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安倍先生と赤坂女史

いぢわるなひと

作者: 山村

 終わりが見えないくらいに長い廊下の先でも定冊(さださく)がいるのが分かってしまうのは愛ゆえに。

 出来れば駆け寄って手を握って今晩は何が食べたいかを訊きたいけれど、ここは学校で彼は教師で私は生徒。平静を装って自分の教室への道すがらに彼とすれ違う際に挨拶をするに留まる。


「安倍先生ごきげんよう」

「あぁ。授業頑張れよ」


 学校内ではただの教師と生徒であるという取り決め通りの、当たり障りのない教師と生徒の会話だった。いつも通り。それでも、一瞬でも校内で彼と言葉を交わせる瞬間があるということに私は幸せを感じるのだ。


「ああ、そうだ」


 すれ違ってすぐに、思い出したように定柵が私の名字を呼んだので、振り返ると彼は私を真っ直ぐに見つめていた。どきりと胸が高鳴る。

 彼の顔立ちは、友人の言うことには一般的にいう“イケメン”という程ではないらしいけれどそれなりに整っているらしい。私からすれば唯一無二の勇ましい顔立ちなのだけれど、彼との関係を隠しているのでそれを言えないのはとてももどかしかった。


「明日は土曜日だが、予定は空いてるよな」

「はい、空いてますよ」


 他の子にはあまり見せない柔らかい笑みで尋ねられ、速くなる心臓の音を誤魔化すように答える。そんなこと訊ねなくても知っているくせに。

 まさか校内のこんな往来の場所でデートの誘いをする訳がないということは分かっているけれど期待をせずにはいられないというのが恋する乙女の心情である。僅かばかりの期待に胸を高鳴らせ、彼の二の句を待つ。


「じゃあその日、午前九時に学校に来てくれ」

「え、ええ……」


 集合場所が謎すぎて思わず困惑けれど兎に角彼からの誘いなのだからと私は力強く頷いてみせる。少し考えたけれどどういうことか分からず質問しようと口を開いたタイミングで運悪く予鈴が鳴ってしまい、詳細は後日ということでその場は別れることなった。


 結局その日は放課後まで彼と会うことはなく。いつもの日本史準備室で職員会議が終わった彼に詰め寄ってずっと抱えていた疑問をぶつけることに。


「明日! 何があるの」

「明日? あぁ、そのことか。明日は筆記用具を忘れないようにな」

「だ、か、ら! 明日は何があるの」


 ドキドキしながら彼の返事を待つ。土曜日の誰もいない学校で二人きり、なんてシチュエーションに期待しないはずがない。

 期待の眼差しを向ける私とは裏腹に、彼は特に焦らす様子も照れる素振りもなくごく当たり前のように、平然と言ってのけた。


「補習だよ」

「……ほしゅう?」


 予想外の答えにきょとんと目を丸めてしまう。

 補習と言うのは正規の授業以外で行われる授業のことよね。何故そんなものに誘われているのかと思考を巡らせるが心当たりは一切ない。そうしてたどり着いたのは補習の手伝いであった。休みの日に他の子の補習をするから私に手伝ってほしいという、仕事中でも一緒にいたいという遠回しなアピールなのだと。


「分かったわ。補習のお手伝い頑張るわね」

「いや。お前の補習だぞ」

「えっ……」

「この前のテスト数学は赤点ギリギリだっただろ」

「でも赤点じゃないわよ?」

「そんなんじゃいつ赤点になってもおかしくないし、今年度に入ってから点数が下がってきてるからな。他の先生たちと話し合ってここいらで赤点軍団の補習をしようってことになってな。ついでにお前も参加しなさい」


 ひどい。ひどすぎる。確かに赤点ギリギリではあったけれど。確かに点数はテストを重ねる毎に下がってきているけれど。それでも赤点になったことは一度たりともないのだから、今後取らないと信じて欲しかった。そもそも因数分解とか微分積分とかなんて理解しても生きていく上で必要ないじゃない。いつ出てくるのよ。

 恨めし気に彼を睨め付けてみても考えを改める気がないどころか、教科書忘れるなよ、と言い放ったのだ。

 彼は学校では温和な教師で通っているし私生活でも優しい。けれども彼は気づいてしまったのだ。時には厳しくしなければならない、優しいままではいられないと。

 そんな厳しさ要いらないわよ!

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