ACT8 サマータイム
ベッドの下のほうから物音がし、僕は目を覚ました。そこにはフレディがいて荷造りをしていた。その荷物の整理の仕方は「ちょっとどこかへ行ってくる」という類のものでないことは明らかだった。
「フレディ」
「あぁ、タクシーおはよう。ごめんね、目を覚まさせてしまったね」
「何処か行くの?」
「うん。帰るんだよ、イギリスへ」
エディさんにしてもそうだったけど、僕はこのホステルにいる人たちがどういう経緯でここにやってきて、いつまで居続けようとしているのか、またはずっと住んでいるのか全く知らなかった。どちらかというと皆ここを最終到着地として考えており、ロサンゼルスに永住することを目的としているとばかり思っていた。だけどそんなわけはないのだ。皆ほとんどが旅行者であって、彼らの休みが終わったらここを去っていくのだ。僕が何も言えずにいると、フレディはニッコリ笑って再び荷物の整理を始めた。
部屋のドアが開き、ミックが入ってきた。
「おはようタクシー。調子はどうだい?」
僕もおはようと答え、調子がいいのかどうか全く分からない、と答えた。ミックとフレディは笑った。ベッドの上でゆっくり起き上がり窓の外を見るとロサンゼルスは快晴のまさに西海岸日和に包まれていた。
「タクシー、誰かから何か聞いたかい?」
ミックにそう尋ねられたが、僕は何のことか分からず首を振った。フレディは一度振り返ったがすぐに荷物の方に向き直った。
「ダウンタウンにジャパニーズレストランがあるんだが、そこで働いてみる気はないかい?」
「ジャパニーズレストラン?」
「そう、いわゆる寿司レストランさ。そこのオーナーはエディとジミーの共通の知人でね、昨夜彼らが話し合って電話で頼み込んでくれたんだ。エディが次の土地へ発つ前にそのレストランに寄って直接そこのオーナーに確認してくれてね、さっきそのオーナーが電話をくれた。タクシーさえよければOKとのことだよ」
僕は急の出来事に反応すらできなかった。でも皆がそこまで動いてくれたことに対する感謝の気持ちと嬉しさとでいっぱいなのは確かだった。
「タクシー、どうする?」
「うん、働くよ。勿論働くよ。ありがとうミック。ありがとう」
「OK。だけどお礼は皆に言ったほうがいい。昨夜はタクシーがどうすればここに居続けることができるか、っていうことで皆で話し合ったんだよ。エディは元々そこのレストランを紹介する気はあったみたいなんだけど、これはタクシーを子供扱いするようで申し訳ないんだが、つまり心配だったらしい。君をひとりで、ここに置いておくことがね。観光気分のままで帰国させたほうがいいとも思っていたらしい。でもそもそも君はひとりでここに来たわけだし、それに君が大人の男であるとエディが判断したこと、皆がタクシーを仲間と思っていること、そんなことがエディにレストランへの紹介を踏み切らせたらしいね。とにかく、おめでとうタクシー」
僕はミックに再びありがとうと言った。ミックはフレディに「じゃ、下で」と言うと一旦部屋を出て行ったのだが、すぐにドアは開いた。
「タクシー、働くのはケガが直ってからでいいってことだから安心してゆっくりしているといいよ。ケガが直るまでの宿泊費はジミーからのボーナスだそうだ。直ったら寿司レストラン同様、ホステルの仕事もしてもらうって言っていたよ」
僕が親指を立ててOKと言うと、ミックはドアを閉めた。フレディは荷物の整理を終え、シングルベッドに腰をおろして僕を見ていた。
「タクシー、良かったね。納得いくまでアメリカを楽しむといいよ。でもアメリカが全てじゃないぜ。日本人にはそんな傾向があるから気をつけてね」
フレディはいつも通りニコニコしながらそう言った。そして膝をポンと叩き、OK、と言って立ち上がって僕の方に向かって四股立ちの体制をとった。そして日本語でカウントしながら正拳突きを十本繰り出し、最後に気合いを入れた。直立の体制に戻り、真剣な眼差しで僕に向かい「センセイニレイ」と言って頭を垂れた。顔が起き上がるといつもと同じくニコニコ顔のフレディがいた。僕は彼に向かって大きな拍手を贈った。多少頭が痛んだけどそんなこと構ってはいられなかった。
僕も英語の先生であるフレディに向かって丁寧にお礼の言葉を述べた。
「タクシーは英語上達したよ。言葉の組み立てはまだメチャクチャなところがあるけど、発音は大分OKだ。その調子で学んでいけばいいよ」
フレディはキャップを被り、重そうな荷物をグイと持ち上げ「またね」と言って部屋を出て行った。
部屋はシンとしており、時折外から車が走る音が聞こえた。今僕にできることはできるだけ早く傷を回復させるよう体を休めることだ。時の流れに置いていかれそうな不安はあったが僕は静寂に集中し、現実世界を再度シャットダウンした。やるべきことがやれないのなら、それは大人とは言えないし、そしてそれができないということは現実的に何も進行しない。去り行く人たちが残していってくれたものに報いるためにも僕は自分の細胞に対して回復を誓った。
その夜から僕はリビングへ食事をとりに下りるようになり、朝と夜にクリッシーから治療を受けた。クリッシーの言いつけを守って行動し、できる限り多く眠った。リビングでその頃はやっていたのは「ノーモアスモウ」というジョークだった。皆僕の包帯姿を見るたびにそう言った。食事と治療の時間以外をベッドで過ごしていたために、リビングで会う人の中にポツポツと見知らぬ住人が増えていたり、いつもそこにいたのに見かけなくなってしまった人もいた。そうやって僕とは接点の無い部分でホステルの環境は変化していった。
ケガをしたころくらいから、ひとつおかしいなと思っていたことがあった。僕は腕時計を確かめて、食事の時間ぴったりにリビングに下りていたはずだったのだが、何故か僕が食事をとるころには、ほとんどの住人が食事をとり終えていたのだった。最初のころ、皆は僕が具合が悪いからそうしているのだと思っていたらしく、何も言わなかった。
ある夜、同じように時間通りにリビングへ下りるとジミーが僕を見て言った。
「タクシー、ケガをしているのは誰が見たって分かるが食事の時間を守ることはできないか?そこをルーズになられても困るんだが」
「時間?僕は時間通りに下りてきてるんだけど」
「時間通り、そうだな、タクシーにとっては時間通りかもしれない。毎日きっかり一時間遅れだからな。でもそうではなくてココで決められている時間の通りにということなんだが」
皆は何気無しにその光景を見ていたのだが、ソファに寝そべっていたジュエルが笑って、僕を手招きした。そして僕の腕をとると腕時計の針を動かして突然歌いだした。するとジミーは何かを納得したような顔をしてキッチンへと消えていった。
「ジュエル、その歌何?」
「ん?ジャニスのサマータイム」
「サマータイム?」
「そう、これで全部OK」
そう言って再びテレビの方を向いてしまった。何のことかさっぱり分からなかったが、仕方なくテーブルに座って、ジミーが持ってきてくれた食事(豆カレー)をとっていると缶ビールを持ったジェフが隣に座った。
「タクシー、久しぶり」
そういえば相撲大会の夜からジェフには会っていなかった。
「久しぶり。どうしてたの」
「タクシーのケガが早くよくなるように教会に通ってたのさ」
そう言ってジェフは缶ビールを一気に飲み干した。そして、実際はサンフランシスコに旅行に行ってたのだ、と言った。
「エディもフレディもいなくなったな」
「うん、いなくなった」
「タクシー、こっちに当分いること決まったらしいね。おめでとう」
「ありがとう。ジェフは、どれくらいこっちにいるの?」
「そうだな。どれくらいいるのかな。ドイツに帰ったらな、親の会社に入るのさ。次期社長なんだ、俺は。しょうがないんだよな。今はさ、ちょっとそこから理由つけて逃げてるってわけ。そりゃ会社に入ったら優遇されるしさ、金だって嫌なくらい入ってくるんだ。これまでだって小遣いだけで相当もらってたよ。でも、何というか、自由でいたいんだよな。漠然としてるけど。そこで出てくる俺の問題といえば、だからと言って金がいらないってわけでもないってことなんだ。子供のころから金に不自由したことはないからね」
ジェフは少し寂しそうな顔をして宙を見つめていた。僕はといえば上手い言葉も思いつかず、ただ豆カレーを食べていた。
「じゃ、先に寝るよ。実は今日の昼帰ってきたんだけど、昨日バスの中でほとんど眠れていないんだ」
僕も手を振る。立ち去ろうとしてジェフは振り返った。
「あぁ、タクシー、忘れてたけど、サマータイムって知ってるか?」
「ジュエルが歌った歌でしょ」
「それもそうだけど、そうじゃなくて」そう言ってジェフは僕の腕をとった。
「今何時か分かるか?」
「え?今?八時半。さっきジュエルがいじったから正確な時間は分からないけど」
「違うな。それが正確な時間さ。確かアジアのほうには無いんだよね、サマータイム」
「何、サマータイムって」
「何って言われてもな。とにかくあれだよ。春から夏にかけて太陽が出てる時間長くなるだろ。それに合わせて時間をずらすんだ。だから冬の間の七時は夏になると八時になる」
意味が分からなかったのでもっと聞こうとしたのだが、ジェフの目が眠そうだったのと、僕の頭もあまり思考するとガンガン痛んだのでやめた。とりあえず時間を変更するという常識がここにはあるということだろう。僕はアメリカに来てから自分の知らないことの多さに驚かされている。日本にいたころは結構何でも知っているつもりでいたのに。でも知らないことがある、ということを知ることは決して悪い気持ちのするものではなかった。
僕はサマータイム八時四十五分、豆カレーを食べ終え、クリッシーから治療を受け、サマータイム九時には再び部屋に戻った。部屋ではすでにジェフが寝息をたてていて、フレディとエディさんがいたベッドはガランと空いていた。治療のときクリッシーから「あさってには抜糸しよう」と言われた。それが済めば外出もOKとのことだった。彼女は傷を見るとき、まるで会話をするかのように見ていたのだが、その会話の結果、傷の細胞側から「もう大丈夫そうです」と言われたのだそうだ。回復力が早いと褒められた。神がかり的な話ではあるが、他の人ならいざ知らず、クリッシーがそう言ったところで僕は大して驚かなかった。彼女が「来週宇宙人と食事をするのだ」と言っても僕はそのまま信じたと思うし、そしてそれは現実になる気がする。
サマータイム九時半、僕は傷の場所にいる細胞のことを思いながら眠りについた。その夜、細胞たちが各自の役割をふんだんに果たし、傷を回復させていく夢を見た。回復の完成はもうすぐで、細胞たちは最後の詰めを誤らぬよう、慎重かつ冷静に作業を進めていた。僕はそんな彼らの仕事風景を眺めながら、それをアートだと思った。