎が残ります。
「兄上!兄上!」
真佐江の声が聞こえた。
北町奉行所の元吟味方与力、悪党どもには「北の青井」と恐れられ、良民には「北の青井様」と慕われていた青井真右衛門は、そそくさと部屋を出て濡れ縁から庭へ降りた。姿を眩ませられるほど大きな庭ではないが、部屋で真佐江の甲高い声を聞くよりはマシだ。
濡れ縁を高速で擦る音が近づいてくる。チラリと濡れ縁を窺ったら、真右衛門の行動などお見通しというように、真佐江は手に草履を持って濡れ縁を小走りにやって来た。踏み石にポンと草履を落とし、さっさと庭へ降りて叫んだ。
「兄上、今日は源二郎のことで参ったのです。良い娘御がいるのですよ。ぜひとも兄上に源二郎を説得してもらわないと……」
――そうか、今日は源二郎か……
最近の真佐江は真乃、源二郎と交互に縁談を持ってくる。よくもまぁ次から次へと相手を見つけて持ってくると真右衛門は感心を通り越して呆れている。
真佐江は真右衛門の五つ下の妹だ。間に二つ違いで生まれた弟は四歳で病死したから、真右衛門のすぐ下の妹になる。偶然にも、真右衛門の息子の静馬と娘の真乃も五つ違いだが、同じ五つ違いの兄妹でも全く違う間柄だ。
真佐江からは困った娘と言われ続けている、日頃浪人風の成りでいる長女の真乃だが、真右衛門にしたら、妹としては余計なことに口出ししない、真佐江より遥かに良い妹である。そんなことを口にしたら真右衛門は半刻(約一時間)以上、真佐江の文句を聞く羽目になるので、決して言えない。
真佐江は南町奉行所与力の家に満十七で嫁入りした。その時、当時はまだ父親の名を継いでおらず、冬馬という名であった真右衛門は心底ほっとした。おしゃべりで世話好きな妹は、なにかと兄の世話を焼き、へとへとになって奉行所から戻ってきても、家内の些細な出来事まで逐一注進してきたから、真右衛門は辟易していたのだ。
真佐江は五人の子を産み、そのうち一男二女の三人が成人した。さっさと自分の子の婚姻をまとめると、続いて甥や姪、従兄弟や再従兄弟、知り合いの息子や娘の婚姻に手を出し始めた。
静馬の嫁も真佐江の世話で決まった。真右衛門は頼んでいない。勝手に、一方的に真佐江が持ち込んできた縁談だった。幸い当人同士の気が合い、めでたく婚姻が整った。
そして、とうとう成人している甥や姪、知り合いの息子や娘で独り身でいるのは真乃と源二郎だけになってしまった。真佐江はなんとしても二人の婚姻をまとめたいらしい。確かに二人とも二十二歳と、この時代ではとうに伴侶がいて不思議のない年齢である。
その結果、真右衛門ののんびりできるはずの隠居暮らしは、三日から五日に一度は妹に掻き回されることになっている。
真佐江がこの日縁談を持ってやって来た源二郎は、真乃の乳兄弟になる。真右衛門の幼馴染みであり町方の同心であった榊源之丞の次男坊として真乃より三月遅く生まれたのだが、すぐに母親を亡くし、乳幼児の頃は真右衛門の妻、芳乃が世話をしたからだ。
二年前に兄、恭一郎が急死したため家督を継ぎ、今は北町奉行所に同心として勤めている。
真右衛門は後ろで手を組み、庭を散策し続けた。真佐江がすぐに真右衛門を見つけて小走りで近づいてくる。
真右衛門は走って妹から逃げたい衝動にかられたが、なんとかその衝動を押さえた。さすがにそんな醜態を奉公人の目に晒すわけにいかない。
真右衛門は仕方なく、覚悟を決めて妹に向いた。
「今日は何の用だ?ほんの三日前にも来たではないか」
真佐江は真右衛門を睨んできた。
「わたくしの声が聞こえましたでしょう?今日は源二郎にとっても良い縁談を持ってきましたの。こんな良い娘はそうそういませんわ。源二郎を説き伏せてくださいまし」
真右衛門はため息をついた。
「説き伏せろと言われてもだな、婚姻というものは、本人にその気がなければ、どんなに周りがせっつこうと首を縦にはふらんよ。困ったことに源二郎は料理も繕いもできて、一人で暮らしても何も困らぬ」
「ええ、お料理も縫い物も、真乃よりも上手ですものね。困ったことに」
真佐江の声には刺が何本も出ていた。
「真乃が十三の時にお塾に提出した浴衣は源二郎が手伝っていたのですよ。しかも源二郎が本気でやったら、真乃の手ではないとバレると、ほどほどの雑な縫い目にして。兄上はご存知でしたか?」
もちろん、知っていた。
提出日の前夜に遅くまで二人の声が聞こえていたのだから、気づかないわけがない。
仲睦まじく一緒に縫っていたのではなく、喧嘩腰だった。源二郎がここはおまえが縫え、さもないとバレる。すると真乃がこんなところを縫うのは御免だ。俺は手伝ってるんだぞ、ありがたく思え。恩を着せるなら、放っておいてくれ、ずたぼろで提出したって構わない。そしたらやり直しだ、二度手間だ……と言い合いしていたのだ。
真右衛門の見るところ、源二郎は手先が器用に生まれついている。例えば、簪作りを習わせたとすると、あっという間に上手く作るようになるに違いない。
一方の真乃はあまり手先が器用ではない。頭の方は我が娘ながらよく切れると思う真乃だが、手先の器用さに関してはおそらく源二郎の半分くらいだ。好き嫌いもはっきりしている。
かくいう真右衛門も武術は得意だが、手先は決して器用な方ではなく、好き嫌いもはっきりしている。真乃は自分に似ていると思うから、あまり叱る気にならない。叱れば、ほぼそのまま自分に返ってくると思うからだ。
真佐江が熱を入れて縁談の相手のことを色々説明しているのを真右衛門は上の空で聞いた。
――真乃と源二郎のことは、わしの人生最大の読み違いだ……なんだかんだと仲は良いから、二十歳くらいになれば、互いを少なからず思うようになるんじゃないかと思っていたのにな……もしも源二郎が真乃を嫁に欲しいと言ってきたら、本人達が望むなら家格の違いなど関係ないと、喜んで真乃を嫁にやるつもりでいたのにな……どうしてああなってしまったのだろう……どうみても二人の間は男女ではない。仁科と山根のところは幼馴染みで夫婦になっているのに。わしが筋が良いのを嬉しがって真乃に剣術を教えたのがいけなかったのか……だが、金村殿の御息女は十代の頃に若衆髷で剣術に励んでいたのが今では立派な御先手弓組与力の御新造だ。どうして真乃と源二郎はああなのだろうか……
そんなことを考えていたら、真佐江のキンキン声が耳元で炸裂した。
「兄上!わたくしの話をお聞きください!」
真右衛門は仕方なく妹が源二郎にふさわしい相手だと力説する釣書を受け取り、ざっと中に目を通した。
年は満十八の、御先手筒組同心の娘とあった。そこに書かれていることがどれだけ本当かは気になるところだが、確かに良妻賢母になりそうなことが書かれていた。
「器量も良い娘ですの。会って確かめたんですから」
「わかった、わかった。とにかく源二郎に話しはする。しかしだ。今、源二郎は探索の掛かりになって忙しいから、猶予をくれ」
「探索の掛かりって、ひょっとしてこの前の麹町の?」
「そうだ。恭一郎を斬った下手人がいる賊の探索だ」
おしゃべりな真佐江もさすがに黙った。大変珍しいことに、暫く沈黙した。
「……あれからもう二年経つのですね……」
真佐江の目は赤くなり、潤んできた。
真佐江も恭一郎を良い若者だと好いていた。家督を継ぐ少し前から次から次へと縁談を持ってきて口説いていた。
煮え切らない返事ばかりの恭一郎の様子に、真佐江は真右衛門に首を傾げながら尋ねてきたことがある。
「どうやら、恭一郎殿には好きな娘がいるようですの。兄上、どこの誰かご存知ではありませぬか?」
真右衛門は全く心当りがなかった。恭一郎に好きな娘がいて何の不思議もないが、真右衛門が見るところ容姿も気性も良い恭一郎だから、好みがあるとはいえ、惹かれない娘がいるとはあまり思えず、いるのなら、何をぐずぐずしているのかと不思議だ。
――まさか旗本の娘?…………知り合う機会はそうそうないと思うが……まさか人妻?あの真面目な恭一郎が、まさか……いや、しかし、それが恭一郎の唯一の欠点だとしたら……
しかし、思いあたるような人妻は思い浮かばず、恭一郎がどこかの御内儀と一緒にいるところを見かけたという噂を聞いたことも無い。衆道の噂も聞いたことは無い。
真右衛門はかぶりを振った。
「兄上もわたくしと同じことをお考えになりましたね?」
恭一郎が亡くなったのはその会話をしてから一月ほど後のことだった。
恭一郎の通夜に現れた御内儀や御新造に取り乱すほど悲しむ女はおらず、そんな噂話や思い出話も出ず、真右衛門にも真佐江にも、恭一郎が嫁取りを拒み続けて独り身を通すほど惚れていながら娶れない相手とは一体誰なのか、わからずじまいだった。
恭一郎が亡くなる少し前に、弟ならば知っているのではないかと真右衛門が源二郎に尋ねてみたら、源二郎は言葉を濁した。その様子に知っていると思った真右衛門だったが、口を割らせることはできなかった。軽い気持ちで尋ねたのに、「兄に直接お聞きください」と言ってきた源二郎に思いの外思いつめた風があり、真右衛門はそれ以上追及できなかったのだ。
ついでに、まさかと思いながら、真乃にも訊いてみた。予想通り「知りませぬ」の一言だった。
「本人以外で知っているのは源二郎でしょう」
詰んだと思った真右衛門だった。
本人が亡くなってしまっては、もう追及しても仕方がないと、今も恭一郎の思い人は真右衛門、真佐江兄妹には謎のままだ。
「源二郎は大丈夫でございますか?相手は恭一郎殿より強かったわけでしょう?もしも、もしも……」
「大丈夫だ。源二郎は探索で動いているのだ。一人ではない。恭一郎は勤め外で賊に出くわしたのが悲劇の所以だ」
真佐江が屋敷から出ていくのを見届け、途中で忘れ物だのなんだのと戻って来た場合に備えて暫く身構えていたのを解いた時、真右衛門はほっと息をついた。
真右衛門も源二郎が真佐江の縁談攻めに屈せず、娶ろうとしないのは気になっていた。
――源二郎も真乃に劣らず、頑固な面と難しいところがあるからなぁ……そういえば、真乃はどうしただろう?まだ出掛けておらぬらはずだが。真佐江が来たので部屋で息をひそめておったのだろうが……
改めて真佐江が持ってきた釣書を見た。
――源二郎のことは真乃が一番よく知っているだろうな……真乃に説得させてみるか。
これまでにも考えたことのある策だったが、実行に移したことはなかった。
真右衛門が真乃の部屋へ向かおうとして濡れ縁へ出たら、そこに真乃がいた。後頭で髪をひっつめて垂らし、袴をはいた、いつもの浪人風の成りだ。手に刀を持っているから、これから出かけるつもりである。
いつも真右衛門が思うことだが、浪人風の成りの真乃は父親と変わらないくらいの背丈だから、ばっと見では絶世の美男子である。時々十代半ばくらいの娘が表をうろうろするのも無理はない。
「急ぐのか?」
「少し余裕はありますが、何用でしょうか?」
「源二郎のことだ」
「……叔母上が持ってきた縁談のことですか?」
「聞いておったか」
「あのキンキン声では聞きたくなくても聞こえます。今の源二郎にいくら縁談を持ち込んでも無駄ですよ。絶世の美女だと触れ込んでも会うことすらしないでしょうね」
真右衛門は絶世の美女でも無理 だという発言に驚いた。男として疑問だった。絶世の美女と聞けば、会うくらいは会ってみようと、おそらく老若を問わず、世の大半の男が思うはずである。
「な、何故だ?」
「父上は気づいていらっしゃらないのですか?」
逆に質問され、真右衛門の驚きは大きくなった。
「何のことかわからぬということは、気づいておらぬということだな……」
「母上が亡くなった時の源二郎の悲しみようは尋常ではなかったと思いませぬか?」
「確かに長く泣き腫らした目をしておったが、おまえが淡白過ぎて、尋常でないとまでは思わなかった」
晩年の芳乃は剣術に打ち込む真乃に小言を言ってばかりいたため、母娘の関係は冷えきっていた。
真乃が芳乃の通夜でも葬儀でも涙を見せなかったことに真右衛門は驚いたが、娘を責める気にはならなかった。
真乃にしたら、芳乃は自分を頭から否定し、理解しようとしない最悪の母親だったろうし、真右衛門自身は御用繁多を言い訳に、なんとかしなければと思いつつ、結局、芳乃が生きている内には何もしなかったからだ。
真乃はひとつため息をついた。
「源二郎は二人の母を亡くしているのです。今では兄君も父君も」
「姉は息災ではないか。五人の子持ちだ」
「その姉君と源二郎が仲良く話しているのをご覧になったことがありますか?」
言われてみると、確かに二人が話しているのは短い挨拶くらいしか見た覚えがない。
「二人とも子供だった頃の話ですから、今さら持ち出すのは気が引けますが、源二郎は幼い時の姉君の言葉にひどく傷ついたうえに、不幸にしてその後、姉君の言葉を後押しするようなことが続いてしまい、すっかり臆病になっているのです。自分と深く関わると相手が不幸になるのではないかと畏れているのですよ」
「考えすぎだ」
思わず真右衛門は強い口調で言った。
「ええ、考えすぎです。ですが、絶対にないと父上は源二郎に向かって言いきれますか?」
確かに絶対にないとは言いきれない。この時代には火事や病で人がころころと死んでいる。乳幼児の死亡率は特に高いので、七才までに死んだ子は神様に返したと考え、葬儀や法事も略式だ。
真右衛門は幼い頃からの源二郎の姿を順に思い浮かべた。
妻の芳乃は手のかからない素直な子だと、真乃と同じように、時として真乃以上に可愛がっていた。源二郎を手放したくない、正式に養子にしてくれと何度も頼んできた。
真右衛門も源二郎を息子のように感じていたが、榊家のため、幼馴染みでもある父親の榊源之丞の手前そんなことはできないと、その都度妻の願いを退けた。
――源二郎がそんな業を背負っていると思い込んでいるとは……芳乃の言うとおり、正式に養子にするべきだったのかもしれない。恭一郎に何かあったら戻す、で良かったか……
「私が前に見た源二郎の独り歩きの妊婦に見せる気遣いは、そりゃあ大変なものですよ。無事に家にたどり着くまでそっと見守るんです。しかも、自分は決して近づかず、危ないとみたら、自身が動くのではなく、私や万蔵、富三を動かす……」
真右衛門には全くの初耳だった。
「まずその畏れを取り除かないと。無理やり娶らせて、もしも相手が早死にしたら、源二郎はおそらく立ち直れない。後追い自害しかねませんよ。結構、繊細なんです。源二郎は」
おまえと比べたら、大抵の者が繊細に見える気もすると、娘の顔を見ながら真右衛門は思ったが、今は娘のことを言う時ではない。
「どうやったら源二郎からそんな畏れを取り除けるのだ?」
「わかりませぬ」
あっさり答えた真乃に真右衛門は膝から力が抜けそうになった。
「もしも、畏れを取り除けるようなめぐり合わせがあれば、双子のよう育った片割れとして、一肌脱ぐつもりではいますが……」
そう言った真乃の表情は真顔だった。
「……というわけですから、叔母上には源二郎のことも、わたくしのことも放っておくようお伝えください。無駄なことに時を費やさず、もっと益のあることにお使いくださいと。では、行って参ります」
一礼して真乃はすたすたと濡れ縁を勝手口へ向かって歩いていった。
真右衛門は黙って娘の後ろ姿を見送った。
真右衛門にはやはり真乃と源二郎の組み合わせが最高の相性に思える。
「どうして、こう世の中うまく行かんのか」
また、ため息が出た。
釣書を破り捨てたい気分になったが、真佐江にばれたらギャンギャン文句を言われると、真右衛門は自室の文箱に入れて蓋をした。
文箱の横の広蓋には一重の羽織がたたんで置いてあった。亡き妻が仕立ててくれた羽織だ。良く着ているため、どうしても脇や裾がほつれてくるのを何度も繕ってくれているのは源二郎だ。今ではほとんどが源二郎の手になっているだろう。
初めて源二郎が繕うと言ってきたとき、真右衛門は「男のおまえにそんなことをさせるわけにはいかない」と断った。すると、源二郎は自分は暇だし、叔母様の仕立てたものは自分が繕うのがたぶん一番きれいに繕えると思いますと、あっという間に繕ってみせた。
繕い終えた羽織を見たら、確かにどこを繕ったかわからなかった。
あのとき、源二郎はどんな思いで繕っていたのだろうか。
源二郎は晩年の芳乃と真乃の間をなんとか取り持とうとしていたという。それがおそらく源二郎が裁縫に上達してしまった理由だ。
「わしは吟味筋(刑事事件)以外は読み違いばかりだ」
真右衛門はまたため息をついた。
心から望んでいるのは、真乃も源二郎も息災でいてくれること、幸せになってくれることだけだ。
――はて、「幸せ」とは何だろう?
真乃も源二郎も今のままが「幸せ」と感じているのかもしれない。
あの二人のことは、あの二人にしかわからない。
今更ながらその事に思いあたり、真右衛門はまたため息をついた。
――わしの役目は真佐江の縁談攻めからあの二人を守ることらしい。少なくとも当面の間は……
真右衛門はさらに、もうひとつ深いため息をついた。
―― 完 ――