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『 とかれんぷず 』   作者: 丞弥 桝
1/1

本編1 ~ペグとバイオリン~

 遠くから響くバイオリンの音。


それは、同じメロディーを何度も何度も繰り返す……


それは、とても拙く、全てが曖昧……


だけどそれは、なぜだか楽しい……。





 レースカーテンから差し込む心地よい日差しを感じ、私はうっすらと瞼を開く。

バイオリンの夢なんて久しぶりだ。

前に見た夢は内容こそ覚えてはいないが、跳び起きるほどの恐ろしい夢だった……。


けたたましいアラームに起こされない休日の朝は、ゆったりとしていて心地がいい。

ぼんやりと夢の中にいた意識が、少しずつ現実へと引き戻されていく。


それなのに……


それなのに、


バイオリンの音が鳴りやまないっ!?



私は勢いよく体を起こし布団を豪快に投げだすと、音のするベランダの方へ首をひねる。


『ちょっ・・・と、まさか⁉』


寝巻のまま駆け出しレースカーテンと網戸を乱暴に開けた。


『あ、ペグおはよう~。』


そこには、ニコニコとバイオリンを構えるトカゲが立っていた。

そう、私が予想した通り、その音はとかぺーのものだった。


『ちょっと、こんなところで弾かないでよ! 近所迷惑でしょう!』


口元に人差し指をたて注意をするが、とかぺーは不思議そうな顔で首を傾げている。

すると横で聞いていたマイクロブタのもちょこれが、物干しスタンドに洗濯物を掛けながら、眉間に深いしわを寄せて言った。



『何をいまさら。とかぺーはもう10分も前からベランダで弾いていたぞ。』


『ひぃ・・・!』


恐ろしくて辺りを見回すが、幸いこちらを睨む近隣の目はないようだ。

私はそそくさと眼を伏せながら、とかぺーとバイオリンを抱え部屋まで運ぶ。

それを横目に、ベランダにいるもちょこれが口うるさく文句を言う。


『それよりも、はやく朝食を片付けてくれないか。洗い物が終わらん。』


この小言、まるで実家にいる気分だ。

もちょこれが母親だとしたら、とかぺーはさしずめ年の離れた弟と言ったところだろうか。

一人分のトーストセットが置かれているテーブルの前に座り、冷めたカフェラテを口に含みながら、私は子供を諭すようにとかぺーに話しかける。


『いい? お家で、バイオリンを弾くのは、絶対にダメ!』


『うー・・・。

でも、今日はいい天気だから、バイオリンさんも歌いたいくなってるかなって思ったの。

今日のバイオリンさんね、音が透き通っててすごくご機嫌なんだよ。』


『それでもダメ。ここには他にも沢山の人が住んでるの。その人たちの迷惑になるでしょ。』


『うぅ・・・ごめんなさい。』


しょんぼりしながら、弦や弓についた松脂をクロスで軽くふき取ると、とかぺーはバイオリンをケースへとしまった。





 とかぺーがバイオリンを弾くことは知っていた。

彼らが家に来た日、運ばれてきたダンボールの中にはそれぞれの私物も一緒に入っていて、その中の一つが小さいバイオリンケースだったから。

私がその存在に気が付いた時、とかぺーは嬉しそうに、バイオリンケースを開いて私に見せつけてきた。

そして中を見た瞬間、何となく感じていた。


これは「過去に私が使っていた分数バイオリン」だと。


色や形だけではない、演奏中に何度も引掻いた傷跡が、そっくりそのまま残っていたから。


『このバイオリン、おばあちゃんからもらったの?』


『なの! ペグが使ってたバイオリンだって、駒子がくれた。』


『そう・・・・悪いけどこれは没収。』


『え! なんで?』


『お家の中でバイオリン弾いちゃいけないからー。』


そういって数日前の私は、否応なくとかぺーの分数バイオリンを洋服ダンスの奥へとしまい込んだのだが、今思えば、そんなところに閉まったところで容易に引っ張り出せるに決まっている。


 私は、バタートーストにかじりつくと、横目でとかぺーを盗み見た。

彼は、すっかり項垂れてしまっている。

知らん顔でカフェラテをすすりながら、未だ洗濯物を干しているベランダのもちょこれに声をかける。


『わふもは? 出掛けたの?』


『ああ。』


『よくもまぁ、毎日毎日飽きもせず行きたいところがあるものね。』


わふもというのは、とかぺーたちと共にやってきたキツネのことだ。

彼は人間の姿に化けられるが故、しょっちゅうブラブラと外をほっつき歩いているようだった。

どこに行っているのかわからないが二日間ほど帰らない事もある。

そして、その傍らにはいつも”一冊の本”を抱えていた。

それは綺麗にブックカバーがかけられている為、何の本なのかはわからないが、彼にとっては大切な物なのかもしれない。


『ねぇ、わふもがいつも持ってる本って何の本なの?』


『知らん。』


『友達のくせに知らないんだ。』


『友ではない。』


『ふーん。』


そんな話をしながら、お皿のサラダたちをもそもそと口の中に入れる。

すると、目の端で項垂れていたとかぺーがムクッと体を起こした。


『・・・?』


なにはするかと思いきや、とかぺーは情けない顔をこちらに向けて、私目掛けて、勢いよく、体当たりをしてきたのだ!


『ぺぇぐぅー----!』


『うぐぉ・・・ッ!』


あまりの勢いに、口の中のリーフレタスが喉の奥で通せんぼして、私はあわてて胸を叩きながら、目の前のカフェラテを一気に飲み干した。


『げほっ、けほ・・・・ちょっととかぺー、危ないでしょ⁉』


とかぺーがテーブルのお皿をひっくり返さないように体からゆっくり引きはがすと、彼はうるうるとした瞳でこちらを見上げ甘えた声で言う。


『僕ね、もっともっとバイオリンさんと仲良くなりたいの!

 だからペグ、バイオリンさんが思いっきり歌えるとこ連れてってー。』


『う・・・。』


とかぺーお得意の上目づかいだ。



 私と彼らが出会って、まだ数日ほどしか経過していない。

がしかし、その数日で自分の傾向にはっきりと気づいたことが一つある。

それは、「私がとかぺーの、この目に弱い」ということだ。

コロコロと表情を変える人懐っこい彼が悲しそうな顔をしていると,何故だか上手くNOとは言えなくなってしまう。

私が『うー、』と低く唸り声をあげていると、空になった洗濯籠を持ってベランダから帰ってきたもちょこれがチクリと言った。


『どうせ休日だというのにやることはないのだろう?

だったら出て行ってくれないか。君たちがいると掃除の邪魔だ。』


うぐぐ・・・。

もちょこれの言葉を認めるのもしゃくだが、確かに今日は何の予定もない。

私は、大きく息を吐くと「わかった」としぶしぶ承諾した。






 休日に公園に来るなんて何年ぶりだろう。

家から歩いて数分という距離にある大きな国営公園に、私は初めて足を踏み入れた。

今日初めて「公園に入るのに入園料が必要」だということを知ったくらいだ。

受付には、私の母くらいの年代の女性が立っていて、丁寧な物腰で「こんにちは」とこちらに微笑むので、私は俯きながらペコリと頭を下げた。

その女性に一人分の入園チケットを渡し、楽器演奏の許可をもらうと、受付の隅っこにある募金箱が目に入った。

私は、左腕に引いた不自然に大きなキャリーバックをちらりと見る。

何となく罪悪感にかられて、募金箱に心ばかりのコインを入れた。


『ありがとね。』


受付の女性は目頭が垂れた可愛らしい笑顔をこちらに向けるが、私は気まずい心持でそそくさとその場を離れた。


 この辺りなら人もそうそう来ないだろう。


『とかぺー、おまたせ。』


さっきからモゾモゾと落ち着かないキャリーバックの”中身”に声をかけ、ファスナーを開く。

すると、バイオリンケースを抱えたとかぺーがバックからピョコンと降り立つと、目を真ん丸にして嬉しそうな声を上げた。


『わぁぁ~、すごぉい。大きな木さん達が綺麗に整列してるの~。』


そう言って駆けだすと、トテトテと整備されてない草むらの中まで入っていき、足元に手をついてよーく草むらを観察しだす。

なにやらブツブツと独り言を言っているようだ。

すると今度は、ゆっくーりと何か向かってに手を伸ばし、優しく両手の中に包みこむと緩んだ顔でクルリと私の方へと振り向いた。

・・・なんか、嫌な予感。


『ペグー、みてみて!』


重ねた両手をつきだし、無邪気にこちらに駆け寄ってくるとかぺー。

その姿はかわいいと言えるが、しかし絶対にあの手の中には”何かいる”。

そう直感してしまったら、その笑顔さえ恐ろしい。


『え、あ、待って、その手に持ってるものって。』


私が慌てて後ずさるも、とかぺーは容赦なくグイっと両手を近づけて、その掌を開いて見せた。


『ほらこれ!・・・テントウムシさん!』


その掌には、つやつやとした赤と黒のコントラストが印象的なソイツがいた。


『うっ~、とぉ、あ~・・・ほんとだね。』


私は顔を引きつらせながらも一瞬大きく跳ねた心臓をゴシゴシと撫でおろし、想像よりも小さい虫であることに、心の底で大きく安堵した。


『はい、ペグも手に乗せてみて。かわいいよ。』


しかしトカペーは、そんな私の心境など露知らず、そのテントウムシが乗った手をズイズイと私のほうへ近づけてくる。


(触るなんて100%無理ぃ~!)


いつ飛んで跳びついてくるかもわからないソイツにドキドキしながら、私はガチガチの笑顔で言い訳を考える。


『あ、ああ~……それはやめておこうかな。

ほら、早く草むらに返してあげないと、テントウムシさんも何かと忙しいだろうしィ……。』


(虫が忙しいって何?!)


私が内心で突っ込みを入れるが、とかぺーはハッとした顔で頷いた。


『そっか!……そうだよね。』


そういうととかぺーは、再びブツブツと話しながらそっと草むらにテントウムシを逃がしてあげた。


何だか体中が痒くなってきた。

そりゃあ公園に来たら虫くらいいるのは当たり前なのだが、最悪な気分だ。


(とかぺーには適当にバイオリンを触らせて、さっさと帰ろう。)


私は、ため息を一つ吐いて、頭をポリポリと掻きながらとかぺーに話しかける。


『ほら、バイオリン弾くんでしょう?

 空も少し陰ってきたし、ちゃっちゃとやって帰ろう。』


『そうなの! バイオリンさん歌わせなきゃ。』


そうして私たちは、近くに設置されたベンチに腰を掛け、分数バイオリンのケースを開いた。





 それからとかぺーは、しばらく同じ曲を何度も何度も繰り返し弾いていた。

私が夢の中でも聞いていた曲だ。

楽譜がないせいか、音程もリズムもめちゃくちゃ。

好き放題に弾くとかぺーの姿に、私は正直イライラしながら聞いていた。

”本人が楽しく弾いているならそれでいい”

そう思いたいのに、何故だか上手く自分の感情が制御できない。


(だからッ、その音はもう少し低く。

あー……その一拍目はもっと重く弾いて。

そこはベタ弓にしないで、柔らく、風を切るように。)


バイオリンを弾くとかぺーの隣に座り、携帯を触るふりをしながら、もう数十分もこんなことを考え続けている。


ぐるぐるぐるぐる。


頭の中を色んなものが駆け巡る。

こんな性格だから、私は自分が嫌いなんだ。


 『・・・あー、だから違うって!・・・あ。』


無意識にそんな言葉が口をついた。

思わずパッと口に手を当てチラリととかぺーの方を見るが、バイオリンの音でかき消されたのであろうか、彼は変わらず楽しそうに弾き続けている。

私はホッと胸を撫でおろしていた。

演奏が一段落つくと、私はとかぺーに声をかける。


『ねぇ・・・とかぺー、少し休憩にしない?

もちょこれが麦茶とラスク作ってくれたんだ。食べるでしょ?』


『ラスク~、食べる~!』


私は、キャリーバックの中から水筒とジップロックに入ったラスクを取り出すと、ベンチに敷いたハンカチの上にそれを置き、水筒の蓋を回し緩める。

すると突然『ペグ、待って~』と、とかぺーの声。

彼はベンチから降りるとキャリーバックの中に顔を突っ込んでは『じゃーん』と見せびらかすようにあるものを掲げた。


『あるこーるティッシュ~。』


『え? いつの間にそんなものを。』


『もちょこれさんがね、食べる時はちゃんと手を洗うかこれで拭きなさいって。

ペグは絶対忘れるから、僕が自分でやらなきゃ駄目だよって言ってた。』


『あ、ははは~。』


姿はなくても、人づてに嫌味を言ってくるあたり恐れ入る。

まぁ、このラスクに免じて許してやるか。






 私は、手につまんだパン耳ラスクを食べながら話しかける。


『とかぺーたちっておばあちゃんの”トモダチ”なんでしょ?

 もちょこれやわふもも人間の生活にやたら詳しいし・・・

 もしかして、おばあちゃんと一緒に住んでたの?』


はむはむとラスクを口いっぱい頬張るとかぺーは、こちらを見ながら「んふー、ふー」と鼻を鳴らした。


『ふふ、ちゃんと飲み込んでから喋りな。ゆっくりでいいから。』


そういうと、コクコクと頷いたとかぺーは、嬉しそうにラスクの優しい甘さを堪能しながら時間をかけて飲み込んだ。


『僕とわふもくんは小さな神社に住んでたんだ~。』


『神社・・・・?』


実家やおばあちゃん家の近くに神社なんてあっただろうか?

そんな話、一度も聞いたことはない。


『うん。神社にはわふもくんの他にもいっぱーいのお友達が住んでるの。

そこに時々駒子が遊びに来てね、バイオリンを弾いてくれたんだ。』


『じゃぁ、バイオリンは、そこでおばあちゃんに教わったの?』


『なのー♪』


『そう、なんだ……。』

コップにトクトクと音をたてる麦茶の水面。

そこには、楽しそうにバイオリンを弾くおばあちゃんと、その周りで体を揺らしながら微笑むとかぺー達の姿が映る。


『はい、麦茶。』


私は、水面に映る映像をかき消すように、ズイとコップをとかぺーに差し出した。

しかし、いつまで経ってもコップは私の手から離れていかない。

横目でチラリと目を向けると、とかぺーは大きな瞳で真っすぐとこちらを見つめていた。


『・・・どうしたの?』


『僕、ペグの演奏聞きたいな。』


『・・・え?』


『僕見たんだ、ペグと駒子がドレス着てバイオリンさんを弾いているの。

 それからずーっとペグの音を近くで聞いてみたくて、それでお家に来たんだ!』


そう意気込んで話すとかぺーのキラキラとした顔。

その光は、あまりに眩しすぎて私の心に影を落とす。



 何故あの動画を見せたんだ。

おばあちゃんだって知ってるくせに。

私が、高校時代に迷って悩んで、辛い思いを引きずりながらバイオリンを諦めたことを知ってるくせに。

それなのに、それなのにとかぺーたちを送りつけて、すべて思い出させるようなことをするなんて。

私は手に持った水筒をぎゅっと握りながら、震える体をなだめようと大きく深呼吸をした。


『…かない。』


『え・・・?』


『もう、バイオリンは弾かない!

おばあちゃんからなんて聞いてる知らないけど、私はバイオリンが嫌いなの。

・・・だからもう、弾かない。』


その言葉にとかぺーは驚いていた。

いや、悲しんでいたのか。

瞳を大きく見開いて、ポカンと口を開けて黙りこくってしまった。


 もう、誰になんと言われようと、私がバイオリンを弾くことはない。

子供時代のすべてをバイオリンと向き合って生きてきたから。

優雅な世界だと、住む世界が違うねと友達に拒まれ、その裏で父親よりも顔を合わせたバイオリンを血がにじむ思いで弾き続けてきたから。

コンクールに出れば、嫉妬や後悔、自己嫌悪の連続にさいなまれ、ぐちゃぐちゃになっていったから。

だから私は、バイオリンを封印したんだ。



『ペグ、悲しい顔してる・・・。』



とかぺーがつぶやく。

私は大きく首を横に振った。

それでもとかぺーは、ゆっくりとベンチから降りると私の前までやって来て、静かに両足を優しく包み抱きしめた。

膝に置かれたトゲトゲの頬は柔らかくて、ほのかに温かくて、きゅーっと胸が締め付けられる。

ゆっくりとこちらを見上げるとかぺーと目が合うと、その瞳は少しうるんでいて、私はあわてて空を睨みつけた。


『僕、知ってるんだ。

ペグが頑張り屋さんだってこと。

それから、頑張りすぎちゃうってことも……。

神社に住んでた時、いろんなお話聞かせてもらったから。』


(違う。私の頑張りなんて、周りの人間からしたら大したことないものだ。

私なんかよりも何十倍、何百倍も努力を重ねている人間は五万といる。

……そんな私の努力が実を結ばないなんて、当たり前のことなんだ。)


『頑張ったね、ペグ。 いっぱい、いーっぱい頑張ったね。』


(違う! 私は頑張れてなんかいなかった!

わかっている、努力が足りない結果がこれだとわかっている。 

そのつもりなのに・・・なのに、なんでこんなに辛いのか・・・。)



『・・・僕ね、待ってるよ。いつかペグがバイオリンさんを手に取りたくなる日を。

ずーっと、ずーっと待ってる。

だって……その音が笑顔をくれたから。

僕の大好きな音なの!! 』



喉の奥がぐぅっと鳴って、呼吸がどんどん浅くなっていく。


( やめて。こんなとこで、溢れたくないのに……ッ。)



『うぅ・・・、うう。』



ぼたぼたと大粒の涙が頬を伝うと、歯止めが利かなくんって次々と感情が溢れだす。



『あぁ……ぅぅ、うぅ……。』


『……ぺぐ。』


私の膝を抱きしめるとかぺーの腕に力がこもる。

なんでこんなに温かいのか。


『ううぅ……ぐす、うっ……あぁあぁぁぁ……ううぅぅ…………。』


 バイオリンのことで、こんなに泣いたのは初めてだった。

何もなしえなかった私を、母も先生も気遣ってくれたし、何度も何度も背中を押してくれた。

だからこそ、苦しいって言えなかったし、涙を見せることはできなかった。

でもこの辛い気持ちは誰のせいでもない。

私が、ただ、不甲斐なかっただけなんだ……。


人通りのない公園の片隅で、私はただ、静かに、泣いた。







 鼻をすすりながら、近くにあったアルコールティッシュで濡れた顔を拭く。

アルコールが少し目に染みたけど、なんだかとてもさっぱりした。


『・・・とかぺー、ありがとう。もう大丈夫だよ。』


まだぎこちない笑顔で膝に乗ったとかぺーの頭をなでると、いつもの気持ちよさそうな顔がこちらを見上げる。


 バイオリンのことを思えば、いつだってつらく苦しい思い出ばかり。

でも泣き疲れてスッキリとした今、改めて思うことがある。

学生時代、共に生きたバイオリンとの生活の中には、”温かい思い出もあった”のだと。


難曲を初めて先生の前で弾き切ることが出来たこと。


発表会の日に友達が見に来てくれて、いっぱい褒められたこと。


頑張ったご褒美にと、母がターコイズのアジャスターをプレゼントしてくれたこと。


私は今日まで、「バイオリンは嫌い」と思い込んで、その思い出もすべて否定して生きてきた。

そうするのが楽だから、そうやって逃げていたんだと思う。

でも私には、バイオリンを好きだと思えた瞬間が確かにあった。



 それにしても不思議だ。

誰かに ”音が好き” と言われただけで、こんなに楽になるなんて。

誰かが私の音を好きでいてくれる、それだけでこんなに心強い気持ちになるなんて思わなかった。

とかぺーといると心があったかくなる。

本当に不思議だ。

空を見上げると、雲に隠れていた太陽がいつの間にか顔を出していた。

”ソレも”とかぺーのおかげなのかもしれないと、私は小さく笑った。






・・・・





 帰り際、キャリーバックに入ろうとするとかぺーに私は気になることを聞いてみた。


『とかぺーは、なんでバイオリンを弾いているの?』


『僕、神社で演奏会を開きたいんだ。』


『神社って、とかぺーたちが住んでた?』


『なの。みーんなに僕のバイオリン聞いて元気になってほしいの~!』


『へー、そう、なんだ……。』


(バイオリンで元気に、か・・・。)


そんなこと本当にできるんだろうか。

ほんの一瞬、”とかぺーならもしかして”と頭をよぎった。

しかし、視界の端に映る見慣れた小さなバイオリンが私の首を微かに震わす。


『とかぺー・・・・また公園来る? バイオリン持って。』


『え! いいの?』


『家じゃ・・・練習できないもんね。』


『わぁ、わぁ、ほんっとに~?!』


『ん、約束だ。』



この日、私たちは楽器店に寄り、バイオリン弦と初心者用の教材を買って帰った。

チャックの隙間から店内を覗くとかぺーが、興奮気味にバックを揺らす様に幾度もヒヤヒヤさせられたが、ショーウィンドウに映る私は、不思議と晴れやかな顔をしていた。






本編1 ペグとバイオリン おわり

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