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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

Ama/re

作者: 寝起 わいる

本作品は約三万字の短編となっております。初投稿となりますので、つたない部分もあるかと思いますがよろしくお願いします。よければ最後まで見ていってね♪


⚠注意

・一部に流血表現を含みます。

・プロマンスサスペンス仕立てとなっております。

 以上を了承の上でお楽しみください。

ーー頑張らないと……もっともっと努力しないと……より完璧じゃないと……じゃないと此処にはいられない。


 「弟さんが来てるぞ」

 それを聞いて、会社のデスクで書類制作に勤しんでいた間島雪は、すぐにその手を止めた。

「本当に弟って?」

 信じられずに聞くと、仲の良い先輩の糸川ははっきりした口調で返した。

「あぁ。確かに間島朝陽って……」

 彼が付け加えて何か言う前に、雪は席を立った。丁度昼休憩が近かったこともあって、仕事を切り上げる社員がちらほらと見受けられる。お陰で誰に不審がられることもなかったが、実際は鬼気迫った狼狽ぶりだったろう。けれど、社の受付に着く頃にはどうにか平静を装えるくらいに回復していた。

 そして、その場は人の出入りが多かったのにも関わらず、待ち人はすぐ目に止まった。身長は雪よりも一回り大きい……大体百七

十後半だろうか、高身長で爽やかなスーツに身を包んだ男が入口間際に立っていた。忌まわしい事件から離別を決意し隠れるように姿を消したこの十年間だったが、その顔を見て一気に過去が押し寄てくる。成長した義弟はあの頃の面影をあまりに色濃く残していた。同時に、彼も雪の存在に気づいたのだろう、ニッコリと人懐っこい笑みを向けた。一見、とても無害そうに見えるがそうでないことは雪自身、嫌というほど知っている。そこで、「ここではなんだから」と彼を近くの路地まで連れ出したのだった。

「久しぶりだね、雪兄さん」

 人がいなくなった途端に朝陽に抱きつかれ、雪は毛を逆立てた猫並にびっくりした。そんな彼の様子などお構いなしに朝陽は嬉しそうに話しかける。当の雪はといえば到底そんな気になれずにひたすら怯えて、事情把握に全神経を集中させるのだった。暫くすると目一杯話して満足した朝陽が、提げていた鞄から何かを取り出し始めた。ここまで押しかけてきて目的がないとは思えない、何かされるんじゃないか、と雪は身構えた。

 しかし手渡されたのは、まさかの弁当の包みだった。意図も目的も分からずにただただ困惑している雪に彼は言った。

「また俺と一緒に暮らそうよ」

 続けて説明するには、十年前に雪が突然出ていったことに関して当時は怒っていたが今はもう許していること、その間に雪を養える分の財力を蓄えていたこと、これらを踏まえて一緒に暮らしたいと考えている、とのことだった。また、その話をしたくて、雪の誕生日に行こうと計画していたものの、待ちきれなかったのだとも言った。

 話についていけないだけの雪をある意味不安に思ったのだろう。

 兄さんがなんであの時家を出たのか俺なりに考えてみたんだ、と機嫌を伺い始めた。

「あの時の誕生日プレゼント……あれが気に入らなかったんでしょ。俺は良いと思ったんだけど、兄さんはあんまりだったんだね」

 ごめん。でも、元手で使う以外には一切手を付けてないから、と申し訳無さそうに肩を落とす。

 雪はこの、うっかりミス程度の軽い物言いに気持悪いを通り越して恐怖を感じた。アレを誕生日プレゼントと言い張るのもそうだが、失敗程度にしか考えていないことに血の気が引いたのだ。

「俺に構わないでくれ」

 そう口に出せたら良かったのに。これっぽっちの本音は、大きな重しに括り付けられたかのように水底に沈んで、表に浮上して来なかった。

 重しの正体は知っていた。忘れもしない十年前の誕生日。あの日、朝陽はーー。

 

 ーー笑っていた。炎に包まれた家の中、横たわる実の両親を前に。きっと酷いことが起こったのだ。家から火の手が上がっているのを見て急いで駆けつけた雪は、とっさに当時噂になっていた放火魔を連想した。実際、家中を荒らされ、朝陽も全身傷だらけだった。唯一生存していた義弟に近づこうとして、でも彼は出来なかった。何故なら、その手には血濡れの包丁が握られていたから。

 その後、例の放火魔が現場で遺体となって発見された。焼かれたソレの死亡原因は煙による窒息死だった。警察の調査曰く、当日の昼頃、間島家に放火を目的とした犯人が家内に侵入し、たまたま住人と鉢合わせた。現場の損傷具合と被害者の状態から見て、犯人が口封じしようとして被害者らと揉み合いになったのは間違いない。しかし、結果として被害者らの内二名は死亡し、犯人も抵抗された時の負傷から逃走途中に力尽きそのまま……。

 また、丁度帰宅して現場に居合わせたものの、難を逃れた当時十三歳の間島朝陽による証言で、これらのことが事実として認められた。ただ、懸念事項として、被害者と犯人との攻防で用いられた凶器が発見されておらず、今尚捜索中である。

 雪はこの周知の事実を事実として捉えることが出来なかった。だって、おかしな点がたくさんあるのだ。なぜ、現場から消えた凶器を朝陽は持っていたのか。なぜ、あの惨状を前に笑っていたのか。だいたい、朝陽一人だけ無事なんてことがありえるのか。そしてなぜ、自分にあんなことを言ったのか……。

 あの時の光景と警察の見解、真実は分からない。けど、ある恐ろしい考えが過ぎってしまった。そのイフがあったとしたら、いや、それに思い至った時点で……もう限界だった。だから逃げた。あんなに執着していた居場所を捨てて、義弟から逃れるために。

 そうして、一年が過ぎた。しかし、不安は募るばかりだった。三年が過ぎた。少なくとも夢に見ることがなくなった。七年過ぎて思い出すことも少なくなり、ようやく地に足ついた。そんな風に思っていたのに。


 ーーパンッという合掌の音で我に返ると、男の顔が間近にあった。ふいに雪は、怒りが込み上げてきて朝陽を不機嫌に睨みつけた。反対に彼は嬉しそうに微笑む。

 それが、自分の苦悩している姿を嗤っているようで無性に神経を逆撫でた。この十年間という月日は大切に築き上げてきた、他人の干渉を許さない自分だけのモノの筈だ。そう考えると一気に感情が溢れ出してきて、雪は勢いだけで言葉を発していた。

「       !」

 自分でもよく言えたものだと感心する。ハァハァという、自身の息遣いしか聞こえなかった。やっと言えた! やっと言えた! 言ってやった! 心臓は早鐘を打って、小さな勝利を噛み締める。

 と、薄ら寒い気配に包まれた。朝陽の手が頬に触れている。さっきまでの興奮は一瞬で冷めきって、後悔が押し寄せてきた。彼の顔が見れない。俯いていると朝陽が耳元で囁いた。

「構うな、なんて悲しいこと言わないでくれよ」

 たった二人だけの家族じゃないか、優しく宥めるような手つきで雪の髪を漉く。

 哀愁に満ちたその声は至って穏やかだったが、有無を言わせない圧を感じた。雪は微動だにせず硬直したまま、嵐が過ぎ去るのをひたすら待った。やっと朝陽の手が離れたので、彼の顔を見ると、相変わらず笑顔のままだった。ただ、まだ何か言う気概は一片も残らず消え失せていた。

「兄さんにも考える時間が必要だよね」

 にこやかな朝陽に雪は笑顔で頷いてみせる。じゃないと何をされるか気が気じゃなかった。しかし、どういう理由か彼が笑いかけた瞬間、朝陽の顔つきが変わった。今までこんな表情は見たことがない、というくらい険しく眉間にしわを作り、眉根を寄せてグッと顔を近づけてくる。

 怖い。逃げ出したいと足が勝手に後退った。怖い。何を間違ったんだろうか。怖い。冷や汗が背中を伝う。怖い。怖い。思わず目を閉じた。

 ……何が起こったのか分からなかった。目を閉じていたからというのもあったが、単純に理解の範疇を超えていたからだ。

 すぐに気配は遠のいて、雪は地面にへたり込んだ。目を開けると朝陽の背中だけが見えた。彼はそのまま歩き去っていく。また誕生日に来るよ、それだけ言い残して。

 少しの時間が経って、人々のざわめきや外の冷気などの感覚がもどってきた。さっきまでの出来事は酷く現実味がない。ただ、残された弁当包みだけが手に重く感じた。 



 次の日。気持ちの整理がつかずにいた雪の元にまた朝陽がやって来た。誕生日は一月も後なので、この突然の再来には当然ながら驚いた。弁当箱を回収しに来たのだと彼は言って、また弁当を渡す。かれこれこのやり取りが一週間も続いた。これには流石に迷惑して、止むを得ず自宅で会う時間を設けることになった。嫌嫌ながら合鍵を渡すと、朝陽は目を輝かせて喜んでいるようだった。

 最近ではすっかり慣れたように家に度々やって来ては、我が物顔で立ち振る舞っている。ほぼ同棲に近い生活の中で、朝陽は家事全般をこなした。雪が仕事で疲れて帰ると、準備せずとも風呂が入れられていて温かい食事も用意されている。おまけに生活費も入れる徹底ぶりだ。最初は嫌でしょうがなかった筈なのに今では飼いならされたペット同様何も思わなくなってきていた。このまま流されても良いんじゃないか、時折そんなことを考えもする。

 そもそも、自分が朝陽をそこまで警戒するのはどうしてだ? 決定的になったのは十年前の事件、それは間違いない。けれど、世間が言うように朝陽は単なる被害者に過ぎないのではないか。或いは、自分が見た光景はただの見間違いだったのかもしれない。今のところ彼の態度は平穏そのもので、さしたる不都合も脅威もありはしなかった。誕生日まであと二日、天秤は傾きつつあった。

 その日、雪は夢を見た。煌々と火に包まれたかつての家、横たわる義父母と朝陽、そして自分。彼は朝陽に駆け寄ろうとしたが、その手に握られた物に気付いて立ち止まった。

 もし、あの時ここで躊躇わなければ何か変わっていただろうか。夢の中の雪が意を決して彼に近づいていく。すると朝陽が手に持っていた包丁を………床に捨てた。そして、泣き崩れたのか雪の方に倒れ込んできた。これに安堵して彼を力一杯抱きしめてやる。こんな結末だったのか、一人でにそう納得した。けれど、顔を上げた朝陽が言ったのだ。

 「ハッピーバースデー」と。恐怖して朝陽を振り払った。気付いた時にはあの時と同様にその場から逃げ出していた。そう、怖かったのだ。まるでこの惨劇がプレゼントだとでも言っているかのようで。


「ーーん。ゆーーーさん。雪兄さん!」

 大丈夫? と朝陽が自分を覗き込む。その顔が夢の中の朝陽と重なって見えた。雪はパニックで過呼吸になり、布団の中で苦しくもがいた。心配して朝陽が声をかけ続けたが、これは返って状態を悪化させるばかりだった。汗だくになりながら泣いて、涙が枯れる頃にようやく呼吸が安定してきた。

「なん、で?」

 朝陽がここにいるのだろう。冷静に考えると変だ。最近は食卓を囲みこそすれ、夜になれば帰っている筈なのに。雪が胡乱げに睨みつけると、朝陽は事もなげに「合鍵で入った」などと的外れな釈明を平然と言ってのけた。堪らず雪は朝陽を押し退け、荷物もそぞろに玄関に向かう。

「どこに行くの」

 やっと焦りだした朝陽は雪を止めにかかった。無視して行こうとすると今度は進行方向に回り込まれる。

「いい加減にしてくれ! 出て行くんだよ」

 お前が出て行かないなら俺が出て行くしかないだろ、もううんざりだ、お前の顔は見たくない、ありったけの感情を一気に捲し立てた。そのせいで枯れかけていた喉は完全に終わってしまった。呆然と固まってしまった朝陽に背を向けてそのまま扉に手をかけた。が、何故か視界が反転し、またしても呼吸が出来なくなっていた。

 転んだわけではない。過呼吸でもない。彼は床に押し倒されていたのだ。しかも首を絞められている。

 鬼のような形相で朝陽は叫んでいた。

「なんでまた俺を見捨てるんだ。兄さんが欲しいもの全部してあげてるのに」

 酷い、酷い、と絞め付ける力は強くなっていく。抵抗も虚しく、死ぬのだと恐怖した。でも何より、被害者ぶっている目の前の男がひたすら憎かった。次第に「酷い」という言葉が雪自身の言葉で脳内再生し始める。徐々に苦しい感覚さえ鈍くなって、眼の前も霞んでいった。

 ついに意識が途切れる。死ーーーーー直前でふと、急に息苦しさが無くなった。朝陽の手が首から離れたのだ。雪は貪る勢いで肺いっぱいに空気を吸い込み、脱力したまま床に寝た。本当に死ぬところだった……。心臓はまだバクバクと脈打っている。どうして朝陽は手を離したんだろう。

 雪が恐る恐る朝陽を見やると、彼は鼻をすすり上げ泣いていた。今なら逃げることも出来る。

 だけど、雪は動けなかった。さっきまで殺されかけていたのに、それなのに朝陽を見つめることしかできなかった。

「なんでそこまで俺に執着するんだ」

 とっさの雪の質問に対し、朝陽は嗚咽を漏らすばかりで会話にならない。何度目かの嗚咽でようやく彼は言葉を発した。

「雪、兄さんは、俺の家族、だ、から」

 彼が執着するのは雪が家族の一員だからという理由らしい。しかし雪は養子だ。朝陽とは血の繋がりはない。

「俺は……お前の本当の家族じゃない。間島と姓を与えられただけの赤の他人だ」

 冷たく否定する雪に、朝陽は駄々をこねるように首を何度も横に振った。尚の事、雪には分からなくなった。

「じゃあ、なんで……」

 迫り上がるそれは、あの日からずっと続く疑問だ。

「義父さんと義母さんは殺したんだ?」

 雪の義父母は朝陽にとって、正真正銘血の繋がった家族のはずだった。なのに自ら壊すなんて、矛盾もいいところだ。

「それは違う!」

 兄さんは勘違いしてる、朝陽は断固として否定した。しかし雪の意思が堅いと感じてすぐに押し黙ってしまった。数秒考えこんだ後、朝陽は観念したかのようにあの日起こったことについて躊躇いがちに話し始めたのだった。

「あの日、俺が家に帰ると親父やお袋が誰かと言い合いをしてたんだ……」

 その日の朝陽は予定していた塾をさぼっていたので、いつもより早い時間に帰宅した。こっそりと裏口から入り、物音を立てないように一階の客間の通路から大回りで二階の自分の部屋に行く。 ふと、普段は使われていない客間から両親の声が聞こえた。 客間といっても丁度部屋の位置的にとってつけたようなもので、実状は機能していないも同然だったから、きちんとした客はまず通さない。 不思議に思って耳をそば立てると何やら不穏な気配で、いつもは温厚な両親の口調が荒かった。 また、彼らの声に混じって知らない男の高圧的な声が聞こえたのだ。 会話は断片的だったが、「警察には黙っていろ」だの「しばらく匿え」だの 「従わなければ放火するぞ」だのそんな物騒な内容だった。 嫌な予感がした朝陽は部屋から離れて、慌てて警察に電話をしようとスマホートフォンを取り出した。

 しかし、丁度その時に電話がかかってきた。 幸いなことにスマートフォンの通知は切っていたため、音は鳴らなかった。 ただ、何かを察した男が部屋から出てきたのだ。朝陽は自室前の廊下の突き当りまで前進して男の出方を伺った。 男は数分ほど落ち着かない様子で辺りをうろついていたが、朝陽に気付かずにそのまま戻って行った。安堵しつつも、今度は警戒して、自室から電話をかけようと階段に足をかけた。彼の部屋は階段を上がってすぐの正面に位置するため、入る時は慎重を要する。

 気づくな、と頭の中で念仏のように唱えながら朝陽は階段を登った。軋む板目が余計に焦りを募らせる。残すはあと一段というところで、一際大きく音が鳴り響いた。

 ーーギィーーーー。

 まずい、と思う間もなく男の足音が近づいてきた。そしてそいつは階段を見上げたようだった。

 が、そこには誰もいない。

 またしても、といった風に男は憤りながら踵を返していった。朝陽は間一髪で二階の廊下の壁に身を隠せていたのだ。

 ホッとしたのも束の間、今度はけたたましく家電が鳴り響いた。場所は階段の左脇。

 朝陽は、部屋に入る直前だった……。

「あとは警察に話した通りだよ……」

 朝陽の話した衝撃的な全容に雪は凝り固まってしまった。二通の電話………、それがあの惨劇の要因? 

 とてもじゃないが信じられなかった。いや、信じたくなかった。だって電話の主は自分だったから。

「でも凶器は?」

 雪は認められずに朝陽を問い詰めた。朝陽はそれに淡々とした口調で返す。

「親父が犯人から奪ったのを俺に渡して、『出来るだけ遠くに逃げろ』と言ったから窓から投げ捨てた」

 どさくさに紛れて紛失してしまったのだろう、と警察も言っていた。雪は覚えている。

「でも、お前は俺が着いたときに手に持ってた!」

「それはまだ捨てる前だったから。犯人も生きてると思ってた……」

「じゃあ俺に『ハッピーバースデー』と言ったのは!?」

 半狂乱になりながら雪は怒鳴った。

「言ってないよ!」

 俺は絶対に言ってない、と朝陽は頭を振った。

「嘘だ! 俺は確かにお前から聞いたんだ……お前は笑って………」

「あの時兄さんは、ショックからか正気を失ってた。居間に辿り着いた兄さんは誕生日の飾り付けを見たでしょう。記憶が混同してるんだよ」

 あんな状況で言えるわけ無いだろ、朝陽の必死の訴えに雪は気圧された。やがて雪の表情は自らを責める苦悶と絶望に染まっていく。

「……俺のせいか………俺のせいで。あんなっ」

 憐れんだ朝陽がそっと肩に触れようとしたが、雪は拒むように激しく身震いした。

「帰ってくれ」

 今までになく力のない声だったが、朝陽は大人しく従うのだった。


 そうして、あれからほとんど一睡も出来ずに雪は出社した。首を絞められてついた傷は包帯をして、シャツは一番上までボタンを締めた。どうせすぐにバレるとはいえ、しないよりかはましだろう。そして案の定、出社してすぐに糸川に指摘された。

「どうしたんだよ。大丈夫か?」

 糸川は今の会社を勧めてくれたこともあって、社内では同期よりも仲が良く、こういうことに目ざといのだ。

 「大丈夫だよ」と力無く笑う雪に、彼は納得いかない様子だったが、上司に呼ばれてすぐその場を後にした。それからも雪は何人かに同じような質問をされた。その度に彼らを心配させまいと適当に返事を返す。けれども、デスクワークでは普段はしない些細なミスを連発し、小会議では資料を間違いそうになるなど、調子は最悪だった。その不調ぶりを見かねてか仕事が終わってすぐ糸川が飯に誘ってきた。そんな余裕はないと本当は断るつもりでいたけれど、ここ最近は朝陽の訪問で付き合いが悪く、加えて昨日の今日で家に帰る気が起こらなかったのもあって気付いたときには受けていた。

 そこは糸川行きつけの居酒屋だ。雪もしょっちゅう連れられるため、今ではすっかり顔を覚えられている。大将は職人かたぎの寡黙な人で、ここに来る客も店の中では互いに口が固くなり、妙な結束が生まれるらしい。そこかしこで声を大にして話すことのできない胸の内や秘話が飛び交っている。

「俺さぁ、以前から上司に推してた企画がやっと通ったんだ。それに、なんでかある大手に上手くプレゼン成功したんだってよ。相手さん、いたく気に入ったってんで、さらなる企業拡大かもな……!」

 だからここは俺が奢ってやる、と糸川は料理を注文しだした。様子のおかしい雪に気になることもあるだろうに彼からそういった話題は一向に来なかった。次々と来る料理に手当たり次第箸を伸ばして、食欲のない雪に勝手に取り分けていく。

「そいや、この間人事部で噂されてた新人が凄く有能ってんで様子見に行ったんだけど、そいつすっげぇ面白いの! 酒の席で話したがな、天然であれだけ話せるのは関心者だぜ。今度はお前も一緒にからかいに行こうな」

 糸川は同じ技術部の筈なのにどうして他の部の酒の席に交ざっているのか。いつもは突っ込むのだがそんな気力は湧かない。

「……機会があればね」

「そうそう面白いといえば、うちの生真面目な紳士部長が奥さんと揉めて別居中なんだってよ」

 不謹慎にも程がある突っ込みどころ満載な話題だが、これまた言葉に詰まってしまう。

「……へぇ」

 気になるだろう、と糸川は気にせず追加で酒を頼んだ。

「なんでも紳士部長が他の部の女性社員と一緒にカフェで密談しているのを奥さんが見かけちゃったらしい」

「以外だな」

 というのも、紳士部長こと技術部の佐野紳ニは社内きっての敏腕だ。その人柄もまた能力に伴っていて、あだ名をそのままを体現しているような人だった。

「まぁ、あの人のことだからどうせ相談に乗ってた感じなんだろうけどな〜」

「きっと誤解だろうしすぐに収まるだろ」

 雪に相槌打って糸川は串焼きに手を伸ばした。

「まぁな。家族思いの人だもんな」

「……家族、か」

 連日の出来事で、その言葉には敏感になっている。急に今までの酒が口内で苦く感じて、ごくりと唾を飲み込んだ。それから暫くはとつとつと他愛ない会話が続いた。なんだかいつもの調子が戻ったような気がして、胸のわだかまりが少しずつ解けていく。それを知ってか糸川は酒のペースを上げていった。やがて酔いは芯まで温かく巡っていき、楽になりたいという心の声が勝手に自分の口から酒気とともにドロリと吐露されていく。

「俺の話を聞いてくれるか……」

 努めて平静に、しかし隠しきれない重々しい口調の雪に、糸川は黙って耳を傾けた。いくつかはぼかしながら、雪は事件からこれまでを余すことなく話した。

「大変……だったな」

 糸川は複雑そうに言い、雪も「あぁ」としか返さなかった。

「お前が養子だったってのも初耳だが、そんな辛い事件の被害者だったなんてな……」

 糸川は残っていたビールを一気に煽った。

「俺は九歳の時に間島家に迎え入れられたんだ」

 養子と聞いて雪は幼少の頃を思い出した。寒い雪が積もる中、凍死しようが構わないというように赤子の自分は院の外に置かれていたという。だから実の両親がどんな人だったのか自分は知らない。ただ、犬猫のように取ってつけられた「雪」という名前の書かれた紙だけが残されていた。

 雪が九歳になる頃、某有名な私設病院を経営する間島夫妻が後継者にする子どもを探すべく、雪のいる施設にやってきた。夫妻には当時、彼と同い年の息子が一人いたが、不慮の事故でその子を亡くしてしまっていた。その亡くなった子を、これ以上子どもが望めないと思っていた夫妻はそれはそれは大切に育てていたから、彼らの喪失感はとても深かった。そんな事情あってか、養子探しは難航すると施設の職員や子ども達は思っていたのだった。雪もその例にもれず、愛嬌も取り立てて特技のない自分には関係ないものと思っていたし、微塵も期待などしていなかった。だから、夫妻が雪を見た瞬間「この子を迎え入れたい」と泣いて喜んだのは誰も予想することができなかった。

 施設で雪を見た夫妻いわく、雪は生き写しのように我が子に似ていたのだという。何かの縁だと思った、代わりとしてではなく雪自身を息子として迎えるのだ、彼らはそう言い聞かせていたが、雪自身としては到底信じられるものではなかった。

 そして夫妻は雪に愛情を注ぐと同時に、病院を継がせる後継者教育も徹底した。遊び盛りの子供にしては過酷な方針だったと思う、半ば強要ともとれる勉強だったが、雪は嫌いではなかった。お世辞にも施設は教育が行き届いている環境とは言えなかったし、成績が良いと夫妻が褒めてくれる。

 それに夫妻の愛情は実の息子に似ているから享受されているのだ。その容姿も成長次第で変わってしまう不確定要素である以上、何もせずに居場所を得ることはできない。直感して雪は、幼いながらに勉強だけが自分の価値を証明できる手段であると決めつけていた。夫妻に認められたくて、失望されたくなくて、死にものぐるいで勉強をした。面倒をかけたくないから我儘も言わなかった。

 そうして四年が経つ頃には家庭教師から太鼓判を押されて、雪自身も成果に納得出来るまでの成長を遂げていた。夫妻との関係は良好そのものだ。

 そんな時だった。夫妻が子どもを授かったのは。

 何かの間違いであって欲しい、最低にもそう思った。そこからの一年はあっという間で、次の年の夏には弟が生まれた。雪の名前に合わせるように季語を入れて「朝陽」と名付けられた。自分の適当に付けられたであろう名前を夫妻が本当の息子に合わせてつけたのは、その頃一番雪を苛めた。

 そして、初めて朝陽と対面した時。不覚にも可愛いと思ってしまった。小さくて、触れたら壊れてしまいそうなほど繊細で、無垢な瞳は人を魅了する不思議な引力を含んでいた。柔らかな頬やふわふわとした髪の毛に触れ、高い体温に感動して思わず涙が滲んだ。だから弟を、たとえこれから自分の居場所を奪ってしまう存在だとしても雪は憎めなかった。それならば実力を持って夫妻に愛されよう、そう決意したのだった。それから勉強には拍車がかり、中高大学はすべて有名な進学校に進んだ。

 しかし、二十六歳でやっと医者として一人前になった頃に突然、義父に「無理に家を継がなくていい」と言われた。義母には「朝陽にも病院を継がせることができるから」と強く諭された。

「……見限られたと思った。そしたら両親も朝陽も嫌いになって、その頃はよく家を避けてた。だから実際事件のあとは呪縛から開放された気さえしてたんだ」

 いつの間にか涙が溢れていて、糸川が背中をさすってくれていた。

「俺、どうしたらいいかな? 家族のことなにも分からないまま大人になってた……!」

 朝陽の考えが分からない。自分の気持ちさえ。これからどうなりたいか。どうすればいいのかも。

 雪はこれでもかというくらいみっともなく泣いた。さすってくれている糸川の手はとても温かい。連日の疲れが祟ったのだろう、いつの間にか雪は寝てしまっていた。

 こうして糸川は二人分の勘定をする羽目になった。それに、寝落ちた雪を背負って家まで送り届けるという後始末も。タクシーを選ばなかったのはメンタル的に雪が心配だったのと、自分が帰るための運賃含んだ所持金が心もとなかったためだ。幸いなことに雪は背が低く体重も軽い方だったし、彼の自宅は会社から徒歩五分圏内と店からも近かった。

 そんなわけで糸川は街灯を頼りに道行きを思い出しながら進んでいた。雪を背負っているのは勿論、陰気な話題のせいか、或いは酔いが回ってるせいで足取りは重い。白い息を吐きながらさっきの話をぼんやりと思い出していた。

 そういえば、雪の話にはなにか違和感がある。それに「間島」という名字も。そのまま物思いにふけて揺ら揺らと歩いていると、ぼやける視界にふと大柄の男が過ぎった気がした。気のせいだと無視したが、そいつは話しかけてきたので、どうやら酒の幻覚ではないようだった。それに雪の知り合いらしく、やたら棘のある言い方で彼を渡すよう迫ってきた。もしかしなくても、こいつが例の義弟だと糸川は確信した。雰囲気といい態度といい、雪に話に聞いた数倍はヤバそうな奴だ。

「俺のことはどうでもいいだろ。とにかくその人を離せ」

 一方で朝陽は目の前の男がたまらなく不快だった。雪に触れている上、さっきまで凄く親しげに振る舞っていたのを知っていたからだ。おまけに話も通じないときて、うるさく叫ぶから思わず切りつけたくなる。

「とりあえず場所を移そう。その体勢じゃ兄さんが辛そうだ」

 しかも雪を引き合いに出すと糸川はあっさりとその指示に従ったため、朝陽はますます目の前の男に苛立つのだった。

「こいつにつきまとうのは止めろ!」

 雪を近くのベンチに寝かせてから糸川は言い放った。それに構わず朝陽は寝ている雪の頬をなぞる。

「あんたには関係無いことだ」

 糸川がその手をどかせようとすると、朝陽は持っていたナイフを彼に向けた。街灯の明かりに反射して鈍く底光りするソレはまるで本物のようだった。

「早まるな! 話をしよう」

 驚いて糸川は、朝陽を刺激しないようにゆっくりと後退した。

「話すことなんてない。あんたはそのまま家に帰ればいいよ」

 恐怖はあったが糸川は動かなかった。意識のない雪を放っておけなかったからだ。彼の様子を見るに雪には手を出さないだろうが、万が一もありうる。それに、敵意が自分に向いていれば少なくとも雪は安全だ。

 どうにか男から刃物を取り上げようと糸川は頭を巡らせた。

「雪から事件について聞いたが……」

「馴れ馴れしく呼ぶなよ!」

 朝陽は糸川を鋭く睨みつけた。慌てて糸川は訂正する。

「雪さんから事件について聞いた!」

 反応がないのでそのまま糸川は続けた。

「あの話を聞いてなんか………違和感があった。明確にはわからないけど……。でも、もしかしたら君の話したことは作り話なんじゃないかって」

「は?」

 朝陽は不機嫌そうに眉根を寄せた。糸川は動揺した。彼にとっては山勘に過ぎなかったのに朝陽が予想外にも反応を示したからだ。どうにか言葉を紡ごうとした糸川だったが、その思考を遮るように朝陽が軽く一蹴した。

「何を思ったか知らないがそれは間違いだ。第一、根拠も何もないだろ」

 そのまま彼は雪を抱えてその場を立ち去って行く。糸川に止めるすべはない。歯噛みしながら見ていると、偶々手に持っているナイフに視線が行った。

「……凶器?」

 そう、ボソリと呟いた。と、振り返った朝陽と目が合う。その目は背筋が凍る程殺意で満ちていた。それに射貫かれたように耳に激痛が走った。耳に手をやるとぬるりとした感触がある。気の所為ではない。朝陽は糸川の顔面目掛けてナイフを投げていたのだ。これ以上詮索するな、そう言っているようだった。


 糸川が追ってこないのを確認して朝陽は歩き出す。街灯の無い小道に入ると煩わしい虫の啼き声も少しは薄れたかのように感じた。腕の中の雪は自分の胸に頭をもたれて安らかな寝息をたてている。その無防備な寝顔がたまらなく愛おしかった。

 雪の家に着いた朝陽は、彼を起こさないように服装を整えてやってから布団に横たわらせた。室内は外と同じくらい寒いのに、雪は息苦しそうに額に汗を浮かべてくぐもった声を漏らした。昨夜のこともあっていけないとは思いつつも、見かねた朝陽は雪のネクタイを解いて汗を拭った。

「朝陽……」

 ふいに雪に名を呼ばれて、起こしてしまったかと彼は焦った。しかしそれは単なる寝言のようで雪は目を閉じたままだった。胸をなでおろしかけたのも束の間、彼は喋り続ける。

「義父さん……義母さん……」

 ごめん、と雪は涙を流して繰り返した。どんな夢を見ているのだろう、彼はひたすらに謝り続けていた。それが余りに痛々しくて朝陽は見ていられなかった。

「兄さんのせいじゃない。もう終わったんだ。……頑張らなくて良い」

 届かないとわかっていても朝陽は雪に話しかけた。そして軽く頭を撫でて涙を拭いてやる内に、徐々に彼は寝息をたて始めた。完全に寝たのを見届けた朝陽は、その額にそっと口付け、布団をかけ直した。

 ずっと一緒にいたい、寝顔を見守りながらそう思った。だから朝陽は雪のスマートフォンに手を伸ばす。暗証番号はこの数日、観察して突き止めている。慣れた手付きでロックを外し、電話帳から糸川の電話番号を覚えておく。そして彼の手帳から白紙のページを一枚だけ拝借すると「施錠しとくように」と糸川の名を使って書き、目につくところに置いてやった。そこまでしてやっと朝陽は満足して雪の家をあとにするのだった。

 

 

 眩しい朝の日差しで雪は目を覚ました。泣き腫らしたせいで日差しが目に痛い。昨日の事は朧げにしか覚えていない。時計を見るにいつもより一時間は遅いようだ。これから支度しても間に合わないので、会社には遅刻する旨を電話で伝えた。ゆっくりと身支度しているとテーブルの上に糸川からのメモ書きが添えてあるのに気づいた。覚えてはいないが、きっと彼が自分を家まで送ってくれたのだろう。申し訳なく感じながら、シャワーをして、朝ごはんを食べて、荷物を整理し、家を出た。  

 会社に着くと、近頃雪の様子を見かねていた佐野部長は彼をあまり咎めなかった。むしろ連日不調な雪を見かねて、彼なりに何かしらの想像したのだろう、それとなく休暇を勧めてくれる始末だ。その優しい提案を嬉しく思いながらも断り、自分のデスクに戻った。その途中に雪は糸川に昨日の礼を言おうと声をかける。

 しかし、糸川は「気にするな」と笑って、それっきり昨日のことに関しては触れる気はないらしく、目の前の書類に再び戻った。雪にとってはありがたいことだったが、こころなしか素っ気ないように感じたのだった。

 それからその日はいつも通り過ぎていった。昨日すべてを吐き出したお陰か、仕事に黙々と専念することができた。そして気付けばもう帰宅時間になっていた。帰り支度をしながら朝陽について考えていると、タイミング良く当の本人から電話がかかってきた。緊張して電話に出たが、朝陽は要件だけ言ってすぐに通話が切られた。一方的な電話に拍子抜けして、しかし意味を測りかねてまた彼は頭を悩ませるのだった。 

 内容は簡潔で「二時間後に指定した場所に一人で来て欲しい」というもの。場所は雪の家の近くにある解体間近の廃工場だ。

 どう考えても嫌な予感しかしない。雪は迷った挙げ句、事情を知っている糸川に相談することに決めた。しかし、もう帰宅してしまったのか彼の姿は会社内のどこにも見当たらない。それどころか電話もLINEもメールも彼には繋がらなかった。仕方ないので彼に相談するのは保留して、雪は一先ず帰宅したのだった。

 考えあぐねている内に時間は刻々と迫っていって焦りが募るばかり。今か今かと扉に手をかけては離しを繰り返していると、この事態を見越したように糸川からメッセージが届いたーー。



 ーー朝陽が雪に電話した後。彼は既に廃工場に着いていた。そこは閑散とした広い空間になっていて、持ち運びが困難なために放置された重々しい機械だけが異様な存在感を醸し出していた。

 それから一時間もしないうちに主役が入場してきた。さて、と朝陽は目の前の男に向き直る。早朝から電話して約束を取り付けただけあって彼の警戒はすさまじかった。

「話ってなんだ?」

 朝陽によって呼び出された糸川は開口一番にそう切り出した。すると朝陽はにっこりと笑って言った。

「お願いしに来たんだ」

 聞き間違いだろうか、糸川が首をかしげていると、朝陽は手を振って大げさに「降参」というようなポーズをとった。

「あんたは昨日、事件について変に考えを巡らせただろう。兄さんに変なことを吹き込んでほしくないんだ。それが全くのデタラメでも、純粋な兄さんは悪く考えちゃうだろ。それにこれは家族の問題だ。だからこれ以上関わらないで欲しくて、それでお願いしようと思って呼び出させて貰ったんだ」

 つまりはそういうことだった。朝陽にとって雪に知られると都合の悪いことを糸川は見つけてしまったのだ。そして朝陽の発言で彼は自身の考えに確固たる確信を得た。

「あぁ、わかった」

 糸川の言葉に朝陽は喜んだ。

「そうか、ありがとう……!」

「違う。違和感の正体とその真相がわかったって言ったんだ」

 朝陽の期待を裏切って、糸川は言った。

「やっぱり君の話は作り話だったんだな」

「今度は言い切るな。なんでだ?」

 薄々わかっているだろうに朝陽は冷静に質問した。

「俺が抱いた違和感は昨日言った『凶器』だ……」

 糸川の仮説はこうだった。彼が思うに十年前の事件には決定的におかしなことがある。それは被害者と犯人との攻防で使われた『凶器』の存在だ。ソレを見たのは朝陽と雪の二人だけ、そして雪は凶器を『包丁』と言っている。当時精神的に混乱していたとはいえ、刃物の種類を明確に断言しているからには朝陽が凶器を所持していたのは事実だろう。また、『家から火の手が上がっているのを見て急いで駆けつけた』のだから当然駆けつけた時には火がある程度回っていた筈で、ここまで彼の証言には一切虚言や妄言はない。この時点で糸川には雪の記憶は正常で、逆に朝陽が雪に語ったことが嘘だったんじゃないかという疑いが生まれた。

 それはそうと、事実として事件現場では『ある程度火が回っていて』、『朝陽が凶器を持っていた』ことが言えるのだ。

「君はお父さんに『遠くへ逃げろ』と言われ、火だって回っていたのにどうしてすぐ逃げなかったんだ? 凶器だって捨てるよりかは持って逃げたほうが確実に安全だろ」

「親父が死んですぐに兄さんが来たんだ。だから逃げる時間はなかった」

 朝陽は煩わしげに舌打ちした。

「……火が回っていたことは否定しないんだね」

 糸川は朝陽が犯人と両親のやり取りを聞いた時の会話を指摘した。

 犯人は夫妻に『従わなければ放火する』と脅した。それに雪が駆けつけた時には放火されていたという。

「『包丁』は犯人が持ち込んだものじゃない」

 そう、犯人が脅しに包丁を使わなかった時点でそれが事実として言えたのだ。

 これを聞いて朝陽は小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「そりゃそうだろ。だってあれは自宅にあったんだから。俺は犯人が持ち込んだなんて一言も言ってないぞ」

「そうだね。なら、犯人が放火する必要はないんじゃないか?」 

「……は? 意味が分からない。アンタは何が言いたいんだ?」

 要領を得ない糸川に、段々と苛々し始めて朝陽は足を踏み鳴らした。

「整理すると……夫妻が犯人に抵抗するのに家にあった包丁を使った、これは分かる。だけど、結果的に夫妻は返り討ちにあって殺害された、これもわかる。問題はその後、夫妻が死んだのにどうして犯人が放火したのかだ。そもそも犯人にとって放火はたんなる脅しだったし、夫妻を殺害したなら放火する必要は無かった筈だ」

「いや、俺を焼き殺すためだった。または捜査を撹乱するためだったのかも」

「だったら目撃者である君は包丁で殺害されてないと可怪しい。捜査撹乱のための放火は考えられるが、君が生きてる内には絶対に放火はしないだろう。思うに犯人はその攻防で死んでるんじゃないのか? 放火はその後の何者かの犯行じゃないのか? そうなると口封じで夫妻は殺されたのかもしれない」

 その何者かは、唯一の生存者である朝陽以外にはあり得なかった。現場に存在したという『凶器』と生還した『被害者』、その二つはあり得ないことだったのだ。

 そこまで糸川の仮説を聞いて、朝陽はこれまでと打って変わってご機嫌になった。まるで渾身のいたずらが発見されたかのようだ。

「そうだ。俺があの場にいた全員を殺した」

 こともなげにそう白状したのだった。 

「ま、実際当時はそんなこと毛ほども考えてなかったがな……」



 朝陽は十年前を思い出す。

 あの日、朝陽は塾をさぼって帰宅した。彼は裏口から入って自室のある二階、自室ではなく同じ階にある雪の部屋に真っ先に向かった。案の定、雪はいない。ここ最近はいつもそうだった。ほんの二、三週間前の雪ならばとっくに帰宅して医学書でも開いている筈なのに……。原因は自分だった。というのも父や母が自分にも病院を継がせることことが出来ると主張したらしい。これを朝陽は苦々しく思った。

 実はこの話は雪が大学を選ぶ少し前から朝陽にだけ聞かされていた。しかし彼は「病院を継ぐ気はない」とはっきり明言して、雪に伝わらないようにした。雪がどれだけ病院を、父の跡を継ぎたいと思っているか、それは他でもない朝陽が一番知っていたからだ。それから中学に入ると今までと打って変わって勉強は真面目に受けず、非行にも走るようになった。

 当初、両親は粘り強く塾に通わせるなどして彼を更生さようと試みていたが、暫くすると何も言わなくなった。塾は相変わらず意味もなく通わされていたが、行こうが行くまいが怒られなかったし、交友関係や素行についてもたいして関心がないようで、口出しされることもない。次第に朝陽はきっかけになった話題自体を忘れていった。

 だから中学に入って二学期もそこらで、突然雪本人に例の話をするとは思わなかった。取り繕う暇なく家庭の空気は変わっていった。そのあとすぐ雪の朝陽を見る目が変わったのだ。恨めしいような悲しいような諦めたような冷たい目だった。

 朝日に雪がそんな態度をとったことはある一度を除いて、これまでにはなかったから、酷く動揺すると同時に底知れない恐怖をも感じた。雪にだけは嫌われたくない。どんな責め苦もそれには及ばないであろう、雪だけが朝陽にとってはすべてだった。

 いつからそうなってしまったのか、きっかけは思い出せない。でも、きっと物心ついたときから雪のことが好きだった。14歳年の離れた兄は幼い朝陽をとても可愛がってくれた。もちろん両親だって自分を可愛がってくれていたのは知っていたが、なんというか雪のは病的とも言えるほど度を超えていた。彼は朝陽が何をしても怒らなかった。思い返せばそれは怒らない、というよりかは怒れないだったのかもしれない。

 とにかく雪は朝陽に甘かった。朝陽に欲しいものややりたいことがあれば何においても雪は彼を優先したし、新しいものや珍しいものはみんなくれた。その溺愛ぶりを朝陽は当たり前のものとして疑わなかった。兄は自分のことが家族の中で一番好きなのだ、いつも優しい、何でもしてくれる、そんな憧れのような尊敬のような家族愛みたいな子どもながらの淡い信頼を雪に寄せていた。しかし、雪という人間性を理解出来ていなかったのを後に知ることになる。彼の核心を知らずにいれば、まだここまで執着するに至らなかったのではと今でも思わずにいられない。


 休日だったと思う、雪が勉強している横で朝陽が泣き喚いていた。理由は兄が遊びに付き合ってくれないというしょうもないもので、雪は困ったように顔を曇らせている。そう、両親や雪に蝶よ花よと育てられていた朝陽は絵に描いたような我儘になっていた。

 何度諭しても頑として聞き分けない朝陽に、雪は怒ってもよかったのだが、彼は一切せずに優しく宥め続けた。しかしそれも時間の問題といったところで、幼い朝陽は知ってか益々泣きじゃくるのだった。雪はこれに焦っている様子だったが、勉強を続けたいというのが本心だったから、中々首を縦には振らない。とうとう幼い朝陽は舌足らずな発音で思いつく限りの悪口を言い放った。

「雪兄ちゃのばか!」

 いちわる、あほ、ちね、などなど。雪にしてみればなんら気にすることもない稚拙なものだったが、最後に朝陽が発した言葉は思いがけず、彼の琴線に触れたのだった。

「パパとママに言いちゅけてやる!」

 バシンッーーと鋭い音がした。一変して雪が机を殴ったのだ。呆気に取られている朝陽に雪は静かに、しかし激しい感情を込めて言った。その様子を朝陽は一生涯忘れないだろう。

「……うるさい」

 怖かった……その声が。その瞳が。向けられた感情が。視線から心に憎んでいるような凄みを感じた。ただの怒りではない、尋常じゃないくらいの本音がそこにはあった。

 幼い朝陽でも分かってしまった……兄は自分を見ていないと。兄が見ているのは自分の背後にいる両親なのだと。やっとそこで、今まで優しさしかなかった雪の言動に説明がついた。両親に嫌われないために雪は自分に優しくしていたのだ。

 そう思うと不安と恐怖が全身に押し寄せた。まるで今居るところが足元から瓦解して、地獄のような底無しに吸い込まれるような心地だった。だって幼い朝陽はそれ以上の愛を知らなかった。誰よりも何よりも優しくて、自分のことを一番に考えてくれて、理解してくれる、そんな兄こそが一番好きで好かれてると思っていた。

「ごめん! 朝陽大丈夫?」

 言い過ぎたよな、と謝る雪を幼い朝陽はもう以前と同じようには見れなかった。兄のその姿がまるで、両親に嫌われたくない一心から必死に自分へ懇願しているように映ったのだ。

 それから朝陽は雪の行動に敏感になった。兄の一挙手一投足が気になって仕方なく、彼の前ではひたすら利口であろうとした。もう二度とあんな目で見られたくない、その一心だった。

 そうする内にこれまで分からなかった間島家の内情も見えてきた。例えば、雪と朝陽とでは両親の態度が違う。それはとても些細だったけれど、兄の様子を伺っていれば違和感を覚えるのは必然であった。両親と雪はお互いによそよそしい。つまりはどこか冷めている、水面下なところが空虚で、半端な気遣いからは尚の事距離を感じた。 

 同じ家族の一員なのに、どうして兄と自分とで態度が違うのだろう。小さな疑念は、やがて成長して雪が「養子である」と知ったことで、不快にも腑に落ちた。血がつながっていないという理由だけで雪を差別していたなんて、両親の手前勝手さと無責任さが自分事のように恥ずかしくて嫌になった。家族の関係を良くしようとして奮闘した時期もあったが、原因が分かって以降は、そういった努力は徐々に消極的になった。  

 けれど、依然として家庭内は朝陽が生まれてから今まで何も変化がなかった。彼の苦悩は家族の誰一人として気付かず、うわべだけ取り繕っている現状に違和感すら抱かない。いつだって両親は朝陽だけを可愛がるし、雪は両親に好かれたいがために朝陽を利用した。うんざりだった。馬鹿みたいだった。

 誰かが引き合いにされて得た押し付けるような一方的な愛も、違う誰かに振り向いて欲しいがために向けられた見せかけの愛も、朝陽には受け入れがたかった。少なくとも両親を選んでいれば人並みの幸せとやらは享受できたろう。しかし、朝陽は出来なかった。だって彼は知っているのだ、兄の両親に愛されたいという痛いほど切実な願いを。それだけ間近で雪を見てきた。

 朝陽が知る雪はいつも努力家だ。彼は一日の大半、夜遅くまで勉強をしている。朝陽は生まれてこのかた、兄が外へ遊びに行ったり、家に友人を招いたりするのを見たことがない。たまの息抜きに本を読んでいるのがせいぜいで、それも小説ではなく参考書や歴史書の類だ。趣味は人それぞれだと言うが、それにしたって娯楽が少なすぎる。気になって兄を外に連れ出したり、ゲームに誘ったりもしたが、彼の甲斐も虚しく雪は顔にこそ出さなかったがつまらなそうにしていた。そこで柄にもなく小説を買って渡したら、喜んで読んでくれたのが嬉しかった。でも、雪に親しい友達はいないし、両親にしか心を開かず勉強一徹の姿勢は変わらない。報われるかわからないのに走り続ける兄は立派で、見ていて痛々しかった。

 そんな兄だからこそ失敗をする。雪が朝陽の眼の前で気を失って倒れたことがあった。さっきまで平然と過ごしていたのに突如としてその場に倒れ、見ていた朝陽は心臓が止まりかけた。やがて原因がただの風邪だと分かって、自分を顧みない雪の行動に怒りを覚えると同時に、こんなになるまで追い詰めた両親や気づかなかった自分を責めた。もしこれが生死に関わる重大な過失だったら、自分の及ばないところで兄は一人で死んでいた……。また、兄を心から心配している自分と違い、こんな時ばかり雪に構う両親を、彼は世間体しか気にしない現金な人たちと軽蔑した。けれど当の雪は嬉しそうにしていて、そんな彼の様子にもやもやとした苛立ちを覚えた。

 そうやって雪を目で追う内に彼の兄に対する思いは募っていったのだ。ずっと、家族の誰も自分の心に立ち入らせまいと思っていたのに、気づかぬ内に朝陽はとっくに雪を選んでいた。兄に良くしてあげたい、両親に向ける関心のほんの僅かでいいから自分を見て欲しい、どんな形でも構わないから愛されたい。

 盲目的に雪に執心しきった朝陽は、彼に気に入られるための一切の妥協を許さなかった。雪の欲しい言葉をあげて、彼の望むように動き、努力して努力して雪の中に自分の位地を築き上げていった。雪の関心を得るためならどんなこともしたし、どんな犠牲も厭わなかった。



「十年前の今日、たまたまあの瞬間には状況を覆す手段があった。俺の目的とも合致していた。だから実行した。簡単なことだろ」

「簡、単……?!」

 糸川は絶句した。人を、ましてや肉親を殺害するのを躊躇いもなく手段として利用した男が信じられなかった。始めてだった……こんなにも悪辣なのに、どこまでも無邪気で、捉えようのないナニカ。正義感の強い糸川でも立ち向かうのが憚られる恐怖だった。この男にとって間島雪以外の全ては些末ごとなんだとそれだけ理解するのがせいぜいだった。

「兄さんは凄い人だ。優しくて努力家で頭が良くて一途で、不器用なところや自分に自信が持てないところも可愛くて守ってあげたくなる」

「だとしても。どうしてそこまで……」

「愛してるからだ。俺は兄さんを世界で一番愛してる」

 やはり糸川には理解できなかった。この男の価値観は常軌を逸している。

「頭がおかしい! 狂ってるとしか思えない!」

 彼は否定するように必死に言葉を浴びせかけた。しかし理解できないのは朝陽も同じだった。

「最善を尽くすことのどこがおかしいんだ? 誰だって欲しいものや達成したい何かがあったら、手に入れるために全力を注ぐだろ。俺もそれに足る努力をしているだけだ」

「おかしいだろ! 達成したいものがなんであれ普通は人を脅したり殺したりはしないんだ。普通はもっとこう……勉強したり技術を磨いたりして………とにかく理性に基づいた行動をする。だいたい愛されたい、愛したいと想うだけなら努力もなにも必要ない」

「それはアンタが本当の愛を知らないだけだ」

 侮るようなその声は鼻先を擦るようなむず痒い気配を含んでいる。今までになく馬鹿にされた気がして糸川は憤った。更に挑発するように朝陽は、くっくっと笑いながら彼と距離をつめた。

「アンタみたいな生真面目ヤロウにはわからないだろうけど、人を変わらず愛しく思い続けるには努力が必要だ。それは相手を真に理解して受け入れることだったり、自分の全てを投げ出せる覚悟を持ち続けることだったり……。だから俺は兄さんの醜い部分すら愛おしいよ。俺の行いが兄さん以外の人間の不幸だとしても兄さんの為なら俺はなんでもする。別にこの考えを正当化するわけじゃないが、俺にしてみればどうしてそこまで想えないのか、頑張れないのか、理解に苦しむよ」

 なんて傲慢で身勝手な言い分だろう。逆に感心して言葉も出ない。よく考えた後に糸川は朝陽を正面から見据えた。

「俺には君の考えは理解できない。だってそこに雪の意志はないじゃないか。君自身が雪を思うこと自体は自由だと思う。けど、雪の周りに影響を及ぼすのなら話は別だ。相手の何もかもを掌握しようとするなんてのは間違ってる! 雪だってそんなことは望んでいないはずだ。君の言う愛は、いわば執着にすぎ……」

「うるさいっ、黙れ! 間違ってるかどうかなんてどうでもいい!」 

 これ以上聞きたくないと朝陽は頭を掻きむしって叫んだ。まるで癇癪を起こした子どものようでとても手に負えない。

「お前が俺と兄さんの何を知っているっていうんだ! 虫酸が走る! ただ兄さんは、綺麗なまま俺に愛されてればいいんだ……!!」

「なっ……」

「もういい! 話すだけ無駄だな、終いにしよう」

 朝陽は一方的に言葉を切ると、ポケットに手を突っ込んだ。

「何をする気だ……?」

 ゆっくりとにじり寄る朝陽に糸川は恐怖した。尋常じゃない気迫を纏った朝陽は無言で彼の方へ近づいていく。初めて相対した時と重なって、糸川の頭の中で警鐘が鳴り響いた。とはいえ、この事態を予想せず、警戒もなしにのこのこ呼び出しに応じるほど彼は馬鹿ではなかった。糸川は鞄に忍ばせていた袋を取り出し朝陽に見せつけた。

「これがなにか分かるか?」

 透明な袋の中身はあの日朝陽が投げつけたナイフだ。

「これを警察に渡したら余罪はともかくきっと取り合ってくれるはずだ」

 これを聞いてやっと朝陽は立ち止まった。

「それは俺を脅してるのか?」

 糸川はごくりと唾を飲み込んだ。緊張が張りつめた弦のように両者の間を結んでいた。外気の冷たさが妙に際立ち、首筋や手がこわばる感覚がじわじわと神経を蝕んでゆく………先に耐えられなくなったのは糸川だった。

「……俺は、別に君を脅そうだなんて考えちゃいない。ここにはただ、話し合いをしようと思って来ただけなんだ………から」

 こちらに敵意はなく、あくまで穏便に解決したいだけだと糸川は訴えようとした。

「だからアンタは駄目なんだ」

 そう誰にも聞こえない声で朝陽は呟いていた。露も知らず糸川は絶体絶命の窮地に追い込まれた。和解という希望は跡形もなく消え去り、問答無用で死の恐怖が迫ってくる。 

「どうやったってアンタには理解できないし、して欲しいとも思わない」

 後退する糸川に朝陽はゆっくりと一歩、また一歩と距離を詰める。取り返しのつかない状況になって初めて、糸川は後悔した。全部がどうでも良くなるくらい怖かった。

 ーーどちらか選ぶしかなかった。

「ただ普通の家族でいたいだけなのに、努力しないと居場所を保てない。そんな窮屈さを味わったことあるか?」

 怖くて怖くて逃げれるものなら逃げたかった。どうして、今、自分はここにいて、こんな恐ろしい男に立ち向かっているんだろう……。

 ーー過度な愛情も過分な生活もいらない。

「見て欲しいだけだ、側にいたいだけだ。でもこんな俺では見向きもされない……」

 たかが同僚のためにここまでしてやる義理はないんじゃ……なんて普段なら絶対に思わない馬鹿なことをーーでも実際に窮地に立たされたからこそ思う本音で……やっと自覚して、いや思い知らされていた。

「来ないでくれ………やめ……。く、来るな! 近づくんじゃない!」

 ーー他人に分かられてたまるか!

「落ち着けよ、な」

 殺意むき出しで朝陽は微笑んだ。

「……っ来るなあぁあァァァ!」


 ーーーそこからは一瞬だった。

 きっと本当に死の淵に立たされた時、人間は何も反応できないのだ。痛いだとか怖いだとかそんな感情を置いてけぼりに、ただぶつかっただけのような感触のみがあった。まるでスロー再生される映画だ。作り物みたいな赤い液体がしとどに溢れて床一面に花が咲く。茫然と、茫然と濡れる自分を見ていた。

「は?」

 苦痛はない、恐怖はない、絶望はない、あるのは驚愕。ーーー男は自身を刺していた。

「何、して……?」

 答える間もなく朝陽は膝から崩れ落ちた。糸川の手は真っ赤な液体で濡れている。それが偽物なのか本物なのか、震える手では判断がつかない。

「ッハ! ……は、ぁ………こんなもんか」

 朝陽は自分の身体に、袋を突き破ったナイフが深々刺さっている様子を糸川以上に冷静に観察している。

 痛みなんてこれっぽっちも感じてない様子ーーかと思いきや、思い出したかのように、或いは時間が巻き戻ったかのように叫びだした。

「あぁあァァァ! 痛い! 痛い痛い痛いぃ! なんてことするんだお前! 死ぬ、死んじゃうよ!」

 助けて兄さん、と朝陽は泣き出す。あまりの豹変ぶりに糸川は呆気に取られた。更には、

「朝陽!」

 と雪の声だ。「大丈夫か」と雪が駆けつけるのを見て、しまったと思った。よりによってこんな最悪な場面を見られるなんて。糸川が説明するよりも早く、朝陽が雪に倒れ込んだ。

「あ、あいつが俺のこと脅して刺してきたんだ。俺は兄さんを心配してただけなのに……!」

 見方によっては限りなく糸川が悪い方向へ誘導される話しぶりだ。

「馬鹿な! それは君が……」

「本当のことだろ! っう……!」

 痛みに朝陽は顔を歪めた……ように見える。

「ごめん、糸川。悪いけどちょっと黙ってくれ。朝陽も、安静にしてないと」

 その言葉を聞いて、朝陽はにやりと微笑んだ。糸川にしか見えないように「ばか」と口を動かし、ポケットからスマホを取り出して勝ち誇ったように手を振る。

 完全に糸川は朝陽の罠にかかってしまっていたのだ。きっとこうなるのを予想して朝陽は雪を廃工場に呼び出していた、おまけにスマホは通話中となっている。多分、彼にとって都合の良いところから雪に電話で流して聞かせていたのだろう。そう考えると、怪我も本当かどうか怪しいところだ。血糊でも仕込んでいそうである。裏付けるかのように朝陽は怪我に触らせないように雪を遠ざけた。

「どうすれば………」

「待ってくれ! 事情はわかるよな? 詳しく説明を……!」

「聞くことないよ兄さん! 全部あいつが悪いんだ!」

 三者が三様にパニックに陥っていた。

「なぁ! これだけははっきりさせてくれ……!」

 罵り合っていた二人は雪の声で同時に押し黙った。

「これ、糸川がやったのか?」

「ちが……」

「そうだよ」

 朝陽は断言する。負傷した本人の証言の方が有利なのは確かで、雪は「そうか」と肯定を示した。

「よく考えてくれ雪! そいつに嵌められたんだ。きっと怪我だって嘘に決まってる!」

 糸川が朝陽に掴みかかろうとしたので雪は慌てて間に入って制止した。

「……すまないが糸川、ここから出ていってくれるか?」

 雪の言葉に糸川は何も言えなくなり、失望から硬直してしまう。結局、かける言葉もなく、彼は項垂れながらその場を後にしたのだった。

「ありがとう、兄さん。俺……」

「誤解するなよ。俺は別に糸川が悪いだなんて全然思ってないからな」

 雪に見透かされたように見つめられて朝陽はたじろいだ。

「……実はお前に指定された時間より一時間早くここに来てたんだ。だから糸川とのやりとりも何もかも一切合切聞いてたんだよ。大体、二時間前に連絡よこす奴があるか? 俺がぎりぎり間に合う少し前に連絡すれば完璧だったろうに……」

 そうしなかったのは果たしてたまたまだったのか、それとも……。

「いや、兄さんのことだから、そうそう早く来ないだろうと思ってたんだけどな。それに外は寒いし。風引いちゃわない?」

 確かに、糸川から連絡がなければここに来てるかも怪しいし、あながち否定はできない……。

「ぬかせ、寒いごときで外出を渋るか。……それはそうと、事実を知った今、本当はお前を見捨てて行っても俺は良かったんだからな」

「じゃあ、なんでここに残ったの?」

「それは……」

 さっきの言葉に一瞬自分が重なったからだーーずっと、朝陽は全てを手にしていると思っていた。裕福な家庭に望まれて生まれて、両親に愛されて、将来も約束されている。そんな偽物の自分とは正反対の弟を、羨ましくていつも見ていた。

 ーーでも、違っていたのだ……!

「……ほっとけなかった。怪我してんだろ、それ。流石に糸川が刺すとはお前も思ってなかったろうしな」

「医者志望の雪兄さんにはお見通しか」

 朝陽は大人しく傷を見せた。

「『元』医者志望だ」

 気に食わない様子で朝陽は顔をしかめた。気付かないふりして雪は手当てし始める。

「危険な出血量だと思ったけど、安心した。なるほどな、ほとんどが血糊か。傷もそこまで深くないし、全くどこまで予想してたんだか……」

 心配するだけ損だったと呆れる雪に、朝陽は不満げに説明する。

「俺だってあいつがあんなに勢いよく突き出してくるなんて予想外だったよ! ……まぁ、でも、計画ではあいつに刺されたように見せかけるだけで無傷の予定だったから、雪兄さんに心配されるならむしろこうなって逆に良かったのかも」

 ポケットからまた違う小型ナイフを取り出して得意げに言うので、雪は止血する手に加減せず思い切り力を込めた。

「自分から当たりに行くなんて……! 同情の余地は欠片もなかったな!」

「痛っ、酷いな兄さん。悪化したらどうするつもり?」

 大袈裟に朝陽は痛がって、とうとう雪はため息混じりに笑った。

「別に、どうもしない」 

「ちぇ」

 何事もなかったように二人は笑い合った。そこにあるのは仲の良い兄弟ーー朝陽が望んだ、雪が当たり前に思っていた、実際はあり得なかった家族の形。

「…………朝陽、話をしようか」

 ひとしきり笑った後に雪は言った。

「……あぁ。答えは出たみたいだね兄さん」

 夢が覚める。冷たい季節が温かく移ろい、やがてその時分の苦労が懐かしく感じるように。このわだかまりも風化して、ただの思い出になれるだろうか。

 


 二人で自宅に帰る途中、全身を打つような激しい霰に見舞われた。部屋に戻った今、騒々しさは掻き消えて、小雨のしとしとと優しい音が空気を包み込むように響いている。

 霰が貼り付いた服を脱ぎ替えて、朝陽の傷を手当てし終えるとやっとその場に二人は腰を据えた。雪は一途に、朝陽を見据えるように向き合って座っている。

「朝陽。俺はお前に聞きたいことが山程ある」

「俺もだよ、雪兄さん」

 多くのすれ違い、多くの確執の元に二人は今ここにいた。聞けなかったこと、言えなかったこと、向き合えなかったことと初めて相対しているのだ。

「お前と一緒に暮らすかどうか、それに答える前に先ずはそれらに方を付けたい」

「いいね。俺はなんでも答えるよ。けど兄さん、勿論俺の質問にも正直に答えてくれるよね?」

「そのつもりだ」

 断言する雪にこれまでの迷いは微塵も感じられない。

「朝陽は俺のことをどう思ってる?」

「最初の質問がそれとは……照れちゃうな」

 「兄さんはどう思う?」と朝陽は微笑みかける。

「質問で返すなよ……。ふざけてるならここで止めるぞ」

 辟易した様子でじとりと見る雪に、すぐさま朝陽は謝って、姿勢を正した。

「兄さん……間島雪は俺にとって唯一無二の存在で世界で一番大切なひとだ」

「お前こそよく恥ずかしげもなくそんな事言えるなーーで、それは家族としてか?」

 雪だって知っている。こんな分かりきったことを今更確認するなんて馬鹿げていて滑稽だと……。悪足掻きをしている自分を雪は心から自嘲していた。

 そんな雪の気持ちがわかっているみたいに朝陽は悲しげに見つめてきた。

「どうだろ……? 自分でもよくわかんないや。一言で済ませられる気持ちじゃないのは確かで、でも……家族としてだけではない、と思う……」

 どんな顔をしているのか、どういう反応を返したらいいのか雪にはわからなかった。けど、今返せることを正直に言うべきだ。

「朝陽。俺は、俺の気持ちは……」

「止めて兄さん」

 止められたことで、雪は言いかけていた言葉を飲み込んだ。たまらず目を逸らす彼に朝陽は気にしてない風に明るい声で話を変えた。

「次は俺が質問する番じゃない? あと、別に質問以外の事は無理に言わなくて良い」

 この安易な提案を突っ撥ねるほどの度胸はなくてほっとしている自分がいた。

 かと思いきや、

「兄さんは俺のことをどう思ってる? 具体的には、俺のこと好きか嫌いか」

 なんて意地の悪いことを言うのだった。でも、そうやって改めて聞かれるとさっき答えようとしたのとはまた違って、考えさせられることがある。ーー自分にとって眼の前の男はなんだろう?

 血のつながっていない弟。家での自分の地位全てを攫っていった間島家の跡取り。間島雪を愛している男。そしてーー。

「可哀想なやつ……」

 咄嗟に出た言葉は朝陽だけでなく、雪自身をも混乱させた。

「あれ? 何言ってんだろ俺……」

 どうかしている。なんでそんなこと思ってしまったんだろ。

 むしろ可哀想なのは自分じゃないか。ーー朝陽には居場所を取られた。朝陽のせいで逃げる羽目にもなった。会いたくないのにしつこく会いに来るし、向き合いたくないのにここに居る。

「お前のせいで酷い目ばかりあってるのに……なんで………?」

 ーー解らない。

「……分からない。判らない……けど、でも、俺のせいでお前は子どもの時のまま大人になったんだって思って……」

 止まらず溢れてくるのは押し込めてきた積年の苛責だ。

「俺はお前のことを羨んでた。嫉妬してた。だから、腹いせにお前のことを無視し続けてたんだ。お前が抱えてた悩みは俺にとって無関係じゃないのに、悩んでるお前を傍観して馬鹿にしてできっこないって……」

 ーー期待するほど悲しくて、他の誰かを恨まずにはいられなかった。

「お前の気持ちも本当は心の何処かでわかってたのかもしれない。でも、なんでも持ってるお前にはこれ以上奪われたくないって、勝手に意地になって……!」

 望めばそれこそどんな関係にでもなれたのに、頑なに拒んでいたから捩れて縺れて絡まって二人ともこんなになってしまった。

「戻れるならあの頃に戻りたい。戻れたら……」 

 もし、やり直せたらーー今度はきちんと向き合うのに。そうしたら何かが変わっていたかもしれない。

「兄さん」

 朝陽は悲痛そうに首を振った。

「過去にはどうしたって戻れないよ……」

 彼は机の下で固く拳をつくり必死に堪えていて、雪は顔を上げたままでいるので精一杯だ。

「俺たち望むまま愛を求めて大人になった。今では……兄さんに執着しちゃう俺で、俺を好きになれない兄さんで、お互い後悔するには遅すぎた」

 あるがままの事実が淡々と机上に並べ立てられていく。雪はゆっくりと固く目を閉じ、またゆっくりと目を開けたあと、それらを受け入れた。

「じゃあ、俺がお前のこと嫌いって言っても怒らないのか?」

 「怒らないよ」と朝陽は消え入りそうな声で肯定する。

「好きって言ったら信じるのか?」

 「多分無理だ」と朝陽は力強く否定する。ーーどちらを選ぶかは決まっていた。

「『好き』になろうとしたい、今から思うには遅すぎるか………?」

 どちらも選べないと分かっているからこその曖昧な答え。朝陽はそれをーー。

「構わないよ」

 受け入れた。

 この感情、この関係、この真実がどういう結果になろうとも、今この瞬間だけでも通じ合えたのなら、それこそに意味があるのだろう。

 未だ雪の中には劣等感や羨望といった耐えられない想いが渦巻いている。『頑張らないと此処には居られない』そう思っていた過去の自分だって覚えている。けど、『努力しないと居場所を保てない』そんな朝陽の言葉を聞いてしまった。

 ずっと、朝陽は全てを手にしていると思っていて、でも違っていたとわかった。きっとこれはーー喜悦だ。だから今はこの仮初めを演じてやってもいいと思った……なんてこと、きっと一生朝陽には言えない。

 

 「ところで兄さん、他に聞きたいこととかある?」

 雪が落ち着いた頃合いで朝陽は切り出す。すると彼は言いにくそうに質問してきた。

「なら……十年前の事件の、真相とか……?」

 朝陽は口籠った。別に話せないこともないが、どう話すかが問題だ。

「……その言い方だと兄さんはやっぱり俺がやったんじゃないって信じてくれてるってこと?」

 「まぁな」と不本意そうに雪は答える。先程もそうだったが、今度は我慢できずに笑みがこぼれた。どうしてそう思うのかわざとらしく尋ねると、ことのほか雪は率直にこれまでの見解を淡々と話し始めた。

「お前のこれまでの行動にはどれも一貫性がなくて、嘘が含まれてるからだ」

 朝陽が長年雪を見てきて、彼のことをよく知っているように同じことが雪にだって多少は言えるのだ。

「お前って昔からやることに躊躇がないよな……」

 「おまけに無駄がない」と雪は思い出を交えながら話す。計算高く、実行力のある朝陽の高い能力値は彼の幼少期から片鱗が見え、周りや雪をおどろかせたものだ。とはいえ、年を経る毎にそれは鳴りを潜めていたが、経営者としての才能があると雪にはわかっていた。

「そうかな? 俺は割と上手くいかないことのが多いよ」

 軽口を叩く朝陽を無視して雪は続ける。

「まぁ、だからお前が色々と矛盾する行動をして一貫性がないのは普通に気になってたんだ」

 十年前も再会した時もまるで「両親を殺したのは自分だ」と雪に誤解を与えるような発言を度々している。それなのに十年越しに会いに来た理由が「また一緒に暮らしたい」だなんて……果たして雪を遠ざけたいのか近づけたいのか?

「ここまで執着しているのに今まで一度も顔を見せず、十年経って会いに来たのもそうだし、今回の呼び出しのときだって俺にまずいところを聞かれる可能性があったのに、早い時からわざわざ電話をよこして予告した」

 朝陽がボロを出してしまったのか、わざとなのか、雪にはわからなかった。

「それが意図的なものかどうかって俺は悩んでたんだ。お前が何をしたいのか、俺に何をさせたいのか、どう動くべきかってさ。でも、お前のことを思い返してる内に、ふと思ったんだ……もしかしたらこの状況こそがお前の始めっからの目的だったんじゃないかって……!」

 的を射る雪の推論に朝陽は内心興奮していた。好きな人に暴かれていく快感とでもいうのだろうか、拳を握る手に力が入る。

「十年前も今もお前は俺からなにかを隠したかったに違いない」

 人が意図的に矛盾する行動を見せる時、それは誰かに本質から目を背けさせようとしている時だ。

「お前が俺に隠しているものは何だ? 真実は?」

 「本当のことが知りたいんだ」と雪は神妙な面持ちで朝陽に迫った。

「聞いたら後悔する筈だ。それでも聞きたいの?」

 拒否する訳もなく、雪は頷いた。一呼吸置いたあとに朝陽は話し始める。

「ーー十年前の事件、確かに犯人は俺じゃない」

 一瞬だったが雪の安堵した表情を朝陽は見逃さなかった。

「で、犯人は一体……」

「その前に兄さん、兄さんが養子にもらわれた理由って知ってる?」

 突然の話題に雪は怪訝そうに眉を潜めた。

「理由も何もない。両親には後継者となる子どもがいなかったからで……」

「何で後継者がいなかったの?」

 朝陽は追求をやめなかった。事件の真相が気になる雪にとってはそれどころではないのだが、朝陽は一向に辞める気配はない。

「兄さん、間島家がどんな家か知ってるよね。世襲制で代を重ねて大きくなっていった私立病院を営む経営者の一族」

 勿論雪には知っているし、この場では周知の事実だ。

「そんなのは……」

「知ってる? じゃあ、家系や及ぼす利益の規模がどれだけかもわかるよね。で、世襲制ともなれば内輪なんかでそれぞれ思惑を孕んだ派閥とかが生まれるものなんだ」

 雪は内容を飲み込みつつ、かつて自分がいた立ち位置について再確認していた。少し雲行きが怪しくなりつつある会話に次第に雪ものめり込んでいく。

「当然、分家だってそれに近しい有力者の家系の者だって沢山いた。俺たちは本家で、それは現当主の医院を継いだ親父がいたからだけれど……。親父に実子がいなくとも分家とかから養子をもらえばいいわけで、まして外部からわざわざ血の繋がりのない養子をとらなくてもよかった筈なんだよ」

 そんなことは雪も知っているし、どうしてかは考えたこともある。

「それは……どんな思惑にも左右されず、どの派閥にも属さないためじゃないのか?」

「まぁね、それもある。けど、結局は親父だけが最終決定をくだせる位置なのは変わらない。どれかしらの派閥に属したところでそこまで困ることはないよ」

 「むしろ得られる利益のが大きいと思う」と朝陽は当時の情勢を熟知しているようだ。

「つまり、派閥争い以外の別の要素があって外部の俺を養子にしたってことか……?」

「う〜ん、少しはそうなんだけど、違くて……。ようするに派閥争いの根本が親父傘下の意見の対立ではなく、もっと深いところにあったってことが言いたくて……」

 難しそうに朝陽は頭を捻る。

「えと、そうだな。兄さん、親父の名前を言ってみて」

「はぁ?」

 突然の変化球に雪はま抜けた声を出した。わからないまま『間島 裕次郎』と懐かしい名前を口にする。

「うん、だからね、名前から想像できるように親父には兄弟がいたんだよ」

 言われてみれば確かに『次』という漢字を一人っ子の名前につけるとは考えづらい。

「でも俺は義父さんに一度もそんな話は聞いたことなんてない」

「だから隠してたんだよ」

 そこから朝陽が語りだしたのは今ではもう、彼しか知り得ない間島家の秘密だった。



 H19.2.18ーー。

 未だ亡き我が子、裕明を思わぬ日はない。けれど今日は新しい家族ができた。外見はとても裕明に似ているが、性格は全く違う。初めて家に上がった時なんて玄関に入るのにも許可を求めてきた。所作が丁寧で失敗を恐れるような素振りが多々目立つ。幼いのにしっかりしているようだ。これから少しずつ慣れていってくれるといいのだが……。


 このような文で始まった、おそらく雪が来たであろう日にちから書かれた父の手帳を、丁度事件の日に朝陽は見つけていた。

 手帳の最初は雪のことばかりで、自分が生まれたあとは二人のことが沢山書かれていた。仕事に忙しい理由や悩みの種、更には雪が来る以前のこともそこには記されていた。 

「嘘だ……。だってあの人は俺のこと気にかけてくれたことなんてなかった」

 朝陽は否定する雪に理由を順に説明しだした。

「それは仕事だけじゃなく、身内のことで忙しかったからだよ」

 度々書き込まれていた苦労の大半は派閥同士の対立に関してだった。

「親父には兄がいて、その人が本来は医院を継ぐ筈だったんだ」

 その兄が突然の事故で他界したことで、自然的に弟であり彼らの父であった裕次郎が家督や医院を相続した。しかし、死んで尚、例の長子を支持し、現当主を否定する派閥が少なからずいたのだという。というのも、本来当主になる筈であった間島祐一という男は、生前は奔放な性格で知られ、いわゆる『お飾り』として操りやすく、取り入りやすい人物だった。故に利益を独占したい者や後ろめたいことがある者にとっては当主として都合の良い人物であったのだ。一方で次男の裕次郎は優秀で、真面目一辺倒かつ清廉な男だ。不正や甘言などは聞き入れもしない。そういった裕次郎の当主として出来すぎた面や、祐一の、遺体が見つからぬ突然の事故死は、一部の後ろ暗い輩や血統を重んじる堅物共に不満を抱かせた。

「遺体が見つからなかったのはやっぱり大きかったんだと思うよ」

 激化する派閥争いに次いで、次期後継者の裕明の死。後釜にと我が子を差し出す第二の派閥争い。

「ここまで複雑化した内情をまとめるには第三者を後継にした新たな構成が必要だったんだ」

 そこで雪が選ばれたのだ。

「じゃあ……」

「うん。親父やお袋が特別兄さんに厳しかったのはそのせい」

 改革を担う次期当主としてこれまでになく優秀さが求められる。でなければ傘下の者をまとめ上げる事はできない。

「仕事にばかり忙しいと思ってたけど実際は兄さんの基盤を固めるために動き回ってたんだよ。俺が生まれたせいで今度は俺に継がせようって勢力が出来ちゃったから……」

 雪に構える時間がなかったのも、厳しい教育も重圧も、全部全部雪を思ってのことだった。

「いや、でも、結局義父さんや義母さんは朝陽に医院を継がせるって……!」

「それにも理由がある」

 長年綴られてきた日記の内容だと言って朝陽はそこに書かれていた父の気持ちを代弁する。

「親父はずっと兄さんに負い目があったんだ……」

 それは自由に育ててあげられなかったこと。必要なことだったとはいえ、厳しい後継者教育を施してきた。雪や朝陽の誤解は確実にこの父の態度に起因している。

「兄さんは傍から見ても無理して頑張っているのがわかった。当事者である親父からしてみれば兄さんが嫌嫌やってるように映ったのかもね。だから、最後の最後は兄さん自身が自分の人生を決められるようにしたんだ」

 もしかしたら十年前の誕生日にこれらを話そうとしていたのかもしれないと朝陽は言った。雪は理由もわからず茫然自失となった。胸の内を色んな感情が締め付ける。

「嫌嫌だなんて……思うわけ無いだろっ」

 最初は自分を誇示する手段だったかもしれない、けれどいつしか本当になりたいものになっていたのだ。

「朝陽、事件の犯人は誰だ」

 今さらどうすることもできない行き場のない怒りが湧き上がる。

「ーーー現状を良しとしない父の傘下の者だ」

 薄々話の流れ的にも分かっていた。実につまらなくやるせない結果だった。

「そうか……。一応聞くが、首謀者は?」

 朝陽は首を横に振る。あの火事でほとんどのものは燃え尽きてしまった。犯人の遺体も例外ではなく、身元が判明できないほどやられていた。朝陽が犯人の顔を見ていたかは定かでないが、見ていたとしても僅かな時間では覚えられないだろうし、調べるには情報が少なすぎる。

「俺が前に兄さんに話したことはほとんどが嘘なんだ。ごめん。本当はあの日、俺が帰ると親父が部下らしきそいつと口論をしていて最悪の事態に発展してしまっていた。それで殺し合いみたいになって……本来ならそこで犯人は死んでいたんだ。それで、だから、その後放火したのは俺なんだよ……」

「な……」

 放火したと聞いて驚いた雪だが、何か理由があると思い直して平静を取り戻す。

「親父はまだ息があった。けど、俺を庇ったせいでそう長くはなかった……。それで遺書とでもいうのかな……、俺に手帳を渡してそのままーー」

 あとのことは容易に想像がつく。朝陽はその内容を見て自分の過ちや雪の誤解に気づいたのだろう、すぐにでも知らせたいと思ったはずだ。しかし、同時にこうも思った「もし、今回の件を兄が自分のせいだと考えてしまったら」と。実際、あの頃思い詰めていた雪に全ての事実を知って受け入れるだけの余裕はなかった。しかも、その思い詰めていたことが自分の勘違いと分かってしまったら、きっと雪は壊れてしまう。だから真実を葬り去った。当時連続していた放火魔の仕業として一切合切を焼き払った。多少雪に不審がられてもいいからと進んで悪役を買って、火が広がるまでの時間稼ぎもした。

「もし、俺が養子にもらわれなければ……。朝陽が家を継いで、平穏無事に過ごせていたのか」

 雪は苦しそうに呟いた。

「それは違う。どこにだって粗探しをして人を貶める連中はいるもんだよ。未だに俺の元にはそう言ったクズが甘い汁だけ吸いに集まるんだから。それに、兄さんを利用しようとする薄汚い害虫も一掃出来ずに蔓延ったままさ」

 歯噛みする朝陽は怖いぐらい邪悪で怒りの籠もった顔をしている。

「今になって俺を訪ねてきたのもそれが原因か?」

「……あぁ、そうだよ。やっぱり俺は兄さんみたいにはいかないな。兄さんが居なくなってしまった時からずっと俺なりに頑張ってきたつもりだったんだけど、どうにも厳しくしすぎたみたい。俺を非難する奴らが団結して、更には兄さんまでも利用して俺を排斥しようって派閥が生まれつつあったんだ。知っての通り、間島の持つ影響力は大きい。兄さんの会社からだったり、人を使ってだったり手段問わず接触を図る動きがあった」

 「覚えがあるでしょ」と朝陽に言われ、糸川が前に話していた大手企業がふと思い当たった。あれは確か間島と関わりがある投資企業の一つだったはずだ。

「迷惑をかけたな」

 頭を下げる雪に慌てて朝陽は顔をあげさせる。

「兄さんのせいじゃないから……!」

「いや、俺のせいでお前には色々と苦労をかけた。お前の言う通りだったよ。俺は何も知らないままお前に護られて甘えてばかりだった」

 おもはゆい心持ちで朝陽は雪の謝罪を受け入れた。

「そういうわけで! 兄さんはこれからどうしたい?」 

 全てのことを知った今、これからの選択は雪の自由だ。しかし、朝陽はできることなら一緒にいたいと、ありのままの気持ちを伝えた。

「お前のこれまでを聞いて俺はお前と一緒にいたいと今では心の底から思う」

「兄さん……!!」

 感極まって朝陽は机越しに雪に抱きついた。

「馬鹿っ! 離せ。机があたって痛い」

 

 ーーそれからはあっという間だった。雪の住居は次の日中には売り払われ、荷物もあっという間に業者に運ばていった。会社には朝陽が丁重に説明をし、引き抜きという形で退職手続きが滞りなく終わっていった。お世話になった人たちに挨拶して名残惜しくも雪はデスクを片付け、会社をあとにした。一番親しかった糸川に何も言えず去るのが唯一の心残りだった。

 同居を勧めてきた朝陽には悪いが、それだと甘やかされてしまうような気がして雪は期限つきで朝陽に用意してもらった寮の一角を間借りする形ことにした。寮は現場で活躍しているスタッフばかりなので、雪としては参考かつ賑やかで住心地が良かった。前の会社で貯めた貯金で当面をしのぎつつ、勉強して十年のブランクを早く取り戻すつもりだ。朝陽は研修医として病院に置いてくれるそうで、それについてもありがたいことこの上ない。最低で二、三年、例え更に時間がかかろうとも諦めようとは思わない。また、朝陽との関係も上手く続いていて、彼は三日に一度の頻度で雪のところを訪ねてくる。最終的にこの関係の名に決着をつけなければいけないのだろうけれど、今はまだこのまま穏やかに時間が過ぎればいいと思っている。



 今日も朝陽は雪のところを訪ねにきていた。勉強は順調なようで、やはり素質があるのだろう、どんどん知識を身に着けている。このまま現場入りするのもそう遠い未来ではないだろう。今自分がいる地位もいつ明け渡すことになるのやら。とはいえ、まだ時間はたっぷりある。いつ思い返しても雪が自分を選んだことについて笑いが止まらなかった。こんなに上手くいくとは朝陽自身も思っていなかった。

 だって、父の手帳の内容にはまだまだ重要なことが書かれていたから。しかし、それを雪が知ることは一生ない。

 曰く手帳に書かれていた拭えない可能性に「雪が間島祐一の実子だったのでは」というものがある。なぜなら男は奔放人で、浮足立った黒い噂が絶えない度し難い人であったからだ。しかし、他でもない実の兄を毛嫌いしていた父が自身の手によって遺品を全て処分してしまっただけに証明のしようがなかった。それでも雪がそうである可能性を捨てきれなかった。それほどまでに雪は亡くなった実子や自分の兄に他人とは思えないほど見た目が酷似していたのだ。

 だから、朝陽が雪に言ったように父が雪を気にかけていただとか、雪に医院を継がせるつもりだったとかそんなものは何一つとして書かれていない。そもそも手帳には感情なんて一つも書かれておらず、淡々と事実を書き留める記録媒体にすぎなかった。朝陽にさえ父の真意は正確にはわからない。ただ一つ言えるのは朝陽にとって例え実父の遺品であろうがなんだろうが、雪を手に入れるためなら事実を折り曲げそれを手段として利用するだけにすぎないということだ。

 そして、十年越しに再会したあの感動がずっと焼き付いている。疲労が溜まって疲れたような目には離れていた分の年月を感じたし、身長も縮んでいるように思えたけどそれでもそこにいたのは紛れもなく、夢にまで見た十年前の、あの頃と変わらない雪だった。身長に関しては自分が成長してしまったからだろう。再会した時から朝陽は家族のように、友達のように、恋人のように雪を愛すると決めていた。今度こそ絶対に逃したりはしない。どれだけ時間がかかっても兄をーー「間島雪」を絶対に手に入れてみせる。力強く拳を握りしめ、そのまま雪の待つ部屋の扉を叩いた。

 ここまで読んでいただきありがとうございます。

 この作品は始めは一万字程度にする筈だったのですが、書く内に楽しくなって長々ここまで書ききってしまいました。『Ama/re』という題名には「Amare」は「愛」、「Ama」はラテン語で「愛する」という意味があります。そして「re」とは「本当」、つまりは現実を意味します。「/」スラッシュで「愛する」ことと「現実」を切り離すことによって、虚構的な愛というテーマを盛り込みました。雪も朝陽も純粋な愛を知らずに模索して、彼らなりの答えを見つける、そんな様を書きました。童話のように真実の愛を見つける最後にはならず、もやもやとしたものが残る作品ですが、図太く優秀な彼らのことです、きっとなるように関係を築き上げるに違いありません。ブロマンス風にしたのは単なる私の趣味を含んでます……朝陽には是非とも頑張ってもらいたい。未熟な文ではありましたが、書ききれてよかったと思います。これからも作品を書きまくるつもりなので、また機会があればと思います。

 重ねてここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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